第7話
奴に暗い影が差したのは二月の半ばの頃でしょうか。奴は、ぶつぶつと独り言を唱えることが多くなり、煙草を嗜むようになりました。極度の煙草嫌いの私は、何度か煙草を辞めるように忠告しましたが、奴は口元でごもごもと呟くばかりで私へのまともな応答はありません。
私は、奴の躁鬱の「鬱」の時期なのだと思っていました。めっきり寒さも染みつく季節でしたから、心も細くなって煙草のような薬物に手を出したのでしょう。心が強くない人でしたから、何かに依存しないと両の足で立っていられないのです。だとしても、折角依存するなら、物言わぬ煙草なんかより言葉を話せて触れ合える私に依存した方がよっぽど健康的じゃないかしら、と楽観的に捉えていました。
しかし、三月に入った頃になると奴の煙草のタールも増え、そのくせ一服すると苦しそうに咳き込むばかりなので、私は身体への気遣いと少しの悪戯心で奴のピースライトをベッドの下に隠しました。これではたと煙草を辞めてくれれば儲けもの、そうでなくてもここ最近の一方的な二人の会話に何らかのアクションを起こすぐらいの気持ちでした。
しかし、これが奴の琴線に触れたようです。奴はいつもの場所に煙草が無いことに気づくと、気が狂ったように暴れて、私に詰め寄りました。あんなに錯乱した奴を見るのは初めてで、私の反応が遅れると、男の両腕が私の肩をひしと掴み、ベッドの上に押し倒してきました。
私は犯される恐怖を感じました。今まで二人の間に性行為はありません。互いに生娘と生息子でしたから、どこかあの行為に対する慎重さがあったのでしょう。私はいつでもその気概はできているつもりでしたが、こういう状況となると、やはり怖さが勝ります。
奴の力は想像以上に強く、性差というものをまざまざと認識させられました。しかし、不思議と奴の顔は、怒りや憎しみの類ではなく、どちらかというと、哀しく懇願するかのような様相でした。男と女がいて、いつでも行為に及べる状況で、奴は確かに怯えた様子でした。
私は奴の表情に、やはりあの魔力を感じました。確かに愛し合った二人がいつでも愛し合えるのに、奴は怯えています。私は終始、腕に力を入れてません。ただ奴のしがみつく両腕を優しく撫でるだけです。しかし奴は、私を汚そうとしません。なんて臆病、繊細、軟弱。けれども、これは全て彼の優しさの発露な気がして、愛おしくなって、私は奴の右頬に触れ、小さく「いいよ」と囁きました。
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