アルマナイマ博物誌 逃げた刺青

東洋 夏

アルマナイマ博物誌 逃げた刺青

 翡翠色のラグーンを風が渡っていく。

 風は太陽の熱を孕み、乾季の気だるさを運んで、小さな島の上を通過した。

 海の星アルマナイマの海洋放浪民セムタムにとっては、成人式の季節である。


「ダッサい! おれ、絶っ対にそんな刺青オルフしたくないよ!」

 石の施術台の上に寝転んだ青年の言葉に、思わずアムは噴き出した。

「何だとお」

 ごわごわの髭を蓄えた強面の彫り師エージュは、今にも若造を張り倒しそうな剣幕。

「ほらね、ドクさんだって笑ってるじゃないか! ダサいんだって絶対」

 彫り師がぎょろ目で睨んだのでアムは慌てて首を横に振り、

「エージュさんの刺青にどうこうじゃなくって、エルグが凄いことを言ったからです」

 駄々をこねる子供よろしく手足をばたつかせた赤毛の青年は、

「ドクさん見てよ。こんなに線のふっといのいまどき流行んないでしょ?」

 と頬を膨らます。

 アムは許可をもらって四阿あずまやの中に踏み込んだ。

 施術台の前に砂が盛られ、エージュが木の棒で描いた図案が残っている。

 猛禽だ。翼を急角度に畳んで、伸ばした足で水面下の魚を掴もうとしているその一瞬。恐らくは足先にエルグが授かった成人姓を掴むことになるのだろう。

 セムタム族は成人になった証に背骨に沿って大きな刺青を彫る。これを<オルフ>という。

 刺青は天(先端)・セムタム文字ハウライによる「姓」・地(末端)に分けて彫り入れられ、天地は姓を補強するための役割を担う。

 すべてをひとりの彫り師が仕上げ、しかも彫られた本人は直に完成形を見ることができない。新成人と彫り師との間には強固な信頼関係が要求されるだろう。

「格好いいと思うけどな」

 アムが首を傾げるとエルグは口を尖らせる。

「線が太すぎるよ。おれはね、トゥトゥの兄貴みたいな最新の刺青オルフが欲しいんだから」

「ばかもん!」

 彫り師エージュは特大の拳骨を青二才の脳天に落とした。

 エルグの頭が勢いよく下がり、顎の骨か何かが施術台に当たってごりっと音を立てる。

 そのままくたりと伸びてしまった。

「あの……手加減を」

「この石頭は殴って柔らかくするくらいで丁度いいんだわい」

 エージュはごりごりと頭を掻く。この彫り師は髭も髪もたわしのように毛質が固そうである。

 あんまり殴らないであげてくださいね、と念押しして、アムは四阿を静かに退去した。


 惑星序列百五十、というのが汎銀河系政府がこの星につけたナンバーである。

 ナンバリングされるのは人類が居住可能であると認定された惑星で、現在その数は百五十個。つまり百五十番目のアルマナイマは最辺境ということだ。

 高台の四阿から坂を下っていくと美しい海と空が視界いっぱいに広がる。

 遥かな島の上に雲が湧いているのも見えた。

 文明に侵されていないこの星の光景にアムは恋をしている。

 海は珊瑚礁によって二色に区切られ、外海は深いラピスラズリの色をしていた。今日はやや波が高く、遠く沖の方では巨大な海龍ラコ・ファルが豪快にジャンピングを披露している。

 そこから手前に視線を移していくと、珊瑚礁に囲まれたラグーンが穏やかな緑色に輝き、やがて純白の珊瑚砂の浜に吸い込まれていく。

 アムの職業は言語学者で、アルマナイマ星で唯一の汎銀河系権民だ。

 この星には現住知性体として二種が確認されているが、その内の<セムタム>という人類とかなり近似したヒト型哺乳類の言語と文化との関係を専門に扱う。

 彼らの生活様式は特異で、人生のほとんどを星の地表面積の九割を覆うとも言われる海の上で過ごしていた。

 アムはセムタムの暮らしに溶け込んで調査するフィールドワーカーとして日々を重ね、ついでに日焼けも重ねている。

 今回はセムタム族の成人の儀式に、見届け役<成人親>として参加と取材を許可された。許されたのは、アムもまたその成人の儀式をクリアしただからである。観察する絶好の機会を逃さず、一から十まで新成人候補のエルグ青年にくっついて取材をする予定だった。

 もっともセムタムたちに仕事の意義が理解されているわけではない。

 何故ならばアムが蒐集する生活の知恵も、神話も、言語体系も何もかも、セムタム族にとっては普通のことだからである。

 ただ成人のセムタム族であるから、多少奇矯な行動をしても大目に見られている、というところだろう。

 なのにアムに対する「ドクター」ないし「ドク」と愛称という愛称だけはしっかり定着してしまった。


 浜の木陰では新成人が刺青を入れている間は仕事のない成人親役のセムタムたちが、ただぐだぐだしている。常夏の星らしいゆったりした空気だ。

 その中で飛びぬけて体格が良く、黒と赤の奇抜なグラデーションカラーの髪を長く伸ばした男のもとにアムは歩み寄っていく。

 名前はトゥトゥ。

 上半身には一糸も纏わず、その代わりに細密な刺青が筋肉の盛り上がった肌を染めていた。下はズミックという海藻繊維の七分丈ズボンをゆったりと履く。

 これは、セムタム族男女に共通のスタイルである。

 トゥトゥは生粋のセムタム族でありながら、アムの相棒のようになった稀有な青年である。彼と出会うことがなければアムはこの星に来てすぐに死んでいたはずだ。

 セムタム族の余所者に対する態度は極めて厳しい。

 それもこれも、汎銀河系の住民がたいてい彼らのことを野蛮で未開な知性体として低く見ているのが悪いのだけれども。

「どうだった」

 アムの姿を認めて、トゥトゥが手を上げた。

「どうだったもこうだったも、喧嘩してるから全然進まない」

「喧嘩ぁ?」

 トゥトゥの深海色の瞳が訝し気にすがめられる。

「時代遅れの恥ずかしい刺青オルフを入れられるか、ってエルグが彫り師さんに駄々こねてるの。あなたのみたいな線の細い緻密な図案が良いんだって」

「駄々じゃねえよ、そりゃ。だって死ぬまで背中に描いてあるんだからさ。自分で納得して、最高に格好いいの入れたいだろうよ」

「そうだけど」

 アムは巨躯の青年の横に腰を下ろして、彼の作業を手伝うことにした。

 団扇型の葉の上に蒸した芋の皮を剥いて並べている。

 芋は直径四センチほど、ころころと丸くて、茶色い皮を剥くと中身は黄みがかって粘り気があった。セムタム語ではカウリと言う。耐塩性が高く砂浜と木立の境目で群生しているのをアムもよく見かける。乾季の半ば、つまり今が旬である。同じく旬である成人式の祝いの食べ物としても定番だ。

 カウリは素揚げするとほくほくして美味しく、無限に食べてしまう。アムは昨年食べ過ぎて腹を壊したのでよく覚えている。

「ね、トゥトゥ。良かったわね。あなた若者の憧れらしいわよ」

「はん」

 馬鹿にして笑ったものの、その頬が緩んでいるのをアムは見逃さない。

 成人の儀に成人親として参加を許されることは、セムタム族にとっては名誉であった。

「どうやって食べる?」

「揚げるとドクは腹を壊すから違うやつな」

「今年は食べ過ぎないからいいのよ!」

 けけけっ、とトゥトゥが笑う。

 膝小僧を引っぱたいてやろうと手を振り上げたアムの耳に、風に乗ってエルグの苦悶が聞こえてきた。

「彫り始めたんだな。一刀目、すげえ痛いだろ」

「そうね。……納得できたならいいんだけど」


 刺青施術は静養を挟んで四日に渡り、五日目に浜に下りて来た時にはエルグは死にそうな顔をしていた。

 唇の色は悪かったし、体は一回り痩せて見えるほど。

 よろよろと歩きながら成人親たちに挨拶回りをし、最後にトゥトゥとアムのいる木陰に辿り着いた時にはいつ倒れるかと気をもんだ。

 まあ座れとトゥトゥに言われ、エルグは揚げたてのカウリをつまみながら、へろへろした顔で笑う。

「こんなに貰っていいんですか」

「ドクはな、昨日食い過ぎて腹あ壊したから食えねえのよ」

「言わなくていいでしょ!」

 アムが胡坐をかいたトゥトゥの膝を引っぱたくと、トゥトゥはげらげらと笑った。その大声で遠くの木陰のセムタムたちまでも振り返ったので、アムは顔から火が出るかと思う。

「学習しねえなあ」

「あなたに言われるとは思わなかった。一生の不覚」

「俺だって言うと思わなかったよ、ドク」

「そんなことは良いの。エルグ、沢山食べてね」

「ありがとう、ドクさん。でも食い過ぎると泳げないから……」

「今から泳ぐつもりなの? その体で?」

 えへへ、とエルグは笑う。

「早いほうがいいじゃないですか。早く終わらせて早く寝たいし、あんなに良いカヌーがおれを待ってるんだし。長老が来て下さったらすぐにでも泳ぎますよ」

 セムタム族の成人の儀は試験と儀式に分かれる。

 試験パートではカヌー航海術の実技や座学的な知識が試される。

 晴れて合格すれば、続いて夢見の儀式。

 夢見師――平たく言えばセムタム族の呪術師が、新成人と共に夢の世界に入っていって龍神から「姓」を授かる儀式だ。これを、背中に彫りつけるのである。

 すべて完了するのに約二週間から三週間。

 最後のステップはラグーンに係留された成人祝いの龍骨カヌーまで泳ぎ渡り、その上に立って貝笛を吹き鳴らすこと。新成人が漕ぎ戻って浜に降り立ったら晴れてそのセムタムは完全に成人として認められる。成人になるまでは本物のセムタム族として認知されないので、成人の儀式に合格できるかは彼ら彼女らの人生を左右する重大な山場なのだ。

 浜の遠くの方で貝笛が鳴った。

「ん、お出ましか」

 トゥトゥが立ち上がる。

 連れて立ち上がったエルグがよろめいたので、アムは心配でたまらなかった。

 自分の時はここまできつい思いをしなかったので、まず間違いなく手加減されていたのだろうと思う。

 木陰にいたセムタムたちも順次立ち上がった。みな、遠くに見える長老に向かって頭を下げている。

 儀式の最高責任者である長老は腰が悪く、世話役の男に担がれて登場した。

 長老は肩から降ろされると杖をついてエルグのところまでやってくる。

 エルグは感極まった様子で砂浜に膝をつき、長老の爪先に頭を付けた。

 長老は青年の赤毛をそっと撫でる。くすぐったそうな顔をしたエルグの横顔が眩しい。

「泳いできます」

 立ち上がったエルグの背中の成人姓<鳥を追うものパパヴェナト>と、それを飾る鳥の装飾が陽光に煌めくのが良く見えた。

 猛禽の脚が成人姓の文字を掴み、尾羽で包んでいる。

 先日アムが四阿で見た図案が美しくブラッシュアップされて、砂に描いた絵よりもうんと細密に描かれていた。ふたりでしっかり話し合って図案を煮詰めたのだろう。

 線が多くなれば皮膚に付ける傷も多くなる。出血も激しいし、だからエルグはあんなにふらふらになってしまったのだ。

 それでもエルグが納得した刺青になったのなら良かった、とアムは安堵する。

「格好いいじゃない。どう、トゥトゥの目から見て」

「うん。よく出来てると思う。流行りだかどうだかは分かんねえが」

 浅瀬に踏み込んだエルグは、やがて溶けるように――アムの目から見て、セムタム族の泳ぎには一切の無駄がないから海に溶けてしまうように感じられるのだ――泳ぎ出し、やがてカヌーの横に顔を出した。舷側をしなやかな手が掴み、体を勢いよく持ち上げて船体に転がり込む。立ち上がったエルグは浜からの声援に応えおどけて踊って見せ、そして一転、歓声は戸惑いに変わった。

「ねえ、私の目が悪くなったのかな」

「……悪くなってねえよ。安心しろ」

 トゥトゥは苦虫を十匹ほどまとめて噛み潰した顔をしている。

「なんで?」


 大混乱が起きた。

 成人から成人姓が消えるなど前代未聞。

 刺青だから、もちろん体に傷をつけて刻みつけるのである。染料だけが落ちたならまあ分からなくも無いが、エルグの背中からは彫り痕そのものが綺麗さっぱりと抜け落ちていたのだった。

 エルグは卒倒して木陰で寝込んでいる。

 輪をかけてショックを受けたのが彫り師のエージュだ。死ぬとか指を落とすとか喚いた挙句にトゥトゥに取り押さえられ、手首を縛られて長老の監視下にいる。

 長老は流石の年の功ということか、この珍事にも泰然自若としているように見えた。

 やがて、右往左往するセムタム族諸氏がやっとまともに機能して、こういう場合に唯一頼りになる夢見師を呼んでくることで意思の統一をみる。

 それで、さあみんなで探しに行こうと誰かが号令をかけたとき、すべてのタイミングを見越していたかのように、探し人は自ら姿を現した。

 夢見師は半ば目を瞑ったまま、千鳥足で、時折肩に下げた太鼓を手でポンと叩きながら、刺青施術をする四阿に続く坂から下りてくる。

「ホホラウエナさんにはお見通しなのねえ」

 アムが感心して言うと、トゥトゥは珍しく憎まれ口も叩かず頷く。

 骨と皮ばかりに痩せこけた夢見師は覚束ない足取りで砂浜に足を踏み入れると、そこで急に我に返った。

「おや」

 ポン、と太鼓の音が響く。

「おやおや、鳥を追ってきたら、何だい雁首揃えて」

 そうやって小首をかしげて微笑むと、この縮れ髪の夢見師は中々の色男なのである。

 セムタム諸氏が痩せぎすの夢見師の周りにわっと集まって、エルグがラグーンを泳ぎ渡るうちに背中の刺青が無くなってしまったのだと口々に言い立てた。やがて人々が「この成人の儀は呪われてるんじゃないかね、なんてったって鬼っトゥトゥがいるんだから」と声を潜めるでもなく言い立て始め、アムとトゥトゥが言った口をぶん殴ってやろうと拳を構えたところで、ポンと夢見師ホホラウエナが穏やかに太鼓を一打ちすると、熱がすっと醒めたように、人々のお喋りが止む。

 それだけでアムも含めて浜にいる人々は、夢見師の術にかけられたような気になったのだった。

「ああ、今にも切れそうだ。弱い弱いつながり」

 人垣が割れ、ホホラウエナがふわふわした足取りでこちらに向かってくる。

 夢見師はアムとトゥトゥの前を素通りして、木陰に寝かされているエルグのところに迷わず向かった。

 後から考えれば、これも不思議なことだった。坂の上からも浜からも、つまりホホラウエナからは常に木陰のエルグの姿は死角になっていたはずなのである。

 卒倒したまま寝付いた青年の赤い髪をホホラウエナがそっと引っ張って、ぷつりと一本抜くと、

「うわあ!」

 叫びながらエルグが飛び起きた。

「鳥を逃がしたね、きみ」

「ホホラウエナさんどうしよう。おれ、おれ、成人になれないよ」

 そして、わっと泣き崩れる。


 波打ち際に、エルグとホホラウエナが向かい合って座った。

 アム、トゥトゥ、見届け人となる他のセムタムたちは彼らを囲む半円になって座る。円の頂点にはクッションが敷き詰められ、長老が鎮座していた。

「さてエルグ。きみの鳥はここにいる」

 ホホラウエナはラグーンを手で示す。アムはその動きを目で追ったが、ラグーンの中に異物は見当たらなかった。

「取り戻したいかい」

「もちろんです」

「それが嫌いでもかい」

「だって、おれ、成人になれなかったら困るよ。一生名無しなんてさ……。あっ、それにエージュさんが言ったんだ! 嫌いだったらあとで筆を入れてもらえばいいじゃないかって。おれはそれで納得したから」

「していないんだろ」

 ぴしゃりとホホラウエナが言う。

 顔は笑っているが、目は笑っていない。視線はエルグの皮膚を突き破って虚空の彼方を見ているかのようだった。

「だって……」

「エージュ」

 後ろ手に縛られた彫り師は半円の端に座っていて、ホホラウエナに呼ばれて膝で輪の中ににじり出る。

「エージュ。優れた彫り手であるきみはどうして彼の気に食わない鳥を彫ったのかね」

 エージュが地球産の雄牛の唸り声によく似た重低音で言った。

「この若造が、刺青のことをあんまり軽く考えてたからでさあ。おらあ腹が立ったね。流行りすたりが何だってんだ」

「大事だよ! おれは一生、あんたの刺青で評価されるんだぞ。じじくさいやつだって思われたら、みんなに笑われちゃうよ!」

 エルグが拳を振りながら叫んだ。

 赤毛はオーバーリアクションになるというのがセムタム族の通説だが、当たっているかもしれないとアムは思う。

「そこまで」

 ポン、と太鼓が鳴る。

 互いに詰め寄ろうとしていたエルグとエージュは、憑き物が落ちたように、すとんと座った。

「それでエージュ。きみはどうして嘘を吐いたのかね」

 え、とアムは思わず声に出してしまって慌てて頭を下げる。

 苦笑いしたホホラウエナの視線が、つむじのあたりをさっと撫でたように感じた。

「すりゃあ、その、驚かせたかったわけで。小僧っ子に舐められたままじゃあ名折れだあね。んで、ちょっとした悪戯をだな」

「どういうこと」

 エルグのきょとんとした声が浜に響く。

「嘘ってなに」

 ホホラウエナの太鼓の音がトコトコトコトコと流れた。まるでクイズ番組で解答者を焦らせるBGMみたいに。

 思わずアムも他のセムタムたちも身を乗り出して、エルグとエージュの次の発言を固唾を飲んで見守っていた。夢見師は、こうやって人の心を惹きつける能力に長けている。

 トコトコトコトコ、トトン!

「エージュ?」

 ホホラウエナが首を傾げて促すと、彫り師エージュは気まずそうな顔でぼりぼりと頭を掻いた。

「小僧っ子に見せた図案とな、背中に彫ったほんとうの図案は違うのよ。もっと格好良く彫れとったわい。翼の羽の数も増やして、細かく尾羽にも模様を入れてよう。お前好みに合わせてやったわさ」

「な、ななな、ななななな」

「お前が泳ぎ終わってな、背中の拓を取るだろう。そん時にゃあ、うんと驚かせられるだろうと思ったんだが」

「ドッ、ドクさん、それ本当?」

 エルグのドングリまなこに気おされつつ、

「本当よ。私が四阿で見せてもらったのとは別物。てっきりエージュさんと話し合って図案を変えたんだな、って思ってたんだけど」

 とアムは言った。

 赤毛の青年はがっくりと肩を落とす。

「おれ……おれが悪かったのかな。分かんない……どうして」

 そしてエルグは拳で目頭をぎゅっと擦った。

 気まずい沈黙が垂れこめ、こんな時に限ってホホラウエナは何も言わない。

 アムは自分の立場が恨めしくなった。生粋のセムタム族の一員であれば、この風変わりな出来事に当たってしまったエルグ青年に何かしらの慰めの言葉も掛けられるだろう。

 しかしアムはあくまで汎銀河系から派遣された言語学者なのである。セムタム族の思考回路を観察することは仕事だが、そこに一石を投じることはむしろ業務規程違反だ。

 じりじりと陽光が脳天を焼いていく。

 沈黙を破る声はアムの右隣から上がった。

「ホホラウエナ、いいか」

 トゥトゥである。

「何かな?」

「そこに、海に鳥がいるって言わなかったか」

「言ったよ」

「捕まえられるのか?」

 ホホラウエナの太鼓が、回答の代わりにトーントーンと高く鳴った。

 そして柔らかい声で言う。

「エルグ。今のは君が尋ねなきゃいけなかったことだよ。分かるね」

「えっうえっ、そうですか」

「そうだとも。だってきみはこれからひとりで生きていくんだぞ。偉大な海の上で」

 と、ホホラウエナは海を両の腕を広げ、海を掻き抱いた。

「誰が行き先を決めるんだい。誰がきみの望みを知っているんだい。そこには、きみしかいないだろう? 今も同じだよ。きみは成人したい。成人したいならどうするのか。それはきみの問題で、きみにしか答えを出せないことだ」

 エルグは真っ赤に充血した目を見開き、背筋をしゃんと伸ばしてホホラウエナの言葉に聞き入っている。

「ホホラウエナさん、おれは成人したいです」

「そうだね」

「長老、おれは成人として未熟ですが、姓を賜れないほどに未熟でしょうか!」

 長老は杖を横に一振りした。

 セムタム族における「いいえ」のジェスチャーである。

「どうしたらいいですか、ホホラウエナさん。おれは刺青を取り戻さなきゃ」

 ホホラウエナは指先に何かを掴んで見せた。

 あまりにも細かったので、半円の全員が身を乗り出す。

「さっき抜いたきみの髪。これに刺青との繋がりがあるから、釣ろう。そして自分の目で見て謝りなさい」


 磨き上げられたサメ歯の釣り針の糸穴に、エルグの髪を縛った。その上からさらに釣り糸を重ねて餌は付けずに海に投げる。

 エルグという名前は、そも<小さいサメ>という意味。そしてサメは鳥の天敵だから、釣るのにはよろしかろうとホホラウエナは言うのだった。

「あっ、かかった!」

 糸の先で透明なラグーンの海水が激しく震えている。

 エルグは竿をぐんと持ち上げた。

「頑張れエルグ」

 ホホラウエナの励ましに、エルグはにっかり白い歯を見せて竿を引く。

 すると、エルグの足が急にずるずると前へ滑り始めた。

「凄く重いよ! ホホラウエナさんどうしたら!」

「頑張りなさい」

「そんな!」

 珊瑚砂の上で踏ん張ることにセムタム族は慣れているはずだし、地球産マグロサイズの大物を一本釣りすることもある。

 しかし相手は刺青だという。それが本当なら常識の通用する相手ではないのだろう。それとも常識外れの大物がかかることで刺青を釣ったということにするのだろうか?

 アムが首を傾げているそばで、ぱっとエージュが立ち上がってエルグの手を上から握りしめた。

「踏ん張れよ、小僧っ子」

「ありがとう」

「この刺青はおらあが生涯でいっちばん気に入った刺青なんだからよう、逃がしてくれるなあ!」

 成人ふたりの力をかけてもなお、針先の獲物は激しく抵抗する。

 ずず、ずずず、とふたりの足が滑っていく。

「えい、くそ」

 横でうずうずと身構えていたトゥトゥが飛び出して行って加勢する。

「お前ら見てるだけかくそったれども、早く手え貸してやれよ!」

 トゥトゥが怒鳴り散らしたので、半円を組んで座っていた他のセムタムたちが慌てて寄ってきて手を貸した。

 形勢が逆転する。

 よいしょヤーよいしょヤーと掛け声をかけて綱引きのように後ろへ下がっていき、そしてついに針先が海面からすっぽ抜けた。

 将棋倒しに後ろに倒れたセムタム山の頂上でエルグがひっくり返って空を見上げる。

 そこでは真っ赤な猛禽が、星座の描かれた不思議な翼で羽ばたきながら、燃える瞳でエルグを睨んでいた。

 アムは開いた口が塞がらない。

 この星ではまだ神話が生きていて、信じられないようなことが沢山起こる。今回のはそれでもレアケースだ。平面が立体になるだなんて。

「すげえ、格好いい! エージュさん!」

その言葉を嘲りと受け取ったものか、猛禽は猛然とエルグを襲撃した。弾丸のように滑空し、突き出された脚の爪がエルグの肩に鋭く赤い筋を付ける。

「ごめんよ。本当の姿を見もせずに決めつけたんだもん、そりゃあ怒っちゃうよな」

 猛禽はエルグの前に着地すると、ハーッとすごんで羽毛を逆立てた。

「なあ。本当はどうしたら良かったのかなんて、今のおれには分からないよ。だってお前だってダサい姿は嫌だろ? でもさ本当の成人だったら、おれの振る舞いが子供っぽくなかったら、最初からエージュさんだってお前をダサくしようなんて思わなかったのかも」

 エルグは拳をそっと猛禽の前に差し出す。

 猛禽はエルグと拳とを怪訝な顔で見比べた。

「おれ、一人前にはまだ足らない。足りないけど一緒に来てくれないかな。あのさ、楽しいことを沢山やるっていうのだけは保証できるよ」

 太鼓がポンと鳴る。

「生ける刺青、精霊の鳥。夢見師ホホラウエナが問う。それは主人か?」

 怒りに満ちた猛禽の目が不意に静まった。

 嬉しそうに一声鳴き、刺青の猛禽はエルグの手に飛び乗る――と見せて消え失せる。はっとしてエルグが背中を撫でると、そこには美しい刺青が刻まれていたのだった。

「おめでとう、エルグ」

 ホホラウエナがその背中を叩く。

「すまんかったなあ」

 エージュがぼりぼりと頭を掻きながら言った。

「今後はこういう驚かしはやめた方が良いね。あなたの腕前だと危険だから」

「あい、先生。おらあこれで引退だから、龍神様からの最後の贈り物だったのかもしれねえや。小僧っ子、いやエルグ・パパヴェナト、本当にすまんかった」

「いえ! おれこそすいませんでした。エージュさんにひどいこと言って。そんで、あの……彫ってくださってありがとうございます。へへへ」

 アムは目頭が熱くなる。

 引退する彫り師の渾身の作が、最後に命を宿すほどに昇華されたのだ。

 この星は本当に不思議に満ちていて――と、感極まっている足の親指を誰かの指が突く。

「きゃっ」

「おいドク。終わったか」

「終わったわよ。エルグの背中に刺青が戻って……あっ」

 将棋倒しの基礎部分で下敷きにされているトゥトゥのこめかみに青筋が立っている。大嵐の予兆。

「あの皆様、早くどいてあげてもらえませんか?」

 気を利かせたつもりの声掛けは、結果として大いなる失敗の始まりだった。

「え、何だいドクさん」

「ドクター、何だって、聞こえなかった」

 アムに足の方を向けているセムタムたちがわざわざ振り返って尋ねる。

 何なら人の好いセムタムたちは全員が全員振り返ろうとする。

 その最下層にいるトゥトゥは肘でつつかれ皮膚を引っ張られ、アムの努力空しくついに爆発した。

「どけっつってんだよオラ!」

 背中側に乗っていた十人ほどを、トゥトゥは腕立て伏せの姿勢から背筋で吹っ飛ばす。地面に投げ出されたセムタムたちから悲鳴と罵声が上がり、その後トゥトゥは売られた喧嘩を片端から買って、成人らしからぬ成人ぶりをエルグに見せつけることになったのである。

「あーあーあー」

 アムは乱闘を見ながら眉間を揉んだ。

「あのう、ごめんねエルグ。幻滅しないでね」

「え、どこがです? すげえな兄貴ああやって投げるんだ。ほー」

「お願いだから真似しちゃだめよ」

「しようと思っても出来ないですあれは。おっ!」

 トゥトゥの回し蹴りが綺麗に入って、セムタム男性がボウリング(※古代地球から続くスポーツ)のピンのように倒れた。

「私から言えるのは、無理をしないこと。それから揚げカウリは一日十個未満にすること」

「そんなに食ったんです?」

「う、うん」

 青年がまじまじとアムの顔を覗き込む。

 曇りの朝のラグーンの色をした瞳に強い光が宿っていた。その目の力を見るに、将来的には女性を惑わす男に(気性が落ち着けば)なるかもしれないと思う。

 そして今、その片鱗は何故かアムに向けられていた。

「ええ、何で私の手を握ってるのかなエルグくん?」

「最初にお会いしたときから惹き付けられてたんです。ずっとおれの側にいてくださったじゃないですか」

「取材だからね?」

「沢山食う人好きですし。それでおれ成人なんで、そろそろ男と女としてのお付き合いを経験した――ヒッ!」

 どぐしゃ、という鈍い音と共に、頬に拳をめり込ませたエルグが砂浜をばたばた転がっていく。

「調子に乗ってんじゃねえぞ鹿! ドクに手え出したらぶん殴ったらあ」

「もう殴ってるじゃない」

「ああ?」

「で、海龍のフンコロガシってどういう謂れがあるの」

 ホホラウエナがこの世の終わりを予知したような顔でふたりの横を歩いて行く。

「ひたい……はがぐらぐらすう……」

「エルグ・パパヴェナト。きみはどうしてそんなに迂闊なのかね?」

「わかりまふぇん」

 トゥトゥがエルグを指さして言った。

「ドクの好きな“率直な感想”ってやつだ。にはちょうどいい」

「クラゲのビラビラ」

 言語学者的な琴線がロックミュージックのように震え、アムが思わずその独創的な罵倒語をメモに書き留めていると、地面から鳥の鳴き声がした。

 はっと顔を上げる。

 大の字に倒れたエルグの背中で刺青の鳥が羽ばたきまわり、きょうきょうと笑ってアムにウィンクしていた。


(了)

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