黒い壁

扇智史

* * *

「やだやだやだやだやだやだやだやだこわいこわいこわいこわいこわい」

 悲鳴を上げて、あたしは肩を縮めた。画面の中では、おどろおどろしい廃屋を背景に頭の長い男のお化けが突っ立って、こちら側にうつろな目を向けている。

「も~、しっかりしてよ~」

 すぐそばで、おっとりした柔らかい声がする。あたしは声のするほうへと体を傾け、

「ツカネここは恐くないって言ったー! ウソつき意地悪ー!」

 ディスプレイの隅に映した配信画面では、柴胡さいこマフミのちいさな頭が薄氷うすらいツカネの肩に預けられ、ふたりが身を寄せ合っている姿が映し出されている。マフミのピンク色のツーテールが、ツカネの胸に突き刺さっているみたいに見えた。

 画面の中のツカネが笑う。あたしのすぐそばで、あのこも笑っている。マフミとツカネのように密着はしていなくても、あのこが体を揺らす気配が空気越しに伝わってきた。

「こんなの序の口だもんね~」

「ツカネ恐くないのマジで?」

「ツカちゃんの地元だとよくあることだから」

「ヤバ! 白銀しろがねノ国って魔境じゃん!」

「だからマフちゃんも、このくらい我慢できなきゃツカちゃんとは遊べないよ~。がんばがんば」

「ありえないやだやだもうやめるー!」

「最後までいかないと配信終われないよ~? ほら、先進めて~」

 コントローラーをぎゅっと握ったまま硬直するあたしを、あのこが右肩で押してくる。あのこの挙動に合わせて、ツカネがマフミに身を寄せて励ましているみたいに見える。

「……ツカネが応援してくれなきゃやだ」

「はいはい。ツカちゃんがそばにいるからね。ファイト」

 ツカネのキャラに合わせた、すこし気の抜けた励まし。ディスプレイの中を流れる、マフミとツカネをはやし立てるコメントの弾幕。どちらもマフミがゲームを攻略するのを待ち望んでいるはずだ。

 あたしは一瞬、全部放り出して逃げ出したくなる。あのこの持ってきたホラーゲームは思ったより恐くて、これ以上先に進めたくない、という気持ちもあるけれど、たぶんそれだけではない。

 ここであたしが逃げ出して、空っぽになったマフミの体だけが画面に残ったら、みんなはどう思うだろう。突然の事態に騒然とするだろうか、それとも、そのくらいの事故ならなんとも思われないだろうか。

 隣にいるあのこは、画面の中のツカネは、どうするのだろうか。

「……じゃあ先に進みまーす」

 マフミがそう言って、あたしがコントローラーのボタンを押すと、ゲーム画面のセリフが次に進む。ゲーム中の主人公は、恐ろしげなお化けから逃れて、高い壁に挟まれた狭い路地を駆け出し始めた。


 柴胡マフミをやっていたあたしが、薄氷ツカネこと安藤あのこと出会ったのは、Vtuberとしてデビューして1ヶ月ほど経ったころだった。

 ツカネはマフミよりも3ヶ月ほど先に活動を始めていて、登録者数はマフミの倍ぐらい。ツカネがマフミのゲーム実況にコメントしたのが最初で、そのうちSNSでのやりとりが増え、オンラインでのコラボを始めたころから、お互いの登録者数の増加ペースが高まってきた。

 リアルに出会い、オフコラボをするのは自然な流れだった。あのこはあっという間に自宅でオフコラボができる環境を整え、あたしを家に招いた。あのこは思ったよりも年上で、できる大人という感じの顔をしていたけれど、冷蔵庫の中にストロング缶を溜め込んでいて、あまりあたしの目を見ない人だった。自分の話をあまりしなくて、いま目の前の楽しいことに全力を注いでいた。

 どうしてあたしに声をかけたのか、と訊ねると、マフミの顔が好きだった、と答えた。

 最初のオフコラボは、ふたり並んでソファに腰を下ろし、なんでもない雑談をした。画面の中のマフミの体が揺れて、ツカネに身を寄せるたびに、コメント欄が細波のようにわいた。あたしはそれが楽しくて、何度もあのこの肩に自分の肩をぶつけるみたいにしていた。

 そのころには、もう好きになっていたのだと思う。


 あのこはあたしの好意を受け止めてくれたけれど、決してあたしを心の底まで踏み入れさせてはくれなかった。深い関係になってもなお、あたしはずっと、あのこにもどかしさを感じていた。

 ふたりの配信が盛り上がり、収益が上がるようになり、そのお金でゲーミングチェアを2台とディスプレイを買った。そういう達成を重ねるたびに、あるいは何もなくても、あたしはあのこの家を訪れて彼女とともに過ごした。その都度、ツカネとマフミは画面の中で近づいたり離れたり、ゆるくて親しげな会話をしたり、ゲームをいっしょに攻略してはしゃぎ回ったりしていた。

 いっしょに食べたパンケーキとジュースの写真を画面に載せて、その日の出来事を最初から最後まで話すみたいな配信をしながら、あのこは一度もあたしの方を見ないで、ツカネのほうに限界ギリギリまで視線を向けるマフミの姿ばかりを凝視していた。

 あたしは、あのこの横顔にちらりと目をやって、逃げるように視線をそらした。


 半年ほどの蜜月のあと、あたしとあのこの間の空気は急速に冷めていった。

 コラボはオフもオンもずっと続けていたし、いっしょに出かけて配信のネタを集め、オフのついでに家に寝泊まりすることもあったけれど、あたしとあのこの間でかわされる言葉の温度が下がっていくのはひしひしと感じられた。

 一度、コラボをやめようか、とあたしの方から訊ねたことがある。

 いつもは目を伏せてあいまいな言葉に終始していたあのこが、そのときばかりはきっぱりと、それはだめ、と言い切った。リスナーを裏切ることになるから、と。

 誰かに見せるためだけに、友達のふりをするのか。そんなふうに、あたしは言ったはずだ。自分の口から出るとは信じられないほどの険しい声で、顔をしかめて、目の前のあのこを問い詰めた。

 配信が始まるから、と、あのこが逃げるようにつぶやいたのを覚えている。そんなもの中止にしてしまえば、とあたしは言いかけたのだけれど、結局、あのこと一緒に配信を始めた。

 マフミとツカネは、画面の向こうに、普段と同じ調子で「おはツカ~」「こんマフミー」とあいさつをする。コメント欄にもあいさつが返ってくる。マフミたちのなんでもない言葉、ぎこちない仕草、思わせぶりなエピソード。そんなひとつひとつで、マフミとツカネは自分たちの姿を築き上げ、リスナーたちのコメントと投げ銭がそれに形を作っていく。

 黒くつやつやと光るたくさんの壁に包囲されて、あたしたちは、この関係をやめられない。


 雑談配信の空気がゆるんで、あたしはあのこの部屋の冷蔵庫から銀色の缶を2本取り出してくる。ひさしぶりにソファでする配信はなんだかなつかしくて、いつもより口も軽くなるし、やることなすこと適当になっていく。

 カメラの前に戻ると、硬直していたマフミの立ち絵がよみがえる。「おかえり~」とツカネのおざなりなあいさつ。

 缶を開けると、炭酸ガスの吹き出す音がマイクに乗った。ふたりで度数の高いチューハイを口にして、ひとしきり笑う。楽しんだりうらやんだり事故を期待したりでコメント欄が加速し、投げ銭で酒代が投げつけられる。

 あたしはあのこのほろ酔いの横顔を見る。一口だけでほおが赤く染まっていた。弱くはないけど顔に出やすい、そんなあのこの体のことを、この場であたしだけが知っている。あたしは一気に缶の半分をあおって、あのこにまとわりつく。マフミがツカネに体を寄せる。うふふふふ、というあたしの笑い声が、かすかなノイズとともに、マフミとツカネを見つめる人たちの画面に届く。

「猫みたい」とツカネがつぶやくので、「にゃ~」とおどけて声まねをする。ふたたびコメントが加速するのを、目を細めて眺めていると、ツカネが言う。

「そうそう、猫って言えばさ、白銀ノ国にいたころ、猫を飼ってたんだよね」

「へえ」

 初耳だった。

「だけど父上が、猫のこと苦手で」

「よく飼うの許してくれたね」

「白銀ノ国のえらい人だからね~。めったに本宅になんていないわけ」

 親の話なんてめったにしないのに。お酒で口が軽くなったの?

「そんで父上が留守の間に、我が家が襲撃される事件があったんだけど」

 は?

 コメント欄と一緒にあたしまできょとんとしてしまう。

「ま、犯人は速攻捕まったんだけど。えーと……なんだろ、あれだ、謀反? そういうやつで」

 その設定、いま考えたの? どこまでがほんとなの?

「部屋とか荒らされて、母上もケガしてさ。そのときに猫もケガしちゃったわけ。家を守ろうとしたんだろうねえ、勇敢だねえ」

「うん……」

 どうリアクションしていいのか、わからない。かわいそう、とか、強い、とか、コメントは無責任なことばかり言う。あたしは缶に口をつけて、マフミは突っ立った姿勢のままツカネのことを横目でうかがう。

「ツカちゃんさ、猫がかわいそうで泣いちゃって。それどころじゃなかったんだけど」

「空気読めないね」

 ようやく口にしたあたしのひとことに、ほんとに、と、マイクに乗るか乗らないかの小声であのこが言った。

 そしてあのこは、画面の方をじっと見つめたまま、言葉を続ける。

「父上、怒っちゃってさあ。そんな猫なんか捨てちまえ、みたいなこと言って。ツカちゃん、いつもは父上に文句言ったりしないんだけど、そんときばかりはギャン泣きしながら逆ギレして……」

 それからしばらくの間、ツカネは堰を切ったように話し続けた。父との長い確執のこと、ずっと家にいなかった父と、その父の目を恐れて生きていた母のこと、裕福なのに窮屈だった家族のこと、周りの人の目、事件の噂、ばらまかれた誹謗中傷、そして逃げるようにこの街に出てきたこと……

 なにもかも、あたしがあのこから聞いたことのない話だった。

「……なんの話だっけ?」

「猫の話じゃなかった? 遠くに来すぎ」

 マフミはそう言って、作り笑いをこぼす。酒のすっかり抜けたいまのあたしは、心の底から笑うことなんてできない。仮面みたいに張り付いたあたしの笑いは、マフミの表情にトレースされて、画面の上のいつもの笑顔に変わる。

 あのこはずっと、マフミの笑顔を見つめていた。

「一度、話しときたくてさ~。よかった」

 重い荷物をようやく放り出した、というように、あのこは深い息をついた。無防備な吐息をマイクが拾って、スピーカーからがさがさとしたノイズが生じる。あのこの横顔はうっすらと朱に染まったままで、だけどツカネの色白の笑顔には、彼女のほんのり熱い体温も、吐息に残るアルコールのにおいも反映されていない。

 それがなんだというの?

 ソファの背から体を引き離し、あたしはマイクに顔を近づけるみたいに背中を丸める。画面の向こうからは、あたしの姿はすこしうつむいているくらいにしか見えていないだろう。目を細めて、ぎこちない笑みの形に唇をゆがめたマフミは、たぶん、ツカネの過去に同情して、悲しんでいるふうに見えるのだろう。

 あのこが、鼻をすすったのが聞こえた。横顔はすこし泣いていた。マイクがミュートされたこの瞬間は、あたしとあのこ、ふたりきり。

 ありがと、聞いてくれて。

 あのこはあたしの方を見ないで、ささやく。

 あたしは何も言わないまま、こくり、と小さくうなずいて、マウスに手を伸ばす。ミュートが解除されて、あたしとあのこはふたたびマイクに向き合う。

 マイクの向こうには、マフミとツカネと、たくさんのコメントたちが映る画面。平たくて冷たくて、あたしとあのこの間を隔てる、黒い壁。

 マフミとツカネの声がよみがえり、配信は続く。

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黒い壁 扇智史 @ohgi_

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