Ch. 2 - 世界の終わりと彼女の恋の関係性

14. 恋のはじまりの場所と、想いの変化と。

 ふと目が覚めて、あたりを見回したが、まだ夜明け前のようだった。窓の外は暗く、部屋の中も冷え込んでいる。見慣れた部屋の、いつもの寝台で、そのままもう一度寝直そうと掛布をかぶろうとして、左腕に目がいった。そこに何もないことに違和感を覚える。そうしてエルは、ようやく昨日のことが夢でもなんでもないことを思い出した。

 消えた黒い刻印と、砕けた腕輪。そして——。


 慌てて寝台から起き上がって扉を開けると、ふわりといい匂いが漂ってきて、すぐに台所に立つその人の背中が見えた。そのまま駆け寄って、両手で顔を包み込むようにして引き寄せる。相手は驚いたようにこちらを見つめた。

「エル?」

「ロイ、もう平気⁉︎」

 勢いこんでそう尋ねた彼女に、ロイは杓子レードルを持ったまま怪訝そうに眉根を寄せる。その瞳はいつも通りの冬の空のような穏やかな青で、顔色もいつもと変わらなかった。ほっと息を吐いた彼女に、ロイは何かを合点したとでも言うように口の端だけで笑って、それからエルの顎を空いた手ですくい上げた。

「その話はもう昨夜したと思ったが、眠ったら忘れちまったのか? これも?」

 ごく自然に、その顔が近づいてきて、唇が重なる。触れるだけではない、深く絡み付くようなそれに驚いていると、杓子を置いた反対の手がエルの瞼を撫でる。目を閉じるように促されているのだと気づいて、戸惑いながらも触れる指の動きに逆らわずに目を閉じると、強く抱きしめられた。


 何度も深く繰り返される口づけに、どうしていいかわからずぎゅっとその腕を掴む。それでも口づけは止まず、息が苦しくなるほどに繰り返されてから、ようやく唇が離れる。間近に見える青い瞳は、いつもとは違う光を浮かべているけれど、それでもやはりそこにわずかな戸惑いを見てとって、どうしてだかほっとする。きっとそれは、エルの瞳にも同じように浮かんでいるだろうと思えたから。


 彼はずっと優しい保護者で、そして今、変わろうとしているかもしれないけれど、エル自身と同じようにそれに戸惑ってもいる。


「ロイ」

「何だ?」

「大好きだよ」

 そう言って、その顔を引き寄せて、ほんの少しだけためらいながら、ゆっくりと唇を重ねる。触れるだけの、親愛のそれに近い口づけを。

 目を開くと、戸惑うと言うよりは何かに呆れたような、それでも優しい笑みが浮かんでいた。

「そんな台詞までそっくりだな」

 誰に、とは聞くまでもなかった。抱きつくと、ゆっくりとその腕がエルの背中に回される。

「でかくなったなあ」

 感慨深くそう呟く横顔は、どこか泣きたいように見えた。

「俺が、あいつに出会ったのも、ちょうどあいつが十七歳の時だったな、そういえば」

「そうなの?」

「ああ、孤独に生きてきて、初めて救い上げてくれた相手からも引き離されて、三年もの間、たった一人で世界をさまよってた」


 ——もう疲れた、と言っていたのだという。


「だが、ぎりぎりでアルはあいつを見つけた。俺はたまたまそこに居合わせたんだ」

「それで、好きになった?」

「……手短に言えば、そうだな」

「それでも、ディルはアルを好きになった?」

「というよりは、俺に出会う前からそうなってたんだ」

 そう運命づけられて、とロイは、エルの問いに肩をすくめて笑う。きっと、それはもうとっくに彼の中では解決してしまっているのだ。けれど、だとしたら、どうして彼はずっと彼女と、エルたちのそばにいてくれたのだろう。

 その問いを読み取ったかのように、今度は苦く笑う。

「お前は今、幸せか?」

 唐突な問いに、戸惑いながらもエルは素直に頷く。何不自由なく育てられ、大切に愛されて、それが幸せなことだと、外の世界を見るまで気づかなかったほどに。

「うん、ずっと、そうだと思う」

「そうか」

 ロイは、彼もまた幸せそうに優しく笑う。それこそが、彼が望んでいたことで、だからそれが彼がそばにいてくれた理由なのだとエルも気づいた。そうして、胸の奥に暖かな火が灯ったような気がした。同時に、自身の中にある、一つの想いに気づく。どうして彼女が、ずっと彼の「お嫁さん」になりたかったのか、その理由に。

「ロイ、あのね」

 少し体を離し、その大きな手を両手で握る。ずっとエルたちを優しく包み込んでくれた、大きくて優しい手だ。

「ディルは、ロイにも幸せになって欲しい、ってそう言ってたよ」

 大きく目を見開いて言葉を失ったその顔に、けれど伝えたい本当の想いをさらに続ける。

「無理をしてたばかりじゃないと思うって、ディルも言ってた。でもね、私もディルもジークもシェスも、みんなロイのことが大好きだから、私たちのためだけじゃなく、本当に自分のために何かを望んで、そして掴んで欲しい。それが、どうしても私じゃダメならそれも仕方ないけど、でも——」


 もし、本当にエルを望んでくれるのなら。


「私も、もっとずっとロイが笑って過ごせるように色々考えるから」

 そこまで言ったところで、きつく抱きしめられる。背中が折れそうなほどに、今までされたことがないほどに、切実な想いがこもったような、強い力で。

「ああ、もう……本当には」

 何かを堪えるような、絞り出すような声で呟くその声は微かに震えていて、だからエルはその背に腕を回して抱きしめ返す。しばらくそのままでいると、ややしてどこかの部屋で物音がした。誰かが起き出してくるのだろうかと気づいて、ロイが腕を解く。それから、エルの耳元に口を寄せた。

「朝飯が終わったら、一緒に行って欲しいところがある」

 どこへ、とは訊かなくても、エルにはわかるような気がした。



 朝食の後片付けを終えて、出かける支度を始めたロイに、エルがついて行こうと立ち上がると、ジークも同様に立ち上がったが、アルに静止される。

「何で?」

「いいから、お前はシェスと夕飯の狩りでもしてこい」

 ジークは不服そうだったが、強い金の眼差しが揺らがないことを見てとって、不承不承頷いた。ロイが軽く眉を上げて肩をすくめるのが見えたが、アルはただ軽く笑うだけだった。


 外套を羽織って外に出ると、空は澄み切って青い。エルの瞳はいつも空を映して同じ色になるが、隣に立つその人の瞳も同じ色だった。

「どうした?」

「同じ色だね」

「ああ……そうか」

 くしゃりとエルの頭を撫でて、それから森の中をゆっくりと歩く。時折、そこここに咲く花を見つけては少しずつ摘んでいく。

「それ、なんていう花?」

 小さくて白い、カップを逆さまにしたような花がいくつもぶら下がるように咲いているものを指差してそう尋ねると、ロイがエルの目の前に差し出してくる。

雪片スノーフレーク、と呼ばれている花だな」

「へえ、綺麗だね。この青いのも」

 雪の中で鮮やかに咲く青い花は、白い花と合わせると、そのコントラストがとても美しい。そういえば、名前は知らなかったけれど、よく家の中には花が飾られていたな、と思い出した。飾られなくなった理由は明らかだったから、それについては今は触れられなかったけれど。


 そのまま並んで歩いて、森の奥の泉にたどり着いた。大きな樹の根元に、灰色の四角い石が置かれている。表面にはさまざまな花の意匠が彫り込まれているが、文字は記されていない。その必要がなかったのか、あるいは、何か言葉を刻むには、想いが深すぎたのかもしれない、と今ならわかる。

 ロイは摘んできた花を石の上に置くと、その表面を撫でた。何かを懐かしむようなその眼差しは、切なく、そして優しい。それから、ゆっくりとエルを見上げた。

「俺は、埋葬には立ち会えなかった。どうしても、そこにいたくなかった」

 ロイは、茫然自失し、全てを投げ出していた彼女たちの父親アルを数日間そのままにして、生まれたばかりの赤子と子供たちの世話と家事全般を一手に担っていた。

 それでも、ディルを埋葬する時には確かにその姿がなかったことをエルは覚えていた。ずっとそばにいたのに、その時だけ、馴染んだその人がいなかったことがひどく不思議だったからだ。


「でも、その後、ここに来たよね、二人で」


 黄色い小さな房をいくつもつける花を持って、二人で手を繋いで。墓石を見下ろすその横顔が、何だか今にも消えてしまいそうな気がして、ぎゅっとその手を握ったことと、その後、エルの頭を撫でた手の温かさも。

「憶えて……いたのか」

「忘れるわけ、ない」

 それこそが、エルがロイのそばにずっといようと決意した瞬間だったから。ディルに言われた言葉も、その時感じた淡い不安も、それら全てがその瞬間につながっていたような気がしていた。

「ずっと、側にいたいってその時、思ったんだよ」


 ——ロイがいつか、泣きたいと思った時に側にいられるように。


 そう言ったエルに、ロイは今度こそ大きく目を見開いて、それからその暗赤色の髪をかき上げて、泣き笑いのような顔をする。それでも、涙がその目に浮かぶことはなかったけれど。

 ぐい、とそのまま引き寄せられる。その胸の暖かさは、ずっと昔から変わらない。

「泣いてもいいんだよ?」

 そう言うと、低く笑うのが触れた体から伝わってくる。抱きしめたまま、耳元に顔が寄せられる。

「男ってのはな、惚れた女の前では、格好つけたいもんなんだよ」

 見上げると、どこか困ったような、何かを諦めたような顔がそこにあった。確かに、青い瞳にはそれまでとは異なる決意に似た何かが浮かんでいるように見えた。

 家族のように過ごした時間が長すぎて、どんな風に変わっていくのか、今のところは見当もつかない——そう思っているそばから顎をすくい上げられた。空と同じ色の瞳がじっと、エルの同じ色のそれを捉える。


「本当に、俺のそばにいてくれるか?」

 まっすぐに問いかけられて、脳裏に浮かんだのは、あの厄介な青年のことだった。

「えっと……色々面倒なことに巻き込んじゃうかもしれないけど、それでもよければ」

 だが、ロイはそんなことは織り込み済みだ、とでもいうように平然と笑って、そして確かにその瞳に熱を浮かべて顔を近づけてくる。

 その眼差しの熱さに気圧されながらも、何となくそれを避けるように、その胸に顔を押し付ける。

「エル?」

「なんか、ここだと、恥ずかしい気がする」


 ディルが見守っているような気がして。声には出さなかったその言葉を正しく理解したらしく、ロイは低く笑って、もう一度しっかりと彼女を抱き寄せると耳元で囁いた。


「なら、またあとで、ゆっくりな」


 その声の低い響きがあまりにそれまでと違いすぎて、真っ赤になった彼女に、ロイはもう一度楽しげに笑ったのだった。

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色彩の瞳の少女と気長な恋 橘 紀里 @kiri_tachibana

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