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光田寿

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 * *


光田寿みつだことぶき


 * *


『いずれにしても僕は、この喜劇を演じようと決心したのだ。そうして、僕が自殺を決心するまでには、決して二年も一年も半年も半ヶ月も要しなかったのだ』

 ――小酒井不木こさかいふぼく『ある自殺者の手記』


 * *


 1


 公園にはいつものその人がいた。ぼくがその人に気付いたのは、ニンテンドー3DSで『スーパーマリオ3Dランド』をやっていた時のこと。ベンチに座り、隣で折り紙を折っていた、妹の桃愛もあが急に声をかけてきた。

りん! ねぇ、凛! あのおんちゃんが、こっち見ゆぅ……」

 いつもなら、小三のぼくに負けじと勝気の強い、桃愛が少し怖がっていた。ぼくはゲームをやる手をやめて、その人を見返した。その人は、公園の端にある馬の乗り物に座っていた。ぼくは桃愛を守り、その人に近づいて声をかけてみた。

「あのぉ……ぼくらぁ、見ゆぅようですが、なんか用ですか?」

「あぁ、ごめんなぁ。こりゃ、きらわれてしもたかなぁ……」

 その人は目を指でシバシバとさすりながら、弱く、小さい声でそう答えた。

「いや、ほんまに悪い悪い。ごめんなぁ……。おびやかすつもりや無かったがやけど、お前が持っちゅぅ、そのゲームが……気になってなぁ」

 最初は怪しいと思ったが、どこかやさしげな目でぼくを見てきた。でも、なんとなく、かなしい感じなのは、小学生のぼくにも分かった。

「お、そっちのお嬢ちゃんが持っちゅぅがは、折り紙か。これも……懐かしいな」

 桃愛もやさしげな目に安心したのか、自分が折った折り鶴を、そっと見せた。よれよれだが、一生懸命折った鶴だ。

「うん、おんちゃん! これ、桃愛が折ったんがやで」

「モア……って。すっごい最近の名前やなぁ……。そんでもって、俺はおんちゃんか……そっか、おんちゃんね。まぁ、お嬢ちゃんらの目から見たら、二十九は立派なおっちゃんかもな。まぁ、こんなおっちゃんにな、普通は近寄ったらいかんがやで……ってずっと、お前ら見ぃよった俺が言える立場やないか……」

 その人はブツブツと繰り返すと、頭をぼりぼりと掻いたんだ。でもぼくが驚いたのはそこじゃなくて、二十九という言葉だった。うちのお父さんが四十二で、やくどしっていっていたはず。でも目の前の、その人は、ボサボサな髪の毛と顔のシワのせいでお父さんよりも年上に見えた。とても二十九とは思えなかったんだ。

「ほんで、ほっちの、兄ちゃんの方はなんて名前なん」

 ぼくは少し気をつけつつも、自分の名前を名乗った。

「凛」

「リンかぁ……。ハハハ、こっちも、なんか性別誤認せいべつごにんトリックが使えそうな名前しちょぅなぁ……」

 ちょっと意味が分からなかった。

「おんちゃん、ビョーキなんが? 大丈夫?」

「おぅ、桃愛。小さいのに心配してくれてあんがとーーな。まぁ、病気っちゃぁ、病気やが、大丈夫。あぁ、大丈夫……やわ」

 そういうと、その人は、「なぁ、桃愛。おんちゃんにも折り紙、一枚くれへんか。久々に折ってみたいんがや」と言ってきた。

 やさしい目をしているけど、どこか悲しげな目。桃愛が「うん! ええよ」と言いながら差し出そうとした手を、ぼくは止めた。何かあるといけないと思って、妹を守りながら、桃愛の折り紙を受け取り、その人に手に渡した。

「ええな。妹想いや。ええ兄ちゃんになるぞ、凛」

 そういうと、その人は折り紙を手に取った。そこからは一瞬だった。前にみにいったサーカスをみているようだった。ちゃ色のおり紙は、その人の手の中であっという間にカブト虫になっていた。何度も何度も、「あれ? えーっと、どうやったけな?」と言いつつも、指を動かしながら、その人はニコニコと笑っていた。桃愛もそのカブト虫を見て、ポカンとし、次には喜んでいた。

「すごい! カブトや、カブト!」

「二枚目ええかな?」

 今度は紫色の紙を渡す。「ちょっとばかし変わった折り方してみよか。ハサミやノリ使わんところがミソながやで」と言い終わらないうちに、今度は花が咲いた。

「クレマチスっていう花。ほんまは、緑色の紙でクキや葉っぱも作りたかったがやけど、ハサミとノリ使うのは邪道かもしれんかんな」

 桃愛が手にとって、「すごいすごい」と言った。紙で創られたクレマチアスという花を頭に飾ったり、手に持っりしてはしゃいでいる。

「楽しんでもらえて良かったわ。ほんで、次は凛。お前が持っちゅぅが、ほれ。3DSか?」

 ぼくも既に、その人が悪い人じゃないと感じていた。

「うん、マリオやりようがよ」

「マリオか……スーパーマリオね」

 その人の目はより悲しげになった、気がした。

「ほうか、今やったらその大きさで遊べるようになってもたがやな。おんちゃんらぁが小さい頃は……ほやなぁ。この公園の遊具にしたて、もっと、グルグル周るがや、この俺が座っちょる馬やて、こうやって地面に固定されてなかったのにんな……」

 その人は立ち上がると、ズボンのお尻の部分をパンパンと手ではらった。

「なぁ、凛に桃愛。今度からおんちゃんみたいなんに近づいたらあかんで……。おんちゃん、おまわりさんに捕まるかもしれんがやからなぁ。いや、捕まるよりも先に、……怪しまれるかんな」

 そういうと、その人はぼくの3DSを指さして、

「なぁ、お前らの人生は始まったばっかや。俺なんかよりずっと濃い一日を送んりょる。まだスタートボタンを押したばっかやきに。まぁ……きばれや……。しかし……なーーんでかねぇ……」

 その人はため息を吐き、悲しそうに赤いゆうやけ空を見上げて言った。

「凛に桃愛。やりたい事あったら、その日のうちにやっちょけよ。大きぃなってからじゃ遅いがやきに。でも、まぁ大抵、そういうんは大人おとなんなって初めてわかるがやけど……。ほの大人っちゅぅ意味も……また違う意味ながやけどな……んじゃぁ、バイバイ」

 馬の乗り物から立ち上がると、手を振ってくれた。それが、その人とぼくたちが会った最後の日だった。


 2


 彼女のある一言から、元木軍平もときぐんぺいの運命は狂わされたといっても良かった。

「軍平君、絵ぇ巧いねぇ。将来は画家さんかなんかになったらえぇがやない?」

 小学校三年の時、県で銀賞を取った風景画。学校近隣の神社を描いたものだったが、その絵に元木は自分の将来の夢を見た。夏休みなど、長期休暇の時の宿題も、図画工作が一番捗はかどったのを覚えている。

 中学校に上がると、画家という夢は漫画家へと変わった。世代としては、『週間少年ジャンプ』の黄金期。毎週のように購読し、大学ノートにコマ割りからベタフラッシュまで凝り、自分なりの漫画を描いていた。そんな元木がテレビゲームと出会ったのは遅かった。九〇年代年当時、友達や部活の先輩、果ては教師までが発売されたばかりのスーパーファミコンの話をしていた。『スーパーマリオワールド』に『ファイナルファンタジーIV』。どれだけいち早くラスボスを倒せるか、あるいは隠しステージを含めた全ステージを攻略するかを議論している横で、彼はせっせと自分の漫画を描いていた。

 必須科目である五教科をやらず、ノートの端にパラパラ漫画ばかり描いている彼を母親は心配した。授業中にもノートの片隅に絵を描いているせいか、教師に呼び出されたこともあった。

 高知の片田舎かたいなかという環境もあったのかもしれないが、高校受験間近になり、散々に怒られたことを思い出す。中学生特有の反抗期と、長男である父に嫁いだ母の癇癪かんしゃくが切れたのもこの頃であった。元木自身、母としゅうとめの間で、どちらにも、同じ愛情をそそいでいた事もあったのだろう。

 今でこそ、高校浪人など珍しくない時代になったが、世間体せけんていを気にしてか、なんとか地元の工業高校に滑り込んだ。部活は走りたいという事で、陸上に専念した。

 お世辞にも偏差値は良いといえる学校ではなかったが、元木はそこで始めてテレビゲームと出会った。

「おぅ。元木、俺ついに、ロクヨンうたがよ。今黙って陸上部の部室に持ってきちょるがやけどな、マリオとゼルダやってみぃひんか?」

 先輩の誘いにつき合わされ、部室に呼び出された。そこで初めて、元木は自分の世界観がいかに矮小わいしょうであり、滑稽こっけいな人生を送ってきたかが分かった。過去、平面空間を横移動しかしていなかった赤い帽子の配管工が、画面の中で縦横無尽に動き回っていた。あるステージでは爆弾がる野山で、また別のステージでは雪山で、そしてまたあるステージでは周囲をマグマで囲まれたブロックの上で、画面の中の彼は走り、泳ぎ、滑り、飛び跳ねていた。3DCGの技術におぼれた瞬間である。

「お前もやってみぃ」

 そう言われ渡されたコントローラー。『ニンテンドー64』、通称ロクヨンの3Dスティックに指をあて、少し前に倒してみる。画面の中、自分の分身は前に動いた。元木にはそれが感動的であった。自分がマリオというヒーローに慣れた瞬間であった。

 インターネットがアンダーグラウンドからじわじわと普及し、パソコンが社会の一部として現れた時代。憧れだけが先行し、将来は絶対に、自分の手でマリオを創りだしたい思っていた。動かしてみたいという感情が先走りする、ただのプレイヤーでは無く、クリエイターとして、自分だけのマリオを生み出したいと感じた。ここで彼の3Dゲームデザイナーの道は決まったといっても良かった。

 あとは、そこに行くまでの筋道だけである。3Dに魅力された彼は、陸上部を退部し、工業デザイン部に入部し直した。そこで習ったのは、DTP(デスクトップパブリッシング)や広告デザインを主にするものだけだった。これでは自分がマリオを創り、人を楽しますことは出来ない。

 元木は美術、芸術大学を受験するため、勉学だけにはげんだ。多摩美術大学たまびじゅつだいがく京都造形芸術大学きょうとぞうけいびじゅつだいがく、力と技術をつける事が先決だと思い、周囲の友達がDTPをする中、ただ、鉛筆デッサンばかりした。いつか、あの配管工を自分の手で生みたい。いつか自分が創り出したもので人を楽しませたいという思いだけだった。

 しかし現実は夢を裏切った。受けた大学は全て落ちた。だが、感情だけは人一倍にあった。早く人を楽しませたい――彼はまだ諦めていなかったのだ。まだ十代後半。自身の力でいつかマリオを創ってやろうと躍起やっきになった。まず美術系の、専門学校に入る事を考えた。二〇〇〇年代、専門職をおもとする学校は、ほとんどがデザイン系と介護福祉系かいごふくしかたよっていた。

 寸前で、あるデザイン学校に願書を提出した。数週間後に、一応のデッサン試験と学科を合格し、あるデザイン専門学校に滑り込めた。なんとかして、いち早く業界に出たいという考えだけだった。『在学中にもデビューのチャンス!』『就職率90%超え!』などという詐欺くさい宣伝文句も、元木にとっては踏み台という一つでしかなかったのだ。

 『キャラクターデザイン科』『ノベルス・ライター科』『ゲームプログラマー科』『アニメーション科』という同期に入った知人たちと共に語りあった。

「俺がよぉ、ゲームのシナリオ書くけん、元木君はキャラデザしてや!」

 『ノベルス・ライター科』の男が声高々こえたかだかに言った。

「ええな! 俺、今C言語習いよるから、そのゲームのプログラム組むわ。俺らぁだけのオリジナルゲーム創ろうや!」

 『ゲームプログラマー科』の男が目を輝かせながら答えた。

「お前ら、のんきやなぁ。アニメーターが何枚かのセル描くんにどんだけ苦労するんか分かっちょるんか? 元木君もキャラデザやったら分かっちゅぅんやろう?」

 『アニメーション科』の男は心配しつつも、いつか一番になってやるという希望に満ちた目で笑った。

「ほいたら、めっちゃぶっさいくな、おっさんをデザインするわ」

 最後に元木が語り、全員で笑いあった。夢を語り合えた時代だった。あの時代が今に返って来ない事を元木は理解していた。たとえ夢から覚め、現実に戻ろうとも、やはり夢を振り返られずにはいられない。

 たった二年間。されど二年間。その二年の間に、あれだけ語り合い、笑いあった同期学生たち。卒業し上京していく者もいれば、故郷に帰った者もいた。故郷に帰り、クリエイター業とは全く関係無い仕事に就く同期を、元木は心の中で逃げたのかとあざ笑った。自分だけはこうはならない。

 学校の廊下にズラリと張り巡らされた求人票を見ながら、元木は何社ものゲーム会社に自身が創った作品ファイルを送り込んだ。とにかくデザイン業界の就職に関しては、自分自身の売り込みが大切となる。そのうちの一社から、一次面接に来てくれないかという申し出が来たのは、卒業間近で焦っていた一月、元旦も開け、世間が正月気分からやっと遠のいた、二〇〇四年一月一〇日の事。同じ高知県内のあるゲーム会社からであった。会社の名前は『有限会社ヴァンダム』。設立五年目のまだ新しい会社で、元木には少々不安があった。だが、社会保険もきちんとあり、社長自身が元、大阪の大手ゲーム会社にいたという実績と、そこでつちかってきたノウハウを生かした経験を積んできたという部分に惹かれた。手取りの給料も良い。生活する分には全く問題が無い、優良企業であった。

 元木は大手を振り、『有限会社ヴァンダム』に入社。一年後には3Dデザイン背景班チーフアシスタントという立場になっていた。


 * *


 テレビゲームの人気と進化のかげり、そして衰退すいたいは、予測不能だったインターネットという存在から始まったといっても過言では無いだろう。九十年代後半から猛烈な勢いで、それは普及してきた。

 だが、そのネット業界にもいくつかの衰退と繁栄はんえい、そして転機てんきはある。パソコン通信から、次へ。かつては黒い背景に白い文字。管理人自らが馬鹿になり、楽しませる事をやるというエンターテイナーな行為は、ブログというものにうつり代わる。画像加工が誰でも自由に出来るようになったこの時代、インターネットを使う人間は誰もが創作者クリエイターであり、誰もが批評家アナリストとなれた。

 その後も、ソーシャル・ネットワーキング・サービス、mixi(みくしぃ)という存在。自身がオンラインに繋がっている事をリアルに楽しめる、匿名掲示板を利用したネットラジオ。ここでゼロ年代は動きを止める。いや、止まったといった方が良いのかも知れない。この時代、テキストサイトの管理人がやっていた馬鹿な行為は既に『犯罪』という行為に置き換えられていた。少しでも人を楽しませようとすると、それは『炎上』という形で掲示板に拡散され、個人情報が流出される。

 一方、その様なネット主体の中、テレビゲームメディアからの反乱はどうだっただろうか? 時代の繁栄にともない業界の創作者側に要求されるのは、映像美のクオリティだけである。プレイヤーに訴えかけるインタラクティブなビジュアル――と、当時のゲーム評論家などは横文字を並べ言うであろうが、どのメーカーよりも美しいグラフィックスを、どの会社よりもリアルな虚構を生み出すのに苦心していた時期であった。一昔前のハード機種では通用していたクオリティが、この時点で通用しなくなっていたのだ。

 二〇〇〇年代中盤にもなれば、動画サイト、YouTube(ユーチューブ)が登場するが、九十年代を引きずっていた前半と、既にゼロ年代に移り変わった中盤では大きく意味合いが異なる。かつてのサブカルチャーがメインカルチャーに成り代わり、逆に九十年代のメインは衰退した。

 そのはざまの時代、かの、元木はどうしていただろうか。

「元木君、大丈夫? あんま食べて無いようがやけど」

「あぁ、ごめん、奈緒なお。まぁ……何とか……うん」

 ため息を吐く。今日で何度目だろうか。

 好きな事を仕事に出来るのはほんの一握り。だが、好きな事を仕事に出来た瞬間、好きだった夢は現実となる。初恋の相手。初めてのデートが会社の同僚というのも、仕事とプライベートを永遠に分かつ事の出来ない理由だった。目の前の彼女は何も悪くない。ただ、会社と繋がっているという事。それこそが苦痛くつうだった。

「大丈夫、食べゆぅよ……」

「本当?」

 おそらく自分の声に力が無かったのだろう、奈緒が不安げにこちらに尋ねてきた。

「ねぇ、ほんまに大丈夫なん? せっかくの初デート、これで終わるっちゃーたら、私、どう言う顔したら良いが?」

 大衆たいしゅうの居酒屋。くすんだ建物に、いくつもの店舗がひしめき合っている店だった。柱は黒い染みがあり、天井には油汚れが広がった店だ。目の前の彼女を見つつ元木は心の中でほくそ笑んだ。フランス料理の高級なフレンチよりこの女性ひとには、こういう場所の方が似合う。だからこそ選んだ場所だった。だが、元木は「うん、ごめんなぁ」としか言えなかった。場は似合っていても、自分が合わせなければならない場所ということに。

 最後に元木は言った。

「なぁ……俺と一緒にいて楽しいがかな?」

 二十四歳の彼女は元木に悲しげな目を見せ、一言だけ、

「楽しいよ」と口にした。


 * *


 新入社員の光田寿みつだことぶきという後輩が、元木が最初に教えた新人だった。元木とは正反対の性格でどこででも良く喋る男だった。やれ、エラリー・クイーンがどうの、やれクリスチアナ・ブランドがどうのと五月蠅いが、元木には、その雑談がどこか気持ちよかった。

 飲み込みは早い方で、一カ月もたつとゲーム背景を何とか自分のものにしていた。

「元木先輩、俺には夢があってですねぇ、いつか本格ミステリに登場する全ての館を3DCGで再現してみたいんですわ。黒死館、斜め屋敷に奇傾城きけいじょうそしてそれらを動画で撮影して動画投稿サイトに投稿するのが今の俺の夢なんです」

 地元の土佐弁と、専門学校時代に習ったと思われる関西弁が混じったような、奇妙な方言で一番弟子はそう言った。夢をまだ夢で語っている分、この頃の元木としては複雑な心境ながらも嫉妬していたのかもしれない。現実は背景デザインをしながら、床の下で寝るだけだ。

 元木は自分の人生を振り返ってみるが、この光田の様に夢を語り合えていた、専門学校時代の事を思い出してみた。あの頃は夢が夢であった。今はただの挫折でしかない。

 ある日、光田から借りたエラリー・クイーンという作家の本を読んでみた。『オランダ靴の謎』という本だったが、途中に挟まれた『読者への挑戦状』というものにすっかり驚かされた。ある種、ここから先の解決篇は読まなくても良いのでは無いかと思えた。この作者は自らがエンターテイナーになっている。

 その挑戦状の、次の章は下が白い余白になっていた。そして作者はここで、こう宣言するのだ。

『これは事件解決について、読者に個人的なノートを書き込んでもらうためである』

 作者が作中に登場する探偵役と同じ名前なのにも驚いた。こんな小説があって良いのか。これこそ最高の創作であり、エンターテイメントでは無いかと。

 読了後、光田に感想を言ったのは覚えているが、言った内容についてはほとんど忘却の彼方であった。しかし元木の人生観に大きな影響を与えた事だけは確かだった。

「すごいなこれ、これはすごいな! 人を楽しませる言う事こそが唯一の創作。俺の原点に返ったががしたわ!」しか言っていなかった気がする。

 光田はニヤニヤしながら「そうでしょう、そうでしょう! 先輩でもそう思うでしょう!」と言いながら饒舌に喋っていた。


 * *


 いつの間にか、という言葉があるが、まさにいつの間にかだった。会社側から健康診断が無いので、人間ドッグに行ってみた。

「元木さん、ストレスかかえちょりがぁしませんか?」

 医者から言われた事に意味が分からなかった。

「いえ、仕事もプライベートも順調ですが……」

「いや、結果だけお伝えしますね。胃にね……二つの穴が開いてますよ。しかもピロリ菌のせいで、胃の粘膜自体が薄くなってきちょる」

 自覚は無かった。食事の後、腹が痛くなる感覚はあったが、それは胃が縮小しているからだと自分自身に投げかけていたことだった。医者から宣告された時には何が何だか分からなかった。

「吐血までいかんかった事が幸いですよ。こちらは身体だけの治療にしておきます。あとは心療内科しんりょうないかの方で……」

 信じられなかった。病名を聞かされた時、嘘だと思った。

 すぐさま、心療内科に行くがそこでも、パニック障害、統合失調症、様々な病名が自分に襲ってきた。

「今まで、幻聴、幻覚などが襲ってきた事は無いですか?」「自覚が無いのもあります」「目の前が真っ白になった事は?」……医師の質問の意図が分からない。一心不乱に走っているときは振り返る余裕もないものも、一度振り返ってしまえば終わりだ。


 ――何がゲームデザイナーだ。何がクリエイターだ。何が人を喜ばせるだ。何がエンターテイメントだ。


 味方であったはずのものに裏切られた……。過去、大学に落ちた時、現実は夢を裏切ったと感じた。しかしそれは違う。夢が現実になった瞬間、それは夢では無くなるのだ。現在と未来が繋がった瞬間に見えてきた現実。

 子供の頃の無限の可能性というものは、歳を取ると有限の幻想と気付く。しかし気付いた時には遅い。元木はただただ、子供の頃の夢を現代いまの自分と結びつけ嘆いているだけだ。

 夢はかなえるまでが大変では無い。かなってしまった後には停滞が待っている。時代の趨勢すうせい、そして環境を憎んだ。自分はゲームをあんなにも愛していたのに、ゲームは自分を愛してくれなかった。

 ひたすら、自分の求められる力量の事だけはした。だが、世間――いや、社会のペースに自身が追いつけなかったのだ。その日から元木は会社を休んだ。上司には、ただの風邪と伝えたが、一日休んだものが一週間になり、一週間が一ヶ月になり、一ヶ月は半年となる。最後の方では電話で直接上司の声を聞くのも嫌で、メールで済ました。

「元木君、悪いけど……もう明日から来んでいいわ。ここで切った方が元木君のためになると思うがよ」

 ある日、社長が直々に電話をかけてきて言った言葉は、元木の耳に聞こえていなかった。

 ――結局良い様に使われちょっただけがやないか。

 カビ臭い部屋の中を浮浪者のようにさまよった。何度も壁に頭を打ち付けた。やがて全てを捨て、彼は壁を創り、自らの心を閉ざしてしまった。窓から外を覗いた。ガラス窓には自分の顔が写っただけだった。


 * *


 久しぶりに鏡に映った自分に、彼は、これは誰だろう? と感じた。天然パーマの髪はつやを無くし、頬はこけ、肌は乾燥している。体は痩せ細っていた。落ちくぼんだ目元には不摂生ふせっせいたたり、黒いくまが出来ている。瞳はどんよりと汚れ、どこか遠くを照らしている目だった。肌を摩る。しわが出来、手にザラザラという感触。頬の薄皮が少しだけ向けた。

 口を開けてみる。歯は悪化して何本か腐り抜けていた。

孤立無援こりつむえんやな……」

 ふとそんな言葉が口から漏れた。長い間声を出していなかったので、自分の声がどう耳に聞こえていたのか忘れていたが。

 口を閉ざす。単調な仕事で得た少しばかりの収入だけが、カサカサと乾燥した手に握り締められていた。元木はぼんやり考えた。このまま誰にも会わず細々と生活をしていくのも有りなのではないかと。根拠は無いが部屋とネットだけあれば何とかなる。

 贅沢なんてものはもういい。恋愛も要らない。友達や知り合いも要らない。ただただ、そっとしておいてほしい。

 ――俺を憐れみの目で見んでくれ。

 毎日そんなことばかりを考えていた

 ――もうええ。

 ――誰も関わってくれるな!

 ――ただ一日、ただ一日だけで良いから窓から自分の顔を覗かせてくれ!

 元木は会社を辞めてからそれだけを日課としていた。唯一自分が外の世界と繋がれるのを求めていたかった。高校時代の陸上に明け暮れた事を思い出す。最低限のストレッチだけはしていたので、足の筋肉は生きていた。

 ――俺の取り柄は今や足だけがやないか……。

 足の裏をもみほぐしながらその様な事を考えていた時、ドアのチャイムが鳴った。

 元木が電話にも出なかったので、元同期の本城義信ほんじょうよしのぶと、元後輩で一番に3Dを教えた光田寿が家に訪ねてきてくれたのだ。

「おい、元木ーーおるがやろ? 大丈夫か?」

「せんぱーい、お薦めの本があるがやけど、一緒に批評しましょうよが。霧舎巧きりしゃたくみっちゅぅんですけんどもねぇ、この作者、キャラの書き方が――」

 ドアの前で声が聞こえる。嫌だ、出たくない。社会と繋がりたくはない。

「おーい、ちゃんと食べちゅぅがやろなぁ。いつか会社に戻ってきてくれよ。俺もキャラクター班のチーフになったけん、社長に直談判してみるきによ、出戻りでもなんかていいがやないかぁ!」

「せんぱーい、奈緒タンが寂しがってますよ!」

 彼女の名前は出さないでくれ。そんなかつての元後輩が、

「んじゃぁ、ミステリ好きの先輩のために、本だけ置いていきますねー」と言うとドアのポストからガタンという音がした。

「おンしゃぁ、帰るがか、もっと……」「いいじゃないっすか。元木先輩が出てこんのがやったらしゃぁないでしょう。んじゃ、行きましょ行きましょ」

 かつての同僚と後輩の声がドアの向こうからいなくなる。元木は布団から置きだし、窓から顔を出した。帰って行く本城と光田が見えた。次にドアのポストを開ける。

 江戸川乱歩えどがわらんぽの『陰獣いんじゅう』という作品が入っていた。光田に薦められて、アレだけ好きだった本を今は読めるだろうか? ミステリ好きという意味では光田とはウマがあった。お互いオススメ本と言い、海外、国内、古典、新刊を貸し借りしたのを思い出す。あの時、光田から借りたエラリー・クイーンの『読者への挑戦状』に興奮したのを思い出す。

 しかし今は読めるだろうか? 『陰獣』の一ページ目をめくってみる。文字を追い理解するのに苦労した。一瞬だけ吐き気を感じたが、もう少し追ってみる。

 物語を把握していくと、色々と自分に重ね合わせる事が出来た。この作品に登場する大江春泥おおえしゅんでいという人物は元木自身であり、寒川さむかわは光田だ。この人物造詣は全て作者の江戸川乱歩えどがわらんぽを模している。さしずめ、作者の乱歩本人は本城辺りではあるまいか。

 ――自らを達観しているアイツには似合いやな。


 * *


 ある日、管理会社を通して、隣人から苦情がきた。夜中に壁をガリガリと擦るのを辞めてくれという苦情だ。ヒステリックな女の声と暴力的な男の声で玄関の前で騒がれた事もあった。

 ――もうこれ以上迷惑事はいらない。

 元木は管理会社を通して「引っ越します」とだけ答えた。実家に一度帰るのも良いし、別のアパートを見つけるのも良い。何より昔の会社の知り合いが来ないところが良いと思っていた矢先だった。母から電話がかかってきた。聞いてみると、隣人の田邊たなべという夫婦からで慰謝料を請求されたらしい。「ふざけんなっ!」と怒り出したい気持ちと、わざわざ母に電話番号を教えた管理会社を呪った。

 隣人はその後も嫌がらせを繰り広げてきた。まず、こちらが何も騒いでいないのに壁を叩いてくるという陰湿な嫌がらせ。郵便ポストを勝手に見るという嫌がらせ。果ては鍵穴に瞬間接着剤を挿入するという陰湿な嫌がらせまで続いた。窓から顔を出しまた覗く。隣人夫妻はこちらをチラリと覗き、消えていった。

 怒りはすぐに収まる。うつろになった心には怒りという感情すらもとうの昔に消え失せている。その日から元木は同じ時間帯に窓から顔だけ出すようになった。


 3


 藤田陽一ふじたよういちが犬の散歩に出かける毎朝九時。アパートの自室から出ると、その人が窓から顔を覗かせていた。

「おはようございます」と挨拶をしてもただ、ペコリと首を傾けるだけですぐに窓を閉めてしまう。

 ――いつもこうだ。

 藤田は気にしない事にし、愛犬を散歩に連れ出した。


 4


 二〇一一年、十一月十六日。肌寒い季節だというのに、この日の高知市全域には濃霧のうむが立ち込めていた。

 本城義信が、元木軍平と待ち合わせをしていたのは、そんな日の高知市内の中央公園だった。

 ――アイツ、来るがかな?

 高知市のほぼ中央部にあるので、中央公園。安易なネーミングだが、北側には市内最大のショッピングモール帯屋町おびやまち商店街があり、東側に歩いていくとバブル当時の遺産か、古びた映画館やキャバクラ街がある。これを抜けると高知城への一本筋があるだけだ。

 南側の中村街道には、珍しいちんちん電車が走り、少し歩くと高知がっかりスポットと噂される、はりまや橋に辿り着く。よさこい節の元ともなった、竹林寺の僧、純信じゅんしんとお馬が現代にタイムスリップし、コンクリートで埋め立てられた、橋の風貌ふうぼうを見るとどのような感想を抱くだろうか? そんな観光スポットも霧が立ち込めている今日は、この場所からでは見えない。

 本城はこの中央公園がどこか好きだった。昔から慣れ親しんだ街並みが進化を遂げる中、ここだけが変わらない。

「あぁーーうざい!」

 ただし今日だけは別だ。霧がべったりと全身に貼りついていてくる。不快だ。自ら剃った頭には当たり前だが髪の毛が一本も無いので、水滴は顔を流れ、上着の襟部分を湿らしていた。

「ネットの天気予報もあてにならんな。湿度の予測間違えとるわ、こりゃぁ」

 スマートフォンをいじりながら毒づく。会社も自分のアパートも近くにあるのだから、今からでも帰宅し雨ガッパでも取ってくるかと想像していたその時、後ろから声を掛けられた。

「おう、すまん。待たせたがやないか」

 待ち合わせの主、元木は本城が最後に見たときよりも別人かと思うほど痩せていた。

「おんシゃぁ遅いぞ。こっちはベタベタやわ」

「すまんすまん……なぁ」

 相手の元木は苦笑しながらも、本城の頭頂部に目を移した。

「見事に剃ったのぉ。つんつるてんやないか」

「うるさいわ。これでも社長には高知のブルース・ウィリス言われちゅぅがや」

「お前は高層ビルで、テロリストに巻き込まれそうなタイプちゃうけどなぁ」

「おんシこそ、チリチリ毛変わってないのぉ。陰毛や陰毛」

「うっさい。こういうジトジトの日は、ベッタリするけん嫌なんや」

 そういうと二人で笑いあった。

 元木軍平は、現在の会社で本城と同期であった。二十九歳と三十四歳という、年齢差はあるが、元木が退職した今でも、こうして屈託無く話せるのはある意味でいえば人柄の良さかもしれない。

「光田が心配しちょったぞ。元木先輩は人を楽しませる=創作という唯一の憧れやって。この前もドアも開けんで……」

「すまん、この間は本当に……すまん。最近隣人に嫌がらせやられちょってな……」

 外出してくれて、最近起こった事の愚痴を聞くだけでも有りがたい。本城はそう思い、ある提案を持ちかけてみる。

「なぁ、戻ってきてくれんのんか? この間のつづきやないが、上の人らも、お前なら安心して仕事任せられる言うちょったがやぞ」

 あえて、奈緒や光田の事は言わなかった。元彼女と元一番弟子の話をここでする事は無いだろうから。

「あぁ、その話はもういいよ……。でも創作っていいやがな。トリックってええなぁ。エラリー・クイーン……。なんか俺も最後にドでかい花火打ち上げてみたいわ」

 ボソリと元木が言った、言葉は霧の中に消えていくようだった。


 その翌日、元木はこの世からいなくなる。


 5


 藤田陽一はその日、自分の愛犬がワンワンと五月蝿うるさく吠えているので目を覚ました。隣の部屋がやけに五月蝿いのだ。大きな声も聞こえてくる。確か、いつも挨拶をする元木とかいう男の部屋だったと思われる。

 ――なんやぁ? こんな朝っぱらから。

 定年退職した藤田は目を擦りながら、いつもの犬の散歩の時間だという事を思い出した。

 しかし隣の部屋が五月蝿い。顔を洗うのも忘れ、ドアを開け外に出る。

「すみませーん、ちょぉと五月蝿いがですがぁ」

 イラつきながらも丁寧な口調で、注意した。するといつもの窓が開き、青白い顔付きをした、元木が姿を現した。いつも通り首を傾けながら。次の瞬間窓は閉まってしまった。

 ――なんや言うんやぁ? 挨拶くらいせんかい。あとで管理会社に言うちゃろかいな。

 藤田は更に怒りに燃えたが、あまり大事にしたくないという意味で踏みとどまった。しかしいつもボーッと顔を出している元木があんなに五月蝿くしているなんて。藤田は意外に感じたが、この時に気にも止めなかった。午前九時ちょうどの出来事だった。


 6


「マル害の名前は元木軍平、二十九歳の無職。マル害の情報だけについては、今の時点ではここまでしか分かっていません」

 隅田勝也すみだかつや巡査部長の報告を聞きながら、蛭子真木えびすしんぼく警部補は「ハァ」とため息を吐いた。被害者の情報量が今のままではあまりにも少なすぎる。アパートで一人暮らしの人間が死んでいる姿は交番勤務時代から何度も見てきたが、今回は勝手が違う。ブルーシートに囲まれた、ぼろアパートの一室。

「大家と管理会社、隣部屋同士や近隣住民の話を元に聞き込みをすると、あんまり外に出ん人間やったそうです。所謂、引き篭もりっちゅぅやつやったんちゃいますかね。あ、数日前に右隣の住人とちょぉとしたトラブルを起こしちょります。やれ壁を擦る音が五月蝿いだのそこいらでね。ただ、朝のある一定の時間、窓から顔を出しちゅぅ姿が左隣の住民から寄せられています。名は藤田陽一。いつも挨拶をする程度の中だそうですが、朝九時までは生きていたと証言していますわ。鑑識報告がまだですけど、こりゃぁ、重要な情報と違いますかね」

「問題があった右隣の住人のアリバイは? 最近やとちょっとした理由で殺すやからが多いがやきに」

「こいつも確かめたところ元木が生きてちょった時間帯より後、即ち藤田が見た元木の姿から死体発見まで隣の田邊いうんですが近所のスーパーに買い物に行っちょります。スーパーの監視カメラにも元木が殺された時間帯にはバッチリ映っちょりました。まぁ揉め事はその一回だけで、人畜無害な引き篭もり君だったんちゃいますかね」

「ほの、ある種、人畜無害の引き篭もりの無職が、なんでこないな死に方しちゅぅがな。これはまたあの東平市名物係長案件やな」

「えぇ、あの名物警部の笑い声が俺にも聞こえてきそうですよ。変死体としたらあんまりにも出来すぎちゅぅ」

 二人の刑事は目の前の死体を見つめながら、苦虫を噛み潰した。目の前の――元木軍平の死体は首と身体が分かれていたのだ。もちろん、違和感はそこだけでは無い。下半身を見ると、変死体を見るのにも慣れている、蛭子の胃から重いものがこみ上げてくる。

 だがここからが妙なのだ。被害者の物と思われる、。筆跡鑑定をしてみないと分からないが、おそらく元木本人のものだろうと蛭子はアタリをつけた。

 そこには整えられた字で、こう書かれている。


【遺書or挑戦状】

『これから私は死ぬだろう。ここからは君たちに推理してもらいたい。

 何も犯人を当てろ、トリックを解明しろなどという難しい事では無い。君たちに推理されたい事は一つ。



 以上である。』


「がっがっがっが! おぅ、県警のおえらいさん方やないがかぁ。こりゃぁまた阿呆なんが出てきたがやのぉ」

 喉を鳴らす独特の笑い声とともに、所轄の警部が現れた。その名物警部はタブレット端末を指先で弄りながら、二人の刑事に、

「これ見てみぃだぁ。面白いぞぉ。マル害のフェイスブックよぇ」と、あるサイトを差し出した。そこには先ほどの『遺書か? 挑戦状か?』という、例の物証の写真が載っている。

「がっがっが、こりゃぁまたややこしぃなりそうやぞぉ!」

 所轄の名物警部の言うとおり、元木軍平の死はその後、全国いや、全世界を駆け巡る事になる。


 7


「何か創りたいものがあるか?」と聞かれ「ある」と即答するクリエイター志望者よりも「自分が何かを生み出したいというのではなく、何を創れば受けるかの方がより大事だ」と答える志望者の方が有望だとか言っている人間がいたのを思い出す。

『私の死は「他殺」か。それとも「自殺」か?』

 死ぬ前に元木がツイッター、フェイスブック、mixi、様々なSNSに投稿された遺書or挑戦状の写真にはこの様な序文が着いていた。事件は様々なところに飛び火し、拡散。マスコミ連中が元木のアパート、実家、東平警察署、そして高知県警などに押し寄せている立場となった。インターネットのトピックスでニュースを見ると、少しだが海外でも報道された様だ。まさに全世界に元木の挑戦がなされたわけである。

 しかし、そんな妙な首切り死体として発見された元木の死を、本城は今だに受け入れられないでいた。

 防虫剤臭いスーツを着ながら、彼は元木の棺の前に立つ。元木の遺体が司法解剖から戻されたのは一日後だった。

 葬儀屋が巧くエンバーミングを施してくれたおかげか、元木の首の切り傷はぴったりとくっついており、本当に首を切って殺されたのかと思うほどである。下半身は菊の花で埋められていた。

 「死にたい」「死んでみたい」と思う事は本城だって山ほどある。しかしそれを実行に移す移さないは理性との闘争だ。元木は理性のあちら側にいってしまったのか、それとも

 葬儀は慎ましく行われた。会社から参加したのは本城、光田、重浦秀夫しげうらひでお鳴井なるい奈緒の四人だけだったが、涙を流していたのは、元彼女の奈緒だけであった。顔だけ木彫りのドラえもんとあだ名されている重浦の喪服姿はどこかユニークでつい笑い出しそうになる。と、前から元木の母親に出迎えられた。

「本日は、忙しいところわざわざありがとうございます」と玄関先で迎えてくれた、母親の声がかすれているのが印象に残った。たった一人だけの息子が謎の死に方をしたというのに、マスコミ連中の追い回しに参っているような声だ。

「息子のためにわざわざすみません」という母親の声を聞きながら、本城は自問自答する。

 ――元木、お前は、死ぬ事さえも創作にしたかったんか? おふくろさんをここまで憔悴しょうすいさせるために死んだがか?

 心の中でそう問いかけてみる。何も返ってこないのは当たり前だ。葬儀の場にいた警察から簡単な事情聴取も受けた。聞かれた事には最小限に答えた。ミステリマニアの光田は、その饒舌で警察相手に色々と質問している。守秘義務があるためか、「あっちに行け!」と言われても何かしら聞き出したらしい。警察に携帯電話を見せているのは何故なのだろうか。

 そんな光田がこちらへニヤニヤしながらやってきた。

「いやぁ、おまわりさんから色々な事を聞きだせましたわ。今は東京の本庁におる高校時代の同級生。ほの警視正の名前と電話番号出したら一発! ネット上に上げられていた挑戦状、元木先輩の筆跡で間違いないですって。でもなぁ、おまわりさんの方も、なーんか隠しちょるみたいな態度やったがですわ。まぁいいや、そんな事は置いといて。さて、では皆さん、これから居酒屋へでも移って元木先輩の挑戦状、崩してみせましょうや」

 唐突にそんな事を言い始めたのをきっかけに、「やろうがだぁ」「やろう、みっちゃん」と重浦や奈緒も言い始めた。

「ちょぉ待ってください、三人とも。ちょっと不謹慎違わぁしませんか?」

 本城が慌てて止めに入ると、光田がこちらを真剣な顔で見てきた。

「ええですか先輩。これこそが元木先輩の残した創作やがないですか! エンターテイメントじゃないっすか! 酒でも飲んで挑戦せんと何にもなりませんよ!」と、強く説得された。まるでそれが自殺者、あるいは被害者の霊の供養になるかのように。


 * *


「おばちゃん、チャンネル変えてええが?」

「ええよー」という言葉も聞かず、本城は立ち上がりテレビのボタンを押した。夕方のニュースとワイドショーが交互に入っている時間帯だ。

『インターネット上に遺書の画像を――』『えー次は、高知県の男性のニュースですが――』『劇場型犯罪げきじょうがたはんざいとまで言われ――』『他殺と断定しており――』『こういうの晒すっていうんですかぁ? ――』『男性はネット上、様々な――』『以上、また続報が入り次第――』『僕はこういうのどうかと思うんですけどねぇ――』『高知のこのぉ~~殺害方法は――』『以上、高知県からお伝えしました。次のニュースです。来年初めの皆既日食は――』『挑戦状という謎の言葉――』『フェル♪ フェル♪ 謎解け~~フェル子さーーん♪』

「さすがテレ東やな。こんな時でもブレちょらん……」

 最後にブラウン管に映ったアニメ画面に妙に関心していると、「いやぁ、『謎フェル』は面白いでしよ!」と重浦が突然、奇妙な語尾で言い出した。

「うわっ! ほれアレでしょフェル子さんの口癖でしょ。あんの糞アニメの真似せんといてください。ジョン・ディクスン・カーに失礼です」

「ニコニコの公式動画配信で視ゆぅけど、アレ結構面白いやん」

「あんな糞アニメのどこが面白いんですか! カーの原作、改悪しまくってるだけやないですか」

「またまた出ましたー。古典至上主義の光田君。リメイクのどこが悪いん? 面白かったらええがやないが?」

「いや、あれは原案がほとんどカーでは無くてですねぇ……」

「ちょっとちょっと、また脱線してますから! 俺ら元木の挑戦状の話せんと」

 本城があわててまとめに入ったところで、酒と料理が運ばれてきた。葬式が終わった後、初七日法要しょなのかほうじには参加せず、光田のアパートや元木の実家がある、東平市ひがしだいらしの『葉桜』という居酒屋に場所を移した。喪服のままなので乾杯も献杯けんぱいすらせず、本城は焼酎ロックを頼み、静かに傾ける。黒いダブルスーツの軍団が喋っているので周囲の常連客の目が気になった。そんな中、光田が言う。

「そうそう、元木先輩が最期に残した『挑戦状』なんですから、ここは推理しちゃらんとあきませんよ」

 光田は「最期に残した」と言った。心のどこかで元木が自殺してくれたのではないかと願っているらしい。奈緒や重浦も同じ感情だろう。

 一般人の感性とは逆かもしれない。自分の家族、友人が自殺した場合、誰かが殺したのではないか? という心のどこかにを抱いている。現に自殺したという子供の遺族たちが、疑問を抱き他殺では無いのか? と、警察に詰め寄るニュースもよく聞く。これは第三者である他人に罪をなすり付けられれば、少しは楽になるという心理かもしれない。

 だが、今回の場合は逆だ。ここに集まった人間にとっては、自殺の方が、言い換えると希望があることになるのだ。元木の内に潜んでいた創作の意義はエンターテイメントだ。最後の大花火。即ち、「俺はどうやって自殺したか?」という謎を解き明かすのが、不謹慎では無い、推理をする楽しみに依存してしまっている。元木の死を弄ぶのではなく、一種の供養として。

「あるミステリを思い出しますわ」

 ミステリマニアの光田が、突き出しの味噌モツ煮込みを食べ、麦焼酎でゆっくり流し込みながら、とろんとした目で口を開く。

「そのミステリん中じゃぁ、密室殺人が一つ起こるんです。そこから、素人の名探偵きどりの連中が、やれこの事件はこうや、いいやこうやと解決篇をぶちまけるんですわな。作中ではそれが異様な空気となって、物語全体を覆っちょるんです。でも最後、現実に起こったある船の沈没事故と合わせて、物語の最後の最後でですよ。ほんな推理合戦を楽しみよる○○こそが犯人や! て作中人物に言わすんすよ。同じミステリマニアの元木先輩にもあの作品貸した事があるんですけんども、今回の事件に限れば完全に逆転していますね」

 その通りかもしれない。事件の前提自体を自殺と断定し、マスコミや、インターネットを通して見る、現代の『読者たち』を限定しさえすれば、光田が言うミステリとは皮肉にも反転している。被害者自身がエンターテイメントという名の創作を求めているのだから。奈緒は日本酒を、重浦は白ワインを傾けながら、深刻な目をしている。そうだ、ここから考えなければならないのは――と、本城はつくねを一口食べ、口走る。

「元木の――アイツの挑戦受けてたちましょうや」

 ニヤリと笑う光田の笑顔が見えた。こうなった時のこの男は強い。

「ええですね。さて、まず前提条件からはっきりさせんとあきません。そいつによって、後々の設定が少々変わってきます」

「後々の設定?」

 真剣な目で聞いてみたが、今は酒の席だ。元木があちらの世界でゲラゲラと笑っている顔が目に浮かぶ。光田は残った麦焼酎水割りを飲み干す。「おばちゃーん、麦ロック、あとキムチ肉豆腐と、葉桜特製冷やしトマトねー」と頼むと、一気呵成に喋りだした。

「そうです。元木先輩の死が他殺やとすれば、もちろん他人が殺すことですから、犯人が絶対にいてますわな。犯人は誰かわからんけんども、被害者の首を切り落として殺した。以上で終わりです。つまりフーダニット、誰がやったか? そしてホワイダニット、なんで首を切ったか? という問題になります。ただ、これが自殺となると話が変わる。首を切り落として、明らかに他殺に見える死に方となれば、どのようにやったか? ハウダニットになってくるんです。この場合、トリックを仕掛けちょるんは、犯人やのうて被害者――即ち元木先輩自身です」

「そういうミステリはあるがか?」

「被害者自身が特定の人物に罪をなすりつけちゃろ思うて、他殺に見える方法で自殺するという例はようさんありますよ。ただ、今回に限っていうとですねぇ、元木先輩が例え自殺の場合でも意味合いがごぉてきちょるんです。動機は、ただ他人全員を楽しめたいための……なんですから」

「光田、おんシゃぁ、自殺説に傾いちゅうがか?」

「心情としてはそういうことになりますよ。俺は一番弟子なんで……」

「そう……か」

 ソフトモヒカンの頭をボリボリ掻いた光田に対し、本城は言葉を飲んだ。

 今、こうして推理させる事が奴の『想い』だったのか。楽しませたい、という故人の意思を尊重し推理をさせる。それこそが本城を含む、この場に集まった四人の考えだろう。先のミステリの話では無いが、あまりにも転倒していると本城は思う。

「おぅ、光田。おんシの知り合いに私立探偵おる言うちょったな。不可能犯罪専門の。ほいつには頼めへんがか?」

「私立探偵やのぉて自称名探偵ですよ。まぁ、あの詭弁家糞野郎きべんかくそやろう好みの事件ではありますけんどもね……正味しょうみな話、頼むんはこっちからお断りします。あとなんや、今アイツ、関東に絶賛出張中で、妙な新興宗教絡みの事件に、これまた絶賛巻き込まれ中らしいんで、こっちにおらんのんですわ」

「ほんな職業、もうかっちょるがか?」

「アイツ、ええとこのボンボンやから。親の金でなんとかしちょるんちゃいますの? あとね、失礼ですが、元木先輩のこの事件。いや、『挑戦状』。正直、関係無い他人に解かれるんはなんか、イラッとしますんで、ほかの人間は立ち入ってほしいないんです。義理ってやつですかね。なんでネットで全国公開しちゃったかなぁーー」

 気持ちは分かった。確かに、これは被害者自身の事件である。少しすると、「あいよーお待たせさん」と光田の麦焼酎と料理がきた。キムチ肉豆腐はゴマ油が効き、ホロホロと崩れる鶏肉ミンチとキムチ、それと木綿豆腐が入ったこの季節にはぴったりの料理だった。口に含むと、コチョジャンの刺激が脳に走るが、和風のダシ醤油も入っているのか、そこまで辛いという訳では無い。光田は冷やしトマトにマヨネーズを付け口に運び、焼酎を飲んだ。

 この男は量は多いがピッチは遅い。ゆっくりと酒をくゆらすタイプで、本城からしてみれば一番たちの悪い飲み方に思えた。

「さて、では元木先輩のトリック解かせていただきましょうか。自殺を前提とするとして、まずこの時点で問題となるのは首と身体が切り離されちょったという問題です。まずは簡単な物理トリックを元木先輩が仕掛けた場合。首切りの動機でいうところの、首切り方法自体が死因やったというやつです。今回、おまわりさんたちに聞いても生体反応の有無が分からないらしいですので、何かしらの単純な物理トリックが使われたという前提で話をします」

 そんな事まで聞き出したのかと本城は驚いた。それとも高校時代同級だったという本庁の警視正の力だろうか? そういうと、次はキムチ肉豆腐をつまみつつ、焼酎を飲んだ。普段は饒舌な癖にこういう時はもったいをつける。少し酩酊してきたのか、顔が朱に染まっていた。

「まずピアノ線を用意します。次に輪っか状にして、元木先輩のアパートの窓から出します。外に周り輪っかの部分をどこかの車に装着します」

「光田君、どこかの車でどこの車がね?」

 重浦がノートパソコンをカバンから出し、何かを打ち込みながら口を挟む。

「ど~~この車でも良いんです。全く赤の他人の車でも隣人の車でも。元木先輩はアパートの一階に住んでいましたよね。あとは部屋に戻り、あの遺書or挑戦状を残した後、ピアノ線の先を輪っか状にし、元木先輩自身が首にかけます。あとはもう分かりますよね、車が動くと力が働き、元木先輩の首が切断される。以上で他殺に見せかける事が出来ます」

「光田君、ほいつはあかんが。ほのトリックは実行でけんがや」

「なんでですの、重浦さん」

 そう言うと、重浦が酒と料理を脇に寄せ先ほどまで触っていたノートパソコンの画面をこちらに向ける。

「ちょぉ待っちょいてみぃ。光田君、ええか、君の言う物理トリックを今、ヴァーチャルの物理演算式に組み込んでみた」

 物理演算とは、この世における物理現象のシミュレーションを、物体の運動を物理法則に基づき計算し、パロメーターの数値で物体の運動させるシステムだ。昨今のインターネット上の動画サイトでは物理エンジンなどを使った動画が多数上げられている。

 さすがは九十年代からプログラムを打ち込んでいただけの事はある。パソコン画面の中ではヴァーチャルの元木の部屋が3Dモデルで創られている。元木の死体も既にセットされていた。

「光田君よ、見ちょれよぉ」

 そういうと、重浦は再生ボタンを押した。画面内のヴァーチャル上で動き出した細いヒモ状の3Dが動き出す。おそらくピアノ線を表しているのだろう。それは先ほど光田が説明した物理トリックの物理的な参考動画だった。画面の中でピアノ線が3Dの車に引っかかる。元木の死体と思われる3Dモデルの首が切断されると本城は一瞬だけ顔をらせる――が、ピアノ線は意外にも元木を引っ張る形となり、死体のモデルは倒れただけで終わった。切断の仕掛けとなる車の動力が遅すぎるのだ。確かに光田のトリックは車の走り出しのスピードという部分が欠落している。あとは死体モデルが引っ張られ、壁のモデルにぶつかり、そこで動画は終わりを迎えた。

「物理トリックと言いながらも物理的では無い。ふむ、実に非論理的だ」

「ドラちゃんすごい! ガリレオみたい! 今だけは福山雅治ふくやままさはるにしてあげるわ。みっちゃんざまぁ!」

 すっかり酔った奈緒が、歓声を上げ拍手までしている。

「実に面白い」

 重浦はフレミングの法則を模した左手を顔に当てるポーズを取り、舌足らずなねちっこい喋りで、誰かのモノマネをした。奈緒がキャーキャーと騒いだ。意外とミーハーなのかもしれない。

「うわっ! ドラマから入った人らや。あのねぇ、湯川ゆかわの人物造詣は元々は福山やなくて佐野史郎さのしろうであって、決め台詞にしたって原作では数回しか使われてないんですよ。大体『容疑者Xの献身』だって、本格かどうかと言えば……」

「はい、出ましたー! 原作&本格至上主義のみっちゃぁん! アンタが、ましゃの何を知っちゅぅ言うん? 『魂ラジ』一回も聴いた事ないやろに。ラジオではましゃは下ネタ全開で、めっちゃ面白い事知らんくせに!」

「当たり前ですよ。俺の中の福山は、のりぴーの兄貴で止まってますけん」

「古っ!」

 ほんの小さな出来事に、愛は傷ついて――では無く、思わず突っ込んで本城は自分を取り戻した。ここにいる全員、酒が回ってきたのか、話題が様々な方向に飛んでいる。元木の笑い声も聞こえた気がしたが幻聴だろう。

「ちょぉ待ってください。また話題が脱線しちょりますよ。今はアイツの事件についてです」

 本城が脱線を本線に戻す。しかしどこかこの状況を楽しんでいる自分がいた。元木の挑戦。楽しみこそが創作。クリエイターの本質はそこにある。クリエイターが世間に出て、楽しみの一つも与えないで、何がクリエイターなのか。

 ライター、エディター、デザイナー……そしてクリエイター。カタカナ名前の肩書きは、皆華やかな業界ライフを過ごしていると思うと大間違いだ。泥臭い水を飲みながらエンターテイメントを創り出している。

「次、僕ええかな?」

 重浦が口を挟む。白ワインをクイと飲み干すと、こちらもまたトロンとした目で言った。

「僕はね、元木君の死は他殺やと思うちょるわけやが」

 ここにきて、意外な意見が出てきた。光田と奈緒が両方から本城も思っていた事を呟く。

「ちょっと、それじゃぁ、元木先輩自身の手で書かれたあの遺書or挑戦状はどう説明しますの」

「そうよドラちゃん、アレは元木君自身の手で書かれたものやったがなんだから」

 そう、その問題が浮上してくるのだ。自殺か他殺か。あちらが立てばこちらが立たない。

「あの遺書or挑戦状が脅されて書かれたとしたらどうなるでしょうね。例えば犯人この場合はXという事にしちょきましょう。そいつに脅され、劇場型犯罪を企てるために元木君が書かされた。辻褄はおうちょるんじゃないがですか?」

「それにしては手が込みすぎていますよ。それにネットの画像見ましたけんども、脅されて書いたにしては字がほとんど乱れていません。包丁突きつけられたりしたら書く字にも繁栄されますから」

 自殺肯定派の光田が反論した。確かに字の乱れは無かった。整えられた字で、清書されていたのを本城は思い返す。

 それにしても妙な問題である。元木本人は犯人を推理しろ、トリックを当てろなどとは遺書に書いていない――むしろ犯人当てやトリックなどどうでも良いと書かれている――のに、。元木軍平、二十九歳。死んでまで楽しませようとするエンターテイメント精神には感服する。

「そうか、二十九というと、一九八四年生まれなんやがなぁ」

 元木の年齢を思い出し、本城はボソリと呟いた。

「元木先輩の生まれた年ですか? そうです、俺と同じで、横浜の暗闇坂でぶっ飛んだ殺人事件が起きた一九八四年です」

「ビッグ・ブラザーに監視されちょる一九八四年か」

 虚構の話は、ミステリオタクの光田と、SF者の自分にしか通用しないな、と本城は感じ話題を変えようとした時だった。奈緒が突然口を開いた。

「そっか、困難は分割せよ。先人の教えよ、みっちゃぁん! つまり元木君の自殺と、首を切った人間は別人やったと考えたらどうかなぁ? 元木君は最初何らかの方法で他殺に見せかける、単純やけど、壁に包丁立てて背中に突き刺すとかの方法を思いついていた。でもそれをさっきのドラちゃんの言葉を借りるがやないけ別の人物Xが首を切ったために事件が複雑になった」

 元木が元々計画していた自殺方法が途中で崩された。

「つまりしてもうた言うがですか?」

「その通り」

 元木の元の計画では首の切断は無かった。しかし別の人物Xが計画の一部を変更し、首を切った。どういう事だ。本城は酩酊した頭で思考する。彼の計画通りだと他殺に見える方法で自殺を企てていた。それを第三者――人物Xが首だけ切っていった事になる。

「その人物Xは何故元木の首を? 人物Xは誰ですか?」

 本城は奈緒に聞いてみる。

「さぁ……そこまでは……」

「待ってください。人物Xが首を切った理由が分かるような気がします。アリバイ工作しちょったんやないでしょうか?」

 光田の言葉の意味が分からなかった。

「おまわりさんに聞いたんですけんどもね、逆隣の隣人が元木先輩をある特定の時間見ていたらしいです。つまりです。元木先輩はある時間帯、毎日の如く逆隣の人を窓から見ていたわけですよ。その時間帯に窓から、元木先輩の首だけ出しておく。首だけをトリックの一部に使った場合ですよ! 顔だけ窓から見せておけば、その時間帯生きていると思わせる事が出来る。即ちその後の時間帯の犯人のアリバイが保証されるわけですわ。元木先輩はこの時間生きていたというアリバイがね」

 ミステリオタクは普段このような事ばかり考えているのだろうか? だとすれば相当の馬鹿だ。本城はふと奈緒の方を見た。奈緒の目は冷たかった。その瞳の中には悲しみの感情の中に、少し怒りの炎も混じっていた。その様な彼女が口を開いた。酩酊した口調から突然、冷たい、冷静な口調へと変わっている。

「私、元木君の首を切ってそのトリック使ったんが誰か分かる気がするが。じゃないの? 首の切断も一人より二人なら簡単に行える……」

「大当たり海水浴場。今のところその二人しか容疑者枠として浮上しちょりません。おそらく間違いないでしょうよ。ただ、元木先輩の挑戦状のためにもう少し、奈緒タン先輩の続きというか……補足的なものでも良いですか?」

「続き?」

 始めてみれば、死者からの挑戦状という突拍子もない推理ゲームだと思っていたが、ここまで来ると話が変わってくる。

「元木先輩は気付いちょったんじゃないんすかねぇ、隣人夫婦がこんな行動に出る事に……」

「自分が死んだ後、自分の首を切断して、かつアリバイ工作をする可能性に? 光田君、いくら何でもその可能性は――」

「あります」

 口をはさんだ重浦が光田に制された。

「まず、元木先輩が周到に張り巡らせた計画です。毎日窓からある特定の時刻に顔を覗かせていたのが元木先輩の意思だとしたら? 次に首を切って自殺していたという事実。そして最後に田邊夫妻の狂気を煽るような行為をしていたのが、元木先輩自身だとしたら?」

「煽るような行為?」

「例えばですよ。元木先輩が田邊夫妻からの嫌がらせを全てやり返していた場合、田邊夫妻の殺意は増幅するでしょう。ここまで行くと狂気ですけんども」

 亡くなる以前元木から聞いた隣人夫婦の嫌がらせを、本城は思い出す。壁を叩く嫌がらせ、郵便ポストを見る嫌がらせ、鍵穴に接着剤を入れるという嫌がらせ。それらを元木が全て復讐していたとしたらどうか。田邊夫妻が元木の首を切るはどうなっていただろうか?

「さて、捜査本部に善良な一般市民として、連絡でもしましょうかね!」

 光田が答えた。

「ちょ、ちょぉ待てぇ、まだそんな犯人も分かってない状態で……」

「元木先輩の挑戦状を崩したんですよ。その可能性で隣人夫婦をとっ捕まえる事はできます。死体損壊容疑として……。いやぁ、しかし世界でおそらく一番ですよ。このハウダニット崩したの!」

 重浦と奈緒も反論は辞さないという構えだ。創作=エンターテイメントと考えると、これが一番良い方法なのかもしれない。おそらくこの後、マスコミ連中はこぞってこのニュースを取り上げるだろう。それこそが元木が創作に込めたエンターテイメントなのかもしれないのだ。祭り上げられた事実は永遠に神輿みこしの上なのだ。


 8


 似顔絵が巧くなりたいと思う人間がいるとしよう。では自分はどちら側なのだろう。元木は首を刺す前に考えた。首に当てられた包丁がきらりと光る。創作を人を楽しませる事の極限ととらえるか、あるいは逆に極北と捉えるか。あとは自分の仕様書シナリオ通りに事を運ぶだけだが、心配している部分もある。

 あの夫妻が自分の思い通りに操られてくれるかどうか。アイツらが自分の死に勝手に推理をしてくれるかどうか。いや、彼、彼女らなら大丈夫だろう。創作に対する批評。謎に対する推理。それこそが自分の追い求めていたエンターテイメントなのだから。エラリー・クイーンからの挑戦状。

――そういえばあの作者の本も光田から借りたがやったな……。

 それこそが元木の求めていたものなのだから。そう思いながら彼は――思い切り振りかぶり首を刺した。手に嫌な感触があり、皮膚が裂ける感覚があった。痛みが直接、脳髄を刺激したが数秒で麻痺する。血が出る音が鼓膜に入ってきた。目から見えていた空間が鈍色にびいろになる。

 ふと、玄関のチャイムが鳴った。元木は薄れゆく意識でそちらに目をやる。

――……隣の……夫妻か?

 ドアの外、そこには隣の田邊夫妻ではない、狂気に満ちたおっさんが立っているだけだった。

 ――……仕様書が――変更されたがか……。


 9


 高知県警の会議室、蛭子警部補と隅田巡査長は改めて、元木軍平の死体の写真を見ていた。ホワイトボードに張り出された、写真群はほとんどにどす黒い血がついており、一般市民なら思わず目を反らすだろう。しかし二人の刑事は首切り以上におかしな点の部分について目をやっていた。

「足の骨が……」

「おぅ、問題は首切り死体もそうやが、下半身の方足の骨……全部が切り取られて、抜かれちょる」

「蛭子さん、これ……」

 いつもはニコニコ笑っている、えびす顔の隅田だが、目にしわを寄せ、口も閉ざしている。

「確かマル害、元木軍平は高校時代、ちょるがやったな」

「えぇ、資料にはそう書いてありました」

 蛭子は頭の中で一つの仮説を構築した。しかしそんな事を何のためにしているのかが分からなかった。

「高知で起こっちょる、最近の変死体。死体の一部が持ち去られちょる問題。前は死体の……やったな……」

「まさか同一犯と?」

「俺は睨んぢょる」

 蛭子はそう断言した。


 10


 その公園の馬の乗り物。そこにはいつもと違う人がいた。あの人とは違う。あの人より背が低く、髪の毛もあの人より刈り上げて短いそんな人。おっちゃんでは無く、お兄ちゃんという見た目だが、寂しそうな目をしているのはあの人と同じだ。

 馬の乗り物に乗っているその人に、ぼくと桃愛が気付いたのは、ニンテンドー3DSをその人が遊んでいたからだ。少しだけ恐れつつ、その人に声をかけてみた。

「あの……」

「あ?」

 すごい目つきでにらみ返された。桃愛が怖がっている。その人は頭をボリボリかいた。

「あぁーー、もう、なんで俺がガキに喋りかけられんとあかんの。今、俺はゲーム中なんがよ。声かけんな、クソがッ! つーて、クソガキに言うても分からんわな」

 少し聞き慣れない言葉にぼくらはあせった。だけど地元の言葉が混じっている。

「なんやねん、お前ら。つーか、俺に声かけんな。警察に誤解されるやろが。こう見えて、俺は寡黙で知られちょるからなぁ」

 意味が分からない。ぼくは逃げ出したかった。でも妹の桃愛が、その人を睨み返してこう言いきった。

「ほ、ほこは折り紙のおんちゃんの指定席がやよ!」

 おそらく『指定席』の意味も分かっていないかもしれない。でも馬の乗り物に座っていたお兄ちゃんの顔が変わった。ふと、そのお兄ちゃんは手に持っていたUSBケーブルを空に向かって投げるとキャッチして、さっきの3DSをもう一回取り出した。

「あーーーーもう、なんやねん! いいかい、クソガキちゃんたち。俺りゃぁ、その折り紙おじさんの義理でここ座っちゅぅの。だから邪魔すんな、ばーか」

「で、でも、ほこはおんちゃんが座るとこや!」

 桃愛も譲らない。

「あーーもう、クソがッ! おぅ、お嬢ちゃん。お前が持っちゅぅ折り紙貸してみぃ。あああーー本当クソッ! ムカつく。ガキはこれやから嫌いなんよ……」

 そう言いながら、そのお兄ちゃんが折ってくれたのは、あの人と同じ――クレマチスだった。そして最後に青空に向かってこういったんだ。

「ばーーか」


<了>



【参考:引用文献】


〇小酒井不木集『怪奇探偵小説名作選1 小酒井不木集 恋愛曲線』(ちくま文庫)

〇江戸川乱歩『江戸川乱歩全集 第3巻 陰獣』』(光文社文庫)


【参考:引用経験】

〇自分自身

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仕様書変更 光田寿 @mitsuda

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