後編

「村田くんがあんなのことになるなんて……」


 須藤先輩はそう言って自分を責め苛んだ。


 もっと早く見つけてあげられたら、彼は死なずに済んだかもしれないと。


 彼女も僕と同じで、家でじっとしていられずに学校を訪れていたらしかった。


 ジンジンと騒がしい蝉の声が響き渡る夕暮れ空の下、須藤先輩は物悲しげな横顔を茜色に染めていた。


「それに……正之くんまで」

「正之くん?」


 須藤先輩は今朝––––正確には昨夜––––自宅で首を吊った少年の知り合いだった。家が近く、彼とは兄弟姉妹のように育ってきたのだと彼女は言う。


「……何か悩みがあったなら、あたしが気づいてあげられたら、こんなことにならなかったんじゃないかなって」


 須藤先輩は悲痛な面持ちをしたまま目を潤ませる。


「先輩、ダメです」


 僕はキョトンとした表情の彼女に面と向かって首を横に振った。


「昔、僕のお爺ちゃんが言ってたんです。蝉怪人は不安や孤独を抱える人のところにやってくるんだって」


 西の空が赤い絵の具を垂らしたような色に染まっている。僕は先輩のことが心配になり、途中まで送ることにした。学校前の道は左右を田んぼに囲まれており、いつもは青々と茂っている稲は、その全てが焼けた鉄のような色に輝いていた。


「ジーン、ジーン、ケケケケケ……」


 遠く視界を遮るように伸びた幹線道路を走る車の音だけが聞こえる中、不意に先輩の発した儚げな歌が耳元をくすぐる。


「蝉怪人がやってくる。ジーン、ジーン、ケケケケケ、夏の終わりにやってくる」


 恐ろしく、そしてどこか物悲しい詩だと思う。


「……蝉怪人って、どうして七日間なんですかね」

「多分、蝉だからじゃないかな」


 日溜りに浸かってきたかのような生温い風が吹き抜けると同時に、先輩は端正な横顔にまとわりついた髪をかきあげながら遠い目を夕焼け空へと向けた。


「蝉怪人は一週間しか生きられないんだって」

「じゃあ、昔見た蝉怪人と今回のは別のやつなんだ……」

「昔見た?」


 うっかり口に出してしまってからハッとする。


 七年前、僕は蝉怪人の実在を周囲の大人や友達に訴えかけた。しかし小さな子供の言うことをまともに聞いてくれる大人はおらず、同級生たちも僕のことを不気味がって離れて行ってしまった。


 それが原因で、僕は知り合いのいない離れた中学に通うことになったし、高校も自転車で50分以上かかる場所を選んでいた。当時の知り合いに再会して、あの時のことを蒸し返されるのを恐れたのだ。


 僕は慌てて誤魔化そうとしたが、先輩の真剣な眼差しに真っ直ぐに見つめられると、心の奥底の闇を光で照らされているような気持ちになった。そしてついに、この七年間口をつぐみ続けてきた秘密を打ち明ける決意を固めると、思い切って爺ちゃんのことを話した。あの日、寂しげに笑う爺ちゃんの隣に立っていた蝉怪人のことを。


 光沢のある銅色の頭。


 この世の全ての光を飲み込んでしまいそうなほど黒々とした目。


 細く長く、体毛のない手足。


 そして背中に生えた薄く透明な翅。


 それはまさしく昆虫人間だった。


 僕の話を聞くと、須藤先輩は口に手を当てて驚いていた。


 僕はまた馬鹿にされたり、気味悪がられたりするのではないかと不安に駆られる。


「……そう、なんだ」


 しかし先輩は僕の話を笑うことなく、なぜか寂しげな表情で聞いていた。


「ねえ、その後、お爺さんはどうなったの?」

「その後?」


 僕はたずねられたことの意味が理解できずに眉根を寄せる。


「蝉怪人に“自殺させられた”んでしょ? どういう風に?」


「どうって…………あれ?」


 言われてみて初めて気がつく。


 僕は爺ちゃんが具体的にどのように死んだのかを知らなかった。


 七年前のあの日の記憶は蝉怪人を目撃したところで終わっている。


「……大丈夫」


 先輩は一切の感情もこもらない声で、抑揚のない言葉を発した。


「覚えてないなら、無理に思い出すことないよ」


 彼女の唇の端が緩やかなカーブを描いていた。


「きっとその方が幸せだから」


 そして僕は見た。


 一瞬だが、鋭い西日を弾くようにして輝く二枚の翅を。


 地獄の底に続いてそうなほど黒い二つの目を。


 この世の終わりのような赤色に染まった巨大な蝉の頭を。


「……筒井くん」


 僕は名前を呼ばれてハッとした。気がつくと、目の前では須藤先輩が不思議そうに小首を傾げながら僕の顔を覗き込んできていた。その顔は人間のものであり、背中に見えていた翅も蜃気楼のように消え失せていた。


「蝉怪人は夏の日の思い出なの。夏が終わると寂しくなる。お祭りの賑やかさも、海の潮風や日差しも、全て置いていかれてしまう。蝉の一生と同じように」


 須藤先輩はとうとうと語った。どこか遠く離れた故郷を懐かしむような言葉を紡ぐ彼女の瞳は、しかし僕に向けられることはなく、相も変わらず西日の差し込む雲の隙間へと向けられている。


「儚いから価値がある。それを次の季節に持ち越しちゃいけないの。だから蝉怪人は連れていく。孤独が夏を越さないように。でも、君の孤独は蝉怪人のせいだから、この夏だけは大丈夫」


 分かれ道、住宅街に向かう道へ自転車を押そうとした僕とは逆に、彼女は何もない森へと続く道を選ぶ。


「あたしの家、こっちだから」


 確かにこの先にも民家はあったが、どれも古い農家ばかりだ。


「先輩」


 僕は背中を見せて去っていく先輩を呼び止めた。


「蝉怪人が一週間で死ぬなら、次の蝉怪人はどこから生まれてくるんでしょうか」

「……蝉はね、土の中に何年もいるんだ。何年もかけて大人になって、ようやく外に出てもすぐに死んじゃうの。きっと、蝉怪人も同じ」


 先輩は僕の投げかけた質問に立ち止まると、しかしこちらを振り返ることなく言った。


「土の中に?」

「土の中か、同じくらい安心できる暖かくて柔らかい場所。命の温もりを感じられる場所で蝉怪人は大人になるんじゃないかな」


 命の温もり。


 暖かくて柔らかな場所。


 その言葉を耳にした時、僕は頭に落雷を受けたような感覚に襲われた。


 貼り付いてしまった本のページのように今まで開かなかった記憶が、ペリペリと音を立てて開いていったのだ。


 そして思い出したのは蝉怪人の正体だった。


 僕は爺ちゃんと蝉怪人を同時には見ていなかった。


 あの日、僕が目の当たりにしたのは、蝉怪人と化した爺ちゃんの姿だった。


「筒井くん」


 先輩は最後に一度だけ僕を振り向くと、ゾッとするほど冷たい笑みを浮かべた。


「さようなら」


 茜色の空に伸びる悪魔の手のような森の影に向かい、須藤先輩は消えていく。


 それが、僕の知る彼女の最後の姿だった。


 この後に知ったことだったが、六日目に亡くなった少年––––正之は僕の小学校時代の同級生の名前だった。


 七日目に終わるはずだったのは、本当に須藤先輩だったのだろうか。


 それとも……。


 七年後、蝉怪人はまた現れるのだろう。


 その時、僕は孤独を置き去りにできているのだろうか。


 今年も夏が終わる。


 巨大な積乱雲が霧散し、秋の空へと変わっていく。


 僕は昨日アイロンをかけたばかりの制服を身につけると、幾分涼しくなった空の下に出てカーポートの下の自転車を出した。


 すると、庭木の下に落ちて死んでいる蝉の姿が目についた。


「…………」


 僕は母が庭いじり用に使っていたスコップで土を掘り、その下に蝉の亡骸を埋めてやると、再び自転車のハンドルに手をかけた。そして今度こそ本当に学校に向けて走り出したのだった。



〈終わり〉


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八月の蝉怪人 ブンカブ @bunkabu

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