リンボ、あるいは図書館(中篇)
彼は、成人だった。抜け殻のようだった。空虚な面持ちのまま座ってぼんやりと、指先で白い羽根をいじくっていた。机には本が開かれている。白紙だった。なにも書かれていない、白無垢のまっさらな本が、この図書館にはときどき見つかる。その一冊を目の前に開いて、彼は羽根を触りつづけていた。
その羽根を見つけたのが、どれほど前のことだったか、彼は思い出そうとしてみた。わからなかった。この図書館に
しかし、彼の成長した肉体は、時の経過を物静かに語っていた。痩せぎすで繊弱な、丈の高い身体。少年とはもう言い難い顔つき。とはいえ、纏っている服は相変わらず白い長衣、許される行為は相変わらず読書だけ。読み終えた本は増えたが、経験と呼べるような歳月を重ねたわけでもない。なにかが変わったとも思えなかった。
いや、ひとつだけ、新たに始めたことはあった。こころを
それでも遊びは必要だった。こころが死ぬのをごまかすために。なにもない生存を更新するために。日々の祈りにも似た彼の遊び。
彼は椅子から立ち上がり、机に羽根を残して、階段へと向かった。二階、三階、四階と、迷いのない速度で上階へと上っていく。その足取りには、どこか怒りを感じさせるものがあった。自分が生きていることへのやるせない怒り。とどめようのない呪い。
最上階である九階にたどり着いた。彼は中央の吹き抜け部分まで歩き、手すりに手をかけて、ためらうことなく、足場のない空中へと身を投げた。
真っ逆さまに、彼は落ちていく。八階、七階、六階、五階……。彼を取り囲む書架が視界をよぎっていく。不思議の国に迷いこむ少女の物語が、頭に思い浮かんだ。兎を追って穴に落ちた少女は、のんびりと落下しながら食器棚や地図や絵、それに本棚を目にして何事かを呟く。彼に見えるのは本棚だけだが、何事も呟かずただ無言だった。少女の物語が記された本も、視界をよぎる本棚のどこかにあるはずだ。
ぐしゃりと、彼は頭を下にして一階の地に叩きつけられた。物語とは違い、彼の墜落は迅速だった。頭の鉢が砕け、血と脳漿がこぼれ、あちこちの骨が歪んだ。
だが、彼の意識は途切れない。少女の物語をなおも思い出していた。あの物語に、鳥はいたっけ? いたような気がするな。猫はよく憶えているけれど……。
彼は眠ったことがない。気を失ったこともない。そして、死んだこともなかった。
痛みはあった。それはたしかにあった。言葉にできないような、身悶えするような、鋭く容赦ない苛烈な痛み。だが彼の冷めきった意識は、痛みを切り離す術を心得ていた。まともな肉体なら死んでいる損傷すら、どこか他人事だった。だが痛みはあった。たしかにあった。それは彼の数少ない、生きる実感のよすがだった。
白い長衣を赤く染めた彼は、白い羽根と白紙の本を置いた机まで這いずり、すがりつくようにして、苦労しながらなんとか椅子に座った。ぽたぽたと、頭から血はしたたり続けている。
彼は羽根を手に取り、羽軸の尖端を自分の血に浸した。そして、かりかりと引っかくように、白紙の本に言葉を書きつけた。血で刻んだひとつらなりの文字。それは詩だった。
彼は気が向くと自殺した。詩が思い浮かぶと自殺した。死を拒まれた投身自殺、詩を綴るための投身自殺。永遠の孤独に見出だした、彼のなけなしの遊び。
もちろん、結果は虚しいものだ。彼はしばらくのあいだ、自分の書いた詩を眺める。記憶に焼きつけるように、痛みを噛みしめるように。やがて忘れるに決まっている、想いを封じ込めた言葉を。
その赤い文字が、彼の眼前でだんだんと薄れていく。言葉は溶けるように淡くなって、雪のような白にひとたまりもなく呑まれていく。そして、なにも書かれていないまっさらな白紙へと戻ってしまった。彼の血も彼の詩も、初めから存在しなかったように。
その頃にはもう、彼の傷はふさがっていた。骨も治った。床や机にしたたった血も消えて、赤く染まった長衣は元通りに白かった。
残らない痕跡。夢のような、彼の死の試み。儚い痛み。ただ虚しかった。
詩が消えると、彼はまた最上階まで上り、勢いよく飛び降りた。みじめな墜落、みじめな詩作。鳥のように翔ることなどできない。それでも彼は、なにかを求めるように、何度も身を投げた。
数えきれない自殺の後、彼は血まみれで横たわったまま、遠い天井を眺めていた。一階から見る天の蓋は、絶望的なまでに無機質だった。この図書館に、空はない。
彼は鳥のことを想った。階段で見つけた白い羽根。幼い頃に垣間見た他者の影。すべて幻だったのだろうか。ここには結局、だれもいない。人も鳥も、なにもいない。ただ言葉だけが。だれかの遺した想いだけが。でも、本を書いた人間のなかに、だれとも出会わなかった人間はいるのだろうか。書物が孤独の
彼はまたも疑問を浮かべた。いつでもつきまとうただひとつの疑問。この意味のわからない不条理な空間にただひとり生きつづける彼の切実なる疑問。
ぼくは、永遠にだれとも会えないのだろうか?
そんな憂鬱に苛まれていた彼の視線が、ふとなにかをとらえた。遠い天窓。白い霧しか映さないはずの窓。その窓を、なにかの影がよぎった。
彼は身を起こした。息をのむようにして、天窓を注視しつづけた。白い。ただ白い。なにもいない。いまのは、なにかの錯覚だろうか?
ふたたび、なにかの影がよぎった。今度はしっかりと見た。間違いなかった。たしかに何者かがいた。天窓の向こう、見えない空を、翼を持ったなにかが……。
彼は急いで机まで這いずり、羽根を手にして、血がしたたる内に一気呵成に言葉を書きつけた。空を飛ぶものについての詩だった。彼がいま見たもの。彼の焦がれる向こう側の存在。
だが、彼の詩はほどなく消える。彼の血は失われてしまう。彼はそれがたまらなく嫌だった。泣きたくなるほど哀しかった。この言葉も、この想いも、いずれ忘れてしまうのだろうか? 初めから存在しなかったように。
彼は詩を書きつけたその紙を本から破りとり、丁寧に折り始めた。血に汚れた手で、震えながら、慈しむように。
その遊びもまた、書物から学んだ遊びだった。紙を折り、形を変えて、なにかを創る、子どもじみた遊戯。彼がまだ少年のみぎり、本を破ってよく遊んだものだ。
彼は天窓をあおいだ。どれだけ待っても、影はもう見えなかった。だが、彼はたしかに見たのだ。彼ではない他者であるなにかの存在を。
彼は視線を机に戻した。血はもう消えていた。傷はふさがり、痛みは去った。彼の魂を込めた詩も。だが、その残響はまだそこにとどまっていた。
自分の墓標でも見るように、白紙で折った鳥を彼は飽かず眺めた。
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