に至る病

なんようはぎぎょ

 雨に当たると感染するらしい新しい肺炎が流行ってしまって、世界中で大パニックがおきている。一度かかると、高齢者であるほど短時間で呼吸器不全がすすんで死に至る。感染した人からまた人にも広がるので、発症した人の家には黄色い救急車が迎えに来て、一生病院から出られなくなるらしい。



 毎日7時に起きて、食堂に行くために簡単な身支度をする。

 2人一部屋の、ルームメイトの佐倉はまだベッドの上で、頭までずっぽり布団の中に収まっていた。静かで、呼吸の音一つ立てない。

 窓のない安いホテルのような部屋だ、狭い部屋に2つのベッドが狭く隣り合っていて、残り少ない空きスペースに簡単な日用品を入れる棚が2つ、その裏に冷蔵庫と簡単な水道がある。壁に貼った『帰国まで、あと47日』日めくりカレンダーは、もう何カ月もそのままになっている。部屋の使わない色んな場所に埃が積もって、2人とも特に気にしなくなった。

 天井にある蛍光灯には、虫の死骸の黒点が見える。


 新しい肺炎の患者の一人目は、私と佐倉の故郷の隣国から出た。あっという間に大勢にひろがって、病院と葬儀場が満員になった。その時に私たちはちょうど、単身フィリピン首都マニラまで出稼ぎに来ていて、感染拡大のニュースと移動の規制によって、帰国の手段を失った。


『グンモーニンサクラ!オハヨウサクラ!オキテオキテ!!』

 下手な発音の若い男の叫ぶ音声が、佐倉の枕元のタブレットから響いた。素早く布団から片手が伸びて、タブレットをぶっ叩いて音が止まる。


『オキテオキテ!アイシテルヨ、サクラ!オキテオキテ!』

 一分もしないで再び鳴り出した。

 佐倉はこの国に来てからすぐに、驚くべきスピードで現地人の彼氏を作った。これはその彼の声の録音らしい。果たしてこの言葉の意味を、声を吹き込んだ本人が理解しているのかは知らない。聞き取りづらい、不明瞭な発音だった。


 また片手が布団から伸びて、タブレットをぶっ叩いて止める。指が細長くやや骨ばった、赤い長い爪の生えた左手。細い手首に、似合わないごついゴールドのチェーンブレスレットが3重に巻いてあって、動かすたびにジャラリと鳴った。


 昨日洗って干していたガラスの水筒を2つサコッシュバッグに詰める。仕事のために簡単な衿のある白いシャツと、黒のスキニージーンズに着替える。目と眉だけ化粧をして、あと5分待っても起きてこなかったら放って一人で出ようと思った。

 また『オハヨウサクラ!オキテオキテ!』が鳴りはじめる。

 段々大きくなる音量に思わず舌を打って目をやると、布団から顔と裸の肩までを出した佐倉が、寝起きにしては鋭い表情で、白目がちな大きな目で私を見ていた。


「うん。おはよぉ、ユキノさん」


 舌の足らない発音で、左右対称の整形じみた薄い唇の端を上げて言った。私は、このルームメイトが苦手だ。

「おはようございます、佐倉さん」


 ふぁ、口に片手を当てて大きくあくびをして、佐倉は紺色の下着姿でベッドから出てきた。真っ黒のロングヘアが、背中のホックのあたりまで伸びて傷んで広がっている。何の躊躇もなく裸足でぺたぺた歩いて、ん~とか言いながら、いつも通り隅の水道で顔を洗う。


 顔から肩から足元、水道の前に貼った鏡までを全部水だらけにしてから、佐倉はガシガシと顔を古いタオルで拭った。まだ濡れている前髪を右に撫でつけて、使用済みのタオルを足元の水たまりに落とす。

「ん~……。ユキノさん、今日はちゃんと眠れた?」

 目線もよこさずに話しかけてきた、同時にタオルを素足で踏んで、水たまりを拭うように動かす。


「深夜何度か目が覚めたんですが、なんとか」

「ふーん。ごめんねぇいつも待たせて。今日もお仕事、一緒に頑張ろうねぇ」


 特に悪いと思ってなさそうな口ぶりだった。彼女はいつも、誰に対しても甘えるような話し方をする。正直、女受けは最悪だった。

「はい、よろしくお願いします」


 佐倉は特に急ぎもしないで、ベッド近くに放っていた煙草をくわえた。泰山、という名前の重い中国の煙草、ヴィヴィアンウエストウッドのピンクのライターで火をつけて、大きく息を吸い込んで、少し溜めて吐きだす。

 焦げついたような、タールの香りが一気に部屋に広がった。


 コカ・コーラの空き缶に1回灰を落として、充電コードを引っ張って繋がったままのタブレットを手繰り寄せる。

「今日もWi‐Fi弱いなー。うわ、昨日のマニラ感染者多っ、ユキノさん救急車のサイレン、今朝も聞いてる?」


「1回だけ少し遠くで鳴ってました」

「んん~……」

 佐倉はタブレットをスクロールしていく。


「黄色いやつかねぇ」

「さぁ、音を聞いただけなので。……黄色い救急車、ただの都市伝説って聞きましたけど」

「ん~……でもなぁ、現地の人みんな言うじゃん。黄色いのが家の前までマシンガン持って来るんだよって」

「知りません」

「それはそーか。やば、早く食堂行かなきゃご飯なくなるじゃん」

「そうですね。服を着てください」

 佐倉はもう一回、ん~とか言いながら濡れた前髪を右側に撫でつける。一本の煙草からはびっくりする量の煙が出て、ベッド周りでしばらく、ゆらゆらと揺れた。



 職場と寮は同じ、一つのビルの中に入っている。13階コンクリート建ての巨大な建物で、中に食堂からシャワーやランドリールーム、コンビニからフィットネスまで完備していた。従業員はほとんどが男性で主に中国人、次に多いのがマレーシア人。私や佐倉のような日本人はごく少数の変わり種だ。地元のフィリピン人も数人いると聞いたけれど、今のところ一度も見かけたことが無かった。


 ざわざわと人の多い薄暗い廊下を、佐倉と2人無言で連れだって歩く。顔見知りの坊主頭の中国人男性とすれ違ってニーハオ、ニーハオと挨拶した。中国の特に田舎から来た人は、声や挙動が大きく派手で、気さくで話しやすい。



「マニラ、まだまだロックダウン続くんだって」

「ロックダウン中は仕事禁止だって、人が集まると射殺するって大統領が」

「マニラの人生活できるの?無理だよね」

 今日の食堂は中国語でガヤガヤそんな話題だった。大体みんな声が大きい。気にせず大きな音を出しながら、スマホでドラマを見ているお爺さんもいる。


 小さな大学の学食を汚くしたような食堂で、独特の化学調味料の甘い匂いが満ちていた。朝から随分味の濃い、粉っぽい赤い餡かけと、白米だけの飯を食べる。各テーブルに置いてあるヤカンから、水筒2ついっぱいに勝手にお茶を貰う。


 食堂に着いたらすぐ、佐倉は一人離れて遠くの席に座った。黒髪を高い位置でポニーテールにして、胸元の開いた細身のフリルシャツを着て、ご機嫌で彼氏と動画通話をしながら私と同じ赤い餡かけを食べる。たまに近くの席の中国人の男に話しかけられて、キャラキャラとやけに響く笑い声を立てた。朝の頭にひどく刺さる高音で、がやがやした広い食堂の中でも、女のスタッフ達がチラチラと佐倉を見た。




 仕事の内容は、主に中国国内向けのネットカジノの運営だ。経営陣もみんな中国人、彼らは自国の中で同じ仕事をすると逮捕されるらしい。他、賭博が気軽にできない様々な国や地域に対しても、細々と配信を行っている。電子マネーが身近に流通している国や地域は、特に利用者が多いようだった。ごくまれに、日本国内に住んでいる中国人と思われる利用客もいる。


 各自テーブルや床を汚して、食事が終わったらぞろぞろと担当の階に出勤する。夜勤スタッフとの時間交代で、くたびれた表情の人たちとニーハオを交わしてすれ違った。

 スマホ、タブレットなどを全部、持ち場の入口のロッカールームに預けて、ため息を1つ吐いて、自分用のモニターの前にまで来て座った。


 グレーの重いプラスチックのヘッドセットをつけて、今日も佐倉と隣りあって一日の労働をする。


 4階の、同じフロアの壁をまるまるぶち抜いて一つにした部屋で、床から壁まで配線が伸びて絡んで、電子機器が並んでブゥンと振動する。

 その隙間を縫うように狭苦しく人が座った、クーラーが効きすぎているのに、ほとんどの人はTシャツ姿だ。いつもどこからともなくニンニクの口臭やタールの匂いがする。旧式のパソコン画面のブルーライトは、睡眠不足の目によく染みた。


 数か国語で対応ができる女は、大体自分の音声でディーラーの役目をする。有名なアニメに勝手に似せた顔をした、セクシーなバニー姿のアバターの声優役だ。


 佐倉の声は今日もご機嫌だった、どこの国の言葉を使っても甘えるような話し方になる。

「アリガトウ!」「ヤメテ!」通じないだろう簡単な日本語を時々挟みながら、彼女が仕切るゲームは随分と掛け金が上がった。佐倉の給料は他の女の子と比べて結構高い。



 ゲームが盛り上がってくると、ハイテンションなBGMと一緒に鮮やかな背景色が明滅する。

 仕事中の佐倉はサングラスをかけていて、歌うような声色のわりに真剣な顔をした。モニターの後ろにいた長身の中国人の男二人が、システムをいじりながら佐倉について卑猥な冗談を言って笑った。近くにいた中国人の女の子がクスクスと笑う。

 方言だから聞き取れないと思っているらしく、今日の内容は比較的マシな方だった。


 仕事中に何度も、外から救急車のサイレンの音がした。誰も気にしないまま、一つ一つのモニターで、お金の賭かったゲームが進む。


 ヘッドセットからの声は大きくて、30分もしないで耳が痛くなった。

 今日の朝から私が回したゲームのプレイヤーたちは、音声から察するにどこかへ出稼ぎに行っている中国人男性たちだ。安っぽい電子音のBGMの中で、酒を飲み笑いながら大声で、随分な金額をあっという間に負けていった。おそらくは中国の北の方言が多く、時々聞き取れずに声掛けや返事に困った。ディーラーのアバターの女の子の大きな胸が、セリフを言わせる度にぷるぷると大きく揺れる。




 お昼休憩の1時間をはさんで、全部で10時間の労働を終わらせる。

 その頃にはもう、ヘトヘトでみんなほぼ無言だ。食堂でスマホを片手に、味の濃いご飯を頑張って食べる。

 やる気のないニーハオを交わし合って、ガタガタと音がするエレベーターで地下1階まで行って、シャワールームで簡単に体の汚れを流す。


 よく見かける名前を知らないおばさんが数人、顔にパックを張ったまま鏡の前を陣取って、何かを大声で言い合っていた。

 個室がたくさん並ぶシャワールームは、どこを使っても水流が固まってボタボタと落ちてきて痛い。

 眉間や肩に熱いお湯をかけて、水音を聞きながらふぅ、と一心地つく。一日ぶりだ。

 お酒が飲みたい、と思った。なるべく少量で効率よく酔えるやつ、3階にはコンビニや売店がいくつかある。


 ここの住人はあまり水回りの衛生に興味がないようで、シャワールーム、トイレに入るにはビーチサンダルが必要だった。盗まれない為にタブレットや貴重品もビニール袋に入れて、シャワールームの中まで持ち込んで、個室ドアのフックに掛ける。

 シャワーヘッドに水垢が溜まっているのに気が付いて、ティッシュを持ってきて拭おうか考えてやめた。

 熱いお湯は気持ちがいい、そのまま座り込みたくなる衝動と戦う。プラスチック製の椅子があればいいのにな、日本になら百円でありそうなそれは、この会社の売店には並んでいなかった。

 そういえば、雨水からの水道のウィルス感染が危ない話は、一回二回だけ大きく話題になったのに、その後一切言われなくなった。誰だって、忘れているはずはなかった。




 自室に戻ると、佐倉が何か英語とタガログ語を混ぜて早口で話していた。

 タオル生地のピンクのヘアバンドで前髪を上げて、タブレットの内カメラに自分を映して、相手からの返事はなく一方的に話している。


 映りこまないように気を付けて移動して、コップとブロックアイスを取る。

 佐倉は拙いイントネーションの英語で「ライブ配信を見てくれてありがとう!コメントありがとう、私も愛してる!」のような内容を繰り返して言った。


 お酒と一緒に中国製の睡眠薬を飲むか迷って辞める。何故かわからないけれど、白い大きな錠剤は飲むと翌朝に酷く頭が痛んだ。

 佐倉が「今19歳だよ!彼氏はいないよ!」なんて内容を上機嫌に喋っている。

「本当は来年25歳で、私より2つも年上だしバツイチだよ!」と後ろから叫びたくなるのを我慢する。今日もイライラして、なかなか眠つけそうになかった。

 夜中に長々誰かと通話をするのは、私もフィリピンに来てすぐに毎日やっていた。一緒に佐倉の動画配信に映って喋ったこともある。

 不安だったり、誰かとつながりたい気持ちはよくわかった。半分八つ当たりの自覚があっても、佐倉の笑い声に腹が立って仕方がなかった。


 ベッドに三角座りをして、YouTubeで日本のバラエティ番組を流し見る。

『下北沢で話題のパン屋さんの、マルチーズの看板犬マヤくん!毎朝、店主と一緒にお店で待っていまーす』

 安っぽい合成の笑い声と一緒に、映像の中では全員が肺炎を忘れた顔をしていた。買ったばかりの茶色い瓶のお酒が3本全部空になって、外からの音なのか夢の中なのかわからない、サイレンの音を夜中に何度も聞いた。





 翌日は、珍しく佐倉が先に起きていた。『グンモーニンサクラ!オハヨウサクラ!』で私の方が目を覚ます。

 意識がはっきりした瞬間に、刺すように頭が痛んだ。

 佐倉は今日は深緑色の下着姿のまま、長い髪を綺麗に一本のフィッシュボーンに編み込んでいた。ベッドの上で胡坐をかいて、金色に変わっている長い爪と薄い赤い口で、煙草をふかして溜めてから吐きだす。一瞬でベッド周りが煙だらけになった。


 タブレットとは別の小さなiPhoneで、佐倉は自分の姿を気にせず映しながら彼氏と動画通話をして盛り上がっていた。

『オハヨウサクラ!オキテオキテ!』が止められず流れ続ける、画面の中の彼氏が私に気が付いた。佐倉と男の英語とタガログ語の混ざる会話の中で、何度かユキノサン!と発音が出る。


 慌てて、佐倉のカメラに映らない位置に移動する、寝起きのせいで足がもつれた。急に動くとまた刺すように頭痛がして、自然と舌打ちが漏れる。



「あ~~ユヒノさん、おはよぉ、今日もひゃんと眠れた?」

 佐倉は煙草をくわえたまま、こっちを見ないでそう言う。その後何がおかしいのか一人で手を叩いてキャラキャラ笑った。画面の中の彼氏も何かを勢いよく喋った後に笑う。画面越しにちゅっとお互いにやりあって、いきなり通話が切れた。



 途端に静かになる、佐倉がまた煙を大きく吸って、溜めて吐いた。

「……ユキノさんまじで顔色最悪、たばこ一本吸う?」

「いらないです……、大丈夫です」

「これ韓国煙草~メンソじゃないよ。こっちのと比べて葉っぱが密、久々に当たりかも」

「……1本もらいます」

「どーぞ」


 佐倉が片手で煙草の箱を振って、一番飛び出た一本をつまむ。韓国製の煙草は、一見して糊付けから綺麗だ。マッチで火をつけて、深く息を吸う。体から頭の隅々にまで、煙が染みていくような心地がした。

 しばらく無心で、煙を吸って吐く。


「……ありがとうございます。美味しい、濃い目のメビウスっぽいです」

「ユキノさんそんなん吸ってたの?おっさんじゃん」

「昔の元カレが吸ってたのでたまに」

「あぁー、貰い煙草一番おいしいよね。わかるわかる~」

 佐倉もまたモクモクと煙を吐きながら、やる気がなさそうな共感をくれた。


「そういやユキノさん、7階のSEの中国人彼氏、何で別れちゃったの?」

 唐突に聞かれて噎せた。煙が変なところに入って、しばらくゴホゴホとえづいてまた頭痛が刺さる。佐倉はきょとんとしたまま黙って、返事が来るのを待っていた。


「いや……喧嘩続きで……。何で知ってるんですか」

「えぇ~みんな知ってるよぉ。私、色ーんなフロアの人から、食堂のおばちゃんにまで聞かれたからね。ルームメイトの日本人の子、彼氏と別れたんですって?!どっちが振ったの?!あの2人結構長かったわよね?!って」

 おばちゃんのセリフの部分は口を尖らせたモゴモゴした言い方の、全然似てない声真似が入った。口の中が苦い。

「……みんな好きですよね。人の話」

「みんなストレス溜まってっからねぇ。4階の大連から来た茶髪の女2人なんか、こないだ殴り合いしてたのに。周りそんな盛り上がらなかったな、ユキノさんあんまネタが出てこないからみんな嬉しかったんじゃん?」

 佐倉がそう言って喜んで、またキャラキャラと大きな声を立てて笑う。

 胃が重くなってくる感覚に、答えに詰まっていると佐倉が急に真顔になった。

「うん、ちょっと顔色マシになった。今日もお仕事、一緒に頑張ろうねぇ」

「はい……今日もよろしくお願いします」



 朝ご飯は、珍しく顔を合わせた福建省のおとなしい女の子と一緒に食べた。

 揚げパンと白粥を食べる合間に、当たり障りのない会話をする。特に中身のない会話が、今日はいつもより気が重かった。

 良く挨拶をする夜勤の二人組の背の高い女の子に、通りすがり「体調悪い?大丈夫?」と聞かれてほっこりする。


「雨ではなくて淡水魚が肺炎ウィルスを広げるらしい」

「ネズミも蝙蝠も危ないらしい」

「フィリピンの政治家が3人発症したらしい」


 ガヤガヤうるさい中で、福建省の女の子は早々に食べ終わって出て行った。胃が重くて中々食べ進まない、なんとなく周りに聞き耳を立てる。

「政治家の3人、救急車は来たの?」

「黄色い車?みんな病院から出られなくなる?」

「さぁ。でもどっちにしろ、全員年寄りだし」




 午前中の仕事をやっと終えて、立ち上がったら眩暈がした。

 目をつむったまましばらく耐えて、眉間を強く揉む。首を回してパキパキ鳴らしていたら、フロアの遠くから「宮沢ユキノ!」と叫ばれた。


 部署の経理の李先生、中年で目がぎょろっとした背が高い男で、いつもニンニクと酒の匂いがする。噂によると、酒のつまみに毎晩生ニンニクを齧るらしかった。女性スタッフの評判はあまり良くない。

 李経理は訛りのない中国語で「話があるから部屋の隅まで来てくれ」と叫んだ。


「経理、私は昼ご飯がまだです」

「すぐ済む」


 たくさんの従業員がパソコンの影から覗くように見てきた。クスクスと笑いが起こって、李経理が叫んで一喝する。ブツブツ文句を垂らしながら、全員がノロノロと階段やエレベーターを下って出て行った。


 ブゥン……と機械音が響く、最後の一人が出て行って天井の照明が消された。パソコンの画面ばかりがみっしり並んで光る。狭苦しく機械が並ぶ部屋の隅の方で、経理と私が二人だけになった。

 暗くて経理の表情が見づらい、近づいて顔を見上げると照れたようにニヤリと笑った。

 至近距離で耳が痛むような大声で「ここに座るように」と近くの椅子を叩く。

 言われた通りに座ると、椅子がぎしりと軽く音を立てた。


 経理は椅子のすぐ正面に立って、私を見下ろしながら早口で言った。

「宮沢ユキノ、お前のルームメイトの日本人は、昨晩きちんと部屋にいたのか?」

「はい。いた……と思います経理。ただ、昨晩は私お酒を飲んでいたので……」

 経理が微妙な顔になった。

 

「外は危ない、出て肺炎を持って帰られたらみんな罹って死ぬんだ。夜中に街を歩くと警察が射殺する。このビルに警察が来ると仕事を止めなきゃならなくなるし、警察からみんなが肺炎に罹って死ぬんだ。

 宮沢ユキノ、ルームメイトが肺炎にかかれば、お前も肺炎で死ぬ。お前ら二人とも、昨日の夜は絶対に部屋にいたよな?」

「いました」

 即答した。返事が速すぎて怪しまれないか不安になった。経理はぎょろっとした目で、私の胸元を一回見て、また目線を顔に戻した。

「今朝、早朝シャワールームに、佐倉メイが突然現れたっていうんだ。5階の楊シンが見た。誰もいなかったはずのシャワールームから、突然佐倉メイが出てきた。楊シンが確認するとシャワールームの電気はもともと消えていたし、個室にも水に濡れた跡が無かった」

 思わず舌打ちを飲み込んだ、5階の楊はどんなことでも噂にして喜ぶ中年女性だ。


「あの佐倉だったらシャワールームでも裸で平気で寝るんじゃないですか?もしかしたら男と一緒に入ってたかも、そういう女だし」

 経理はすごく嬉しそうになって、大声で豪快に笑った。


「佐倉メイは美人じゃないのにな、変に大人気なんだよな」

「女同士での評判は最悪です」

「ああー、それわかる気がするな」

 ダハハと、経理は唾を飛ばしながら喜んで笑った。

「どの国の女もみんな、男好きなブスが大嫌いだからな。宮沢ユキノも彼氏を奪われないように気をつけろよ」

「……ありがとうございます。気を付けます」

「本当に、俺はお前の彼氏が羨ましいよ」

 経理はそんなことを言って、素早く私の二の腕を強くつかんだ。引っ張って立ちあがらせる、「引き留めて悪かった!飯を食って来ていいぞ!」言いながら筋肉質な固い腕で、肩をきつく抱きこまれる。もう一回ダハハと笑って、そのまま出口まで引っ張られていって、階段から覗いていたおばさんと目が合った瞬間に腕はパッと離れた。


 午後の仕事中の李経理は、随分と機嫌がよかった。たくさんの冗談を言って、周りの人たちはマイクに収音されないよう気を付けながら、ゲラゲラと小声で笑った。今日も何回も、外から小さくサイレンの音が聞こえた。




 仕事が終わってご飯を食べてから、どうしてもシャワーを浴びる元気が出なかった。

 コンビニでお酒とチョコレートを買う。自室に戻ると佐倉がベッドに倒れこんいた。

 佐倉は仕事の時の服装のまま、横向きになって静かに寝ていた。倒れた頭の近くのタブレットから、フィリピンで大人気のポップミュージックが流れている。『こんなに大好きなのに、どうして気が付いてくれないの』大体そんな意味の歌だった。


 少し迷って、タブレットの音をタップして止める。近くで絡まっていた充電コードに繋げようかも迷って、それは辞めた。佐倉はタブレットに電子マネーのアプリを複数いれている。

 ベッドから下に落ちていた掛布団を、肩までかける。

 佐倉の顔は濃い化粧が付いたままで、よく見ると随分肌が荒れていた。やや色黒で気の強そうな顔ではあったけれど、ブスとまで言われるレベルではないはずだ。


 今日も酒を3本飲んで、YouTubeで日本の数年前のドラマを見た。すぐに胃の奥がざわざわした感じになってきて、何も考えたくなくて睡眠薬を一緒に飲んだ。






 翌朝はやはり頭がひどく痛んだけれど、久々に夢も見ないで眠れた。

 午後には頭がかなりすっきりして、それから改めて昨日の話をよく考えた。李経理は、昨日の事なんかまるで忘れたようにいつも通りだ。




 仕事が終わってからシャワールームに長居して、人のいなくなった隙を狙って個室を全部見た。

 天井が低い。一番奥の個室の天井に、黒く汚れた格子のはまった換気用の穴があった。絶対に虫やネズミがうじゃうじゃいそうな汚れの溜まり方で、この格子を外せば、細身の女なら通って上に出られると思った。

 心臓が痛くなった。髪も乾かさないままシャワールームを飛び出す。胃が気持ち悪くて吐き気のせいで咳が続けて出た。両手が震えてくるのを我慢しながら3階の売店でお酒を3本買う。

 途中すれ違った福建省のおとなしい女の子に、怪訝な顔でニーハオ、と言われてニーハオを返す。




 半分走って自室まで戻ったら、佐倉はいつも通り、動画で彼氏と話していた。


 今日は黒いレースの付いた下着で、いつもと全く変わらない、ご機嫌で早口な会話。

「アイシテルヨ、オハヨウサクラ!」彼氏は時々、会話の合間に変な発音の日本語でそう言う。佐倉は本当に幸せそうな笑顔で「アイシテルヨ、オハヨウバァエ」と同じ変な発音で返事をする。

 2人の早口のぴったり揃った会話と、間延びした日本語と、佐倉の幸せそうな笑顔は本当にいつも通りだった。どうしてか、それで心がひどく落ち着いた。


 彼女にどう声をかけようか悩んで、私と佐倉は別に友人同士でもなかったことを思い出す。

 朝の挨拶以外は何の会話もないのが自然だった。

 いつも通りになるように気を付けてベッドの上に座って、YouTubeで一番上にあった音楽番組を見る。いつもより早いペースでお酒を飲んで、そのうちに眠った。


 夜中には佐倉が「こんなに大好きなのに!!」と叫びながら黄色い救急車を運転する夢を見た。自分は助手席に乗っていて、遠くからサイレンが聞こえる。妙にハラハラする夢で、起きてからしばらく何故なのかもやもやした気持ちになった。



 それからは何日も、いつも通り朝の挨拶以外何も会話をしないで過ごした。何か声をかけるか悩んで、毎回言葉が見つからなかった。

 なんとなく感じる違和感は、なるべく考えないようにした。


 感染者の数は増え続け、帰国の飛行機の値段が10倍になった。

 その額で飛行機のチケットを予約しても、毎回フライトが直前キャンセルで払い戻しされた。

 極秘の伝手だと謳って、存在しない飛行機のチケットを売りつける詐欺が流行った。

 おとなしい福建省の女の子は詐欺被害が出るたびにゲラゲラと大口を開けて笑った。


 近隣国のラオスで首相が治安の悪化を嘆いて、ネットカジノ事業を含むほとんどのグレーな職種を、すべて違法にすると法律を変えた。

 大量にあった同業種の会社の、出稼ぎ労働者たちが全員仕事を失って、帰国のすべもないまま中国大使館に向かって暴動になった。在ラオス中国大使館は、躊躇もなくすぐに扉を閉めたらしい。


 会社に報告をしないで帰国便のチケットを買った男女2人が、パスポートを没収される騒ぎになった。

 市中の感染者の数が増え続け、サイレンの音が更に頻繁になっても、私と佐倉の日常は特に変わることはなかった。

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