にわか修羅  

妻高 あきひと

にわか修羅

          --玄斎と善鬼--


「 京とはそのようなところか 」

「 はい、あそこは来たる者は拒みませぬ。

なれど来たとて慈悲はかけず、誰であれ容易に見捨てます。

天下を目指す者にとっては、まずは京に行きつくまでが難事でございますが、仮に京に入ろうとも、生き延びることむつかしく、生きて出ることはなおむつかしくございます。


京の路上には、なにげなく骸が転がっていることも多く、夜になれば鬼火がいくつも彷徨っており、拙僧もしばしば目にいたします。

志半ばで命を落とした者の叫びが燃えておるのでございましょう。

あの義元公も京に関わらねば今もお元気であったに相違ございませぬ。

げに京とは恐ろしきところ、魔界の都にございます。


 京の人心もこれまた他国の者には分かりづらく、拙僧も京に住まいをもってはおりますが、京の者たちを見るにつけ、魔界の住人かと思えるときが多々ございます。

京の街角、京の河原、また化野、鳥辺野、蓮台野などにはそういう夢を追った名も無き者たちが骨や土に変わって埋もれております。


 京は帚木のごとく、近づけば遠くなり、なお近づけば姿が消え、あきらめて背を向ければまた後ろに見えておるような都にございます。

それでもなおも京を目指す者たちのその心意気やよし。

生きるも死ぬも運否天賦。


人の生とは一度きりにて、もう一度はございませぬ。

”後悔先に立たず”と申しますが、人はどの道を取るにせよ、”やって後悔、やらずに後悔”する生き物にございます。

どうせ後悔するならば、やって後悔したほうが心残りがございませぬ 」


「 ハハ、そりゃそうじゃの 」


 話しているのは旅の僧である善鬼。

聞いているのは辺りの豪族で領主でもある黒豆玄斎とその年寄り職の景俊たち側近である。

十年ばかり前に善鬼が托鉢姿でふらっと玄斎の館を訪れてよりの付き合いだ。

玄斎のほうが善鬼より三つ年上だが、玄斎は善鬼には相応の敬意をはらい、善鬼もそれに応えている。


善鬼は諸国の様子、国衆の動静などを、他国の国衆などに伝え、あるいは人の間を取り持つことで銭などを手にして生きている。

善鬼は玄斎と気が合うらしく、よく立ち寄っては諸国の話しをしてはまたどこかへ旅立っていく。

善鬼が話しを続ける。


 「 裏山で蝉の軍勢が鬨の声を上げておりますが、じきにこちらの国境にも、どこぞの軍勢の鬨の声が上がることは間違いございませぬ。

国中に広がりつつある戦は当分の間は収まらず、早め早めに手を打っておかれるのが肝要ではと思えます。


余計なことばかりを語りました。

こちらへ伺うといつも気が緩み口数が多くなって申し訳ございませぬ 」


「 よいよい、話しがそれても構わぬ。

どのようなことでも聞かせてもらえれば血になり肉になる。

ここらにおると京のこと諸国のことは分からず、近在のことすら確かなことは分からぬ。

薬屋や物売りどもの話しは面白いが、信じるにはちと難があるしの。


ご坊が律儀に我が家におとずれてくれて京の事、諸国の事、あれこれ話しを聞かせてくれるのは実に役にたっておる。

ご坊には無駄話しに思えても、わしには千金の値がある。

無駄話にこそ実があるということも多く、何であれ遠慮のう話してもらってよい。

家のものたちもご坊のおかげで見聞が広がっておる 」


 善鬼は目を細めて嬉しそうに少しうなづくと続けた。

「 話しを戻しまするが、桶狭間にて義元公の首を信長殿が討ち取られたのは19日の昼過ぎあたりでございました。

今川殿は荷方を含めれば三万に及ぶ大軍、それを率いる義元公のみか、従っていた松井や井伊など有力諸将も討ち取ったのでございますから信長殿は見事なものにございます。


信長殿は気性激しく怒れば烈火のごとく、というお方にございまするが、そういうお方であればこそ乾坤一擲の大勝負に賭けられたのでありましよう。

ですが激しき気性だけでは、大事はできませぬ。


信長殿の気性の裏には類まれなる判断力と決断力があるに相違ございませぬ。

信長殿はおん年二十七八歳なれど、血筋家格にこだわらず才ある者は取り立てられ、周りの者がおどろくようなことを口にされるお方だと言われております。


これはそもそも、その才ある人物を見抜く力があり、前例にこだわらぬいさぎよさがなくば成り立ちませぬ。

その信長殿を侮った義元公は端から負け戦と決まっていたのやもしれませぬ。


信長殿の名は今や天下に鳴り響き、生き運さえあれば天下を取られるやも知れませぬ。

あのお方こそ、人の姿をした修羅でありましょう 」


「 人の姿をした修羅か、なるほどの、そうかもしれぬの。

今川への奇襲も失敗すれば一家一族も終わりじゃ。

死ぬか生きるかの大博打で信長は思い通りの賽の目を出したということか。

確かに並みの者ではそうはいかぬ 」


 「 一方で今川殿は大黒柱の義元殿を失い、武田、北条、今川の三国同盟も危うくなり、周辺はにわかに争乱の様相を呈しております。

されど今川家の後継ぎである氏真殿はいまだお若くして人望に欠け、政も義元公には到底及ばず、徳川殿などの離反が相次いでおります。


氏真殿の奥方様である早川殿は北条氏康殿の姫なれば、すぐに今川殿が傾くことはなかろうと思えまするが、その先はいかがあいなるや、実に危うき様相を呈し、駿河辺りは混沌としてきておりまする 」

 茶に手を伸ばす善鬼の手元を見ながら玄斎が言う。

「 あの辺りはそういう様子か、ここら辺りもご坊の言う通り、じきに火の粉が飛んでこよう。

のんびりしてはおられぬな、これは。


これよりは並の生き方では生き延びることさえできぬかもしれぬの。

わしに修羅信長の真似ができればよいが、むつかしいのう。

自分で言うのもなんじゃが、わしにそのような度胸があるとも思えぬよ。

のう、景俊よ 」

玄斎はそばに控える景俊に向いて冗談ぽく言った。


景俊は玄斎の父の時代からの側近で十歳あまり年上だ。

玄斎には遠慮なくものを言うが、上下の関係はちゃんと心得ていて、はみ出すことはない。


景俊は玄斎に話しを振られ、

「 さようでございますな、殿には修羅は似合いませぬよ 」

と玄斎の性格も知り抜いているせいか、遠慮もなく笑いながら応えた。


座は柔らかい空気に包まれたが、善鬼は玄斎を違う目で見ている。

( 人はきっかけさえあれば仏にも鬼にもなる。玄斎殿も例外ではなかろう )


玄斎は軽く笑いながら続けた。

「 わしは京には関心がない。

京は遠く、このような田舎におるわしに京に行けるほどの軍勢も銭もありはせぬ。

ましてや、わざわざ京を目指して死ぬなどまっぴらじゃ。

戦の世も早う終わってくれればそれでよい 」

景俊も家臣ももっともだと言うような顔をしている。


 だが善鬼は違う。

茶をひと口すすると言った。

「 まことにぶしつけながら、玄斎殿はじめ御一同に申し上げまするが、戦はこちらから行かずとも、向こうからもやって参ります。

戦はこちらの都合では引き返しませぬ。


戦に巻き込まれ、お家一大事になる前に、近隣はむろん、周辺諸国、諸侯の内情と動静を把握し、お家の安泰と安穏につなげねばなりませぬ。


桶狭間の陰の功臣は物見の者たちにございます。

物見の者の知らせなくば、信長殿の討ち込みも勝利もなかったでありましょう。

信長殿もそれは重々ご承知で、その後はなおも物見の衆を重用されております。


物見あるいは間者の知らせは並の軍師より有益であり、その働きは数百数千の軍勢に、ときには万の軍勢に匹敵いたしまする。

要は世間を世情を知ること、それにつきます。


諸国は騒乱のただ中であり、西にも東にも流行り病のように戦が広がっております。

こちらは京・近江より遠くはございますが、今や遠さは何の慰めにもなりませぬ。

畿内で何事か出来すれば、風より早く次々と伝播し、あっという間に蝦夷にも薩摩にも火の粉が届きまする。


遠いゆえ大丈夫、という思い込みはお家大事のきっかけとなります。

何事も起きてからでは遅く、備えあれば憂いなし。

世の動きを知り、諸侯の動静を探り、万が一に備えられるのが肝要にございます。


それには一にも二にも近隣に万遍なく目を配り、知っておくことにつきまする。

知っておれば手も打てますが、知らねば余計な恐れや侮りを生み、それは一の敵を百の敵に、百の敵を一の敵に見誤ることにも通じます。

戦う者の最大の敵は無知とそれによる恐れにございます。

釈迦に説法なれど、そこのところ、よくよくお考えくだされませ 」


裏山で鳴く蝉の鬨の声が一段と大きくなった。

善鬼は話しが一段落したようだ。


 ひと呼吸おくと玄斎は善鬼に向かって言った。

「 うん、よ~く分かった。今日の話し無駄にはせぬ。

そろそろ昼じゃ、支度がしてあるゆえ供の者ともども昼餉をすませて行かれよ。

また寄って話しを聞かせてくれ。

しばらく寄れぬようであれば文なぞもらえればありがたい。

道中気をつけて行かれよ。

近いうちに会えることを楽しみにしておる 」


玄斎が部屋を出て襖が閉まり、足音が消えるまで善鬼は畳に手をつき頭を下げていた。


 陽が中天にかかるころ、昼餉をすませた善鬼は玄斎の家臣から銭の袋を受け取ると懐に入れ、

「 また近いうちにお寄りさせて頂きまする。お達者にお過ごしくだされ。

玄斎殿はじめ皆々様への神仏のご加護を願っております 」

と見送りの家臣たちに挨拶すると、脇差を差している旅姿の若い男とともに街道から国境への峠に消えていった。


 その夕刻、玄斎は景俊たち側近の者を集めて言った。

「 今日の善鬼坊の話し、信長はやはり修羅じゃろうの。

いつかこの辺りにもその手先か、あるいは修羅に抗する者が現れるじゃろう。

戦は誰かが天下統一せぬかぎり神仏にも止められまい。

我らもはよう手を打たねばならんが、さてどこから手をつけるか、難儀なことじゃ 」


 家と領地の守りもだが、玄斎個人の悩みも大きい。

面倒なのでほったらかしていたが、五十に近いのに子がいないのである。

玄斎には持病も無く体力も十分で女房も側女もいる。

そのうちできるだろうと思っていたが当てが外れた。

精の出るものを食い汗もかいたが、やってもできないものは仕方がない。


しかしこのまま跡継ぎがいないのでは家臣も不安がり、お家騒動にもなりかねない。

何よりも、人の命はいつどうなるやら分からない。

まずはそれを何とかせねば先には進めないことは玄斎も分かっている。

景俊たちもしばしば口にし、家臣たちも内心ではやきもきしている。

今日の善鬼の話しを聞きながら、虫の知らせなのか、玄斎は常になく焦った。


 蝉の声はなおも騒がしく館をおおい、それに合わせるように玄斎の手が扇子をあわただしく振っていた。

玄斎の顔から汗がひと筋流れた。

外は夕暮れ時でヤブ蚊が飛んでいる。


             --養子--


 景俊がぺチッと蚊をつぶすと口を開いた。

「 そろそろ、あの話しを進められてはいかがかと存じますが。

まずはお家の大事、後継ぎをお決めになることが第一にございましょう。

このまままでは、と家臣どももみな案じております 」


「 そうじゃな、いつまでも家中に不安を与えるわけにもいかぬし、もはや逡巡してはおられぬ。そうしよう 」

と返し、そうと決まった。

黒豆は領主といえども所帯が大きくないだけに決まるのも早い。

以前から考えていたことを実行することになった。


 玄斎の妹の次男である次郎を養子にすることになった。

妹には男子が二人おり、長男はすでに家を継いでいる。

次男の次郎はいまだ行き先が決まっていないが、玄斎には子がおらず、親子ともども一家を上げて次郎を玄斎の跡継ぎにと思っている。


玄斎の他の親戚にも養子にどうかと、幾人か当てになる男子もいるが、次郎は気弱ではあっても叔父甥の仲であり、近くにおり気分的にも跡継ぎには一番近い。

玄斎も多少のことなら次郎には遠慮なく言えるし、何よりも生まれたときから知っている。

少々の不満があっても家臣も次郎なら人となりも分かっている。


ただ次郎は性格が気弱で人の意見に流されやすく、それを玄斎は気にしている。

ここまで養子話しを引っ張ったのも、次郎の心の弱さを気にしていたからだ。


だが、もはやそうそう時間はない。

「 人はその場に座れば変わりましょう 」

と景俊たちも言う。

周りが教え支え場数を踏ませてゆけば、よかろうということになった。


加えて、次郎に女房を持たせれば、あの気弱な性格も多少は変わるのではないか、という話しにまでなった。

良きことは重ねてやれば手間も省ける。


 幸いというか隣国の領主である今井忠長が次女の嫁ぎ先を探しており、しかるべき相手はご存じないかと最近も忠長の家の者が景俊に伝えていた。

どのような姫かは噂で聞くだけだが、景俊が聞いた噂では多少気が強い女らしい。

なら次郎殿にはぴったりでござろう、と家臣たちが言う。

無責任な話しだが、これは添うてみねば分からない。


それにいつどこから誰が襲ってくるか分からないご時世だ。

今井の姫を嫁にもらって縁戚となり、万一にも備えて今井と盟約を結べば一石二鳥ではないか、ということになった。


それに黒豆も今井も昔から隣同士であり、双方に領地にかかわるもめ事なども無い。

暮らしぶりも似ており、城はともかく豪壮な館をつくるくらいの財力はあり、言葉も癖が無くほぼ同じだ。


次女の母親は公家の娘であり、嫁になる支度は整っているという。

何事も贅沢を言い出せばきりがない。

ではそれで今井に話しをしようということになった。


 数日後、黒豆はそれで話しを持ちかけたが、ただ今井からみれば気がかりがあった。

玄斎に万が一男子が生まれれば、次郎と次女の扱いはどうなるのか、二人に子どもが生まれておればどうなるのか、ということだ。


今井の談議は二三日かかった。

だが談議は最初はともかく最後には面白半分の話しになった。

玄斎に子はもう無理であろう、玄斎には子種が無いのではないか、種無しならなおさら都合が良い、上手く運べば黒豆の領地も手に入る、と盛り上がった。


特に最後の領地についての話しが決め手になった。

「 それでよい、それでよい、それでいこう 」

と忠長が一番に舞い上がり、側近の家臣たちも飛びついた。

使いは喜色満面で黒豆の館に参上した。

「 お申し出のこと、忠長以下家中の者一同喜んでお受けさせて頂きます 」

黒豆に今井の次女が輿入れすることになった。


 忠長は日をかけて次女にその旨を教え言い含めて納得させた。

次女も隣国の領主の嫁になれば、後々には黒豆の領地も今井のものとなる。

気が強いだけでなく計算高い女だったが、それだけに父の忠長の言葉には素直に応じた。


それに加えて今井は、次女は世間知らずゆえ相談役にという理由で側役をつけて送り出そうということになった。

相談役なんぞ不要じゃと黒豆が言えば、嫁入りを断ればよい。

さすれば黒豆も折れるじゃろう、と勝手に決めてしまった。


 黒豆と今井は似たところが多いが、ただ双方の当主の生き方と家中の空気が天地ほど違った。

黒豆も多少は打算混じりだが、今井は打算だけだった。

戦国の世であり、普通にあることだが、これが後に大きな災いの元となる。


 忠長は改めて玄斎に使者を出した。

「 この縁組に勝るものはござらぬ。ふつつか者なれど我が娘を末永くお頼み申し上げる 」

と調子のいいことを言って縁組話しを受けたが、玄斎に子が出来たときの対応については誓詞を頂きたいと条件をつけた。


黒豆では

「 下男ならともかく、嫁入りに二本差しがついてくるとはの、それに玄斎殿に子が生まれたときのために誓詞を書けとは厚かましい。

一体何を考えておるのか今井は 」

と異論を唱える者も多くいたが、今井の申し出も無理からぬものもあり、黒豆では結局よかろうということになった。


両家の話しはとんとん拍子で進み、玄斎に子が出来ても次郎の座は変わらないと玄斎が誓詞を入れ、翌春の輿入れと決まった。


 年が明けて春になった。

桜が散る中を忠長の次女が籠に乗り、供の者たちを従えて国境を越え、黒豆にやってきた。

黒豆、今井の双方はむろん、近在からも見物人が弁当がけで集まってくるほど華やかな嫁入りだった。


忠長も玄斎の館を訪れた。

館のそばの空き地にはやぐらが組まれ、忠長は集まっていた領民にやぐらの上から

「 黒豆と今井を隔てる境はない。皆の者、わが娘をよろしく頼むぞ 」

と叫び、笛太鼓に合わせて紙で包んだ紅白の餅をまいた。


次郎たちの屋敷は時間が足らず、今まであった客人用の屋敷を大急ぎで手を入れ、供の者などのために部屋数を増やして急場をしのいだ。

式は滞りなく無事に済み、忠長はその夜だけ泊まり、翌日には帰っていった。


 ばたばたしたが、とにもかくにも済んだ。

次郎は盆と正月が一度に来たようにはしゃいでいる。

養子になり嫁ももらった、それまでの次男としての部屋住みとは大違いだ。

はしゃぐのも無理はない。


 だが玄斎は表向きはともかく内心は不満だった。

横に現れた次郎たちの屋敷の新しい屋根瓦の波を見ながら思っている。

( 忠長のやつ、派手な輿入れじゃったの。

やぐらを立てたのも笛太鼓の手配もわしの銭ではないか。

やつが銭を出したのは餅だけじゃ、なのに面と向かっても礼さえ言わぬ。

見栄っぱりなくせに銭も礼も惜しむ奴じゃの。


それにしても何もあそこまでせぬともな、年貢を取り立てられる百姓どもも顔では笑っても腹は別じゃ。

まあ次郎の嫁の実家となれば仕方がないが、それにしてもな )

玄斎は忠長という人物に少し違和感を持った。


       --渡れぬ川--

 

 数日後、玄斎は景俊につい愚痴をこぼした。

「 客人用の屋敷をまた別につくらねばならぬ。

今井が用も無いのに供の者を嫁につけて送ってきよったから余計な銭も人手もかかる。

忠長には少しばかり用心しとかなきゃならんの 」

「 仰せの通りにございまする 」

玄斎の言葉に同調した景俊の言葉は家中の者も玄斎と同じ思いであることを示した。


 肝心の嫁は最初は玄斎と距離を置いているように見えたのが少し引っかかったが、嫁入りと新しい生活への緊張もあったのだろうと好意的に見てそれなりに気をつかった。

だがこの気を使ったことが間違ったメッセージを忠長に送ることにつながり、後に忠長が玄斎を侮る一因になった。


一方の気弱な次郎はすぐに嫁の尻に敷かれ、それなりの夫婦になった。

( すぐに尻に敷かれおって情けない )

と玄斎は不満だが、

( まあ、家中が収まっているならいいか )

と面倒くさいことが苦手な玄斎は思っている。


 忠長は筆まめらしく、家来にしばしば書状を持たせ”娘を大事にしていただき有難い”というような礼を書いてくる。

次女に付き添ってきた者からもしばしば知らせがいっているらしい。


その忠長の書状だが、これほど面白くないものはないと玄斎は思っている。

書状もだが、中に添えられた俳句がこれまた度し難いほど下手なのだ。

人間なにが辛いと言って、下手な俳句を詠まされるほど辛くて不愉快なものはない。

玄斎はその面白くもない俳句に少々うんざりしているが、やめろとも言えず、なかばあきらめている。


 ( それにしても嫁のやつ、わが家に嫁に来た以上は我が家の女であろうに、いつまで実家にしがみつく気か。

娘離れできぬ男親と親離れできぬ娘か、仲がいいのは結構じゃが、ええ加減にせえ。

それにうちの者より、連れてきた今井の家の者を何かと当てにして重用するのも気に食わん。


最初は軽く考えておったが、少々今井に気を使い過ぎたかの、あまり過ぎるようなら次郎にひと言言っておかねばならん )

玄斎の小さな辛抱が続くが、小さなものも重なれば大きい。

 

 二年ほどが過ぎ、空の青さが濃いくなったころ次郎に男子が生まれた。

玄斎にとっては次郎に次ぐ跡継ぎであり、同時に孫でもあり、薄くとも血もつながっている。


玄斎は、これで我が家も安泰ぞと喜び、若すぎるかとも思ったが家督を次郎に譲り、みずからは後見人となって館と屋敷の主が入れ替わった。


 このまま戦の世が終われば、玄斎にはまあまあの人生だったはずだが、世間はそう都合よくはいかない。

戦という流行り病は確実に玄斎の周辺にも近づいている。


あの善鬼が最近は玄斎の屋敷を以前にも増して訪れるようになっている。

戦が一歩一歩近づいてきている証だ。

玄斎は家中に緊張感を絶やさぬようにしている。


善鬼から届く文も最初は遠国の情勢だったが最近はそれが近隣の話しになり始めた。

( これは性根を入れて取り組まねば、家どころか命さえも失う大事になりそうじゃ。

戦がいやだなどと言ってはおられぬ、向こうから攻められれば戦うしかない。


次郎は万一のときは話し合いで片付きましょう、などとバカを言うが、話し合いとは言葉の戦、強いほうが勝つのが道理じゃ。

向こうは軍勢を整え、こちらが拒むと分かっている話しを押し付け、それを拒めば待ってましたとばかりに戦を仕掛けてくる。


向こうは端から戦をする気でやってくるのじゃ。

そんな奴と話し合いで何を解決しようというのか。

そもそも話し合いで解決するなら、戦の世にはならんわい。


それに次郎の軟弱ぶりにも困ったものだ。

黒豆の家臣の言うことは聞き入れず、嫁やそれについてきた今井の家臣の声を聞く。

じゃが嫁の言葉はそのまま忠長の言葉ではないか。


わしの言うことすら馬耳東風で、そのくせ嫁の言うことには従う。

あれほど小心で愚かだったとはな、迂闊だった。

危機感も無く備えも攻めも無頓着では、家も領地も守れぬ。


孫を連れて領内を廻っても、ただ廻っているだけだ。

百姓たちも顔では笑っても陰では迷惑がり、あれこれ言われていると耳に入ってくる。

奴は人間が好いゆえ養子にしたが、やはりそれだけじゃった。


孫は幼いゆえ先は分からんが父があれでは親に似た鮗じゃろう。

肝心要の総大将次郎があの有様では、どこからか襲われれば家臣も狼狽するばかりで、ひとたまりもあるまい。

しくじったな、次郎を後継ぎにしたのは )


 茶を飲む玄斎の手に力が入る。

腹立たしく、悔しいのだろう。

まだ続く。


( 加えて嫁の実家の忠長も同じじゃ。

いざとなれば戦の加勢も互いにせねばならぬのに、次郎の婚儀のときも盟約の話しを持ちかけたのに、わしの話しを中途でさえぎって書画の話しを始めよった。

その後に書状を送っても梨の礫で、今に至るも返事はない。


あやつには世を見る力も危機感もない。

奴の家来が持ってくる書状は肝心なことは書かず、書いてあるのは相も変わらず次女と孫の事、それに下手な俳句が添えてあるだけだ。


近頃はあの下手くそな俳句を詠むたびに腹が立ってしようがない。

詠みとうはないのじゃが、つい詠んでしまう自分にも腹が立ち、なおさらあやつに怒りを覚える。


おまけに詠むたびに忠長のあのお歯黒顔を思い出す。

忠長のあの凡庸さは女房の血であろう。

なにせ女房は公家の娘じゃからの。

何が京で何が公家か、クソッ。

こんなことになるとはな、まさに後悔先に立たずじゃ。


忠長が忠長なら家来も家来じゃ。

忠長に進言するでもなく、百年一日のごとき有様ではないか。

次郎も忠長も十里先に修羅信長が来た、と聞いただけで気を失うかもしれぬ。


何とか早く手をうたねば手遅れじゃ。

此度ばかりは、我が家で決めて我が家で終わる話しではない。

どうすれば良いのか、どうする。あ~ 頭が痛い )

玄斎は眠りの浅い夜が続いている。

 

      --小さな風--


 しかし人生、明日のことは分からない。

驚天動地、玄斎の身にとんでもないことが起きた。

産婆が

「おめでとうござります。

次の紅葉の頃にはご誕生となりましょう」

と言ったときは玄斎もしばらく立てなかったほどの衝撃だった。


側女にではあるが、子ができたのである。

( そういえば確かにあの頃、次郎のことやあれこれ考えながら必死になって子づくりに励んだ記憶がある )

それにしても今頃にな、と玄斎自身が驚いている。


驚いたのは玄斎だけではない。

玄斎の家来も次郎も忠長も領民もみな驚いた。

みな「めでたい」と祝ってくれるが、そう素直にも受け取れない。

それぞれみな立場が違い、多くは口と腹が違う。

そして誰もがその子が男子か女子かと思い、その誕生を待った。


慣れた産婆は男子か女子か分かるという。

玄斎は産婆を問い詰めたが、事が事だけに産婆もうっかり言えない。

分かりませぬ、と言い続けていたがとうとう玄斎の脅しに負けて口にした。

「 おそらくでございますが、男子にあられます 」

と言った。

玄斎はしばし呆然とした。


赤子が男子か女子かで総ての者の人生が変わるのだ。

玄斎は朝晩の線香は欠かさないが、今は暇ができれば仏壇に線香を上げて手を合わせている。


何を願っているのか、本人にしか分からないが、腹の中にいる男子のことであることは確かだ。

玄斎は思っている。

「 産婆に聞かねばよかった、あれ以来よく眠れぬ。

はよう出てこい我が子よ、父はそなたを待っておる 」


そして秋、側女は子を産んだ。

産婆の言うとおり、男子だった。

この時から玄斎の顔つきが変わり始めた。

子はまぎれもない玄斎の世継ぎ、である。


次郎とその子は家の跡継ぎだが、この子は玄斎の世継ぎだ。

「 めでたい、実にめでたい。これぞ黒豆の直系じゃ 」

と家臣たちは喜んだ。

( 殿の直系、これぞ真のお世継ぎ、家をも継ぐべき真の跡継ぎではないか )

とみな思っている。

だがさすがに口には出さず、陰で囁きあっている。


 玄斎は男子に円寿丸という名をつけた。

すでに六十を越えた玄斎、今も身体は頑健だが、円寿丸の将来は綱渡りだ。

玄斎は神仏に感謝しながらもこの戦の世に家と領地、そして何よりも円寿丸を鬼になっても守らねばと、とてつもなく大きな重荷を背負ってしまった。


 だが重荷を背負ったのは次郎も同じだ。

いや円寿丸が生まれた以上、次郎のほうがなお重荷と言える。

今の領主は次郎であり、跡継ぎの嫡男もおり、それを押す忠長もいる。

だが円寿丸の誕生は次郎とその嫡男の立場を危うくし、忠長が疑心を持つことも意味する。


次郎の嫁も円寿丸の誕生で人が変わり、本性が出てきた。

嫁は次郎の子を横において

「 はてさて、お父上もあの年で厄介な子を産ませたものじゃ。今さら男子とはのう、面倒なことこの上もない。

ま、無事に育てばよいが、人の世は思いがけないことに満ちておるでの、何が起きるやら分からぬ。


それにお父上がお年寄りで、生んだ側女も百姓の娘で年が若いだけじゃ。

どこぞ出来が悪うて早死にするか、あるいはどこか少しおかしな赤子かもしれぬ。

大きくなるのが楽しみじゃの 」


と妬みまがいで側の者にもらしたという噂も流れている。

おそらく噂でなく事実であろう、いやもっと許せぬ物言いだったやもしれぬ、と玄斎は思っている。


 男子誕生の知らせは今井忠長にもすぐに届いた。

知らせを聞きながら何と言ったかは分からない。

「 それはめでたいことじゃ 」

と言ったというが、誰も本気にはしない。


玄斎の男子の誕生は黒豆・今井両家の間に風を吹かせ始めた。

家中の者も領民も、玄斎殿はこの先円寿丸をどうされるおつもりかとその話で日が暮れ、夜が明けている。


 忠長は円寿丸が生まれるとじきに書状を送るだけでは不安なのだろう、また家来を送り込んできた。

それも玄斎が知らぬうちに増えていたのだから始末が悪い。


次郎とその女房の周りはすでに人手は余っているのに新たに若い侍を二人送り込んできて館に居着かせた。

このようなことをすれば良からぬ噂になるだけだが、忠長にはそれが理解できない。


案の定、黒豆と今井の世継ぎ争いの始まりか、館は今井の者であふれているそうな、と噂が噂を呼んで領内に広がっている。

しかし玄斎は円寿丸の先行きについては沈黙を守っている。


 円寿丸は父に似たのか百姓生まれの母に似たのか、風邪すらひかず、すくすくと育っている。

円寿丸の病や怪我、その頓死を期待している者もいるが、邪心は人の心のなすところであって止めることもできない。


玄斎の周辺に漂う空気も以前とは明らかに違ってきている。 

忠長も玄斎が沈黙している以上、次郎も孫もどう転ぶか分からず安心はできない。

安穏と構えてもいられないが、さりとて下手に手を出せば大事になりかねない。


そして噂はなおも拡がり続け、円寿丸暗殺か次郎とその子の追い出しか、というような物騒な噂まで流れ始めた。


            --修羅--


 そんな中、近江では信長が比叡山を焼き討ちして坊主も女子供も皆殺しにするという大変事が起きた。

報を聞いた玄斎はさすがに驚いた。

( やりたい放題やってきた比叡山へ阿修羅が仏罰を与えたわけか、坊主どもは自業自得であろう。

坊主が仏罰に当たっておれば世話はないわい。

それにしても皆殺しとは徹底しておるの、まあみな殺しにしておけばあと腐れは無いからの。

ここら辺りもそろそろじゃろうの。

あれこれ噂が流れておるが、焦らぬが肝要じゃな )


 比叡山のことは忠長もすぐに知った。

周辺を吹く風にも噂にも色々なものが混じってくるようになってきた。

領内を行き交う者たちにも明らかに他国の者、目つきの鋭い行商人、不格好な馬喰や隙の無い絵師などが蠢いている。


そのせいか忠長も眠れぬ夜が続いているという噂が玄斎の耳に入った。

「あやつでも眠れんのか、まあ気づいただけでもマシじゃ。

それほど案じるなら人を送ってくるか、書状でも寄越せばよいものをくだらぬ書状ばかりじゃ。

長いこと無視していたゆえ出しにくいのかの。

とはいえ、こちらも風雲急を告げておる。

誰か送って忠長と会う算段をせねばならぬ」


玄斎はすぐに

「諸国近隣の情勢、両家とその領地の守りなどにつき、ご相談いたしたきことあり」

と書いた書状を忠長の家来にことづけ、すぐに届けさせた。


待つこと数日、帰ってきた忠長の返事に玄斎は落胆し、そして怒った。

忠長は領地守護のことには興味も無く、次郎と娘、孫のことだけを書いてきた。

忠長が眠れなかったのは次郎とその妻子のことが気になっているからだと聞かされた時はさすがの玄斎も腹の中が煮えくりかえった。


あげくに書状の最後には何と書いてきたか。

「近隣、両家領地のことは今案ずることでもなく、その時でもよろしゅうござろう。信長ごとき田舎者、坊主女子供を山に閉じ込めて丸焼きするような男に神仏は加担はいたしませぬよ、気にするほどの者ではなく、その家臣どもも同じでござる。玄斎殿はお考え過ぎじゃ。もうちと大将らしくなさらねば家臣領民が不安がるのではないか。どっしりと構えられるが肝要じゃ」


玄斎が怒るのも当然だ。

「あやつ、子供にでも言い聞かせているつもりか。この期に及んでもまだ身内のことだけか。おまけになんじゃあやつめの面は、わしをバカにしおって」


返書を持ってきたのは忠長の家老だったが、玄斎に書状を差し出したときの卑しき上目遣いと薄ら笑いが玄斎を不愉快にさせ、書状の内容がそれに火をつけた。

家老は普通の顔だったが、つい魂胆が顔に出たのだろう。

玄斎はそれを見逃さなかった。


 そして数日後、また忠長からの書状がきた。

今度は次郎の館にいる忠長の家来が持ってきた。

内容は火に油を注ぐがごときのものだった。

「なんじゃこの書状は、人をばかにしおって、これでは大事は相談できぬ。これでも領主か」

玄斎はその書状と俳句の短冊をもしゃぐって畳に投げつけ、畳が凹むほど力いっぱいに踏みにじった。


       --黒い川--


 円寿丸にも元服の話しがちらほらと出てき始めた。

だが先行きはまだ決まっていない。

玄斎は相変わらず沈黙したままだ。


忠長も円寿丸の先行きに関しては何らかの手助けはせねばならぬと分かってはいるが、あくまでも自分が悪人にならぬためのもの、でしかない。


噂は噂を呼び、忠長がこういうことを言うたそうな、という話しも流れている。

噂では忠長いわく、

「 円寿丸に領地分けは無理じゃし、新しい家門も金と田畑がいる話しで無理じゃ。

京にでも送って書画文芸で生かすならそれは良い。

いずれ黒豆の領地も手に入るし、京に円寿丸がいれば、わしも京に行くときは使えるしの。


しかし銭は黒豆が出すのが筋で今井には関係ないからの。

ビタ一文も出す気はないわい。

玄斎が他国を切り取って円寿丸を主にする気なら助けてやらねばならぬが、戦に負ければ一大事じゃ。


円寿丸のために戦なんかしとうはないし危ない目に合うのはまっぴらじゃ。

もっとも玄斎にそれほどの度胸はあるまい。

まあ、とりあえずは玄斎に任せておこう。


黒豆のやつ、あの年で小童なんぞつくるからじゃ間抜けめ。

黒豆め、いつか茶漬けにして食ってやる 」


噂の大方は事実であろうと玄斎は思っている。

あの忠長なら、これくらいのことは言っても不思議はないからだ。

玄斎は円寿丸を見ながら言った。

「 そちには、必ずよき国を残してやる 」

円寿丸はニコニコ笑っている。

 

 一方の忠長も考えている。

「 さて、ならばそろそろ動くとするか。

あまり時を無駄にする余裕も無い。

黒豆でなにか騒動が起きぬ前にせねばならぬ。

策がいるの。

何か宴でも開いて玄斎と円寿丸を招くとするか。

闇討ち、毒殺も一応胸にとどめておこう 」

黒豆、今井両家の間に黒い川が流れ始めた。


          --梅雨--


 黒豆の館や屋敷の屋根を雨が濡らしている。

大した降りではないが、どうやら梅雨に入ったようだ。

玄斎の屋敷を善鬼が数日前から訪れている。

玄斎は居間の縁側から雨空を見ながら言うともなく言った。

「 雨降って地固まる 」

じゃの。

側に控えている善鬼は軽く頭を下げた。


 そして玄斎は家中の者や次郎、逗留し続けている忠長の家老たちに、

「 円寿丸のこれからにつき話しておくことがあるゆえ二日後にわが屋敷の広間に集まるように 」

と指示を出した。

次郎も忠長の家老たちもやっとかというような安堵の顔で受けた。


家老はその直後に今井に使いの者を走らせた、と国境の陣屋から知らせが入った。

玄斎は

「 そうか、ご苦労であった 」

とだけ言った。


 二日後、雨は降ったりやんだりを繰り返している。

屋敷の広間の廊下側の襖は外され、次郎が入ってくるのを待っている。

梅雨特有の湿った生暖かい風が庭から入ってくる。

雨は激しくはないが風があり、広間と庭を隔てる廊下の板も濡れている。


 やがて忠長の家老と供の者二人が広間に入ってきた。

見ると廊下の端に雲水らしき男が座っている。

人の好さそうな顔だが目は鋭い。それに玄斎の家中の者が少ない。


三人で額を寄せて何かささやいていたが家老が玄斎の側に仕える者に尋ねた。

「 あちらのお方はどなたでござるか 」

「 あのお方は、よく訪ねてこられる玄斎殿のおなじみで善鬼殿と申されます。

こういう機会はめったにないゆえ廊下で申し訳ないが、よければ座っておられよと、殿が言われ、ならばと座っておられるのでござる。

怪しき方ではござりませぬ 」


「 ああ左様か、失礼申し上げた。

ともう一つ、家中の方々がちと少のうござるが何事かござったのか 」

「 梅雨に入り、村々や川の土手、山崩れなどの見守りと見回りに人を多く行かせておりますので 」


「 左様でござるか、それはご苦労なことじゃ。

人手が要ればこちらからもお出しいたしますゆえ、ご遠慮なくお申し付けくだされ 」

と言って家老たちは座り直した。


 やがて玄斎が現れ、次郎も現れた。

次郎は上段に座り、玄斎はその前でみなと同じに座った。

広間を見渡した次郎が言う。

「 皆の者待たせた。父上、よろしゅうございますか 」

と次郎が言うと玄斎は”では”と返事して立ち、次郎や忠長の家老たちを見下ろしながら大声で言った。


「 みなに直截に申し上げる。

わが家の跡継ぎは、これより我が実子円寿丸とする。

円寿丸が元服するまでは拙者が後見人となる。

これは家中一同、思いは同じである 」


一瞬で次郎も家老たちも凍り付いた。

次郎は身体が震え、家老たちは血の気がひいている。

家老が

「 そ、それは、許されぬことでは、玄斎殿は誓詞も出されて 」

と言いかけると玄斎は右手で家老をさえぎり、言葉を続けた。


「 ご家老よ、忠長への誓詞なんぞ紙切れじゃよ。

屁でもないわい。

次郎は今をもって当主ではない。

明日に改めてその座に円寿丸を座らせる。

どけっ次郎、そこはもはや貴様の座るところではない 」


突然次郎は泣き顔で

「 わ、わたしは 」

と言いかけると玄斎は大声で怒鳴りつけた。

「 泣いておるのか、泣くな、みっともない。

それでも武士か、やはりお前に領主はつとまらぬ。

次郎よ安心せい、そなたには替わりに新田郡を与え、新たに屋敷をつくり妻子ともどもそこに移らせる。

以上である。皆の者しかと心得よ 」


玄斎の家来たちはそろって「 ははあ~ 」と言うや、両手を畳につけ頭を下げた。

だが次郎は涙で濡れた顔でただ呆然と玄斎の顔を見上げている。


「 あいやしばらくお待ちくだされ 」

と忠長の家老が顔を真っ赤にしながら玄斎に迫り言った

「 玄斎殿は血迷われたか 」

「 わしは血迷ってはおらぬよ 」

と玄斎は静かに言った。


いつもの玄斎とは明らかに違う。

まるで別人のようじゃ、と家老は思いながら、ひと呼吸おくと言った。

「 玄斎殿のお言葉、聞き捨てなりませぬ。

新田郡を与えると申されたが、新田郡は我らが今井家の領地ですぞ。


我らの主、忠長殿の領地であり、玄斎殿には何の縁もござらぬ土地である。

であるに何をもってそれを次郎殿にと申されておるのか、しかとご説明を頂きたい。

本気ならば、どうやって新田郡を次郎殿に与えられるおつもりか。

ご返答次第ではたとえ黒豆家前当主殿といえども許しませぬぞ 」


だが玄斎も家来たちも平然としている。

玄斎は続ける。

「 さようであろうな 」

ひと呼吸おいて玄斎が言う。


「 国境近くに集めておいた我らの軍勢が昨日夕刻に国境を越え、今井に攻め入った。

知らせの者によれば、国境の番所はすぐに落とし、街道沿いの詰め所も陣屋もみな落とした。


刃向かう者も刃向かわぬ者も今井の者はみな討ち取った。

黒豆の邪魔をする者おらず、まさに無人の野を攻め入るが如し、と知らせの者が言うた。


忠長も油断し、逃げ支度を始めたときはすでに遅く、忠長の館に押し入り、先ほどの知らせでは忠長一族は館の奥に雪隠詰めになっており、すでに囲んでおる。

館にいた家来どもも討ち取り、逃げた者には落ち武者狩りの触れを出した。

一人とて逃がさぬ。


忠長と妻女たちに囲みを抜ける手段はすでになく、自害か、そうでなくば館ごと火をつけるか、攻め入って忠長一族の命を頂くかじゃ。


事はすでにそこまで進んでおる。

この時刻、もはや攻め入っているやもしれぬ。

忠長はお前たちへの知らせも出す暇がなかったようじゃの。

もっとも仮に出しても途中でみな討ち取る手はずじゃったからの 」


聞いている家老の鼻からタラっと真っ赤な鼻血がひと筋流れた。

頭の中のどこかが切れたようだ。

玄斎の家中の者の数が少なかったのは、今井を攻めているからだ。

家老が顔の下を鼻血で真っ赤にしながら身体を震わせ玄斎をなじった。


「 昨日夕刻に国境を越えたと、今の今まで我らはそれを知らなかったということでござるか。

玄斎殿、見損ないましたぞ、裏切り者め、誓詞まで出したのは策であったか、卑怯者め。


あげくわれらが領地を騙して奪い取り、わが殿忠長殿のみかそのご一家も討ち取るおつもりか。

いままでの友誼は信頼は全てウソでござったか。

そもそも我らは縁戚ではござらぬか。


嫁に来られた姫はどうされるつもりか。あまりに卑怯であり卑劣であり神仏にも背く所業ではござらぬか 」


玄斎は家老たちより刀の長さほど後ろへ下がると言った。

「 そもそも策を弄して娘を我が家に輿入れさせたのは今井であろう。

その後の今井の様はまさにわが黒豆を乗っ取るがごとくじゃ。


わしがそれを知らぬとでも思うたか、そちの今までの無礼を知らなかったと思うてか、無礼者め、身の程を知れ。

こうなったは忠長以下、今井の者たちの愚かさゆえじゃ。

貴様たちも嫁も同罪じゃ。


 家老よ、我はこれより修羅の道を行くと決めた。

そなたたちの領地はすべて頂く。

卑怯も卑劣もクソもない。

騙すつもりで騙されたおのれたちの愚かさを恥じよ。


今の戦の世には忠長にも次郎にも領主は務まらぬ。

お歯黒忠長に任せればじきに命も家も領地も総てを失う。

忠長一党あるかぎり今井家にもどうせ明日は無い。

そなたたちも不憫じゃが命をもらう。

今までの無礼をまとめてお返しする。

覚悟せよ 」


と玄斎が言うやいなや、廊下にいた善鬼がバッと後ろへ下がると同時に左右の襖ががっと開き、抜刀し、槍を持った者など十数名が無言でなだれ込んできた。

庭の奥からも数人の侍が飛び出てきて家老たちが逃げられぬように退路を断った。


家老の供の二人は数本の槍に囲まれ、あっという間に突き刺され寄ってたかって斬り刻まれて息絶えた。

家老は腹を槍で突かれ、背中に深くひと太刀浴びるとグワ~と声を上げ、脇差を振り回しながら廊下から庭に転げ落ちた。

そこを槍で首を突かれて息絶えた。


あっという間の出来事だった。

庭を流れる雨水が一気に赤く染まった。

広間も廊下も血しぶきが飛んでいる。


隣の館でも悲鳴や怒声が聞こえている。

鉄砲の音も数発ばかり続けて響いた。

女の悲鳴、阿鼻叫喚の景色のようだ。

断末魔のようなうめき声も聞こえていたが、じきに静かになった。

総て済んだようだ。


なす術もなく、べったりと座りこんでいる次郎の顔も血しぶきが飛んで黒子だらけのような顔になっている。


玄斎が次郎に言った。

「 貴様に新田郡をやると言ったのは、あのクソ家老を怒らせるためのウソじゃ。

お前にやるものはなにも無い。

お前の母と兄一統は我らに従うとすでに決まっておる。


貴様は仏門に入れ。

嫁と子は殺してはおらぬゆえ、この先どうするかは、嫁に決めさせよ。

嫁が死ぬというなら子とともに死なせてやれ。


忠長の命はもはやなく、嫁に帰る家は無い。

嫁が生きるというなら子とともに出家させて仏門に入れる。

すぐに聞いてまいれ。

時が延びれば人をやって斬り殺すぞ。

お前にはすでに加勢する者も助ける者もおらぬ 」


次郎は泣きじゃくり青い顔でよろけながら館へ戻っていった。


( 泣き続けておる。あやつを跡取りにしたのはやはり間違いじゃった。

言ってみればあやつを跡継ぎにしたのが災いの始まりじゃった。

同じ過ちは繰り返さぬ。

家と家臣と領地、そして円寿丸が総てじゃ、これでよい )

と玄斎は心の中でつぶやいた。


 庭の奥から百姓姿の目つきの鋭い若者が二人現れて善鬼のそばに控えた。

家老たちの死にざまを見ても顔色一つ変えなかった。

善鬼が言った。

「 みなすみましたな、あとは良き知らせを待つばかりでございますな 」

玄斎は家老たちの骸を見ながら

「 うん 」

とひと言つぶやいた。


 昼前、鎧に血をつけた武者が馬に乗り、待ちかねた知らせをもってきた。

「 殿、忠長殿の首はさきほど落としましてございます。

総攻めをし、館に籠っておられた忠長殿とその妻女たち、側の者たちみな一人残らず討ち取りましてございます。


忠長殿には

『ご切腹なされ、介錯いたしまするゆえ』

と申し上げたところ、小袖をめくり、腹に脇差の切っ先をあてるまではされましたが、狼狽され怒鳴り泣かれ、あげくに脇差を振り回す始末にございました。


仕方なく、数人で羽交い絞めにし、別の者が忠長殿に脇差を持たせてその手を取りながら忠長殿の腹に刺し、一気に横に切り裂きました。

忠長殿が大人しくなられるや、忠長殿の髪を引っ張り、首が伸びたところを一刀で介錯いたしましてございます 」

玄斎は小さく「 うんうん 」とつぶやきながら聞いている。


「 忠長殿の奥方殿もお子たちもみな討ち取りましてございます。

忠長殿と奥方殿、お子たちの首は化粧し、塩漬けにして桶に収め、明日には持ち帰り、ご覧いただけまする 」


「 ご苦労であった、待ち遠しいの 」


 玄斎は安心した。とにもかくにも忠長の首がないことには話にならない。

忠長方の動揺は激しく、軍勢はまとまることもなく、玄斎の軍に個々に粉砕されて散りじりになり、ある者は逃げ、ある者は斬り死にし、生き残った者やその身内家族は山々に逃げ込んでいる。


 玄斎は落ち武者狩りの触れに加えて指示を出した。

「 忠長の一族も家来も一人とて生かさず皆殺しにせよ。

それを助ける者も許さぬ。

忠長の首は首実検のあと忠長の館にさらす 」

玄斎はあの修羅信長のように、やるときは徹底的にやるべきだと思っている。


「 今井の者を討ち取れば褒美を出す。

身に着けている褌から着物、武具まですべて剥ぎ取り金に換えることも許す 」

と書かれた高札もすぐにあちらこちらに立てられた。


落ち武者狩りはおよそ半月でけりがついた。

今井の一族郎党はほぼ根絶やしになった。

生かしておけばいずれは刃向かってくる。

誰を殺そうと大事なのはその後であり、手段はどうでもいいのである。

その後の政が良ければ領民は従う。

領民にとっては暮らしさえよくなれば、領主は誰でも構わないのだ。


 忠長のお歯黒首は女房ともども館の門前にしばらく晒されていたが、ある朝全て無くなっていた。

今井の菩提寺には無く、どこぞに捨てたのだろう。


玄斎の館で殺された家老たち三十人ばかりの遺骸は裸にむかれ藁で包まれ、国境の間道から獣道にそれ、なおも歩いて半時程の底が見えない深い谷に捨てられた。

烏や獣に食われ、来年には土に還る。


 次郎は玄斎にとっては邪魔でしかなく、出家して寺に入ったもののひと月経たずに亡くなった。

なんでも夕餉の直後に口から血を流し、もがきながら逝ったという。

次郎の子も寺に送られ、次郎と同じころ同じ死に方で亡くなった。


 次郎の女房は生きることを望んで仏門に入った。

女房は毎日、紙片に黒豆玄斎と書いてはそれに針の先を何度も何度も突き立てていた。

寺に入った当初は藁人形までつくったそうだが、寺の僧たちが女房を殴って無理やり取り上げて燃やし、その上で女房を寄ってたかって折檻したという。


その後女房はいつの間にか姿が消えた。

どこへ行ったのか、黒豆の者は誰も知らないし、誰も詮索もしない。


 騒動は領民の間でしばらく酒の肴になった。

「 騙すつもりが裏をかかれて滅ぼされた。

どっちもどっちで、今井の忠長や次郎も化けては出られまい、なにせ黒豆を乗っ取るつもりじゃったのが裏をかかれたのじゃからの、そりゃ恥ずかしゅうて化けては出てはこられまいよ 」


           --天の声--


 玄斎は忠長の領地も手に入れ、円寿丸は幼少ながらも二ヵ国を治める世継ぎとなった。

当主はむろん玄斎である。 

「新しい家臣も入れねばならぬし、今井の領民も従わせねばならぬ。

時間がいくらあっても足らぬわい」


館の後始末はすでに済み、血の匂いも消えているが、天井や柱のところどころにはまだ血の跡や刀傷がある。

だが一々気にしてはいられない。


戦国はまだまだ終わる気配すら無い。

玄斎の二つの領地にも近隣から様子見がてら兵が入ってくるようになった。

「 今井の生き残りも混じっているのじゃろう、小うるさい奴らじゃ。

じきに始末してやるわい 」


 玄斎は年が変われば何かやるらしい。

小さいながらも軍勢や鉄砲武具をそろえ、あれこれと忙しく動き回っている。

あちらこちらの武将や国人たちにもしきりに手紙を書いては、善鬼やその手下たちに持たせて配っている。


 月が過ぎ紅葉の葉が舞い散るころになった。

館の廊下にも紅葉が風に吹かれて舞っている。

玄斎が廊下に立って紅葉を見ている。

上を見上げれば一面の青空だ。

玄斎は誰に言うともなくつぶやいている。


「 今やわが家は二国の領主となった。

領民もわしを見る目が変わった。

何もかもが半年前とは違う。

舞い落ちる紅葉さえ、昨年とは違うて見える。

領地が広がると、景色も心の中もこれほど変わるのか。


何であろうかの、この心地よさは、血のたぎるような気分は。

心が躍るような気すらしておる。

人を多く殺めたが、なぜかそれが罪という気も起きぬ。

いや楽しくさえある。

わしは悪人かの、いやそれとは違うの、違う。


強くなるとこういう気分になるのか、悪くない。

この高ぶる気持ちを、血がたぎるような気分を修羅信長も味わっておるに違いない。

あやつらがなぜ天下を目指すのか、分かりそうな気がする。


いやあれほどの者だから、見ておる景色はわしの数倍いや数十倍か数百倍であろうの。

信長のような大きな景色を見たいもんじゃ。

円寿丸のためにも広げた領地をもっと広げねばならぬ。

一度きりの生じゃ、後悔しとうはない。

攻めて、攻めて、攻めまくって領地を広げるのじゃ 」


突然空から声が聞こえた。

「 玄斎よ、広げた先に何があるのか 」


玄斎は一瞬考え、そして青空に向かって叫んだ。


「 京に行く 」








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にわか修羅   妻高 あきひと @kuromame2010

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