リンボ、あるいは図書館(後篇)
彼は、老人だった。
「今われらは鏡をもて見るごとく見るところ
彼は記憶に言葉を求めた。脳裏に言葉があぶり出しのように浮かんだ。本をめくらずとも、それは常に彼の内側にあった。彼のこころは言葉を欲した。言葉は彼に無尽蔵に与えられた。雨のように惜しみなく。
彼は窓から離れ、自分を取り囲む書物の海を見まわした。彼が泳ぎつづけた言葉の大海。泳いだ? 溺れつづけているだけなのかもしれない。無限に引き延ばされた溺死。いまもなお。
泡のように、さまざまな想いが浮かんでは消える。彼はもう詩を書かない。書きとめようとは思わない。どうせ瞬く間に消えてしまう想いを、だれにも届かない叫びを、自らの血で刻みつけようと、無意味な悪あがきにのたうちまわったこともあった。そしてもちろん、なにも残らなかった。
いまはもう、詩は書かない。遠い昔、自分が死に物狂いでなにを書こうとしたのかも、忘れてしまった。ただ、砂浜に残る
彼は老いた。すっかり老いた。だれとも出会わず、なにも起こらず、どこにも行けず、いちども眠らず、ただただ老いた。年老いた。それでいてなおも彼は、生まれたばかりのような、存在することへの違和感に捉えられた。空疎な自己に煩わされた。身体の重みに意識が釣り合わなかった。
「われ隠れたるところにてつくられ地の
彼が生まれたとき、彼がかたちづくられたとき、彼を見守るものはいたのか? 彼の存在は認知されたのか? だれとも出会えないこの生涯の、その出発点において。彼はだれかの本に記されたのか?
彼は階段を上った。彼の足取りは重かった。眠りも食事も必要としない身体。だが、いつの頃からか、疲労は彼を蝕むようになった。憑かれたように疲れて、疲れに憑かれたままだった。眠りを経験しない彼は、それを癒やす術を持たなかった。琥珀に閉じ込められた虫が、もしも目覚めたままだとしたら、
幼い頃の彼が軽快に走り抜けた階段を、老残の彼は見る影もなくゆっくりと上る。それはあたかも、彼の読書がたどった変遷を物語るようでもあった。若年のみぎり、彼は急き込むように、不在の食事の代わりのように、
いまの彼は、知らない言葉をあくせくとは求めない。全知の夢を追ったりもしない。悠久の時間さえあれば、図書館の本をすべて読み尽くすことも可能だと思っていた。だが、そんな行為に意味はない。生存と同じくらいに意味はない。むしろ彼は、何度も繰り返し読んだ本に立ち止まり、慣れ親しんだ言葉をひたすらに注視することで、いままで知らなかった言葉の表情に驚いたり、底流に潜んでいる音楽に気がついたりというような、歩みの遅い読書を好むようになっていた。本の数は有限だが、言葉の味わいは無限だと悟ったのだ。そして老いの実感は、本についてだけではなく、自分の生についても、明らかな事実を告げていた。彼の孤独は無限かもしれないが、彼の人生は有限だという厳然たる事実を。
彼は最上階である九階にたどり着いた。手近な書棚から、馴染みの本を手に取り、愛おしむように慎重にめくった。その本は、すべての階に、すべての本棚にあった。言葉に多少の異同はあったが、大まかな輪郭は変わらない。詩を書いていた頃の彼は、その本を意地でも読まなかった。なぜかはわからない。図書館に遍在するその本が、世界の象徴でもあるかのように、孤独の淵源でもあるかのように、彼は
「空の鳥を見よ、
記された言葉を眼で追いながら、記憶に刻まれた言葉を呼び覚ます。その二重唱は、ときに美しく、ときに不調和で、ときに優しかった。書かれた言葉は、すべて記憶の模倣にも思えた。読んだはずのない言葉を読むときでさえ、自分はこの言葉を知っている、この言葉は自分の中にすでにあったと、そんな既視感をたびたび覚えた。日の下には新しき者あらざるなり、いかなる日の下にあるかわからないこの図書館においても、それは真理であるように思えた。
彼は本を閉じ、書棚に戻した。鳥。彼がいちども見たことのない空を飛ぶ、彼がいちども見たことのない生きもの。彼の夢。彼の他者。だが、彼はたしかにその影を見たのだ。たしかにその痕跡に触れたのだ。彼でも言葉でもないなにかに。
彼は書架の海をかきわけて、目的の棚へと赴いた。九階まで上るのは久しぶりだった。彼の世界の頂上。天にもっとも近いその場所に、彼は彼にとっての聖遺物を安置していた。彼の
まがいものの鳥は、ほどなくして見つかった。だが、そのそばに羽根はなかった。彼はそれらをつがいのように寄り添わせて安置したはずなのに、白い羽根は忽然と消えていた。彼が白紙で折った鳥だけが、無様な姿で佇んでいた。
「…………」
彼は紙の鳥を手に取った。詩を失って、羽根からも見捨てられて、その鳥はもう、惨めな玩具にすぎなかった。なんらの輝きも宿していなかった。彼の夢は、いつのまにか
彼は鳥を殺すことにした。折られた紙を、過去に葬るように、繊細な手つきで元に戻した。皺のついただけの、ただの白紙。血で書きなぐった詩など、跡形もない。そこに刻んだ言葉も想いも、もう忘れてしまった。
彼はその白紙をまた折り始めた。今度は鳥ではない。鳥を模倣した文明の利器。人を運び、人を殺す、空を飛ぶ機械。いちども見たことのない飛行機を模して、彼はまたしてもまがいものをこしらえ上げた。
中央の吹き抜け部分まで歩き、手すりから身を乗り出して、彼はかつての詩であり鳥であり夢であったはずのなにかを、彼の手から解き放った。風にたゆたうように、終着を引き延ばすように、紙の飛行機がゆっくりと墜ちていく。やがて、林立する書棚の陰に隠れ、見えなくなった。
彼はその場を離れ、階段を下り始めた。足取りは重く、表情は物憂く。彼にはもう、なんらの希望もなかった。彼は老いた。すっかり老いた。そしてこころに相変わらず浮かぶのは、いまや答えが出たように思える、ただひとつの疑問。彼に終生つきまとった疑問。
ぼくは、永遠にだれとも会えないのだろうか?
そんな憂鬱に苛まれていた彼の生に、定められた時が来た。
彼は、死人だった。眠っていた。終わったからだ。永遠のような
彼のそばには、だれかがいた。何者かがいた。眠りにも触れられないほどかすかな優しさが。
泣き終えた魂のように黙す彼の傍らに、おびただしいほどの白い羽根が、
リンボ、あるいは図書館 koumoto @koumoto
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