夜中の1時半に、佐倉が髪の毛をフィッシュボーンに編んでいく。

 隣のベッドの身動きする気配で、気づいて目が覚めたのは偶然だった。


 明日もいつも通り仕事のある水曜日、李経理から佐倉の脱走容疑の話を聞かされてからは2週間が経っていた。

 本当にただの偶然、今夜は寝る前に胸が悪くて、お酒の量が少なかった。


 プルメリアの花が散った模様の高そうな白い下着姿で、タブレットのライトで顔を照らして、佐倉は煙草を吸いながら念入りに化粧をする。ポーチからCHANELの臭い香水を取り出して、首筋と胸元と、股の間に直接ワンプッシュずつ振りかけた。


 うとうとしていた中、きつい香水の匂いが冷水のように掛かって目が覚める。

 こんな時間に身支度を整える、佐倉には迷っている様子がなかった。自分の枕に頭を沈めながら、何故か李経理の二の腕の毛を思い出して吐きそうになる。頭の後ろの遠くの方で、サイレンが鳴っている。


 佐倉はいつでも、のらりくらりと躱すような話し方をした。今引き留めても「証拠がないから」で逃げられると思った。

 薄目を開けて、寝ている風を装って息を殺す。


 佐倉は黒い薄い生地の胸の開いたロングワンピースに、同じ生地の衿が大きいジャケットを羽織った。首元と左足首に金色のジャラリとしたチェーンを二重に巻く。揺れるほど大きな赤い石のついたピアスを左右につけて、枕の下から手の平サイズの四角い箱を取り出した。


 黒の安っぽいビロードの張られた小箱からは、透明な石の付いた太い金色の指輪が出てきた。

 佐倉はそれを丁寧な手つきで取り出して、ぞっとするくらい甘い、濃い酒に酔ったような表情を作った。

 心臓が、痛いくらい跳ねた。息が詰まる。

 落ち着け、と呼吸を意識していると、佐倉はそれを左手の薬指にはめて、そのまま迷いなく部屋から出て行った。




 しばらく動けなかった。意識して呼吸を整えて、でも佐倉を捕まえないといけない。

 彼女を捕まえて、一発でも殴って、外に出ようとしたこと、出たことが一度でもあることを、絶対誰にも言わないと誓わせないといけなかった。

 感染症の疑いは、ルームメイトの自分の身が危ない。

 一回首を大きく振る。自分はまだ、比喩ではなくこんな所で死にたくない。



 遠くでまた救急車のサイレンが聞こえた、もう一回深呼吸をする。近くにあったトイレ用のビーチサンダルを履いて、吊ってあった厚手のカーディガンを慌ててはおる。

 廊下に飛び出そうとしてドアに飛びついて、ガタリと揺らして大きな音を立てた。


 廊下の向かいの部屋から、くぐもった中国語の会話が聞こえる。

「―――――、―――!」

「―――、――――。――――!」


 もう一回、意識して呼吸を整える。足音を立てないように気を付けて、既に消灯された廊下をゆっくり進んだ。人はいなかった、この階の住人は基本的にみんな昼勤だ。細長い廊下で、埃の溜まった非常灯だけが、ジジ……と音を立てて明滅している。

 エレベーターのドアが閉まるガコンという大きな音がして、驚いて転びそうになった。



 エレベーターの階数表示のライトが一つ分、どんどん階下へ向かって動く。

 慌てて私も下に行くボタンを押して、スマホを握りしめて到着を待った。


 ガタガタする作動音に神経を削りながら地下1階にまで下ると、やはり箱がもう一つ同じ階に止まって、ドアを閉じている。



 地下一階も明かりは消えていた。弱く光る非常灯は、寮になっている他の階よりも少ない。

 スマホのライトを足元にかざしていると、シャワールームのある方角からカコ、という金属質な音がした。



 シャワールームに人影はなかった。ライトも消えているし、新しく水に濡れた跡もない。吐き気がこみあげて、何度も咳が出た。

 一番奥の個室で、シャワーのノズルに足をかけて登る。天井の換気用の穴の格子を外す、右手が一瞬で真っ黒になってぬるついた。

 サンダルが片方脱げそうになりながら、体を持ち上げて滑り込む。

 上半身や膝に黒カビのようなものが付いた。冷たい感触がして、充満する匂いに一瞬息をつめる。


 意外にも、上がった先は広かった。

 排水が管の中を流れていく音がする。

 指先の汚れを服で拭って、スマホのライトをつけた。ロック解除の指紋認証に何度も失敗をして結局パスワード番号を手打ちした。


 剥きだしの鉄骨の柱が並んで錆びている。湿った埃があらゆる場所に積もって、所々どろりと溶けていた。足元に何かを引き擦ったような跡、何度も繰り返し行き来した男女の靴の跡がある。


 靴跡の向かう先を目で追っていく、縦に細長く弱い明かりの漏れる場所があった。

 また咳が出てくる、明かりにまで進んで手をかけた。呆気なく、何の抵抗もなくそれは右にスライドして開いた。




 ぬる湯のような、湿気のこもった風が全身を包んだ。

 月が大きく明るい、雲がほとんど無かった。大気汚染のせいか、星は一つも見えない。


 汗が噴き出る。そういえば、今は真夏だった。



 目の前の通りに、人の影も車もなかった。

 マニラ中心の大都市からやや外れた立地で、街灯の明かりは夜に殆どが消える。信号も、一つも残さず消えていた。

 ザ、と風が鳴って、道端の背の高いサトウヤシの木の葉が揺れた。背の低い電線も、所々ぐるぐると縺れながら揺れている。


 道に沿って真っ暗な巨大ビルがいくつか固まって、合間にボロボロの錆びた屋根の、小さな飲食店や何かを売る店がある。舗装されていない地面には、雨が降った後のぬかるみがあった。

 道の真ん中に三輪のバイクが放置されて、倒れて土がついて固まっている。その影で、ガリガリの三毛猫が一匹、丸くなって顔を持ち上げこちらを見ていた。黄緑の目が、月明かりで鈍く光る。


 意識して呼吸をして、音を立てないようにして近づいた。猫がこちらを見ている。触れたいと手を伸ばして、模様に見えたものが毛の抜けた跡であることに気がついた。まだらに柄を作って、皮膚病のように毛が抜けている。猫は半分体を持ち上げて、走る準備をしながらまだこちらを見ている。


 突然うしろから肩を掴まれた。

「ヒッ……!え、あ」

「ちょっと、大声出さないで」

 佐倉が耳元で囁いて、同時に後ろから強く口をふさがれた。そのまま道の反対側の飲食店のビニールのひさしの下まで引きずり込まれる。



「…………」

「…………」

 しばらく、腰が抜けて肩で息をする私を、佐倉は見下ろしたまま待った。こちらに向かうサイレンの音がして、音は途中で右折をしてまた遠ざかっていく。



「…………」

「……ユキノさん顔色やば、タバコ吸う?泰山だけど」

「……い、らないです」

 ふはっと佐倉が吹き出した。

「声震えてるじゃん、うける」


 しばらく肩を震わせて小声で笑い続けて、その後いやに優しい声になって「そこ水たまり気を付けてね」と言った。溶けるような、小さい囁く声だ。


「はい……ありがとうございます」

「うん、じゃあせっかくだし。一緒に行こっか?」


 佐倉の顔は逆光で見えない。

「佐倉さん」

「ん?」

「早く戻りますよ、何言ってんですか」

「はぁあ?お前こそ何言ってんだよ」


 佐倉は急に早口になって叫んだ。

「え、だって」

「今から戻んの?誰に見られるかわかんないのに?戻りたきゃ一人で戻れやさっさとよ、それでリンチでもされりゃいいじゃん、何しに来たん最悪やし」

「え、佐倉、」

「人のこと巻き込んでんじゃねぇ、行けよ一人でさっさと、ほら」

「人のこと巻き込んでるのは佐倉でしょう!!夜中に抜け出し……」


 サイレンの音が聞こえて、二人一緒に肩がはねた。

 ガッと音がしそうな勢いで肩を抱きこまれて、飲食店の脇を通って、小さい平屋が密集する裏まで強く引き込まれる。救急車のサイレンの音がすぐ前を通って、音を変えて遠ざかっていった。しばらくすると締めついていた細い腕がぱっと離れて、宙を彷徨ったあと私の左手首を強く掴みなおした。


 佐倉の手の平は汗をかいていた。そのまま黙って速足で、複雑な路地を迷いなく歩いていく。私は引きずられるままになった。

 たくさんある白い壁や木造の平屋は、ほとんどが人の気配がなかった。こんな夜中に洗濯物が干されたまま黒っぽくなっている家がある。


 二人とも無言だった、月だけの明かりがあって、風が強くたまに雲が流れてきて辺りが一面真っ暗になる。

 近く、佐倉の呼吸の音が聞こえた。



 何度か水たまりに足を突っ込んだ、佐倉は振り返らない。サンダルで来たことを後悔した、財布一つ持っていない。冬物の厚いカーディガンは、背中だけ汗でびっしょりと冷たい。

「あの……佐倉、さん」

「んん~?」

 今度の返事は、間延びしてやる気がなさそうなそれだった、いつも通りの。


「部屋、鍵かけてくるの忘れたかも……」

「はぁ?!え、ちょ、まじで言ってるそれ?!」


「も、もう戻りませんか……」

 意味も分からず涙が出てきた。

「李経理が、佐倉が夜中抜け出してるんじゃないかって言って、私ずっと言えなくて、止めなきゃと、おも、思って……」

 一回泣いたら止まらなくなった、半年以上は泣いていなかったと不意に思った。

 佐倉は、ここで迷子になった子供みたいな顔をした。かなり遠くでサイレンの音がして、佐倉の肩だけが大きく跳ねる。そして目を見開いて閉じて、一回深く呼吸をした。


「……悪かったよ」

「はい?」

「悪かった、ごめんって言ってんの」

 拗ねたような声色だ。


「佐倉って人に謝れたんですね、本当にそれ悪いって思ってます?」

「はぁ!?お前そんなこと言うキャラだった!?」

「キャラって何ですか、何なんですか本当に、いつもいつもいつも」

「えぇ~……何この子急に、ヒステリー怖っ……よちよち、タバコ吸う?」

「殺すぞ」

「急な真顔やめて」


 はぁ~……、佐倉が心底困った感じの顔になって、私の背中を無遠慮にぽんぽん叩いた。

 月がまた一気に明るさを増す。


「……朝の5時前くらいが一番人いないんだよ、シャワー室」

「……」

「うまいこと隠れて朝一緒に戻ろ。今一人で会社のビルまで戻っても危ないし」

「人いないって、経理にばれてるじゃないですか」

「…………だから悪かったって、」

「一人で会社戻るのが危ないなら何でこんなとこまで引っ張ってきたんですか」

「あーーもう面倒くせぇ女だなお前、じゃ好きにしいや、どこでも勝手に行きゃいいだろうが」


「待って!!」


 歩き出した佐倉の手首を掴む。佐倉は迷いなく進んだ。




 またお互いに無言になった。そのまま進んでいくと、人の生活の気配が増えてくる。

 人の集まりが禁止なはずの時間に、がやがやと賑やかな声のする家があった。路上にプラスチックの椅子が不定期的に並んでだんだん増えていく。


 トタン板やビニールシートで作った屋根の、小屋のような家が並ぶ一角があった。肉の入ったスープの匂いがした。いろんな場所に乱雑に自転車や、竹で編んだ大きなカゴが立ててある。大きなネズミが一匹、目の前を走って横切った。


 一度コンクリートで舗装された道になって、それが途切れてまた舗装がなくなった。シャッターの閉じたお店のような建物がしばらく続く。シャッターは全て落書きだらけだ。タガログ語の長文と、電話番号が書かれたチラシが地面に落ちてボロボロになっている。


 更に進むと、足元で白い何かが動いた。シャッターの前のコンクリートの段差に布を敷いて、太った上裸の初老の男が転がっていびきをかいている。



「あの……佐倉、さん。あれ……あの人……」

「ああ。大丈夫、よくあるよくある」


 佐倉はどんどん進んでいった。ブロック塀で作られた民家と民家の間の細い路地を迷いなく抜ける。掴まれている手をまったく気にしない様子で、振り返りもしない。



「あの、佐倉……」

 弱々しい小さな声が出た、不安になった。まだ肺炎の広まる前も、こんな場所には一度も来たことが無かった。


「…………」

 はぁ、と佐倉が急にため息をついて、言った。

「お前もよ、こんなところに出稼ぎに来るくらいなんだから」

「は、」


「何でも経験してみたいって、思って来たタイプじゃないの?普段は大人しそうにしてたけど」

「……」

「いづらかったんでしょ、故郷。いろいろ嫌なんでしょうどうせ。でも、ワクワクすることも好きなんでしょ、じゃあもういいやんか」


「……え」


「悪かったよ、巻き込んで」

 ぽつり、と佐倉はもう一度、聞き取りにくい位の音量で謝った。瞬間、民家で男の人が複数爆発するように笑い声を立てた。


 佐倉はやや振り返ってこちらを見ていて、その笑い声の勢いで吹きだして笑った。



 さらに進むと、ジュースの瓶がケースに入って山積みになっていた。その周辺のゴミでできた段差に、たくさんの色黒の子供が座っている。全員10歳に満たないくらいで、男の子は上裸が多い。黙ったまま、独特の濡れた大きな目でこちらを見つめた。一番小さい子は3歳くらいの女の子で、じっと目を開いて、黒く汚れたクマのぬいぐるみを齧っている。


 佐倉はわたしの掴む手を一度払って解いて、今度は手を繋ぐように握りなおした。

 溜め池の脇を通り過ぎる、池はゴミや空き缶が隙間なく浮いていた。



 板張りでできた民家と民家の間の狭い路地を進んで、抜けた曲がり角には歯のない老女が座り込んでいた。老女は痩せた両手を持ち上げて、不明瞭な発音で「マネー、マニー」と繰り返す、佐倉は視線をやりもしないで通り過ぎた。


 小枝が積み上げてある空き地があって、たくさんの若い男が溜まって話していた。至近距離で、誰もマスクをしていない。彼らがこちらを見る前に、佐倉はまた細い路地へ進路を変えて、大回りをしてまた進んだ。細い路地は、動物か人の排泄物がぷんと臭った。



 月明かりのほかに、ぽつりぽつりと民家から漏れる明かりがあった。こんな深夜に雄鶏が叫ぶ声がする。

 またコンクリート舗装のされた道を進むと、後ろから金属が何かを擦るような音がした。


 佐倉は気にせずに進む。金属の何か、例えば野球用の金属バットのようなものを引き摺る音が、ガラ、ガラ、と後ろから付いてくる。


 強い風が吹く、気温が高い。自分の厚着を思い出して、歩きながら片手でモゾモゾと上着を脱いだ。一度、コンクリートの割れ目で転びかける、佐倉は振り返らない。


 ぼろぼろのバスケットゴールの前を通り過ぎる。

 金属バットのようなものを引き摺る音がついてくる。

 前方から、派手な巻き髪の女が歩いてきた。


 金髪に染めた長い髪をぐるぐると派手に巻いて、露出の多い真っ黒い服、佐倉も似合いそうな丈の短いワンピースを着ている。気の強そうな顔立ちで唇が真っ赤で、遠目に見てもかなり美人で背が高かった、なかなか見かけないような細く長い綺麗な足と高いピンヒール。


 佐倉はペースを変えず進みながら、不自然なまでにその女をまっすぐ見た。向かってくる女をただじっと視線で追って、すれ違う時には顔まで動かしてその女を見た。

 女は一切、佐倉と私なんか見えない様子で前だけを向いて、目線一つ佐倉に返さなかった。ただ、すれちがう少し前に変わらず前だけを見ながら、乱れてもいない自分の巻き髪に片手で触れて、位置を胸の前に正しく添えなおした。



 直後、後方から若い女の「ぎゃっ」という短い悲鳴が聞こえた。

 思わず佐倉の手を強く握る。走り去り遠ざかるピンヒールの足音。


 金属バットのようなものを引き摺る音がついてくる。


 崩れかけた木造の小屋の前で佐倉が急にしゃがんで、落ちていた長さ一メートルほどの角材を拾った。繋いでいた私の手が勢いで抜ける。

 とっさに抜けた手を手で追うと、佐倉がハハッと奇妙に大きな声を立てて、角材を思いっきりフルスイングした。

 私の耳のすぐ横で、ぶおんと大きく風が打たれて音が鳴る。佐倉はそのまま大きく踏み込んで、心底楽しそうな笑顔になって角材を振りかぶって、そのまま後方に向かって駆けた。


 ヒイッギャ、のような不明瞭な声を上げて、老婆がひしゃげた金属パイプを放り投げて駆け足で逃げて行った。腰が曲がっていて足取りがおぼつかない。逃げながら何度も転んでその度にこもるように呻いて、また立ち上がって逃げる。

 どこかの曲がり角で「マネー」と声をかけてきた痩せた老婆だった。



 ガラン、と音がして、佐倉が角材を投げ捨てていた。

 目が開ききっていて、顔の前に置いた手が震えて口角が引きつって上がっている。私はここにきてやっと、佐倉なんかについてここまで来た自分に死ねと思った。思えば、佐倉と私が仲良くできたことなんて、今までに絶対に一度もなかった。



 佐倉はちょっと猫背になって戻ってきた。そのまま、また前方に向かって歩く、スピードがかなりゆっくりになった。


「佐倉、大丈夫……ですか?煙草でも」

「あ”~~…大丈夫、です。ありがと……」


 佐倉はやる気なさそうに小さな声で返事をした。そのまま震える手でガムのボトルケースを取り出して、ザラっとたくさん手の平に出して、見もしないで全部口に含む。

「お前も食う?」

「……貰います、ありがとうございます」

「ん」

 辛いくらいに、濃いミントの味がした。

 佐倉はしばらくグッチャグッチャ音を立てて噛んで、まだ味が消える前にペッと地面に吐き出して捨てた。



 私のガムの味が消えたあたりで、佐倉は壁の白い二階建ての民家の木のドアに手をかけて、なんの挨拶もせずに中に滑り込んで消えた。





 ドアは目の先で、軽い音を立てて閉じた。立ちすくんでいると、中で歓声が上がった。

 来た道を振り返って、ほとんど明かりもなく誰もいない。家の中で数人が「オハヨウサクラ!オハヨウオハヨウ!」と叫んでまた歓声を上げた。


 ドアを開けると、正面の壁に鈍く光る黒い十字架があった。左右に同じ金属でできた、子供の天使の像が続く。

 壁は全面ミントグリーンに塗られて、そのまま古くなって黒ずんでいる。

 狭い中にぎゅうぎゅうに詰まっていた20人近く、色黒な人の大きな目が、一斉に私を見た。


 天井で換気用のファンが回る。中心に竹で作った大きな低いテーブルがあって、その周りの床に金属の寸胴鍋が10個ほど置いてあった。それぞれに料理がたっぷり入って、隙間で若い男女や老人が座り込む。大声で食べ、話しながら酒を飲んでいた。


 様々な茶色い料理が並んで湯気を立てる。色黒で目の大きい人たちは、見たことのない銘柄の酒の瓶を持ったまま人懐っこく歯を見せて笑った。女の人の膝の上に乗った小さな子供一人が、ただ不思議そうな顔をしている。


 佐倉はテーブルの向こう側で、上半身裸の男にもたれていた。動画通話で嫌というほど目にした佐倉の彼氏は、実物は結構体が大きかった。

 男が長い腕で、佐倉の編み込んだ髪を持ち上げて遊ぶ。ドアの近くにしゃがんでいた若い男が「オハヨウアリガトウ!」と叫んで私の手を掴んで、引っ張って座らせた。


 会話はほとんどがタガログ語で、私の目の前をすり抜けて慌ただしく続いた。何かを話しかけられながら、何の肉かわからない料理が目の前に山積みになっていく。

 佐倉は一回こちらを見て笑って、そのまま何も言わずに彼氏の左手をつまんで、指先で揉んだり撫でたりした。


 英語で隣の男に何回か話しかけて、どれも通じたのか通じなかったのか曖昧に笑われた。

 早口の会話が騒がしい中、部屋の奥の床の上では薄い布を敷いて子供がたくさん寝ている。

 黄色いTシャツのお姉さんが、「ハイ!オハヨウ!」と大声で言って歯を見せて、私と肩を組んできて酒瓶をよこした。


 多分私と同じ歳位の女で茶髪で髪が長い、酔った赤い顔をして目元が優しげに溶けている。隣にいた男が何かを叫んで一気に自分の酒瓶をあおった。代わる代わるいろんな人に話しかけられて、何一つ聞き取ることができずにサンキューと笑って返す。周りの男女はその度に、何かを叫んでとても楽しそうに笑った。

 渡されたお酒はビールだった。一口でわかるくらいアルコールが強く、不思議な酸味がある。佐倉と彼氏は顔を近づけて、何やら話し合ってくすくす笑った。佐倉の甘く高い笑い声が響く。



 酒が進んでくると、隣の男に腕を触られた。気づかないふりをしていると、そのまま肩を触った後、首から耳まで手を滑らせた。


「ノー」

 目を合わせてハッキリ怒ると、男はすぐに手を引っ込めて、少し距離を離れて座った。近くのおばさんが酒瓶を片手に、泡を飛ばしながらゲラゲラと笑った。

 大げさに肩をすくめて微笑む男に酒瓶を2つ差し出されて、軽くぶつけ合って乾杯をして同時に飲み干す。男は乱暴に瓶を床に置いて、歯を見せて照れたように笑った。それは男の体の大きさや年齢にそぐわない、子供のように無邪気な笑顔に見えた。あるいは、言葉が一切通じ合えていないせいかもしれなかった。

 すぐ後ろを、大きなヤモリが這って行く。


 酸味が強いパイナップルのスープを夢中で食べていた時、濃いCHANELの香水の臭いが右肩にぶつかった。下を向いた佐倉の後頭部だ。



 佐倉はそのまま、私の首に両腕を回した。彼氏は愛おしそうな顔をして、そんな佐倉を見ていた。


「ねぇ」

 顔の真っ赤な佐倉の口からは、酷いお酒が強く臭った。髪はずいぶん汗ばんでいて、煙草や体臭やその他、よくわからないここにあるものを全部混ぜ込んだ匂いがした。早口の外国語の会話が飛び交っている。


「お前このスープ、何の肉かわかる?」

我不知wobuzhi……あ、わからないです」

 至近距離で、佐倉の薄い唇が笑う。八重歯が光った。


「これがアヒル。それでこっちが鯉、そっちがコウモリ」


 思わず距離を取ろうとして、佐倉の両腕が許さなかった。

 見開いた私の目と、佐倉の溶けたような目が離れられないまま見合う。


「…………ノー」

「……いいじゃん。だってお前も、いろいろ全部どうせ嫌なんやん」


「………」

「料理もシャワーも、水道大体が雨水やん。この辺には救急車やって、何をしても届かんし。

 それでも運悪くこんなんで罹ってもうたら、そん時はもう、二人で一緒に全部だめにしよ」


 遠くでたくさん、雄鶏が叫ぶ声がした。「オハヨウ!オハヨウ!」と叫びながら、10人くらいの男女が一気に酒をあおる。


「ユキノさん。今日もお仕事、一緒に頑張ろうねぇ」


「…………はい。よろしくお願いします」

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に至る病 なんようはぎぎょ @frogflag

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