後日譚 とある二人のエンディング・エピソード



 成人したその日、真夜中の雑貨店で初めて買ったのは、酒ではなく煙草だった。


 青年は返された小銭を一つずつ丁寧に財布へしまい、店を出る。扉を開けると上につるされていたベルがからんと鳴った。


 八月の夜は風がぬるかった。


 青年はゆったりとした足取りで進んだ。


 街灯で照らされている広い道を歩きながら、買ったばかりの煙草を指に挟み、黄色のライターで火を灯した。


 ゆらり、と煙りがたちのぼった。


 懐かしい、と思ってふと口にくわえてみる。


 静かに息を吸いこんで、煙を喉へ流し込み――そして激しく咳きこんだ。


「げ、けほ、は……!」


 かろうじて煙草は落とさずにすんだので安堵する。一箱千円以上する代物だ、一瞬でコンクリートの上ではあまりにももったいない。


 思い付きだけで吸わなければよかった、と後悔しながら何度か咳をして、それから呼吸を整えた。


「やっぱりこんなものは肺を悪くするだけだよ」


 青年はどこにもいない誰かに呟いて、煙草のパッケージをポケットの中へしまった。


 夜なのに、空はまだぼんやりと明るかった。


 何の因果か、百年前の記憶を持ったまま今を生きることになってしまった青年は、自分がかつてリオと呼ばれていたことも、ろくでもない死に方をしたことも、漂う煙草の煙のにおいもすべて、すべて覚えていたのだ。






 リオは酒が苦手ではなかった。


 むしろ、どちらかといえば好きな部類に入る。アルコールを流しこむだけの飲み方は嫌いだが、味わいながら飲む分にはどれだけでも歓迎だ。


 友人に連れられてやってきたパブは、繁華街から外れた場所にひっそり建っていた。


 バスを乗り継いでようやくたどり着いた場所で、友人によると「美味いビールとまずくない料理が食べられる」とのことだった。


「なるほど、確かに美味しいビールとまずくない料理が出てきた」


 リオをしてもまずくない料理と称することでギリギリ忖度できるレベルの味だった。ビールが美味しいので大抵のことは許せるが、おそらく三人に一人くらいは許せないだろう。


 特にポテトチップスがやけにぶ厚くてかたいところが駄目だ。細心の注意を払わないと前歯を持っていかれそうだった。


「噂によると、歯が砕けて血みどろになった奴がいるらしいぞ。そのまま病院送りになったらしい」

「どうして僕たちをこんな店に連れて来たんだ」

「ビールが美味いからだな」

「僕は前歯の方が惜しいんだが」


 将来のことを考えると、前歯とは末長く付き合っていきたいと思う、とリオは神妙な顔で告げた。


 しかしリオがそんなことを言っていたのも二時間前までだった。


「さけが、おいしい!」


 なぜか今日に限って飲みすぎてしまったリオは、ぐでんぐでんしながらビールジョッキを抱きしめていた。すりすりと頬ずりをしながら、ずっとくすくす笑い続けている。


「おい、飲みすぎじゃないか?」

「りょーりもまずくない!」

「そうだな、おまえは事実を述べてるだけだよな。でもそのジョッキはいったん置こうか、ぬいぐるみじゃないから」

「ぼくのさけ!」

「空っぽだから、空っぽ! おまえはカウンターで水でももらって酔いを醒ましてこい! もしくは帰れ!」


 背中をトンと押され、友人の輪から放り出されてしまったリオは、名残惜しそうにビールジョッキを見つめていた。しかし友人がさっとテーブルの下に隠して「見ないの!」と言うので、リオはしぶしぶカウンターへと向かった。


「みず、くらさーい」

「何て?」


 マスターは「酒くさい!」と鼻をつまんで手でぱたぱたとあおぐ真似をしながらも、グラスに水を一杯入れて出してきた。


「見ない顔だけれど、学生さんかな」

「二年生れーす」

「あそこの子たちのグループか。ってことは結構遠いところから来たんじゃない? うちのビール、美味かったでしょ?」

「さいっこうれす。ポテトで歯ぁおれそうですけど」

「うわ、やっぱ酒くさいから喋らなくていいよ、カウンターの端でじっとしてて」


 ついにマスターからも追い払われたリオは、仕方なくずるずると横にずれた。


 アルコールによる眠気でうとうとしていると、カウンターの向こうに立っていた女性に腕をつつかれた。


「ワタシ、占い師デス。あなた占ってあげマス」


 リオは「んー?」と唸りながら顔を上げた。


 こじゃれた隠れ家風の内装にまったく似つかわしくない、アラビアン衣裳をまとった女性だった。


「コンセプトどうなってんれすか。マスターと相談してくださいよ」

「ワタシ、南米から来まシタ」

「アイデンティティもどうなってんれすか?」


 つっこみどころしかなかったが、リオの脳内もほとんど酒に支配されていたので、ろくなことが言えなかった。


 正直このまま眠ってしまいたかったが、あれよあれよという間にタロットカードが並べられて、リオはまたもや叩き起こされた。


「いや、南米の占いをしてくださいよ」

「ワタシ、西洋育ちなのデ」

「本当コンセプトどうなってんれすか」


 女性は「うるさい小僧ですネ」と言いながらタロットを数枚ひっくり返していく。もにょもにょと呟いている謎の呪文は何だったのかは訊きそびれた。


「おお、すごいデスヨ。あなた、今日は運命の日デス」

「うんめー?」

「まあ、何が起きるか知りませんケド」


 リオは半分テーブルに突っ伏しかけていたが、その声に顔を上げた。


 南米からやってきたというアラビアン衣裳の女占い師は、「でも運命デス」と念押しするように言った。


「けっこうロマンティックなやつですヨ」


 リオは腕時計に目をやって、「今日っていわれてもあと五十分しかないれすけど。やぶ占い師じゃないですか」と返して、今度こそテーブルで寝た。






 二十分ほど爆睡したのち、仲間から起こされてリオは店を出た。


 家まで送ってもらいたいほどの立派な酔っ払いだが、一人がポテトチップスで歯ぐきから出血したらしく、ほとんどがその付き添いで歯医者へ行ってしまい、リオはぽつんと取り残されたのだ。


「バスてー……」


 リオはふらふらとした足取りで夜道を歩いた。


 夏の風がぬるくて、そういえば初めて煙草を買った日もこんな夜だったな、と思いながら、リオはバス停を通り過ぎた。


 そして案の定迷子になったが、自分が迷っているということにすら気付かず、リオはどんどん突き進む。


 いつのまにか細い道へ出ていて、古い家々がところどころ建っているだけだった。


 さすがの酔っ払いでも何かおかしいことに勘づき始め、「こんな場所だったか……?」と呟いた瞬間、腹の奥からこみ上げてくる感覚にぱっと口を塞いだ。


「うっ……きもちわる……」


 早くも酔いの反動がやってきたのだ。


 リオはおぼつかない足取りで道の端に避けた。ちょうど手ごろな壁があったので、片手をつきながら堪える。


 さすがに道端では申し訳なさすぎる、何とかして家まで帰らなければ――と脳の奥が冷えていった。


 しかしこのままでは本格的にまずい。とてもではないがバスを乗り継いで家まで帰れる状態ではない。


 リオがおろおろしながらも、壁に手をついたまま一歩も動けず、そのまましゃがみこんだところで、背後から足音が聞こえてきた。


 通行人かと思ったが、足音はリオの真後ろでぴたりと止まった。


「……?」


 このままではとても人にお見せできない光景を披露しかねないので、リオは必死に深呼吸をした。


 一刻も早く通り過ぎた方がいい、頼むから、と心の中で訴えかけたが、通行人はやはり止まったまま、リオの背中に声を投げかけた。


「お兄さん、生きてる?」

「いぎでる」

「声が瀕死なんだよなあ」


 背後に立っているのは若い男のようだ。


 彼は「ったく、週一でこれだ。この道は酔っ払いの終着駅か何か?」とぼやきながらも、ペットボトルを差し出してきた。


「このアパート、俺の部屋もあるからリバースはやめてくれねえ?」

「それは……本当に申し訳ない……」

「謝っても吐いたら許さねえからな」


 蓋の開けられたペットボトルが揺れて、受け取るように促される。リオはよろよろと手を伸ばして水を飲んだ。


 しばらくすると落ち着いてきて、リオはゆっくりと息を吐いた。 


 男はまだいるようだ。リオに影を落としながら、「俺は酔っ払いにプレゼントするために水を買ったんじゃねえ」などとぶつくさ文句を言っていた。


「もう、大丈夫だから。ごめん、ありがとう」

「そうかよ。これからは節度をわきまえるか、別の道を通れよ」

「鋭意努力する。あと僕がもらった水はちゃんと買い取るから」

「マジで? これめっちゃ高かったんだよなー」

「人の弱みに付けこんでたからないでくれ。普通に売っているなかでも一番安いものじゃないか」


 リオは壁に体重をかけながら立ち上がろうとしたが、上手く足に力が入らなかった。


 男が無言で腕を掴み、上に引っ張り上げようとしてくる。そこまで世話になったら介護だ、と思ってリオはかぶりを振って背後を見る。


「――?」


 逆光だった。


 月明りが後ろから差しこんでいて、男の顔はよく見えなかった。


 呼吸は止まっていた。


 けれどリオはその顔を忘れた日はなかったのだ。


 前の人生から、一日もだ。


「君、は」


 リオは呆然とした顔で言いかけて、それ以上先を口にできなかった。


 衝撃が走った。


 信じられない、と思った。でも信じたかった。


 次の瞬間には飲みこまれそうなほどの感動と喜びが全身を巡っていたのだ。


 やはり煙草のにおいをまとわりつかせているその男もまた、アーモンド色の瞳を揺らして、「リオ」と上ずった声で呼んだ。


 アーサー・グレイが生きてそこに立っている。


 理由なんて知りもしないが、それだけでリオは泣き出したくなるほど嬉しくて、もしかしたら本当に泣いていたかもしれない。


「……うっ!」


 嬉しかったが、リオは思い出したように吐き気を覚えて、再び口元を覆った。身体は正直だった。


 何とか抑えながら「やぶ占い師じゃなかった」と言ったが、彼は「何言ってんのか分かんねえけど、おまえはだいぶピンチだぞ」とリオの腕を掴んで引き上げた。






 よく分からないまま、アーサーに引っ張られてアパートの部屋に連れこまれた。


 彼は玄関の扉を開けたかと思えば、リオをバスルームに放り込んで「吐くならそこにしろよ」と付け加えて出ていった。


 リオはトイレにしがみつく。


 しばらくして出ていくと、アーサーはいなくなっていた。勝手に出歩いていいということだろうか、と思いながらリビングの方へ向かう。彼はすでに上着を脱いでソファに座っていた。


「終わったか?」

「おかげさまで……」


 アーサーは立ち上がってキッチンへ向かう。リオは棒立ちになっていたが、「座ってろ」と言われたので、ロボットのようにソファへ腰を下ろした。


「最悪の再会を演出してしまって、本当にやり直せるならやり直したい……」

「俺だって吐き気を催してる顔を合わせてほしくなかったわ。これに懲りたら二度と飲むなよ」

「まさか生涯にわたって反省が必要なのか?」


 リオは「違うんだ、いつもはもっと常識的な酔い方をしている」と弁解したが、彼は雑に返事をしただけで、一切聞き入れる気がなさそうだった。


 彼は冷蔵庫の前でしゃがみこみながら、中身を漁っていた。


「大体、あれだけ酔ってるなら誰かに介抱してもらえよ。友だちいねえのか?」

「いるけど、前歯が大変なことになっていたんだ。介抱なんて頼めない状況だった」

「おまえ飲みに行ってたんだよな? 殴り合いじゃねえよな?」

「一言で説明すると、ポテトチップスの暴力にあった」

「一言で説明すべき状況じゃねえし、さっぱり分かんねえけど、たぶんおまえ酒飲みに行くのに向いてねえな。もうやめといたほうがいいぞ」

「なんだか僕もそんな気がしてきたよ」


 冷蔵庫の扉の閉まる音が響いて、アーサーが戻ってきた。「ん」と差し出されたのは、やはり水の入ったペットボトルだった。


「ありがとう……」


「そんで?」とアーサーはソファに座りながら訊く。


「おまえ、今何歳だよ。酒飲めるってことは十八以上だよな。とてもそうは見えねえけど」

「君の余計な一言には目をつむるとして、ちょうどこの間誕生日がきたから、二十になった」

「俺が二十四だから……四歳差か」


 前の人生では、彼との年齢差は六だったはずだ。彼も同じことを考えたのか「微妙に縮まってんな」と言った。


「ってことは学生か?」

「うん。今、医学部にいる」

「……そうか」

「そういう君は? もう働いているのか?」

「まだ大学院生だ。文学部」


 リオは「えっ!?」と大声を上げた。そのままソファから滑り落ちそうな勢いだったが、さすがにそこまでの醜態をさらすことはできない。


 リオはソファにしがみつきながら、アーサーをまじまじと見つめた。


「君が、文学部?」

「なんだよ、その変な顔は。俺が文学部にいちゃ悪いかよ」

「いや、ちが、そういうわけじゃないけれど。でも意外というか。君はそういう方面に興味あったのか……」

「とてつもなく失礼なことを考えていそうなおまえに言っとくけど、俺の卒業論文めちゃくちゃ評価されてるからな。表彰もされてるからな」

「えっ⁉」

「ガチで驚いてるのが死ぬほど腹立つな。服剥いで追い出すぞ」

「それはただの犯罪行為だ」


 リオは全身を抱きしめるようにしながら後ずさる。完全に不審者に出会ったときの動きだった。


 小休止あって、アーサーはペットボトルを机の上に置いた。

緩慢に足を組むと、ぼんやりと前を見つめていた。


 リオは借りてきた猫のように、という表現がふさわしいほどに肩を力ませながらソファに座っていた。


 会話は途切れた。


 だから次に訊かれることは、何となく想像がついていたのだ。


 アーサーはしばらく何も言わずに、組んだ足をぶらぶらとさせていたが、やがて意を決したようにリオの名前を呼んだ。


「あれからどうなったか、訊いてもいいか」


 あれ、が何を意味しているかなど、問い返すまでもなかった。


「……うん」

「俺も俺で調べてはみたんだけどな。なーんも出てこなかったわ。まあ、あんな小さい小隊一つ、記録に残るわけもねえよな」


 リオは無言で頷いた。彼がどのようにしてきたのか、リオにも簡単に想像できた。


 物心ついたころ、リオも調べたことがあったのだ。図書館に通い詰めて毎日のように古びた本のページをめくった。だが結果は彼と同じで、どれだけ記録を探しても第五小隊の名前すら見つからなかった。


 リオは指を組んで俯いた。


「僕の知っている限りでしか話せないけれど、構わないかな」

「それ以上を期待はしてねえよ」

「……君のいなくなった二日後、真昼だった」


 リオはぽつりと呟いた。


「久しぶりに晴れていて、青空が綺麗な日だったんだ。雪も降っていなかった。僕たちは誘導されて、敵の待ち構える場所まで追いこまれた。マシンガンまで用意されていて。そこからは本当に、一方的な蹂躙だったよ」

「……ああ」

「僕が見ただけでも、半分以上は死んでいた。僕もそこで死んだはずだ。だからそこからのことは知らない。だけど、そうだな、あの状況で生き残りがいるなんて、とてもじゃないけれど考えられない」


 細く息を吐いて、脈を静めた。


 それからリオは「訊かなければよかったと思っているか?」と尋ねた。


「思ってねえよ、今のところはな」

「……それならよかった。君をひどく傷つけてしまうような気がしていたから」

「傷ついたかは分かんねえけど、何とも言えねえ気分ってのが正直なとこだわ。どうせ全員死ぬだろうとは分かってたけど、まさか二日後だったとはな。誰もかれもついてねえわ」


 彼が目尻を下げて困ったように笑うから、リオは「ごめん」と言った。言うつもりはなかったが、もう口に出ていたので仕方がない。


 天井を仰いでいるアーサーは、横目でリオを見た。


「何が?」

「……何もかも」

「例えば?」


 クーラーの作動音だけがよく響いている部屋で、リオは気配をひそめるように細く息をしていた。


「君を死なせてしまったこと。それに、君に助けられたのに、あんなに簡単に死んでしまったこと」


 まだいくつでもあるけれど、と言おうとしたが、それは口にしなかった。いくつでもあるから一つ一つあげていたらキリがないし、何より罪悪感で死んでしまいたくなる。


 だがそんなリオの気持ちを知ってか知らずか、アーサーは「はっ」と短く笑った。


「そんなことかよ」

「そんなことって、僕は、ずっと」

「もう昔の話だろ」


 彼は言葉を続けることを許さないとでも言うように、すっと目を細めた。リオが思わず黙ってしまうと、彼は「よ」っと声をかけながら背もたれから身体を離した。


 今度は背中を丸めて、だらんと腕を垂らした。彼は唇に笑みを浮かべる。


「あのとき、俺はしたいようにした。全部俺の意志だった。だからおまえにごちゃごちゃ言われる筋合いはねえし、否定されるいわれもねえ。やめろ。それからおまえの死に時に俺は関係ねえだろ。おまえの人生は全部おまえのもんだ、おまえのできる範囲で好きにしろよ」


 彼は「以上」と付け加えた。


 リオは黙ったまま聞いていたが、ぎゅっと唇を噛んだ。


 突き放すような言い方をするのに、彼の表情は柔らかかったし、声色もどことなく優しかったので、リオはやはり泣いてしまいそうになったのだ。


「……ありがとう」


 リオは深く息を吸いこみながら、目元を力ませた。


「後悔していることなんて、本当はあまりなかったはずなんだ。でも君に出会ってしまったら、急にいろいろなことが申し訳なくなってしまって」

「そういうもんかね」

「君に後悔はなかったのか?」

「なくはねえけど、引きずるほどのもんじゃねえな」


「君らしい」とリオは笑って、肩から力を抜いた。本当に彼らしかった。何も変わっていないなと思って彼を見遣ると、彼は腕を伸ばしていた。


 彼の指の先にあるのは、テーブルの上に置かれた煙草と灰皿だ。


 アーサーは慣れた手つきでパッケージの端をとんとんと叩いた。しかし中からは何も出てこなかった。


「うわ、空じゃねえか」


 彼はげんなりとした顔で立ち上がろうとする。リオは「ゴミくらいちゃんと捨てなさい」と注意してから、ズボンのポケットに片手を差しこんだ。


「君の好みなんて知らないから、これで我慢してくれ」


 ポケットから取り出して、彼に差し出したのは煙草だった。アーサーは不思議そうに首を傾げた。


「おまえ、吸うのか?」

「君が吸うだろ」


 なんてことはないように返せば、アーサーはぽかんとした表情のまま固まった。


 あまりにも間抜けな顔をしていたから、今なら関節技を極められるのではないかと思ったが、運命の再会に免じてやめておくことにした。


 我に返ったようにライターをいじり始めた彼の横顔に、「もらっていた分はちゃんと返したから」と呟けば、「おまえにやった分は全部雪に投げ捨てられた」と言われて、リオは声を上げて笑った。


 彼が知らないことを、リオは知っているのだ。






 時計を見るとすでに夜中の一時だった。


 最終バスはとっくに行ってしまったので、どうしようかと途方に暮れていると、アーサーが「泊めてやるよ」と言い出した。


「車で送ってやってもいいけど、俺が面倒くさい」

「なるほど、合理的だ」


 彼のとても合理的な善意に甘えることにして、リオは「よろしく」と頭を下げる。


「……あ、でもベッドねえからおまえがソファな」

「わざわざ確認しなくても、僕はそこまで図々しい人間ではなかったはずだが」

「俺の記憶ではそうでもないぞ」

「なら君の記憶違いだな」

「一秒待たず俺のせいにしてくるんじゃねえよ。脊髄反射か?」


 アーサーはシンクの下にある戸棚を開けた。中から缶詰を取りだして、テーブルに並べ始めた。


 リオはソファの背もたれから乗り出す。


「こんな時間から食べるのか? やめておいた方がいいと思うよ、胃に悪いから」

「まだ夜食ってねえんだよ」

「言ってくれれば僕が作ったのに。こう見えても料理は得意なんだ」

「得意かどうかはさておき、酔っ払いの料理とか怖すぎんだろ」

「もう酔っていない」

「酔ってる奴が言う台詞第一位だから、どっこも信用できねえなあ」


 彼はけらけらと笑いながら、フォークをくるくると回していた。


 リオは「胃に悪いのに」とぶつぶつ呟いていたが、やがて眠気がやってきて、彼が食べ終わるより前にソファに横たわっていた。


 身体を丸めたまま寝息を立てる。


 すやすやと眠ってしまっていて、はっと気が付いたときにはリビングの明かりが消えていた。






「……?」


 リオはむくっと上半身を起こし、辺りを見回した。


 わけが分からなくて眠気が飛んでいた。暗さに慣れてきた目で時計を探すと、深夜三時だった。


 あのまま眠ってしまったらしいことに気が付いたリオは、「不覚だ」と肩を落とした。


 かけられていた薄いタオルをソファの端に追いやって、リオは裸足のままで立ち上がる。


 水でももらおうかと冷蔵庫へ向かった。その途中で何かを蹴ってしまい、「いった!」と声を上げた。


 リオは足の先をさすりながら身体をかがめた。


「ごみ箱か……」


 倒してしまったそれを立たせて、散らばった中身もすべて放りこんでいく。


 缶詰と、缶詰と、缶詰と、缶詰と、パンの包装紙と、缶詰と、ハンバーガーの包装紙と、缶詰と――。


 リオの顔はどんどんと真顔になっていった。


 思わずごみ箱の中を覗きこんだ。中に入っているものもほとんど同じだ。


「馬鹿の食生活じゃないか」


 二、三食分とはとても思えないほどの量だった。朝昼晩と食べ続けてようやくこれだけのごみを発生させられるだろう。


 以前から食にこだわりのない人間ではあった――腐ってさえいなければ文句は言わないという意味で――が、さすがにこの時代でこの食生活は問題がある。


 リオはごみ箱を抱きながら、盛大なため息を吐いた。






 長らく使われてはいないだろうフライパンを引っ張り出してきて、リオはまず洗うことから始めなければならなかった。


 早朝、鳥の鳴き声がかすかに響き渡るような清々しい時間に、リオは何が楽しくてフライパンをこすらなければならないのか、と思った。


 ようやく終わって、いざ冷蔵庫を開けてみれば食材らしきものはほとんどない。昨夜に確かめたことではあるが、改めて見てもおおよそ文化的な生活とは言えなかった。


「んー、朝っぱらから何やってんだよ、おまえ……」


 油を引いたあたりでリビングの扉が開いた。あくびをしながらアーサーが入ってきたから、リオは振り向く。


「おはよう。見ての通りだと思うけれど」

「……そのフライパンはおまえのか?」

「どこの誰がマイフライパンを持ち歩くんだ。どう考えても君のだろう」

「マジか。うちにフライパンなんかあったのかよ。天地がひっくり返るレベルの驚きだな」

「こんなことで天地がひっくり返っていたら、人類の大迷惑だからやめなさい」


 アーサーはまたあくびを零して、邪魔になっている前髪をかき分けた。まだ眠そうだ。


「今のうちに顔でも洗ってきたらどうだ」と声をかけると、彼はぼんやりとしたまま引き返していった。


 リオは缶詰の中身や、かろうじてあったハムやパンなどを使って料理を続ける。


 アーサーが戻ってきた頃にはそれなりの品数がテーブルに並んでいた。


「うお……いまだかつて見ないほどまともな朝食じゃねえか」


 どうやら目が覚めたらしい。彼はぱちぱちと瞬きをして、皿を指さした。


「食材はどうしたんだよ。まさか買い出しに行ってきたのか?」

「いや、君の冷蔵庫の中身を全部ぶちこんだ」

「おい待てふざけんな」

「安心してくれ、冷蔵庫の中なんてほとんど空だったから。あと調味料がいくつか腐っていたから、ついでに捨てておいたよ」

「ほぼ空だったからといって、全部ぶちこんでいい理由にはならねえよ。分かるか? 分かってくれよ、常識ってもんを」

「君に常識を説かれている時ほど屈辱的なものはない」

「おまえは何なんだ? 一晩泊めてやった恩を忘れて陽気にタップダンスでも踊ってんのか?」


 リオは「君が何を言っても食材は戻らないから、とりあえず朝食にしないか」と言った。彼は「今殴るか殴らねえかでだいぶ迷ったが、何にせよ腹は減ったな」と椅子に腰かけた。


 ナイフとフォークを握って食べ始める。ありあわせで作った割には悪くない味だと思った。


 調味料がほとんど駄目になっていたから、素材の味が活かされすぎているが、リオはもともと薄味を好む人間だ。


「……で、なんで急に朝食だ?」


 アーサーは水を一口飲んで、コップを置いた。なんで、と訊かれるとは思っていなかったのでリオは軽く首を傾げた。


「君の食生活が壊滅的なのはよく分かったから、改善してあげようかと」

「……なんて?」

「まともな食事を取っているように見えないから。さすがにどうかと思う」


 リオが真正面から言い切れば、アーサーはうっと言葉を詰まらせた。


 彼はぼそぼそと小声で毒づいたが、本人としても言い返せないレベルだと分かっているのか、いつになく弱気だ。


 リオは何かに勝ったような気がして、むふふと誇らしげに笑った。


「ちなみに夕食も僕が作ろう」

「……は?」

「ああ、午後には僕も講義があるから、それは自分で何とかしてくれ。好きに食べてくれればいいけれど、くれぐれも健康を考えたメニューにするように」

「そこじゃねえよ。おまえ、夜もここに来る気か?」

「駄目だったか?」

「いや、別に駄目ってことはねえけど。酔っ払いを介抱した礼にしては、ずいぶんリターンが多くねえ?」


 リオは自分の醜態を思い出してかなり恥ずかしくなったが、振り切るようにぎゅっと両手を握った。


 そして何事もなかったかのようにフォークを動かした。


「君は気にしないでくれ。僕が気になるだけだから」


 リオは目の前の、九割ツナしか入っていないツナサラダを見つめながら言った。






 それからというもの、リオの毎日はすっかり変わってしまった。


 朝早くに起きて課題を終わらせ、大学へ向かう。ほとんど毎日のように講義だ。昼休憩にも残っていた課題をして、午後の講義を受ける。


 夕方にはバスに乗った。乗り換えるついでにスーパーに寄って食材を買いこんで、片手には大きなビニール袋を持った。


 アーサーの住むアパートに着いたらベルを鳴らす。すると彼が扉を開けて、リオの手からビニール袋をさっと取って戻っていった。


 ここ三週間、大抵これの繰り返しだ。


「とりあえず全部キッチンに置いたぞ」


 手を洗っていたリオは「ありがとう」と返した。


「わりいけど俺、レポート終わってねえんだよ。十八時が締め切りだから、晩飯作るの手伝えねえわ」

「ちょうど新メニューを試そうかと思っていたところだから、君は好きなだけレポートに勤しんでいるといい」


 アーサーは「助かる」と片手を上げて、リビングに引っこんでいった。 


「……そういやさあ、おまえっていつ課題とかやってんだ?」

「僕は君と違って、締め切りに余裕をもって動きだす人間だからね。君みたいに追い詰められていないんだ」

「あっそ」


 リオは買ってきた食材を冷蔵庫に詰めながら、少し大きい声で「それで間に合いそうなのか?」と尋ねた。


「今、何文字書いたところなんだ?」

「白紙」

「は?」

「ホワイトペーパー」


 アーサーはあっさりと言ったが、リオは勢いよく立ち上がって壁時計を見た。十七時だ。締め切りまでちょうど一時間を切ったところである。


 リオは食材を適当に押し込んで、ずかずかと大股でリビングに向かった。


「本当に君という人間は!」

「痛!?」


 真上から拳骨を落としてから、彼のパソコンを覗きこむ。確かに真っ白だ。


「おま……っ、息をするように人を殴るんじゃねえよ! どこの蛮族だ!」

「指定文字数からして……どうするんだ、本当に間に合いそうにないぞ。これを落とすとかなり成績に響くんじゃないのか?」

「おまえの拳は俺の骨に響いたけどな」

「そんな冗談を言っている暇があるなら、一文字でも書いたらどうだ!」


 アーサーは「へいへい」と面倒くさそうに返事をして、ため息を吐いた。


「リオ、本棚の上に積んでる本の中から二、三冊取ってきてくれ。どれでもいい」

「うん」

「あとは晩飯づくりに勤しんでくれ」


 言われたとおりに本棚へ向かい、リオは背伸びをした。


 しかし微妙に届かなかったので、アーサーがこちらへ来ていないのを確かめてから、ぴょんぴょんと跳ねて、指に触れたものを掴んだ。


「ひどい屈辱を味わった」とひとり言を零してから戻り、彼のパソコンの隣に置いてやる。


 リオは盛大にため息を吐いてから、鋭く睨みつけた。


「もし間に合わなかったら、君の夕食はその辺で摘んできた草にしてやる」

「それ食うくらいなら缶詰食うわ」

「は? 僕が完璧に栄養管理しているというのに、そんな蛮行を許すと思うのか?」

「だったら草を夕食レパートリーに入れんなよ!」


 それからリオは夕食づくりに戻ることになったのだが、アーサーのレポートの進捗が気になって仕方がなく、気が散りまくっていた。


 なのでレシピでは塩小さじ一杯となっていたのだが、リオはうっかり大さじ三杯入れてしまったのだ。


「あわわわわわ」


 リオはキッチンで一人頭を抱えた。


 取り返しがつかない失敗だ。リオは材料すべてを正確に計量しなければ気が済まない性格だったので、とてもではないが正気でいられられない。


 作り直すことも考えたが、十八時には間に合わないだろう。そうなるとアーサーに「どんだけ俺の進退が気になってんだよ」とからかわれるのは間違いなかった。耐えがたいにもほどがある。


「……アーサーは、まだ気付いていないな」


 ちらりと様子を伺うと、彼はいつになく集中していた。キッチンに背を向けたまま、一心不乱にタイピングしている。


 リオはミトンをぎりぎり握りしめたまま、コンマ三秒で天秤にかけた。そして彼に笑いのネタを提供するくらいならどうにでもなれ、とすべての材料を十五倍にして鍋に突っこんだのだ。


「よし、これで状況はイーブンだな……」


 今にも溢れかえらんとする鍋が三つに増えていたので、何一つイーブンではなかったが、リオは現実から目を逸らすことで事なきを得た。


 魔女の大鍋を煮るがごとく、三つの鍋をせっせとかき回しながら一時間弱。


 アーサーが「よっしゃ!」と声を上げたのと同時に、リオも本日の夕食を完成させた。


「提出、間に合ったのか……?」

「当然だろ。いやはや、追い詰められてもこのクオリティを維持できる才能が憎いな、我ながら」


 にまにまとしている彼に、リオは珍しく素直に「そうだね」と返した。


 クオリティはともかく、あの時間で字数を埋められただけでも上出来だ。リオならば恐らく間に合っていなかっただろう。


 しかし肯定が返ってくると思っていなかったらしいアーサーは、調子が狂ったのか、「ふ、ふーん。ようやく俺の実力に気が付いたのかよ」と小学生のような威張り方をした。


「そんじゃ、新作メニューとやらを食わせてもらうか」

「ああ、たくさん食べてくれ。……たくさんあるから」


 謎の間に、アーサーは一瞬だけ目を見開いたが、特に気にすることなくテーブルにつく。


 盛り付けられたそれを見て彼は顔を輝かせた。


「お、美味そうじゃねえか。おかわりあったりする?」

「うん」


 リオは強張った顔のままで「何十杯でも」と小声で付け加えた。


「……今、なんて?」

「ちょっと作りすぎたんだ。でも大丈夫、栄養価に偏りはないから。安心してしばらく食べ続けてほしい」


 アーサーはゆっくりと立ち上がって、キッチンを覗きこんだ。


 状況を把握した彼は、またゆっくりと椅子に腰かけて、にこりと笑みを浮かべた。


「…………今なら言い訳させてやるけど?」


 目が笑っていないのは一目瞭然だった。


 リオはぐ、と言葉を詰まらせたまま数秒固まったが、結局「ごめんなさい」と頭を下げることにした。






 いつもは翌日のために朝食と昼食を作り置きしておくが、今日はその必要がなかった。


 夜、バスがなくならないうちにアパートを出て、自宅に帰る。


 アーサーは時々「近いんだろ? 送ってやってもいいぞ」と言ったが、そのたびにリオは断っていた。 


「いつまで誤魔化せるか……」


 今日も彼の善意を無下にしたところだ。もうそろそろ、強引に車に放りこまれかねない。


 家まではバスを二回乗り換えて、一時間半だった。


 つまりは往復三時間をほとんど毎日繰り返しているのだ。比較的に忙しいと言われる医学部の学生が。


 家に着いたのは二十三時で、手早くシャワーを済ませた。それからパソコンを立ち上げて、締め切りの近い課題のリストを眺めた。今日も今日とて余裕がない。


「途中で仮眠を三時間取って……間に合うか……?」


 ここ一週間は、彼と同じくリオも課題の山を抱えていた。


 夜から朝にかけてほとんど眠ることなく取り組んで、何とかさばいている状態である。


 昨晩にいたっては徹夜だったので、今日こそ寝なければならないが、難しそうだ。


「とにかく始めないと、終わるものも終わらないな」


 リオは栄養ドリンクを一息にあおって、パソコンと向かい合った。






 睡眠時間を削るような生活がそう何日も続くはずがないと、リオ自身気が付いていた。


 それでもやめることができなかったのだ。


「アーサー、また玄関の鍵が開いていたよ。さすがに不用心だ」


 いつものように買い出しを終えてアパートの扉をノックしたが、彼は出てこなかった。何となく扉を押してみるとあっさりと開いたので、リオは大声で注意した。


 しかし返事がなかったので、リオはむっとしたまま扉を押し開けた。


「まったく、返事くらいしてくれればいいのに……。暑いし、勝手に上がるよ」


 一応声はかけたので不法侵入にはあたらない。


 まるで自分の家のように慣れた廊下を真っ直ぐに突っ切っていく。扉の向こうはリビングだ。ノブに手をかけて、静かに開けた。


「……アーサー?」


 窓から差し込む夕日の眩しさに思わず目を細める。


 アーサーは本棚の前に座りこんで、ひたすら本を読んでいた。


 いつもなら少し物音がしただけでもすぐに反応して動きだす――たぶん軍人時代の名残だろうとリオは思っている――のだが、彼はぴくりとも顔を上げないまま、視線と指だけを動かしていた。


 リオはドアノブを掴んだまま彼を見つめた。その視線にも気が付かないのだから、ますます変な感じがしてしまう。


 アーサーは時々、本の山に埋もれるようにして読書をする日があった。


 そういう時はきまって朝から晩まで、本棚の前から一歩も動かないのだ。


 何かを取り戻すように必死にそうしているように思えて、リオは止めることもできなかった。


「君は、本当に……」


 リオはドアにもたれかかるようにして床に座りこんだ。そして彼を見ていた。ただ、見ているだけだ。


 今の彼を鬼のようだとは思わなかった。


 もしかすると、彼はずっとこうしていたかったのかもしれない。あの日だって、その前だって。けれどとても許されない状況だった。


 リオは息をひそめて膝を抱えた。


 最初から許されていなかったとして、それでも最後にとどめを刺したのは自分だったのだ。


 リオが最後に思った後悔は、今でも覚えている。


 せめてそれだけでも、と願ってしまうのは傲慢かもしれないが、捨てるにはあまりにも激しすぎる欲だった。


 ぼんやりと熱に浮かされた頭で、リオはいつまでこんな日々が続いてくれるのだろうかと、祈るような気持ちを抱いた。






 一時間くらいたって、アーサーはようやく顔を上げた。本を膝の上に伏せて、視線の先にいるリオに気が付く。


「なんだよ、いたなら声くらいかけろって」

「……かけたけど、君が返事をしなかったんじゃないか」


 アーサーは固まった身体をほぐすために、ぐーっと伸びをする。肩を回したり足を動かしたりして、やっと血が巡りだしたのか長い息を吐いた。


「大体、なんでそんなとこに座ってんだよ。ソファに行けばいいだろ」

「動くのが億劫だったんだ。外、暑いし」

「まあ暑いわな。まったくもって暑い」 


 彼は本を山のてっぺんに戻して、立ち上がった。


「でもこの部屋、ガンガンに冷房きかせてるんだから、そろそろ寒いくらいだろ」

「そうかな」

「おまえ、まだ暑いのか? 珍しいな、そんな暑がりだった?」

「どうだろう。暑い気がするし、寒いような気もする」

「哲学的かよ」


 時計を見遣って少し考えた。そろそろ夕食を作らなければバスに間に合わなくなってしまう。


 リオも腰を上げて、キッチンに向かった。冷蔵庫に常備してある食材を取りだしながら、本棚を整理している彼に声をかけた。


「ところでアーサー、今日は何を食べたんだ?」

「……食べた前提で訊かれると、答えようがねえな」

「なるほど、つまり何も食べていないんだな?」


 リオが作り置きしていてもこれだ、もしリオが口うるさく言わなければ、確実に夕食も抜いていただろう。やはり来てよかった、とリオは小さく息を吐いた。


 作るものは決めているし、肉や野菜は処理したものを冷蔵庫に入れてあるから、完成までそう時間はかからなかった。


「…………」


 瞼が重いので、目をこすりながら野菜を炒めていく。不意に手を止めては、俯きがちに首を振るという動作を続けていると、アーサーが「肩でも凝ってんのか」と言った。


「君よりは若いから、そんな心配は無用だよ」

「おい、四つしか変わんねえだろうが」

「そうかもしれないけれど、君の生活はとても雑だからね。きっと早死にする。断言してもいい」

「不吉なとこに自信を持つな」


 アーサーは本棚のまわりに積んでいる本の山を、ようやく整理しながら振り返った。


「俺は平均寿命まで生きることにしてんだから、勝手に断言するんじゃねえよ」

「……どうせならギネス記録を狙う努力をしたらどうだ」

「あー、そこまではいいわ」


 アーサーはけらけらと笑う。


「何事も、程々ってもんだろ」


 リオは結んだ唇をきゅっと力ませた。彼はリオの考えていることなどまるで知らないのだ。「でも、長生きはするべきだよ」と付け加えるように言うので精一杯だった。


 いつの間にか野菜にはすっかり火が通っていた。むしろ焦げる寸前で、思い出したように火を切る。それから皿を取りに行こうとして、リオは違和感を覚えた。


「重い……?」


 ふと言葉にして、確かめる。


 身体が重かった。だが頭だけは重力を失ったように、ふわりふわりと軽かったのだ。


 首を傾げて、しかし何も起こらない。


 リオは一歩前に踏み出して、惰性でもう一歩、そして意図せずさらに一歩。歩いているというよりはほとんど身体を前に傾けているだけだった。


 おかしいな、と思ったときには、リオは身体のコントロールを忘れていた。


「あ、おい、リ――」


 倒れる、と分かったときにはどうしようもない。アーサーが声を上げたのは聞こえていたが、今さら止められるはずもなく、リオはとっさに腕で庇いながら倒れていった。


 激しい物音がして、鈍い痛みが走った。リオは「うっ」と短く呻いて、我に返ったように身体を起こす。だが腕にもあまり力が入らなくて、ゆっくりと床に伏せた。


「リオ、大丈夫か⁉」

「……?」

「いい、起きるな。そのまま見る」


 アーサーはキッチンの奥に回りこんできて、傍にしゃがみこんだ。「ほとんど腕しか打ってないな。おまえにしては上出来だ」と半分貶しながら、全身を確かめていく。


「動くなよ」


 動くな、と言われても、全身がだるくてほとんど力が入らなかったので何もしようがない。


 アーサーは最後に額に手を当てて、長いため息を吐いた。 


「古典的だな」


 リオは上に引っ張られるようにして起こされた。焦点の定まらない目を白黒させているうちに、アーサーに抱えられるようにして持ち上げられていた。足が床を離れている。本能的にもがくが、大した抵抗ではなかった。


 アーサーはそのまま玄関まで真っ直ぐ突っ切って、外へ出た。駐車場まで行くといくつか車が止まっていて、そのうちの一つのドアを開けた。


「う、わ」


 夏特有の熱気がこもる後部座席へ放りこまれる。リオは声を上げたが彼は無言だ。運転席のドアを開けると、エンジンをかける。


「アーサー、何を」

「住所」

「……?」

「住所教えろ」


 車内のクーラーがきいてきて、空気がやや冷え始める。熱を持ったシートも冷たくなってきて、リオはのろのろと顔をつけた。


「別に、僕は、何とも」

「いいから住所教えろって言ってんだよ。送ってやるから」

「手間をかけたくない」

「今からおまえを引きずって部屋まで戻る方が手間だわ」

「じ、時間がかかるし」

「近所なんだろ? 前に言ってたじゃねえか、この辺だって」


 しばらく問答を続けていたが、いい加減じれったくなってきたのか、アーサーの指がハンドルを叩きはじめた。


 ああ、機嫌がよくないのか、と思ったが、だからといってどうすればいいのかとも思った。何を言うのがベストな選択か必死に考えていると、アーサーが運転席から身を乗り出してきた。


「うわ、ちょ、何をする……っ!」

「財布寄こせ」


 まずい、とリオは身じろぎした。


 財布の中には様々なカードが入っていて、住所が書かれたものもある。見られてしまえばすぐに分かってしまう。


 リオは逃れようとしたが、狭い車内でろくに動きもしない身体だ。あっという間に捕まって、ズボンのポケットから引き抜かれた。


「みーつけた」


 彼は目的のカードを探り当てて、書かれている住所を読み上げる。からかうような笑みを浮かべていたのだろうが、しかし最後まで言い切らないうちに彼は黙りこんでしまった。


 心地の悪い沈黙が続く。


「……なあ、リオ。一個訊いてもいいか?」


 彼はしばらく黙っていたが、ふと思い出したように言葉を発した。


「なんで嘘をついた?」


 その時にはもう、リオは視線を逸らしていたのだ。






 渋滞を避けながら、一時間半かけて家までたどり着く。


 車が止まった頃には眩暈がなくなっていたが、ひどく暑いような気がして、リオは短く呼吸していた。


「歩けるか」

「うん……」

「あと家の鍵寄こせ」


 ポケットに手を入れて力なく差し出した。彼はかすめ取ると、リオの腕を掴んだまま歩き出した。


 リオは「引っ張らないでくれ」とか「もういいから」とか、ずっと何かを言っていたが、彼は何も聞こえていないかのように歩いていく。部屋番号は鍵に書かれているから、彼は難なくたどり着いた。


 自分の部屋に放り込まれる日があるとは思わなかったが、どうやら今日がそうらしかった。


「おまえはベッドから動くな」

「いや、だから」

「動くな、いいな?」


 有無を言わせない口調にリオは頷くしかない。


 アーサーは寝室を出て行った。離れていく足音が聞こえたが、玄関の扉の音はしない。


 まだ部屋にいるのかと思って、覗きにいきたい気持ちがあったが、ベッドから下りているのを見られたときにはどうなるか分かったものではない。リオは大人しく寝そべっていた。


 しばらくするとアーサーが戻ってきた。手には食器を持っている。


「勝手に借りたぞ。食っとけ」


 野菜スープとパンだ。パンはともかく、この家に野菜スープはなかったはずだ。リオは食事とアーサーを交互に見比べた。


「まさか、君が?」

「俺じゃなかったら、これ作ったの不法侵入の不審者だからな」

「包丁使えたのか……?」

「使えるわ!」


 さっさとしろ、と言わんばかりに押し付けてくるので、リオはたどたどしい手つきで受け取る。


 スプーンで一口分すくって、口に入れた。野菜から染み出た甘みとほのかにきいているブラックペッパーに、リオは瞬きをした。


「普通に美味しい」


 ぽつりと呟いて、彼の方を見た。彼はベッドサイドで澄ましたように足を組んでいる。


「普段あんなに雑なくせに」

「期待を裏切って悪いが、俺はおまえみたいに小さじ使わなくても普通に作れるんだよな」

「な、なんだと」

「大体おまえはなんで全部量るんだよ。理科実験でもしてんのか?」

「料理をしているんだよ」


 何を疑問に思われているのかさっぱり分からなかったが、彼に「早く食え」と言われたので、そこからは無言でスプーンを動かした。


 時間をかけてすべて食べきって、リオは空になった皿を膝の上に置いた。


 アーサーは「食欲は十分だな」と皿を回収した。


「おまえ、なんで倒れたか分かるか」

「……なんでだろう?」

「熱だよ、熱」

「熱?」

「体温計ねえから知らねえが、割と高いぞ。しんどくないのか?」

「ぼうっとは、するけど」

「意外と元気だな。さっきぶっ倒れたとは思えねえわ」


 リオは自分の額に手を当てた。確かに熱いような気がするが、そもそも手のひらも熱くなっているから違いがよく分からない。


 近くにいたアーサーに手を伸ばし、前髪をかき分けて触ってみる。ちょんと軽く触っただけで、すぐに手を引いた。


「つ、冷た。生きてるのか?」

「ばっちり存命中だ」


「おまえが熱いんだよ」とあたりまえのことを言われて、リオはようやく納得した。


 アーサーはゆるく首を傾けると、リオに視線を投げかけた。


「それで?」


 空気がわずかに冷える。


「体調不良に心当たりがあるんじゃねえの?」


 わざとゆっくり、聞き取りやすいような言い方をするから、リオは目を伏せた。答えは薄々知っているくせに、人を困らせるためだけに言わせようとするのは彼の悪癖だ。


 リオが抗議するように黙っていると、彼は短く笑った。


「そりゃあ、毎日往復三時間してりゃあ時間もねえわな。大学の講義が終わったらうちに直行して、飯作って、バスは最終か? 家に着くころには日付も変わってるだろ」


 こういうときの彼はとても饒舌だった。リオが口を開かないのをいいことに、責め立てるように続ける。


「ああ、そうだ。課題はいつやってる? どうせ夜か、朝か? 普段から睡眠を削ってたら、身体ももたねえだろうよ。阿呆の生活だな」

「……僕は」

「それで倒れたんだから、ざまあねえよ」


 アーサーは嘲笑うように口角を吊り上げる。昔にも見た顔だな、と思った。リオはその笑い方が大嫌いだ。


「おまえはどうしてそこまで俺にこだわる?」


 どうしてって、とリオは口の中でもごもごと呟いた。そっちこそ、どうしてそんなことを訊くのだろう。やっぱり言わせたいだけなのだろうか、と顔を上げる。


 彼は本当に、心から不思議そうにリオを見ていた。


 そして、そんなことにひどく傷ついている自分がいたのだ。


「……君にとって僕は、助けた何百人のうちの一人だろう。それは分かっている」


 リオはつとめて穏やかに言った。だが声が震えてしまっていた。止まっていた息を吐く。まだ抑えられたかもしれない。


 けれど彼がわずかに眉をひそめたから、リオは思わず腕を伸ばして彼の胸倉を掴んでいた。


「それでも! 僕は、君を殺した人間の一人だ!」


 アーサーは目を見開いて、「何のことだよ」と抑揚のない声で言う。


「まさかあの時のことか? 俺を殺したのは、名前も知らねえ敵兵だよ」


 リオは緩慢に首を振った。


「あの時僕を庇わなかったら、君は死ななかった。君は僕の代わりに死んだ!」

「それは俺を殺したことにならねえだろ。論理の飛躍だ」

「でも君一人だったら、君はきっと死んでいなかった。一番の原因は僕だ」

「生き残っても、どうせ二日後の攻撃で死んでたよ」

「だけど何かが違っていたかもしれない」


 胸倉を掴んだまま、縋るようにアーモンドの瞳を見つめる。


「君なら、君だったら。あの時何かできていたかもしれないじゃないか!」


 大声を出したら、頭がくらくらとする。


 もう思いだすのも散々だ。リオは息を詰まらせてうなだれる。


「僕が、君の可能性を奪った……」


 もはや胸倉を掴んでいるだけの力もなくなって、リオの腕はゆっくりとベッドへ落ちた。アーサーは視線を遣ったが、すぐに逸らしてリオを見る。


 扇風機の音が無機質に響いていた。


 彼はひどく静かな声で、言った。


「おまえはいつの話をしてるんだよ」


 あんまりにも静かだったから、リオは一瞬、何を言われているのか理解できなかった。ぼんやりとした思考のなか「……え?」と返せば、彼は髪をかき乱した。


「だから、いつまで終わったことの話をしてるんだって訊いてんだよ」

「終わったって、何が」

「いいか? 百年前、俺らは死んだ。軍人だったんだ、仕方ねえことだろ。誰が死んでもおかしくない場所で、力及ばず、俺らは二人まとめて死んだ。だからそこで全部終わりだ。何もかも終わりなんだよ」


 アーサーはそう言って、組んでいた足を下ろした。両足を床に付けて拳を握る。彼はもうとっくに笑っていなかった。


「この人生は、あの日の続きじゃねえよ」


 それがアーサーの出した答えなのだろう。リオは彼の考えていることがすべて分かってしまって、瞳を揺らした。心臓が痛いほどに収縮して吐きそうだ。


「だったら、どうして」


 喉の奥が引きつるような呼吸をして、リオは問いかける。


「続きじゃないって言うなら、どうして、僕たちはすべてを覚えているんだ?」


 アーサーは小さく舌打ちをして「神様にでも訊けよ」と言った。


「嘘だ。答えが分からないから、無理やり誤魔化しているだけのくせに!」

「何でもいいだろ、そんなこと。だったら最初から、全部俺に都合のいい夢だったんじゃねえのかよ?」

「――っ! この僕が偽物だとでもいうのか!」

「俺の夢にしちゃあ、おまえは想像の斜め上を行くけどな」


 彼は「ってことは本物だな」と小さく呟いて、立ち上がった。


「もう来なくていいぞ。じゃあな」


 話は終わりだ、とでも言うようにアーサーはひらひらと片手を振って、部屋を出て行ってしまう。リオは起き上がろうとしたが、まったく力が入らなくて足がもつれた。


 ベッドからずり落ちて、なんとか起き上がったころには玄関の扉の閉まる音がした。






 熱はしばらく引かなかった。


 ずっと無理をし続けていたし、睡眠もほとんど取っていなかった身体だ。そう簡単には治らず、二日ほどまともに動くこともできなかった。


 生活もままならなかったが、アーサーが食事の作り置きをしていたので食べることには困らなかった。「なんだ、本当はできたのか」と呟いたが、返事はない。


 また眠っていたのか、リオはゆっくりと目を開いて汗ばんだ額を拭った。


「……暑い」


 熱に浮かされて見る夢は大抵ろくでもないものだ。


 リオはこういう時、昔の夢を見る。百年前の彼らのことを思い出してしまう。


 一面、白しかない世界だった。


 止むことのない雪。凍傷になった手足の先と、肩にのしかかるライフルの重み、引き金を引く感触、硝煙のにおい。並んで歩く戦友たち。


 みんないい人だったな、とリオは嗚咽を漏らした。いい人だったのだ。誰もあんな場所で死ななくてよかったはずの人たちだった。


 熱があるときは自然と涙腺が緩んでしまうから、リオは膝を抱えてしくしくと泣く。


 そしていつも浮かんでくるのは最期の後悔だった。


 欲とも願いとも祈りともつかない、後悔だった。






「もう来るなと言われて、はいそうですかと素直に頷くほど、僕が物分かりのいい人間だと思っていたなら大変驚きだな。うん、それこそ天地がひっくり返るような驚きだ」


 残念ながら天地はひっくり返らなかったが、小さな椅子に腰かけていたアーサーはひっくり返る寸前だった。


「は、馬鹿、おまえ……は⁉」

「九月になってもまだまだ暑いね。水をもらうよ」

「半端なく図々しいな⁉」

 彼は口を開けたまま、リオを指さしてわなわなと震えていた。


 リオは構うことなくずかずかとリビングに侵入し、冷蔵庫へ向かった。中からペットボトルを出すと、何の躊躇もなく蓋を開け、勢いよく喉に流しこんだ。


 ふう、と息をつく。口の端からやや零れてしまった分をぬぐって、リオは振り返った。


「あと玄関の鍵は閉めたほうがいいと何回も言っただろう。今までは大丈夫だったかもしれないが、何かあってからでは遅いんだ」

「目の前でその何かが起こっているんだが?」

「僕はカウントしなくて結構」

「おまえなんでそんな強気なんだよ。不法侵入で訴えたら俺の勝ちだからな」


 アーサーはようやく椅子に座りなおして、呼吸を整えた。


 空気が変なところに入ったのが、「がほっ」とか「げほっ」とか咳いていたが、それも含めてようやく落ち着いたらしい。彼は最初から落ち着いていましたが、といった態度でリオを見た。


「いやマジで不法侵入だからな」

「結構ためた挙句にそれなのか」

「一番大事なとこだろうが。平然とした顔で立ってんじゃねえよ。もっと申し訳なさそうな顔で来いよ」


 リオは「悪かったよ。どうぞ訴えてくれ」とどうでもよさそうな態度で詫びた。アーサーは口角をぴくりと動かしたが、彼自身もはやどうでもよくなってきたのか、それ以上は言わなかった。


 今日も冷房がよくきいている。


 彼は手にしていた文庫本を片手に持ったまま、「それで?」と問いかけた。


「今さら何の用だよ。忘れものでも取りに来たのか」


 リオはかぶりを振った。


「君のおかげで全快したから、そのお礼に来ただけだ」

「だったら今すぐ百八十度回転して帰れ」

「玄関に向かうには九十度回転でないと無理だよ。もともと回転してるから」

「細けえんだよ! じゃあ九十度で良いから回転しろ、帰れ!」

「用が済んだら帰るよ」

「あーもう、なんか疲れてきたわ……。もういいから勝手にしろ。それでさっさと帰ってくれ」


 アーサーは椅子に腰かけたままため息を吐いた。許可ももらったので、リオは「そうか」と小さく頷いた。


 許可なら今取った。


 足を前に出した。


 リオは歩き出した。足音を鳴らしながら歩いて、アーサーの方へ真っ直ぐ向かっていく。彼はやや顔を上げたが、すぐに視線をどこかへ向けてしまった。リオは構うことなく彼のもとへと歩いていく。


 腕を伸ばしたら届くような距離まで来て、リオはすっと息を吸った。


 そして右腕を構えて、アーサーの頬めがけて全力で振りかぶったのだ。


「――っ!?」


 無警戒のところに叩きこもうとしたのに、アーサーは目を見開いたまま身体を傾けて、寸前のところで回避する。


 拳が宙を切った感覚しかせず、リオは小さく声を漏らした。八割がた当たるかと思っていたが、残り二割の方が正しかったようだ。


 とはいえ予想していなかったわけでもないので、浮かせた右足で椅子を蹴り飛ばす。アーサーはバランスを失って、傾いたまま立ち上がった。


 驚異的な反応速度に「なぜ転ばないんだ」とリオは疑問を呈した。アーサーは「頭おかしいんじゃねえか!?」とシンプルに罵った。


「人を殴ってびっくりしてんじゃねえよ!」

「当たってないから未遂だ」

「言っとくが、これからすることは正当防衛だからな。どこの法廷駆けこんでも俺が勝つからな!」


 リオは返事をすることなく踏みこんだ。鳩尾を狙って拳を突き出す。だが次の瞬間、腕を掴まれていて、「あっ」と声を出したときには景色がひっくり返っていた。


 物音とともに痛みがやってくる。綺麗に投げられていた。あまりにも綺麗だったから、逆に受け身を取りやすかった。リオはフローリングの上を転がって、勢いのまま身体を起こす。


「お、なんだ、できんのかよ」


 アーサーが感心したように眉を動かした。リオは特にありがたくないな、と思いながら距離を詰める。


 二十年間、喧嘩をしたことがないわけではない。それなりに手をあげたことはあるし、青痣を作ったこともある。それでも今に比べれば子どものじゃれあいのようなものだった。


 そんなリオがここまで動けるのは、やはり百年前に訓練された記憶があるからだ。


 振りかぶった腕を弾かれて、下から顎を狙ったものは掴まれて、ならばと出した足は踏まれて動かない。ふと顔を上げて視線を交えれば、アーサーはいつの間にか鋭い目をしていた。獲物を狙うような、視線だ。


 それはライフルの照準を合わせているときとも同じで、リオは息を呑んだ。


「ほら、見ろ……」


 リオは一人で呟きながら、笑った。笑っていた。空いた右腕で思いきり横腹を殴る。彼が呻いて、一瞬力を緩めたから無理やり振り切った。


「自分の顔を鏡で見てみたらどうだ!」


 アーサーが動揺したように唇を震わせた。


 決定的な隙だ。リオは構えなおして大きく足を開く。低くした身体から一撃。とても避けられはしない。はずだった。


「……っ!」


 腕を取られた。また投げられる、とリオは身構える。しかし腕をそのままひねり上げられて、膝からガクンと崩れた。


「い、つ……!」


 目の前に床が迫ってくる。


 悲鳴を上げた時にはもう、組み伏せられていた。


 リオもアーサーも荒く呼吸をした。


 ぴくりとも動けない。腕は肩からひねられていて、抵抗すれば本当に骨が折れるだろうし、頭を押さえつけられているから顔も上げられなかった。


 上から抑えこまれているから、体重も十分にかかっている。この形に持ち込まれたらどうにもならないことは、リオも知っている。そう教わったからだ。


「……軍隊式の格闘術」


 リオは身体の力を抜いて、ぽつりと呟いた。


「即席の兵士だった僕とは違って、君は戦争前からの軍人だったと聞いている。よく訓練されているんだね」


 後頭部を掴んでいる手が力んだのが分かる。リオは淡々と続けた。


「結局、君だって忘れられないんだ。終わったなんて言っておきながら、とっさに出てくるのがそれなんだから」

「……違う、それとこれとは関係ねえ」

「終わらせたって、なかったことにはならないよ。記憶が残る限り、ずっと」


 リオは「君は割り切り方が甘いんだよ」とかすかに笑った。


「君に会ってしまったから、全部引き戻されてしまったんだ。あの日に。……君だって同じだろう。本当に終わりにするつもりだったなら、最初から僕を傍に置くべきじゃなかった」


 後頭部を押さえていた手が、ゆっくりと離れていく。同時に肩を固めていた腕も外されて、リオは静かに身体を起こした。


 急に血が巡り始めて、くらりと眩暈がしてしまった。リオはその場に座りこんだまま、棒立ちになっているアーサーを見上げた。


「何か、間違っているか?」

「……いいや、少しも」


 アーサーは掠れた声で言って、崩れるように座った。ひどく疲れた顔をしていて、いつの間に切ったのか唇の端が赤くなっていた。


「そうだよなあ、死んで終わりなら、おまえと一緒にいたのは筋が通らねえよなあ……」


 彼はすっかり黙りこんでしまって、ややあってから「そうだよ」とうなだれた。


「おまえに会ってしまったから、もう駄目だった。もともと記憶が全部残ってんだ、おまえがここで生きてるって知ったら、どうしようもねえだろ」

「うん」

「死んだら全部終わりだって思ってたけど、そんなあっさり割り切れるわけねえわ。だって今、俺は生きてんだよ、ここで。おまえも」


 アーサーは目元覆って、唇を力ませた。


 リオも同じように思う。すぐそこにいると分かっていて、無視できるわけがなかったのだ。


「でもな、やっぱりおまえは俺と関わるべきじゃねえよ、これ以上」


 なぜ、と訊きたかったが言葉にならなかった。代わりに覗きこむように彼の顔を見れば、彼は困ったように口の端を上げていた。


「何でもできるこの時代で、どうしておまえは俺に縛られてんだよ」


 彼はひどく苦しそうだった。リオは少しだけ答えに迷ったが、思っていることをそのまま口にした。


「僕がそうしたいと思ったから」

「それは呪いだろ」

「……それでも優しくしたかったんだ、君に」


「最期の後悔だから。そして、それをどうにかできる手段もあったから」と言う。彼は「はは」と笑みを零した。


「おまえが優しかったかどうかはともかく、倒れるまで尽くされるこっちの身にもなれよ」

「その件は反省している」

「嘘つけ。おまえが本当に反省してるときは、目を合わせねえよ。今こっちガン見してただろ」

「……僕より僕に詳しいね」

「おまえはおまえに疎すぎる。いろんなことがな」


 そんなことを言われたのは、二回分の人生――つまりは四十年――を合わせても初めてだったから、リオは間抜けな顔でアーサーを見返した。


「心外だ」

「ついでにおまえは、とんでもなく意固地で頑固で、柔軟性ってもんに欠けてるから、早めに直しとけよ」

「とんでもなく心外だ。心外すぎて、思わず手が出そうだよ」

「マジで訴えるからな」


 アーサーがげんなりとしたように肩をすくめる。「どうせ自分で返り討ちにするくせに」と返せば、彼はけらけらと笑った。彼ならやりかねないな、とリオは慄く。


「あー、どうせおまえは何言っても引かねえんだろ?」


 しばらくして、彼は天井を仰いだまま訊いてきた。リオが小さく頷くと、彼は分かっていたかのように目尻を下げた。


「おまえが引かねえなら、結局妥協するのは俺じゃねえか」

「……ごめん」

「言っとくが、俺も全部折れてやるわけじゃねえからな。次ぶっ倒れたら放り出す」

「肝に銘じておくよ」


 リオも二度同じことをやらかすつもりはない。苦笑いしながら膝を伸ばした。


 それから二、三言話して、アーサーはそっぽを向いたまま不意に呟いた。


「一緒に住むか」


 リオが「え?」と素っ頓狂な声で言うと、彼はやはりリオを見ないままで続ける。


「もともとルームシェアするつもりだったんだよ。相手が見つからねえから一人で住んでただけだ、おまえがいるならちょうどいい」

「……ええと?」

「距離と家賃は折半な」


 それが彼なりの妥協案だということが分かって、リオはゆっくりと両目を見開いた。


 アーサーはちらりと振り返って、視線を投げかけてきた。


「……おまえは割り切り方が甘いって言うけどな。俺はおまえが普通に生きてるのを見てみたかっただけだよ。ちょっとだけな」


 珍しく照れたように唇を固くさせるから、リオは笑って「全力で努力させてもらう」と宣言した。






 次の日、リオとアーサーはクッキー缶を持って下の階を訪れていた。


 ドアをノックして、出てきた住人に謝罪とともにプレゼントする。女性は「騒音はもうこれっきりにしてよね」と顔をしかめたが、クッキー缶はお気に召したらしく、やや態度が軟化した。


「ところであなたたち、湿布のにおいがすごいからどうにかした方がいいわよ」


 最後にもう一度謝罪して、その場を後にした。


 手ぶらになった二人は外階段をのんびりと上がりながらため息を吐いた。


「出費が絶妙に痛いな。まあこれでトラブルを避けられるんならしゃあないが」

「まさか下の階からクレームが入るとは思わなかったからね……。君が僕を投げるからだよ。あれは物音がひどかった」

「おい、原因をよーく考えろ。百パーセントおまえだぞ」

「最初からうまいことやってくれればよかったじゃないか。関節技なら物音が立たないだろ。君はもう少し後先を考えた方がいい」

「これは声を大にして言いたいんだが、おまえが言うな」


 アーサーは大声を出したが、すぐに「いてて」と脇腹をさすった。


 リオが力加減なしで殴ったせいで、完全に打ち身になっているのだ。笑ったり叫んだりすると、骨のあたりがひどく痛むらしかった。


 彼が恨みがましい目で見てくるが、リオもリオで、フローリングの上で転がったときにもろもろぶつけて痣だらけだし、腕をひねられたときの痛みはまだ引いていない。


 二人して睨みあったが、ややあって「やめておこう」と身を引いた。


「あまりにも非生産的だ」

「そーですね」


 まだ残暑が厳しい時期だから、気付けばじっとりと汗をかいていた。ふと空を見上げれば眩しいほどの快晴だったから、アーサーが「出かけるにはいい日だな」と呟いた。


「暑いから海にでも行こうぜ」

「い、今からか?」

「そうだよ、今からだ」


 思い付きにもほどがある、と思ったが、確かに出かけるにはいい日だったので、リオはアーサーの脇腹を小突きながら車へ向かった。


 残暑にエンジンの音が高らかに響く。


 後日分かったことだが、アーサーのあばらは一本折れていた。





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