第8話

 奴はついぞ行為に至りませんでした。私の囁きを聴いた途端、表情は強ばり、逃げるようにベッドから降りました。それから、壁に寄りかかり、いつもの独り言のようにぽつりぽつりと呟きました。


「僕は、人から傷つけられるのが怖い。

人を傷つけるのは、もっと怖い。

でも一番怖いのは、人から愛されること、憎まれないこと……幸せなこと。

愛されれば愛されるほど、怖くなる。

自分が心から愛せるか不安になる。

心から愛せても、それはただの錯覚で僕のエゴイスティックな感情の延長線上じゃないかって……


安城さんは、僕に限りない愛を注いでくれた。それ自体とても嬉しかった。

だけど……怖いんだ、不安なんだ。とてつもなく。


僕には愛される覚悟がない、愛し返す勇気も……


僕は君に拒絶して欲しかった。ほんの少しの拒絶を。さっきだって、煙草の件だって。言って欲しかった、『そんなことをする奴は嫌いだ』って———

だけど君は、僕を肯定することは辞めなかった」


 奴はいつしか頬を濡らし、肩を震わせていました。そうして、私が口を開く前に部屋から逃げ出し、それ以降、奴とは連絡がつきません。

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