愛の霰

歩鳥 銀

愛の霰~あなたの恋は痛くないですか?~

 静岡県北部の山奥にある「和泉の森高校」は全校生徒7名、教員2名で1学級制の全国で最小の高校である。村民はわずか212人で最寄りのスーパーまでは車で1時間、村のあちこちでは滝の音が聞こえ、空気、水ともに澄んだ自然豊かな村の隅に佇む、レンガ調の小さな古い校舎には日が差しており、2F教室の窓際の女生徒の視界を奪う。女生徒の名前は雪村瑞希(18)。彼女が目を向けていたのは、教師の磯部誠治(52)が黒板に書き連ねる数式でなく、その手前の大きな背中だった。永井祐樹(18)、彼女は彼に片想いであり、毎日朝から夕方まで彼の背中を真後ろで見つめるこの「教室」という場は、磯部が黒板に、三角関数が入り組んだ微分方程式を書こうが、数千字の孔子の言葉を書こうが、彼女にとってオアシスだった。

―――お昼のチャイムが鳴るまでは


―2時間前-


「あ、先生おはようございます。」

「おう、雪村。」


 1限の10分前、瑞希は磯部に挨拶を終え、下駄箱に靴を入れていると後ろから低めの声が聞こえる。


「瑞希、おはよう。」

「あ、佑樹おはよう。」

 

 心臓のドキドキを抑えながらも冷静に振舞う瑞希は淡々と挨拶を交わすと、2人で教室へ続く階段に向かう。


「あ、えっと...」


 階段を上る2人の足音に交じって瑞希の唸り声が聞こえる。


「どうした?瑞希お前、牛みたいだぞ。」


 笑う佑樹に心が一瞬和んだ瑞希は、踊り場で鞄からある物を出す。


「佑樹、よかったらこれ...」

「え?弁当!美味そうじゃん、これ瑞希が?」

「そ、そう...口に合うかわからないけど、放課後に感想聞かせて。」

「おう、サンキュー。」

「あ、あと今日...」

「キーンコーン...」


 何か言いたそうな瑞希の言葉を、授業5分前のチャイムがかき消した。



2限の授業では、磯部が「冷戦」について語っている傍ら、瑞希は何やら物思いに耽っている。


(回想【今朝】)


「おばあちゃん行ってきます!」

「あ、瑞希待ちな。」


 急ぐ瑞希を引き留めた祖母はな江(71)は、玄関に来ると瑞希に耳打ちをする。

「今日は年に一度の【月神様】が現れる日だよ。月神様に祈ると恋が成就する。佑樹君を誘うんじゃぞ。19時じゃ、忘れないように。」

「はい!」


(回想終わり)


「じゃあ、雪村!冷戦が終了した年は?」

「はい、えっと...」


 急に指名された瑞希は一生懸命に今日初めて開く教科書を漁ると、磯部は呆れている。


「キーンコーン...」

「雪村次には答えられるように。じゃあ授業はここまで。3限は生物だぞ、よろしく。」


先生が教室を去ると、佑樹は鞄を持つ。それを見たある生徒が彼に声を掛ける。


「あれ、佑樹どっか行くのか?」

「ごめん漣、今日は飯別で。屋上で飯食うわ。ちょっと考え事。」

「おう。」


 西島漣(18)、彼は瑞希、佑樹と同級生であり、3年生は3人のみである。佑樹が去年市内から家の都合で引っ越してきたのに対し、漣は瑞希と幼少期からの付き合いである。瑞希は、屋上で隠れて自分の弁当を食べる佑樹の優しさに触れていると、進藤 礼香 (16)に声を掛けられる。


「瑞希ちゃん、今日は昼休み中に花に水あげないと。あとで先生に怒られるよ。私たち昨日さぼったから。」

「あっそっかそっか、礼ちゃんありがとう、行こう。」


 水やりをすっかり忘れていた瑞希は、礼香に連れられ校庭へ向かった。




 校庭にある20mの花壇では、花好きの校長が先月購入した自動水やり器が花に潤いを与えていた。彼女らの仕事は10分おきに機械の場所を変えることで、合間にベンチで昼食を取っていた。すると、礼香が瑞希の腕に肘を突く。


「ねぇねぇ、瑞希ちゃん。どうすんの今日?」

「え?」


 今日というタイミング、そして礼香の表情から察しはついたが、瑞希は知らん顔をする。


「え?じゃない。佑君誘った?」

「…まだ」

「え?なんで?あと7時間だよ。早く。」

「だよね...」


 礼香は、俯く瑞希の膝の上にある弁当を取り上げた。


「ほら、思い立ったらすぐ行動。屋上行ってきなって、こっちは私やっとくから。」

「え?う、うん...ありがとう。」


瑞希は、礼香に背中を押されると、渋々玄関へと向かった。その時だった。


「ドンッ。」


花壇の端の方から、鈍い音がした。そして、瑞希が礼香の言葉に甘えて仕事を任せようと、さらに1、2歩進んだその時だった。


「キャーー――!」


 礼香の悲鳴だった。そして、振り向いた瑞希の目の前には、花壇の淵に頭を打ち、おびただしい量の血を流す祐樹の姿があったのだ。この時、校庭には頭を抱え泣き叫ぶ礼香の声しか聞こえず、腰を抜かして地べたに座り込む瑞希は、声すら出せなかった。そして、20秒程度で校舎から磯部が出てくる。


「どうした?」


磯部は落胆して泣いている二人を見て驚愕し、事態に気付くとすぐさま走る。


「おい、大丈夫か!?永井か?二人とも、早く職員室へ行って救急車!!」


 立ち上がれない瑞希と目を合わせた礼香は、泣きながら職員室へ走る。


「おい!しっかりしろ、永井!!」


 自分のシャツを破って、頭部の止血をする磯部だったが、佑樹の胸に耳を当てるとすぐさま、心臓マッサージを始める。すると、遅れて生徒たち5人と校長も出てくる。


「キャーー!」


 女生徒の悲鳴がさらに増幅する中、漣は全てを把握し、地べたに座る瑞希の元へ駆け寄ると、腰が抜けた瑞希を抱え、玄関内に連れて行った。



「私、お弁当、、ごめ、、ん、、なさい!」

「佑樹は大丈夫。瑞希、しっかりしろ、なぁ。」


 玄関に座り込み泣く瑞希の震える肩を漣はしばらく擦っていた。




 佑樹の死が告げられた教室はお通夜状態だった。教室内には廊下側から3つ、2つ、3つずつ机が並べられており、廊下側の前の席は礼香であったが、変わり果てた佑樹を目撃したショックから保健室に運ばれていた。続いて、その後ろには柚、一誠と一年生が続き、真ん中の列には翔、賢哉の2年生2人が、そして窓際には前に空席、瑞希、漣の順で座り、全員が俯いていた。さっきまで一緒にいた同級生が一瞬にしてこの世から消えた悲しみは想像を絶していた。すると磯部が教室へ入り、重い口を開く。


「今警察から連絡があった。いいか、落ち着いて聞くように。」

「何かわかったんですか?」

「あぁ。」


 漣の問いを軽く受け流しつつ磯部は続けた。


「佑樹は自殺じゃないらしいんだ。」


 生徒たちは佑樹を信じたい気持ちはあるものの、少し驚きの表情を浮べている。漣は瑞希に寄り添い、真顔で磯部を見る。


「何で自殺じゃないって?」

「ああ...永井は後ろ向きに屋上から落ちたらしい。自殺ではありえないって。」

「…」


 生徒たちは無言で俯くと、磯部は続ける。


「もし君たちの中で、不審者を見かけたものがいれば教えてほしい。」

「それって…殺人ってこと?」


 賢哉が非日常的な言葉を出すと、全員が磯部の顔を見る。


「可能性だ。もちろん君たちを疑っていない。ここは田舎で校舎のセキュリティなんて無いに等しい。誰か見た者はいないか?屋上に行く人影とか…」


 するとその時、廊下側の一番後ろに座る一誠は、2つ隣の漣を一瞬見ていた。




 もちろん授業は中断され、生徒たちは磯部に帰宅を促されていたが、生徒たちは教室に残っていた。


「誰か見た?不審者?」


 2年の翔の問いかけに5人は首を振ると、翔は瑞希の方を振り向く。


「瑞希ちゃん、一つ聞きたいんだけど、さっき言ってたお弁当って…?」

「あぁ、そう。私...」


 瑞希は事情を全て話した。佑樹に好意を持っていたこと。弁当を渡して、月神様のところへ佑樹を誘おうとしていたこと。そして、佑樹は気遣いでわざと屋上でその弁当を食べたことを話した。すると、1年の柚が立ち上がる。


「皆、屋上に行かない?何か手掛かりがあるかも。」




 2Fの教室から3Fに上がり、一番奥の音楽室とトイレの間に屋上へ続く階段があった。しかし、6人の足音は屋上に近づくにつれて、雑踏にかき消されていった。そう、扉の向こうには数十分前に到着した県警が現場検証を行っていたのだ。しかし、瑞希は気にせず、先陣を切ってドアを開ける。


「何だ君たち、戻りなさい。」


 ドアのすぐ隣には見張りの警官がいたが、瑞希は怯まない。


「佑樹は、誰にどうやって殺されたんですか?」

「今調べてるから。」

「何でもいいんです。わかったこと何か教えて下さい。お弁当ありましたよね、赤い箱の。」

「赤いお弁当?」

「はい、佑樹は落ちる前ここでお弁当を。」

「何言ってるんだ君は?弁当箱なんかなかったよ。」

「え?」


 思いがけない警察の返答に、瑞希は振り返ると再び全速力で階段を下りた。


「瑞希!」




 漣を先頭に4人が教室へ戻ると、佑樹の席で瑞希が弁当箱を眺めていた。漣たちは瑞希に近づく。


「瑞希、弁当あったのか?」

「うん、これ。」


 瑞希は弁当を開けて見ていた。


「机の中に。ほらキレイ。食べてない。何かわかんないけど切ないなぁ。嫌われてたかな、私。」


 瑞希の目からは涙がこぼれていた。漣はすかさず瑞希の背中を擦る。


「帰ろう、もう日が暮れる。」

「うん。」




 漣、柚、翔、賢哉の家は校門をくぐって左に、瑞希、礼香、一誠は右方面だった。瑞希と一誠は先に帰った4人に別れを告げ、礼香に声を掛けるため、1Fの保健室に入った。


「寝てるみたい。ちょっと待とっか。」


 瑞希は一誠にそう告げると、窓際の椅子に腰を掛ける。すると、一誠は再び部屋の入口へ向かう。


「ごめん、教室に忘れ物。」

「うん、待ってる。」


 一誠は部屋を出た。保健室は静かで、礼香の息遣いのみが聞こえており、じめじめとした空気を換えるため、瑞希は部屋のドアを開ける。すると、その時だった。


「今回の事件は、殺人だな。」


 保健室は佑樹の落下地点の前に位置し、外の捜査員の声が聞こえる。その興味深い内容に瑞希は耳を傾けた。


「どうして?」

「お前も見たろ、仏さんの歯、蟹や海老みたいなものが詰まってた。」

「それがどうしたんすか?」

「親御さんに聞き取りしたら、仏さん、蟹アレルギだとよ、しかも重度の。」

「そうなんすねぇ。誰かに無理やり食べさせられたんすかねぇ…」


 この時、瑞希の顔は硬直した。そう、彼女は弁当にカニクリームコロッケを入れていたのだから。瑞希はすぐに、カバンから弁当を取り出したのであった。




 一誠が部屋へ戻ると、彼を外からの風が吹きつけた。しかもそこには瑞希はいなかった。一誠が窓際へ行くと、瑞希の荷物、蓋の空いた弁当箱、そして、置手紙が一枚あった。そこにはこう書かれてあった。


「探さないで。」




 帰宅した漣は家を飛び出した。


「漣! 6時過ぎだよ。どこ行くの!?」


 母の呼びかけに答えず、漣は一目散に走っていた。そう、一誠から連絡が入ったのだ。「最愛の人が死んだ直後の失踪」が何を意味するか、漣はわかっていた。ただ彼は彼女のことを思い浮かべ、学校の方向に走っていた。




 秋の日の入りは早かった。瑞希は森の中の石壁の前に佇んでいた。その10mほどの石壁には大きな溝が刻んであり、これは昔滝が流れていた名残である。そして、その壁の頂点には、人工的か自然発生的かはわからないが、石が円形にくりぬかれているようだった。


「あと25分。」


 石壁の前で満月を見ながら、瑞希が言う。そう、あの満月が石壁に空いた円形の穴にピッタリはまる瞬間に「月神様」が現れるのだ。


「ごめんね佑樹。私償うよ。あの世でも会ってくれる?」


 瑞希はそう言うと、後ろの大きな木の枝にハンカチを輪状にして括りつける。すると、その時だった。


「瑞希!」


 彼女が振り向くと、漣がいた。


「なんで...」


 瑞希はその輪に首を通すと、背伸びしていた足を宙に浮かせる。


「瑞希!」


 漣は彼女まで20mの区間を全力で走ると、瑞希の元へ行き、瑞希を持ち上げハンカチを外すと、下に寝そべる瑞希の体を擦る。


「瑞希!瑞希!!」


 すると、彼女は目を開けて起き上がる。


「ごめんね、漣、私行かないと。」


 再びハンカチを手にして立ち上がる瑞希を漣は必死に抑え、後ろから抱きしめた。


「ごめんね、変な意味は無い。ただ瑞希を死なせたくないんだ。」

「…」


少しの沈黙が流れた後、瑞希の肩が震えだす。


「ごめんね漣、佑樹を殺したのは私なの。」

「違う、違うよ瑞希じゃない。」

「…驚かないんだね。漣。」

「え?」


漣が瑞希を話すと彼女は振り返る。


「だって知ってたんだもんね。漣。私のお弁当に蟹が入ってたことも、佑樹が蟹アレルギだったことも全部。」

「何言って...」

「一誠が見てたんだよ。漣たちが帰った後すぐに教えてくれた。あの事故の後、漣が弁当箱持って屋上から降りてきたって。」

「それは。」


 漣は何も言葉が出なかった。そう、図星だった。




(回想)


 昼休み開始直後、漣は音楽室横の階段をで佑樹に声を掛ける。


「おい、怪しいぞ。佑樹。」

「んだよ、来るなよ。」


 二人は屋上に行くと、ベンチに座った。


「瑞希だろ。」

「え?...まぁな。」

「いいなぁ、瑞希の弁当。」


 そう言って漣は立ち上がると、佑樹の肩を叩く。


「お前、あいつの告白断ったりしたら許さねぇからな。あとで美味しかったって言っとけよ、じゃあな。」

 

 漣はそう言い残し、再び屋上のドアの方向へ歩き出した。そして漣がドアノブに手を掛けた瞬間に、悲劇は起こった。


「ううっ、っっつ、あぁっ...」


 漣は背後から呻き声を聞き、振り返るとそこには、首を抑えてまるで酔っ払いのように動き回る佑樹の姿ががいたのだ。


「おい!」


 漣が佑樹の元へ駆け寄ろうとしたとき、佑樹は屋上の淵へ向かってしまったのだ。そして、漣が佑樹の数メートル手前に差し掛かった時、佑樹の姿は漣の視界から消え、直後に礼香の悲鳴が漣の耳に突き刺さった。そして、漣がベンチに戻ると、そこには蓋の空いた弁当があった。


「まじかよ。」


 漣は半分かじってあるコロッケを目撃したのだ。すると、漣はもう半分のコロッケを頬張り、弁当を整え、そのあと、あとで捜査が入ってもいいように弁当を佑樹の机の中に忍ばせてから、校庭へ出た。


(回想終わり)




「仕方なかった。瑞希が心配で。」

「ありがとう、漣、でもごめんね。私、佑樹がいないと生きられな...」

「バチン!」


 再びハンカチを手に取ろうとした瑞希の顔を漣は叩いた。


「佑樹は喜ばない。お前が死んでも。喜ばないよ。それに...俺があいつに怒られるよ。『なんで瑞希を守らなかったんだ」って。…お前が一生佑樹を好きでもいい。愛しててもいい。だけど、瑞希が死ぬまで瑞希のそばに居させてほしい。いつか瑞希が幸せに死ぬことができたら、佑樹に天国で会えるように。だから、それまで俺がお前を見守るから。」

「…」


 瑞希は我に返ったのか、無言で漣の胸の中に崩れ落ちると、泣き叫んだ。


「ごめんなさい、ゆう…き。ごめん…ね。い…き…るよ。わたし…わぁぁぁん。」


 泣き叫ぶ瑞希を漣がギュッと抱きしめた時、石壁の円形の穴から顔をのぞかせた月は、漣の18:55分(5分前)を指す腕時計を照らした。


 2人の抱く恋はそれぞれ、痛かった。











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