グランブラー氏

東美桜

やるせない物語

『本日も浜急観光電鉄をご利用いただき、ありがとうございます。この電車は――』

 夕闇の中を、淡い茶色をした観光列車が切り裂いてゆく。その4号車の隅、指定席に優雅に腰掛けた私は、片手のレジ袋を膝の上に置いた。取り出すのは、コンビニで買ってきたチョコミルクレープ。蓋を開け、フォークを取り出す。空調が完璧に整備された車内、座り心地のよい座席。この快適な環境でコンビニスイーツを味わうのが、毎週末の密かな楽しみなのである。三角形をしたミルクレープの先端に、フォークを入れた瞬間だった。


「何なんだよバーカ」

 ――滞留したガスのような声が耳を打った。はっと顔を上げ、周囲を見回す。先程聞こえた声は、そこそこトシいった男のもの。通路を挟んで隣の席の女性の声では、確実にない。前の席に目をやると、窓に反射して見えるのは弁当を食べている女性の姿。彼女でもないだろう。

(……気のせいかな)

 頭を振り、ミルクレープの欠片を口に運ぶ。もちもちとした食感、濃厚なチョコレートの味。やはりコンビニスイーツは至高。次の一口を切り取ろうとフォークを差した瞬間だった。

「何が『話を聞け』だよ、お前だよバーカ」

(……気のせいじゃなかった!?)

 首筋に、ガスのように不快な感触。そこそこの金額をはたいて買ったミルクレープの味が、急にチープなものに思えてきた。次の一口を切り取り、口に運ぶ。まだ二口目だというのに、生チョコの味がひどくしつこく感じる。左腕を捻り、腕時計で時刻を確認すると……電車に乗ってから、まだ五分かそこらしか経っていない。この観光特急は終着駅まで30分間、どこにも止まることなく走り続ける。

「あんな小学生みたいな話し方でさ。何が『誰も話聞いてくれない』だよバーカ」

(うわぁぁぁ……30分間この愚痴聞かなきゃいけないとか最悪……!)

 思わずフォークを持った手で頭を抱える。……30分の旅程は、まだ始まったばかりだった。



(……ごちそうさまでした……すみません某コンビニさん……)

 ミルクレープを食べ終わり、手を合わせる。結局背後の声が気になって、折角のミルクレープの味を堪能することができなかった。これではミルクレープにもコンビニにも申し訳が立たない。いつかまた買おう、と決意しつつ、私はスマートフォンを手に取った。ネット小説でも読もう。そうすればきっと、気が紛れることだろう。

 スマートフォンのロックを解除し、検索エンジンをタップする。入り浸っている小説投稿サイトを開くと、マイページを呼び出した。『未読あり』のタブには、継続して読んでいる長編が二つと、この日のためにとっておいた短編が一つ。まずは短編から手をつけよう、と指を動かした瞬間だった。

「本当なんなの。自分のこと棚に上げてさ。お前だよバーカ」

(いつまで愚痴ってんだよ!)

 思わず叫びそうになり、慌てて口を塞ぐ。音を立てずに深く息を吐き、そっと腕をひねって腕時計を一瞥した。前回時計を見てから、さほど時間は経っていない。この調子では後ろの乗客は、終着駅までずっと愚痴り続けることだろう。そしてそれに耐えきれるほど、私の心は強くない。

 床に置いた鞄に手を這わせ、イヤフォンを探す……しかし、どれほど鞄の中を漁っても見つからない。おかしい。普段は入れているはずなのに。後ろの席から急かすような愚痴が聞こえてくれる中、慌てて膝の上に鞄を置く。ファスナーを全開にして中を覗き込んでも、イヤフォンは見つからない。

(……マジかぁ……普段は持ってきてるのに……嘘でしょ……)

 こんな時に限ってイヤフォンがないだなんて。愚痴がうるさいなら音楽で掻き消してしまおう、と思っていたのに。折角スマートフォンには某究極の生命体なバンドの曲を大量に入れていたというのに、こんなのあんまりだ。がっくりと肩を落とし、私は大人しく鞄を床に下ろした。スマートフォンのロックを改めて解除し、ネット小説に目を落とす。どうにかしてネット小説の世界に没入しよう。



「あいつ人間じゃないよ。小学生みたいな喋り方でさ。あの年であんな喋り方で、あんな自分勝手なこと言うなんて、絶対人間じゃないよ」

 ヒートアップしていく背後の愚痴に、私は思わずネット小説のページを勢いよく閉じた。自分の胸までぴりぴりしてくるようで、画面をスワイプしてブラウザを終了させる。こんな精神状態で作品を読んでは、作者様に失礼だ。

 というか何なんだ、後ろの乗客は――否、乗客と呼んでいいのかも怪しい。確か愚痴を言う者のことを、英語でgrumblerグランブラーと呼んだはずだ。ならばグランブラー氏と呼ぼう、そうしよう。

 本来ならば優雅に生チョコミルフィーユを味わいながら、☆500越えの超人気作を堪能するつもりだったというのに、グランブラー氏のせいで何もかも台無しではないか。今すぐ振り返って文句を言ってやりたい衝動に駆られるが、ぐっと飲みこむ。他の乗客にまで迷惑をかけるわけにはいかない。現実はスカッとジャ〇ンのようにはいかないのだ。いや、あの番組で扱った話はすべて実話らしいけれど。

 とにもかくにも、いい加減に限界である。振り返りたい衝動をぐっとこらえている間にも、グランブラー氏はなおもヒートアップしていく。というか同じ人の愚痴を30分間ずっと言っていて、飽きないのか甚だ疑問だ。言葉と言葉の間隔も徐々になくなってゆき、とめどない洪水のようである。というか周りの乗客たちがそれを気にしていないのも謎だ。隣の席をちらりと見ても、女性は素知らぬ顔でスマホをいじっている。

(……誰か乗務員さんに言えばいいのに)

 そんな考えが脳裏をかすめるけれど、それは悪手だ。グランブラー氏が乗務員さんに絡んで、余計に面倒なことになるのは明白である。ここは大人しくやり過ごした方がいいだろう。まずは無心になろう、と私は青い鳥のSNSを開いた。グランブラー氏のことは一旦気にせず、平和なツイログでも鑑賞しよう。



『間もなく、終点、終点でございます。どなた様もお忘れ物のないよう――』

 ふと耳を打った車内アナウンスが、天国から響くラッパのように思えた。あぁ、ようやくこの愚痴地獄から解放されるのか。そういえばSNSを見始めてから、心なしかグランブラー氏の愚痴が減ってきた気がする。それはそれで寂しくも感じるが、愚痴を聞き続けるのは精神衛生上よくないだろう。青鳥社とフォロワーさんには感謝せねばなるまい。しかし、まもなく着くのであれば、この平和なツイログともしばしの別れ。致し方ない、と私はアプリを終了させ、スマートフォンを鞄に丁寧に仕舞う。

 観光特急は徐々に減速し、やがて停車した。窓の外から零れる駅構内の光を浴びながら、私は鞄を掴み、立ち上がる。そして、何気なく後ろの席を振り返り――声が喉元で砕け散るような錯覚に、思わず息を呑んだ。


 ――そこにはグランブラー氏はおろか、人の姿などどこにもなくて。

 空調は完璧に調整されているはずなのに、私は北風に当てられたかのように全身を震わせるのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

グランブラー氏 東美桜 @Aspel-Girl

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説