エピローグ

 午前中に住宅街での聞き込みを終えた私は、その近所にあるショッピングモールのフードコートで昼食を摂ろうとしていた。

 わけがわからない。そんなイライラがあったせいなのか、きつねうどんの入った器をトレイごとテーブルに勢いよく下ろしてしまい、つゆがオレンジ色のトレイにこぼれた。

 全くもってわけがわからなかった。そう困惑しているのは私だけでなく、この事件を捜査している警察官はみんなそのように感じているはずだった。いや、そもそも事件と呼べるのだろうか。事故でもなく、自然現象でもなく、かといって何事も起こっていないわけではない。そもそも定義に困るのだから、どのように調べればいいのか、どのように解決すればいいのか、まるで見当もつかないまま午後も聞き込みに行かねばならない。うんざりしながらも麺をすすろうとすると、右隣から白銀の鈴が鳴るような笑い声が響いた。

「ほら。わたくしの言った通りだったでしょう」

 夢の中でも響いていた、一度聞いたら忘れられない声が聞こえて、箸からうどんが滑り落ちた。

「あなたとわたくしはいずれまた会うことになる、と」

 振り向くと、隅のテーブルには男爵令嬢が座っていた。ゆるやかに波打つ栗色の髪、白い肌、無造作に作り上げられていながらいかなる造作も及ばないほどに整った容貌、首からぶら下がった赤い宝石を取り巻く蛇を象った金色のネックレス、白のワイシャツ、クリーム色のロングスカート。何から何まであの日と同じだった。いや、ただひとつ、ショールの色だけが違って、今日はピンクだった。

「お久しぶりです、スミノさん」

この地にわずかに残った冬のなごりを溶かしてしまいそうな暖かなまなざしなのに、何故か身体の中から震えが来るのを感じた。

「こんなところで、一体何を」

 自分で聞いてもかすれている声で訊ねながらも、まさかフードコートにいるとは、と強いショックを感じていた。秋に会ったカフェもわりと庶民的な店だったので、高級店ばかりを探していたわけではないが、さすがにお嬢様がショッピングモールにいるとは考えなかった。完全に盲点だった。そんな風に固まった私をよそに彼女は赤く太いストローでミルクティーを飲んでいた。透明なカップの中では黒く丸い粒が踊っている。

「タピる、というのを一度やってみたかったのですが、なかなかいいものですね」

貴族らしくもなく、流行にも敏感なようだった。そういえば、このショッピングモールの1階にも専門店があったな、と思っていると、高貴な女性は私の首元に目をやった。

「それ、本当にずっとつけていたのですね」

 この半年近くの間、彼女が作ってくれたマフラーを巻き続けていた。もう春だというのに、いよいよほつれていて、巻いているというよりまとわりついていると呼ぶべき状態になっても私は手放すことができなかった。そうすれば、本当に縁が断ち切られてしまうような気がしたのだ。そんな大切なマフラーを作った本人が私の首から奪い取った。

「何をするんです」

「こんなみっともないものをつけられては、わたくしのみならず、男爵家の恥になりますから」

そう言って私の顔を窺い見てから、

「健気な紳士には別のご褒美を差し上げます」

傍らに置いてあったバスケットから赤い毛糸を取り出した。何かまた編んでくれる、ということなのか。心臓の動きが速まる。透き通るほどに白い手の動きが編み棒を取り出そうとして止まる。

「スミノさん、わたくしに言わなければならないことがあるのではありませんか?」

そうだった。天堂たちの本当の顚末について説明しないと。

「それもなかなか興味深いお話ではありますが、とうにわかっていたことを確かめるのはあまり生産的ではありません」

そう言われて、やはり彼女は真相に気づいていたのだとわかった。

「一番大切なのは現在、今そこにある謎なのです」

お嬢様は全てお見通しだと言いたげに、

「あなたは今、不可解な状況に直面されてますね?」

とにこやかに言った。まさか、私が今抱えている捜査のことを言っているのだろうか。しかし、この前の件とは違って、今回は仕事なので部外者には話せないという言い訳も通じそうにはない。警視総監でも恐れている人だ。素直に打ち明けるよりほかになさそうだ。

「まったく、かなわないな」

「あら。そんな弱気では困ります。これはわたくしとあなたの真剣勝負なのですから。あんまり意気地がないようだと、ついうっかりスミノさんを叩き潰してしまうかもしれません」

 どんな「ついうっかり」だよ、と思ったが、彼女に軽蔑されるのは何よりも怖かったので、自分なりに最大限に気合いを入れて臨むことにした。

「そういうことなら、ぼくも自分なりに頑張らせてもらいます」

「そうこなくては。それでこそスミノさんです。わたくしも全力で行かせてもらいます」

 そう言って胸を張った拍子に、すべらかな白い生地に覆われた見事な果実の上でルビーを中心にとぐろを巻いた黄金の蛇が楽しげに跳ね回る。それに目を奪われながらも、私の中でひとつの考えが閃いていた。もしかすると、私たちは謎によってつながっているのではないか、と。私が謎に足を取られたとき、それを救うために彼女が現れるのではないか、と。もちろん、それはただの思い込みに過ぎないのかもしれない。しかし、ただの偶然でこんな風に再会するとも思えなかった。2人の間に確実に何かがあるのだと思えたし、そう思いたかった。

「ほら、いつまでもわたくしの胸ばかり見ていないで、早く話を始めてください」

ぐふ。うどんが喉につまりかける。

「見てません、見てません。絶対断じて決して見てません」

「ただの冗談にそこまでむきにならなくてもよろしいではないですか」

ほほほ、と貴婦人にふさわしい笑い声をあげられる。うわあ。絶対ばれてるよ。考えてみれば、あんなに賢い人にばれていないわけがないのだが、そうは言ってもあんな素敵な光景を見るな、というのも無理が。いや、それはともかく。

 たとえ私と彼女が謎によってつながっていたとしても、それだけで満足できるかと言えば、できるわけがなかった。もっとそれ以上の関係になりたい。それがきわめて困難であるのは分かっているつもりだ、と今頃お嬢様を必死で探し回っているはずの「じいや」の顔を思い浮かべながら考える。他にも様々な難関はあるのだろうが、最も困難なのは彼女自身に違いなかった。眉目秀麗、頭脳明晰にして誇り高く正義感の強い高貴な人に近づく手立てを今の私は見出せなかった。そして、見出せない以上は、心と体の全てをかけて立ち向かうしかないのだろう、と覚悟を決めかけていた。彼女の言う通り、今から始まるのは謎解きではなく、私と彼女との真剣勝負に違いなかった。

「それでは、話を始めてもいいですか?」

ふふ、と彼女が軽く笑ったのは、私の表情に強い気持ちが浮かんでいたからだろうか。じきに開示される謎への期待だろうか。

「よろしくてよ、スミノさん」

 右の手のひらの上で赤い毛玉を転がしながら、左手を私に向かって差し伸ばし、男爵令嬢は華やかな笑顔を見せた。

「さあ、どんな話を聞かせてくださるのかしら?」


(男爵令嬢 終)

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男爵令嬢~謎の美女は安楽椅子探偵?~ ケンジ @kenjicm

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