その6(その後)

「一体何なんだよ」

翌日の夕方。私は職場のトイレで用を足しながら思わず愚痴をこぼしていた。念のために書き添えておくと、職場というのは警視庁で、私は捜査一課に所属していた。しかし、その日は担当していた仕事そっちのけで、昨日の出来事について調べまわっていた。大蛇家の女男爵、とあの憎たらしい「じいや」は彼女をそう呼んでいた。後継者の証に蛇が象られていたのもそのせいか、と思いながら、いろいろ探ってみたが、全くもって何の情報も得られなかった。もちろんネットの検索でもヒットしない。手を伸ばそうとすると、蜃気楼のように掻き消えてしまって何の感触も得られなかった。ならば、と今度は確実に聞き出せるであろう、天堂の家にあったキリスト像について鑑識に問い合わせてみた。あの像に付着していた血が誰のものだったのか知る必要があった。ところが、返ってきたのは「答えられない」という一言だけだった。いや、「わからない」なら理解はできるが「答えられない」というのはおかしいだろう。何故隠す必要があるのか、と電話口で係を問い詰めてみたものの、「答えられない」以外の返事を聞き出すことはできなかった。

「彼女の言った通りだったのか」

 トイレの壁を見つめながらそう考える。天堂の血でも、それ以外の誰かの血でないのなら、キリスト像自らが流した血なのか。それが鑑識が返答を拒む原因なのか。そう思いを巡らせていたおかげで、隣で誰かが用を足しているのに気づくのが遅れた。今は私以外誰もいないのにわざわざ傍に来るなんて、と思いながら背の低い初老の男性の制服をちらりと見て、あれ、この人、見覚えがあるな、と一瞬思ってすぐに絶句する。警視総監だ。つまり、私の職場のトップだ。すぐに気づかなかったのは明らかに不覚だったが、しかし、そんな偉い人が私のいるフロアまでやってくることなどめったになかったし、私も遠くで見かけたことがあるだけで、直接話をしたことなどなかった。気づかなくても仕方ないじゃないか、と自己弁護をしていると、

「君が角野すみの朗仁あきひとくんか」

ぼそっと話しかけてきた。あわてて姿勢を正して上司-という実感もわかないくらい雲の上の存在だったが-に敬礼しようとして、

「ああ、いいよ。そのまま、そのまま」

と穏やかに言われたので、やむを得ずまた壁を見つめた。

「よく働いていると聞いたよ」

褒められたようなので、ありがとうございます、と咽喉の渇きを覚えながらも礼を言う。そんなことを言うためにわざわざここまで、とか、勤務の評定は総監がやるような仕事ではないだろう、と思っていると、

「大蛇の家のお嬢さんに逢ったそうだね」

と言いながら、鋭い視線をわずかな間だけ私の横顔に走らせたのを感じた。やはりそれか。おそらくもう一通り調べはついているのだろう。隠し立てしても仕方がないので、私は昨日起こった出来事を逐一報告した。

「なるほど。いかにもあのお嬢さんらしいな。あの人が関わるといつも妙なことになる」

 総監は納得した様子で頷いた。警察のトップと知り合いなんて、一体彼女は何者なのだろう。

「あの、その話が聞きたかったのでしたら、私の方から報告に伺った方がよかったのでは」

「君を呼びつけたりしたら、それはそれで問題になるのでな。穏便に済ませた方がお嬢さんと君のためになる」

 総監に隠密行動をとらせるほどの存在と関わったのか、と思うと足が震えそうになってきた。

「すみません、総監。あの人は一体」

「悪いが何も答えられんよ」

鉈を振り下ろすように質問が断ち切られる。

「答えられんし、君も知らない方がいい。そして、これは上司ではなく個人的な意見として言うが」

 いくつもの修羅場を乗り越えてきたキャリア官僚の声が私の耳を打った。

「彼女のことは忘れた方がいい。あちこち探りを入れているようだが、これ以上踏み込むと君の将来が危なくなる」

「それはできません」

 反射的に上司の方を向いていた。

「忘れられません。それに、忘れたくありません」

思い切り楯突いてしまった、と気づいた時にはもう遅かった。この時点でもう将来はないじゃないか、と思ったものの、嘘偽らぬ思いを言ったことに後悔はまるでなかった。彼女の存在は私の中でそれほどかけがえのないものになってしまっていた。きついお叱りを覚悟していたが、

「そうか。それもまたいいだろう」

ぽん、と右肩に手を置かれた。力強さと優しさが共存する掌だった。

「それなら、君の好きにすればいい。せいぜい頑張ることだ」

恋は盲目だな、と唇の左端だけを吊り上げ、部下の非礼を咎めないまま、上司は私の隣から立ち去っていく。トイレの入り口近くで立ち止まって、

「スミノくん、君は学生時代に柔道をやっていたんだな?」

「はい。もうだいぶ昔のことですが」

「今度、朝稽古に来なさい。私が直接相手になろう」

そう言って立ち去る上司の広い背中を見ながら、総監がかつて柔道界で猛者としてその名を鳴らした、という噂を思い出して、別の意味で足が震えてくるのを感じていた。そして、どうやら私の人生は、昨日の夕方から既定のコースを大幅に逸れつつあるらしい、とも感じていた。


「こいつは確かに凍傷だな」

鏡の所見を見たごま塩頭の男がぼそっと呟く。

「やはりそうですか」

「ああ。普通は見落とすはずはないんだがな」

総監との会話から3時間後。私は以前から懇意にしている監察医と居酒屋の座敷席で話をしていた。医師はぐい、とビールを飲み干してから、

「どうせ若いやつがやったんだろ? 思い込みで物事を見るからそんなことになる」

「真夏の東京で部屋の中で凍傷になるわけがない、と考えたんでしょうか」

「俺だったら弟子にそういうのは絶対にやめろ、といの一番に言うんだがな。よそはそうでもないのかね」

 溜息をついてから、じゃがバタを平らげていく。無精ひげを伸ばし、よれたジャンパーを身につけた外見からは想像もつかないが、私が彼の名を出したところ、あっさりとデータを借りられたので、その業界では優秀な人材として名が通っているらしい。

「お前さんのダチなんだって?」

所見をコピーした紙に目を落としていた丸く大きな目がこちらを見てきた。

「ええ、まあ」

「それはつらいな。まあ、30を過ぎたら知り合いはどんどん死んでいくからな。嫌でも慣れるさ」

 励ましなのかジョークなのか判断できないことを言ってから、

「しかし、まあ、確かに妙な死に方だな。こんなのが持ち込まれたら、俺も苦労するかもしれん」

 そこで鏡が真空状態で死んだ、という男爵令嬢の考えを持ち出してみた。

「ふうん。真空ねえ」

 太い親指で顎をぼりぼりと搔いてから、

「ありえねえ話ではないと思うぜ」

「可能性はありますか?」

「ただ、俺もそんな死体は見たことねえからな。NASAが宇宙空間に誰かを放り出して実験した、という話も聞かんしな」

そんな実験は非人道的すぎて、行われない方がいいに決まっていた。

「まあ、自分の目で確かめないで決めつけられるほど、俺は自信家でもないんでな。仮説は仮説だ。その辺はお前さんもわかるとは思うが」

「ええ。それはもちろん」

 わかりゃいいんだ、と言って、医師がソーメンチャンプルーを箸で大量にさらっていく。私としては昨日の彼女の話が否定されないのであればそれでよかった。そろそろビールでも注文しようか、と思っていると、

「何か変なことが書いてあるな」

酒を飲み飯を喰らいながらも、所見に目を通し続けているあたり、意外に仕事熱心なのかも知れない。

「なんだって? 内臓に異常が見られる、って?」

「鏡の内臓に欠陥があった、ってことですか?」

そんな話は聞いたことがなかった。あいつは体育の授業も欠かさず受けていた。

「いや、異常と言っても逆だ、逆」

「逆?」

「ああ。つまり、発達しすぎてる、っていうんだ。心臓と肺が」

そんな話があるか、と考えてからすぐ、華麗なる女探偵の推理が脳裏に甦る。鏡が真空状態でも生きていけるように進化を目指したという、あの推理だ。

「ありえねえだろ。何考えてるんだ、こいつ」

そんな事情を知らない監察医は鏡の検死を担当した医者に文句を付けている。

「他にも何か書かれてるんですか?」

はあ、と大きく息をついてから、右手で7割方白くなった髪を掻く。

「お前さんのダチ、胸にひどい傷があったんだろ?」

真空で苦しさのあまり、自分で掻きむしった傷だ。

「自分でやった傷もあるが、そうではないのもあるんだとさ」

「そうではない、ってどういうことです?」

また、はあ、と大きく息をつく。

「体の内側から外に向かって裂けていたのもあったんだとさ。どんな傷だよ、ありえねえだろ」

こいつ、後で説教だな、と若い医者を罵倒してから、ビールをあおり、お前も飲め、と茶色い瓶をこちらへと差し出してきた。いただきます、と素直にコップで受け取ったが、とてもではないが、今は酔えそうにないな、という気持ちで頭の大半は占領されていた。そして、残りの部分では、私なりの新たな仮説が築き上げられはじめていた。


「スケコマシの話、聞いてきましたよ」

休日の昼下がりに電話を掛けてきたのは、私に箕輪の死を伝えた高校の後輩だった。あのカフェでの出来事からすぐ連絡を取って、箕輪に関する噂はないか訊ねていた。

「先輩はスケコマシと仲良かったんですよね? 葬式とか行かなかったんですか?」

そうしたかったのは山々だったが、箕輪の家は一人息子の弔いを手早く少人数で済ませてしまっていたし、その後で一度お伺いしたいのですが、と自宅に問い合わせてみても丁重かつよそよそしく断られていて、墓の所在もつかめずにいた。

「こっちもなかなか事情がわからなかったんですけど、ひとつだけ変な話を聞きまして」

「変な話?」

「ええ。その、スケコマシの死体を焼いた時の話なんですけど」

家庭料理みたいな言い方だが、荼毘に付した時の話、ということなのだろう。

「地元じゃなくて少し離れた火葬場を使ったらしいんですけど、そうしたら死体からすごい臭いが出たらしくて、煙突からそこら辺一帯に臭いがあふれて大パニックになった、って聞きました」

後輩が言うには、箕輪の遺体を焼いた窯はいくら掃除をしても臭いが取れず、結局使い物にならなくなった、というからかなりの悪臭だったのだろう。

「それはどんな臭いだったんだ? やっぱり何か腐ったような臭いだったとか」

「違うんですよ。いや、普通は死んだ人間からそんな臭い出ないだろ、って俺も思ったんですけど」

その、なんといいますかね、と逡巡してから、

「すっげえイカくさかった、って言うんですよ」

「イカって、あの烏賊か?」

「タコイカのイカです。でも、イカくさい、って言ったらアレを思い浮かべるじゃないですか?」

「まあ、そうだな。アレだな」

電話の向こうの男が言わんとするところは一応わかっているつもりだった。

「だから、死体がイカくさいって言われても、ねえだろ、とは思うんですけど。すみません、なんか全然役に立てなくて」

 謝る必要など全然なかった。今の後輩の話は私の考えを裏付けしていて、そしてさらに裏付けするために次の休日に遠出する決心を固めていた。


 そして、次の休日に、私は箕輪が入院していた総合病院に足を運んでいた。後輩に聞いたところによると、箕輪の実家近くにある富裕層の患者が多い病院に私の友人は入院したままそこで最後を迎えたという。考えてみると、箕輪の実家には行ったことがなかったのでまるで土地鑑はなかったが、最寄り駅に着いてタクシーで行き先を告げると「あそこですね」と運転手はまるで迷う様子もなかったから、地元では有名なのだろう。

 15分ほどで小高い丘の上にある病院には着いたが、今回の訪問はあくまでプライベートなものであって、正式な捜査ではないので関係者から直接話を聞き出すわけにはいかない。とはいえ、私も10年近く警察にいるのでそれなりの知恵はついているつもりだった。こちらから聞き出す手がないときは、誰か自分から話してくれそうな人間を見つける手がある。医療関係者には守秘義務があるといっても、どこにでも一人は必ず話したがる人がいるもので、少なくとも私の経験ではその例外に当てはまるケースに行き当たったことはなかった。

「実はわたしも誰かに話したくてたまらなかったんですよ」

 若い看護師は私の前に座るなり話し始めた。つい1時間前に見かけた白衣から、オレンジのラウンドネックのシャツと薄い青のワンピースの組み合わせに着替えていて見違えるようだった。「この子なら事情を知ってそうだ」となんとなく感じて、病院の広い待ち合わせのロビーで声を掛けたらあっさりとOKしてくれて、それで今、駅前のファミレスで落ち合ったところだった。

「もう2年前の話だから、覚えている人がいるか不安だったんだけど、いてくれて助かりました」

「わたしもちょうどあの病院に来たばかりだったのでよく覚えてるんです。病院で働いてると変な事はよく起こるんですけど、それでもあれはかなり変でした」

 箕輪は病院の最上階にある特別な個室を割り当てられていたそうなのだが、他の看護師たちはそこへ行くのを嫌がっていたという。

「先輩たちがやってくれてたので、わたしは4、5回くらいしか行ったことないんですけどね」

 頼りになる先輩が嫌がる患者とはどんなものなのか、という好奇心もあって、新人ナースは箕輪をよく観察したというのだが、

「一発でわかりました。ああ、これ、生理的にムリ、ってやつだって」

医療従事者がそんな弱音を吐くのは困ったものだと思ったが、

「世の中には我慢できることとそうでないことがあります。わたしの本能が拒否ってたんです」

「どんな風に無理だったんですか?」

「外見がまず無理でした。なんというか、卑猥なんですよ」

「卑猥?」

「ええ。全身がピンクで、なんか髪の毛も全然なくて、体中ツヤツヤスベスベしていて」

まるで想像がつかないので、手持ちのメモ帳-もちろん警察手帳ではなく別のもの-とボールペンを渡して、絵で説明してもらうことにした。

「できました」

5分ほどで描き上がったイラストを一目見るなり私は絶句した。幸か不幸かこの人は絵心があって、そのせいで箕輪の変わり果てた様子がよく理解できてしまった。もちろん、ここでそのイラストを示すことはできないので言葉で説明するしかないのだが、一言で言えば、目と鼻と口と短い手足がくっついた男性器、それが私のかつての友人の姿だった。

「描いてもらったのに失礼ですけど、本当にこんな感じだったんですか?」

「我ながらよく描けてると思いますよ。それに、こう見えてわたし、看護学校で漫画研究会にいたんです」

それなら間違いはないだろう。というか、看護学校にも漫研はあるとは初耳だ。

「箕輪は腎臓の病気だった、と聞いてますけど、それでこんな症状になるんですか?」

「あー、入院した理由はそうだったみたいですけど、こうなったらもうそれどころじゃないですよね」

 自分で描いたイラストをペンの先でつつきながら看護師さんが笑う。

「うちの方でも努力はしたんですよ。CTとかMRIとかいろいろやったり、学会の偉い先生を呼んで診てもらったりしたんですけど、結局なんなのかさっぱりわかんなくて。最終的にはわたしたちの中では何かの呪い、ということで落ち着きましたけど」

近代医学に携わる人が落ち着いていい結論だとも思えない。

「でも、体中の血が精子に変わる病気なんてありませんから」

「はい?」

「せーし」と少し舌足らずの発音をされても、それで気分が和みはしなかった。

「マジで信じられないですよ。口と鼻から白いのをダラダラ垂れ流して、それで女の人が病室に入ってくると手を伸ばして近づこうとするんです」

私は友人の話を聞こうとしているはずだが、出来の悪いB級ホラー映画の解説をされているような気持ちになってくる。

「そうじゃなくって、100パー現実です。うちの看護師と女医、みんなそれやられて、師長なんか泣いてヒス起こしてました」

「それじゃあ、あなたも危なかったんじゃないですか?」

「わたしは持っていたバインダーを思い切りバーンって投げつけてやりましたから。それ以来病室を出禁になったから安心してください」

それは安心していいものなのかどうなのか。私がドリンクバーで入れてきたアイスカフェオレを飲みつつ看護師さんは話を続ける。

「結局、女が行くのはまずい、ということになって、男だけで担当することになったんですけど、亡くなる間際は見境がなくなって男にも襲いかかってました。わたしがちょっといいなあ、って思ってた研修医も襲われて、それ以来病院に来なくなっちゃいましたけど」

いや、これはやっぱりホラー映画の話だろう。そして、「亡くなる間際」という言葉に気持ちが沈むのを感じた。

「箕輪は、そちらで入院したまま死んだんですか?」

「そうですね。さっき話したような事情で、誰も病室に行きたがらなくなって、亡くなってしばらく経ってから見つかりました。わたしも、キモい患者さんだったけど、誰もお見舞いに来なかったしかわいそうだったな、って思ってお別れしようとしたんですけど、どうしてもそこまで行けなくて」

「行けなかった、ってどういうことです?」

「だって、臭いがひどくて。部屋だけじゃなくてフロア全部が、せーしの臭いだらけで」

 後輩の話した火葬場の件と同じか。自分の立てた仮説がまた少し立証された、と思ったがそれを喜ぶことはできなかった。

「結局、防護服を着た人たちが集まってなんとか後始末したんですけど、話を聞いたら、その、箕輪さん、ですか? なんかひからびてたみたいで」

「ひからびていた?」

「ええ。体中から液体が全部噴き出して、部屋中、ベッドもカーペットもみんなべとべとになって、天井からも滴がポタポタ落ちてたらしいんで、爆発したのに近かったんじゃないですか」

 一体どんな話なのか。人間の死に方とはとても思えない。

「箕輪さんの死に方があまりにも変なのでうちの病院で検死して調べたんですよ」

さっきイラストで見た物体を解剖する羽目になった人たちに同情せざるを得なかった。

「そうしたら、特に異常は見られなかったし、外傷も病気もなくて、眠っている間に苦しまずに亡くなったんじゃないか、という結論になったみたいです」

 それはせめてもの救いだったかの知れない、と友人の死を悼む気持ちになったところで、あることに思い至る。あれ? 眠っている間に、精液を噴き出した、ということはつまり。

「検死の結果を聞いて、あの人、夢精して死んじゃうなんてかわいそうだね、って休憩中にナースルームで言ったら、みんな笑い出しちゃって。死んだのに笑うなんてひどい、と思ったけど、その後わたしも笑っちゃったから、やっぱりわたしもひどかったのかな、と思います」

こちらがあえて口にしなかったことをわざわざ言ってしまった。かつてのプレイボーイにふさわしい死に様、と呼べるかどうかはあまり考えたくなかった。

 1時間ほど話を聞いただろうか。ファミレスを出た私は聞き込みが上手く行ったことに満足していた。

「わたしの家、ここから2駅のところで、すぐに行けるんですけど」

 しかし、先に店を出ていた看護師さんに声をかけられて、聞き込みが上手く行きすぎたのだ、とわかった。

「これから2人で飲みませんか?」

 迂闊なことだが、ここで初めて女の子の顔をよく見てみた。少し釣り気味の目と内側にカールしたボブカットのおかげで猫っぽい感じだ。どこか具合が悪くても、この娘の顔を見れば元気になれそうな、そんな明るい雰囲気を醸し出している子が明らかな好意をもって私を見ていた。

「あ、いや、その」

 普通の男なら願ってもいない状況だったのに私は全く乗り気になれないでいた。理由はわかりきっていた。もう半月前になってしまった、カフェで逢った彼女のせいだ。あれから彼女以外の女性に魅力を感じられないようになってしまっていた。

「それ、彼女さんが作ったんですか?」

「え?」

 無意識のうちに首に巻いた黒いマフラーを指で弄っていた。外出する時にずっと身に着けていたおかげで、端の方がかなりほつれてきていて、既製品にはどうしても見えないのでこの娘もそう聞いたのだろう。

「えーと、彼女というか、まあね」

 お嬢様と「じいや」にひどく怒られそうだが、何故か明白に否定する気にはなれなかった。願望も多分に含まれていることは自覚しているつもりだった。

 私の煮え切らない答えを聞いて、ふーん、と言った看護師さんから熱が引いたのを感じてほっとしていると、猫に似た女の子が何やら紙に書きつけてから、ぴょん、と一足飛びでこちらに近づいてきてその紙を手渡してきた。

「フリーになったら連絡くださいね」

そう言ってにっこり笑うと、手を振って駅の方へと駆けていった。意外に俊足だな、と思ったり、せっかくのチャンスだったのに馬鹿か俺は、と思ったり心境が目まぐるしく変化していた。さっき箕輪の絵を描いたメモの裏には丸っこい字で電話番号が書かれている。しかし、それが役に立つことはないだろう、と思っていた。囚われた心が自由フリーになる日がいつになるのか、まるで想像がつかないまま、秋の歩道でしばらく立ち止まっていた。


 その次の休みには東京の郊外にある刑務所まで出かけた。何を好き好んでせっかくの休日にそんな場所に、と思わないでもなかったが、それ以上に焦燥感にも似た感情に突き動かされていた。早く真相を知らなければ気が済まなかった。軽犯罪者が多く収監されているその刑務所には仕事で来たことが何度かあり、今回も職務を利用してアポを取ったが、実際は私用に近かった。

「刑事さん」

面会室に入ってくるなり、成田の腕時計をはめていたチンピラが私を見て目を丸くした。アクリル板の向こうに見える奴は坊主頭で以前より太ったように見えた。刑務所での生活で運動不足がたたっているのかもしれない。椅子に座りながらも、落ち込んだ目からは疑念が消えていなかった。どうして今更こんなところに、と。

「ちょっと確認したいことがあるんだ」

男爵令嬢に話したときはぼかしてしまったが、チンピラの取り調べを担当したのも時計に気づいたのも私だった。ただ、神がかり的な知恵を持ったあの人にはお見通しだったろうな、という気もしていた。面会時間は限られているので単刀直入に切り出す。

「成田はそっちの事務所に殴り込みに行ったんだな?」

ひゅー、とチンピラがかぼそい息を吐いたまま固まってしまった。彼女の推理が図星だった、と確信できたが、自分の言葉が誰かに衝撃を与えるのを見るのは気分のいいものではなかった。

「正直に話してくれればいいんだ。今から別に罰したりするわけでもないし、なんなら便宜を図ってもいいんだ」

そんな申し出も奴の気持ちを軽くはできなかったようなので、

「もちろん、ここだけの話にするよ。記録には残さないし、君が話したとは誰にも言わない」

と付け加えた。「ここだけの話」と言っても、面会室には私とチンピラ以外にも担当の係官がいるのだが、奴の向こうで座っている横顔を見ても実直な中年にしか見えないので、特に支障があるとも思えなかった。

「おれが話したって、刑事さんはどうせ信じませんよ」

チンピラは不貞腐れたように口を開いた。秘密にする、という申し出が効いたらしい。

「あのなあ、素人がヤクザに殴り込みをかける時点で既に信じられない話なんだよ。これ以上驚いたりしないって」

「これ以上やばいことがあるから、今まで誰にも話せなかったんじゃないですか」

よく意味がわからないことを言っているが、話す気になってくれたのはとりあえずありがたかった。3分ほど躊躇ってから、ようやく話し出した。

 チンピラによると、成田が組の事務所に突然現れたのは、週末の夜更けだったという。事務所は繁華街のはずれの4階建てのビルの2階にあって、チンピラの記憶では当時は8人ほどの組員が詰めていたという。

「入ってくるなりいきなり、あいつがドアのそばにいたトメさんの顔をパーンって殴りやがって。トメさん、3メートルくらいぶっとばされて、おれの足元まで転がってきて、助けようとしたんだけど、顔面にボコーって穴が開いてて。ああ、もう無理だ。絶対死んだ、って」

 突然の乱入者に組員たちは逆上し、室内に隠していた拳銃や日本刀で武装し、反撃に出た。

「いや、その前の週に、別の事務所に弾丸が撃ち込まれていたんで、それで警戒していたんです。武器はたまたまあっただけで、いつもはないんですよ」

 小学校低学年だって信じない話を聞きながら、暴対にいる友達に連絡を取っておこう、と思っていると、

「あいつ、なんなんですか。斬られても撃たれても、血を流して笑いながら襲い掛かってきやがって。パンチで胴体ぶち抜いたり、キックで首をすっ飛ばしたり、人間じゃねえよ、あんなの。刑事さん、あいつを知ってるんですか? あのバケモノ、知り合いなんですか?」

「そんなバケモノからどうやって生き残れたんだ?」

 質問に答えたくなかったので、質問をし返すと、チンピラは案外根がまじめなようで、ああ、いや、とつぶやいてから、

「おれ以外全員やられて、もうダメだ、死ぬ、と思ってたら、いきなりドーンって音がして、何かと思ったら、入り口のところに若頭がショットガンを持って立ってて、そいつの胸と腹に穴が開いて煙も出てて。若頭はそのビルの最上階に愛人を囲ってたから、その時ちょうどいたと思うんですけど。よかった、助かった、と思ってたら、そいつ、撃たれたのに『なかなかいいね』って笑ったかと思うと、振り向いてからいきなりテレポートしたみたいに若頭の前に飛んで行って、こきゃ、って首をねじり切って、それをこっちに抛り投げやがって。マジでふざけんなよ、あいつ」

 話しているうちに恐怖が甦ってきたらしくチンピラはガタガタ震え出した。

「いや、そうなると、君はどうやって生き残ったのか、ますます不思議になるんだよ」

涙目で私を見返してから、

「若頭を殺ってから、あいつ、こっちに近寄ってきて、今度こそダメだ、絶対死ぬ、って思ってたら、『電話してくれない?』って言ってきて」

「電話?」

「そう言われても、どこにかけるのかわからないんで、『警察ですか?』ってなんか敬語で聞いちゃったんですけど、そしたら、『馬鹿だな、違うよ。そっちの仲間にかけるんだよ。ヤクザの人をなるべくたくさん呼んでくれないかな? 武器もいっぱいあった方がいいな。爆弾とかさ。でないと、おれを殺せないよ』とか言いやがって。こいつ、頭おかしい、人間じゃない、って、おれションベン漏らして動けなくなっちゃったんですけど、『早くしないと殺しちゃうよ』ってにっこり笑って言われて、びびってケータイをかけようとしたら、いきなり外から、ばばばばばばば、って銃撃されて」

後になってわかったことだが、上で騒ぎがあったことに気づいた1階のクラブ―もちろん組が関係している―が別の事務所に応援を呼んでいたのだという。

「バケモノにやられるのか、仲間にやられるのか、どっちにしても殺される、っておれ、奥のトイレに逃げ込んで膝抱えてガタガタ震えてたんですよ。で、銃撃が終わったと思ったら、どどどどど、って人が大勢入ってくるのが聞こえて、それから悲鳴とか何か爆発する音がずっと続いて、もうやめてくれ、頭がおかしくなる、って泣きながら便器にしがみついて、気が付いたら静かになってたんで、そーっと外に出てみたら、みんな死んでて」

 事務所は血の海になっていて、いくつもの首がちぎれ、はらわたもこぼれ落ちていたその中で、成田は体中に刃物が刺さったまま絶命していた、とチンピラは語った。

「15人くらい応援に来たのに全員やられちまって。あのバケモノ、死んでるのにものすごい会心の笑み浮かべてたから、マジで腹立って。何ひとりで満足してんだよ、あの野郎」

 無茶しやがって、と5回くらい言わなければならない暴挙だった。おかげで成田の死を聞かされても、全然悲しくなれなかった。

「そんな騒ぎになったのに、ばれなかったのが不思議だな」

「組全体で必死になって口止めしましたから。こんなのがばれたら恥だ、って。事務所が入ってたビルごと壊して更地にして。あいつに襲われて死んだ組員は海外に出かけたことにしたりして、大変でしたよ」

 そうなると、お嬢様の推理は正しかった、ということになりそうだ。ヤクザの面子を重んじた結果、成田の行方不明が発覚するのが遅れた、というわけだ。

「じゃあ、ぼくが取り調べでしつこく聞いても、成田のことを全然話さなかったのは、組に迷惑がかかる、と思ったからなんだな」

 チンピラがこちらを睨んできた。全くすごみはなかったが、「こいつわかってねえ」という思いがありありと感じられた。

「違いますよ」

「違うって、何が違うんだ?」

 透明な板の向こうで小男が座りながら背を伸ばした。奴を縛り付けていた何物かを断ち切って、新しく動き出そうとしている、という気がした。

「正直、組はもう別にいいんですよ。ここを出ても戻る気はないし、もう義理もないし」

「やっぱり成田に襲われたのがショックだったのか?」

「それはそうですけど、その後で本当に嫌になったんですよ」

反社会的組織から抜け出して立ち直ろうとしているのなら喜ばしいことだが、どうもそんな単純な話でもないようなので、私も思わず身構える。

「おれ、死体の処理をやらされたんですよ」

「死体?」

「刑事さん、当たり前じゃないですか。あそこで20人以上死んだんですよ。それ、どうにかしなきゃいけないじゃないですか」

逆ギレされたが、こいつが怒るのも妙な気がする。

「それをやれ、と言われたのか」

「『お前以外は全員死んだんだぞ』って、生き残ったのが悪いみたいに言われて。それで断れなくて、山の中に持って行って処理することにしたんです」

場所を特定して調べる必要がありそうだ、と思っていると、

「無駄ですよ。死体はみんな粉々にして深く埋めましたから。絶対に見つかりませんよ」

そう言われるとなおさら調べないといけない、と思って、おおよその場所を聞き出した。チンピラは呆れながら説明したが、仕事は仕事だった。

「死体を粉々にした、って言ったけど、どうやってやったんだ?」

「なんか、木や石を砕く機械があるんですよ。それに死体を頭から突っ込むんです」

よりにもよってなんとも殺伐とした方法だ。

「それ専門にやっている人間がうちの組に何人かいて、おれはそれを手伝うことになったんです。トラックに死体をみんな乗せて山奥まで運転して、前もってユンボで穴を掘ったところまで持っていって、そこで粉々にしたんです」

20人以上を「処理」するのは大変な作業だったというが、

「最後にバケモノを処理したんです」

「どうしてまた最後まで残したんだ?」

「いや、なんか、気持ち悪くて。死体はみんな気持ち悪いんですけど、別の意味で気持ち悪いっていうか。なるべく触りたくないなあ、と思って」

そんな気持ち悪いやつの腕時計を盗むのもどうかと思うが。

「あんなひどい目に遭って、それくらいやってもいいと思ったんですよ」

よくはないし、窃盗は窃盗だが、既に塀の中にいる人間を説教しても仕方がないので言い返さなかった。

「でも、もう最後だから、と思って、荷台からそいつを下ろして、すげえ重いな、と思いながら、機械に突っ込んでバラバラにしようとしたら、いきなり『おい』って声がして」

「声?」

「いや、最初は他の誰かだと思ったんですけど、っていうか思いたかったんですけど、そうしたらもう一度『おい』って声がして。それを言っていたのは機械に頭を突っ込んでいたあいつなんですよ。わけわかんなくて、怖くなって、それでも何度も『おい』って言いやがって、おれ以外のみんなも気づいて、機械の周りに集まったその時、まだ機械に入ってないあいつの脚が、ばたばたばた、って激しく動き出して」

怪談話なら実によくできている、と感心してもよかったが、まぎれもなく実際に起こった話で、怪談の主はほかならぬ私のかつての友人だった。

「その瞬間に、おれ、機械のスイッチを入れてたんですよ。今思うとよく動けたな、って感じですけど。でも、あの野郎、身体を砕かれているのに『おい』ってずっと言い続けて、砕かれながら足を動かし続けやがって。その場にいた全員で泣き叫びながら逃げましたよ。作業がまだ終わってないから戻れ、って後で説教されたんですけど、それだけは絶対嫌だ、って他の人間にやってもらいましたけどね。だって、あそこに戻って、あいつがまだいたらどうする、って考えるだけでも、死にそうな気分になるんで。今、こうやってムショにいますけど、それでも怖くて仕方がないんです」

 涙を流して歯を食いしばって泣く男にかける言葉は見つからなかった。

「ということは、何も言わなかったのは、組のためではなくて、誰も信じてくれない、と思ったから、ということなのか?」

 チンピラが不思議そうに私を見ている。

「それはそうなんですけど、刑事さんは違いますよね?」

「なんだって?」

「刑事さんは、おれの話、信じてますよね。なんか、そんな感じがするんですけど、なんでですか?」

とある美女があらかじめ突拍子もない推理をしていたからだ、と言うのも面倒なので、

「おかげで助かったよ。ぼくにできることがあれば何かしてもいいけど」

と言ってみたが、

「別にいいですよ。なんか、もうどうでもよくなったんで」

落ち着いた調子で言われたので、こちらとしてもそれ以上は何も言えなくなる。

「時間です」

 いつの間にか係官が立ち上がってこちらを見ていた。その視線がいくらか訝しげなのは、非現実的な会話を耳にしていたせいだろうか。チンピラは私に向かって頭を下げ、面会室を出て行き、係官もそれに続いた。そうして一人になり、部屋の冷たさを感じたところで、友人の死もまた現実のものとして感じられ始めた。


 天堂の父親の自宅は、都内の住宅地の一角にあった。庭付きの瀟洒な和風な平屋で、庭も樹木もよく整備されているのを感じた。高校時代に訪れた彼の息子の別宅は、ゴルフ場と間違えるほどに広大だったのだが、この家はそれほど広くはなかった。畳敷きの居間に招かれるなり、そのことを言うと、

「この年齢になると、余計なものがあると鬱陶しくなるんだ」

とさばさばした口調で答えられた。天堂と父親はあまり似ていなかった。唯一似ているのは背の低さだけで、肥満体型だった息子とは逆に父親はやせ型だった。前もって調べたところでは、かつてはいくつもの企業を率い、業界に波風を巻き起こした、とされる一種の快男児として名高い存在だったらしいのだが、今、目の前で寛いでいる姿からは往年の姿はまるで想像できなかった。

「正直に言いますと、お会いになっていただけるとは思っていませんでした」

 お手伝いらしき女性-天堂の家で奇妙な目に遭った人とは別だろうが-が運んできたお茶を一口飲んでからそう言ったのは、偽らざる本音だった。他の3人、鏡、箕輪、成田の実家にも面会を申し込んだのだが断られていて、それならば天堂も同じだろう、と思っていた。当時の私から見てもあいつは実家との折り合いが悪そうに見えていたのだ。

「なに、せがれに友人がいたとは初耳だったのでな。あれと付き合うのは親でも苦労したのに、そんな奇特な人間の顔を拝んでみたい、という興味半分の暇つぶしさ」

 やはり折り合いは悪いようだった。しかし、今こうして私と会っている、ということは、息子を嫌ってもいないということなのだろうか。向かい合った人物の心理を測りかねたまま、高校時代の思い出話を始める。話しながらも天堂について調べたことを思い返してもいた。

 男爵令嬢のアドヴァイスに従って、私は都内のペットショップを調べまわっていた。意外なことに、天堂の家で目撃されたような白い大型の蛇はきわめて珍しいらしく、どこでも取り扱われていなかった。「そんな掘り出し物がいるなら教えてくださいよ」とお願いされたこともあったくらいだ。ただし、海外から密輸してひそかに飼っている不届き者もいる、という話も聞いたので、どこかで飼われていた蛇が逃げ出した可能性も捨てきれなかった。

 その可能性が消えたのは、天堂の家の近所を調べた時だった。住人に話を聞いてみると、白い蛇の目撃談こそなかったものの、

「天堂の家の屋根に白いハトの大群が止まっていた」

「天堂の家の近くから白鷺の大群が飛び立った」

「天堂の家の方から白いネズミの大群が走り去っていった」

といった情報が集まり、それらの現象はどれも天堂がいなくなった日に起こったらしい、というのもわかった。神様は使いを送り込みすぎではないか、と呆れてしまったが、あの名探偵はそういった数々の「奇跡」もお見通しだったのだろう、と脳裏に焼き付いて離れないその美貌を帰りの電車の中で思い返していた。

「うちのせがれがとんだご迷惑をおかけしたようですな」

そんな風に記憶をプレイバックしながら話したものだから、父親に上手く伝えられた自信はなかった。とはいえ、天堂が行方不明になったいきさつをありのままに話すわけにはいかないので、超人へのあこがれを実現させるために努力を重ねた結果、どこかへ行ってしまい行方が分からなくなってしまった、とある程度ぼかすことにした。

「なんとか心当たりを探してみるつもりですが」

「いや、その必要はない。あれはもう帰ってこないだろう」

天堂の父はきっぱりと言った。そういえば、この人は警察への捜索願も出していなかった。

「所詮普通には生きられない男さ。あれのせいで人様にこれ以上迷惑がかかるのは心苦しい。このままいなくなってくれた方がいいくらいだ」

 言葉だけなら親とは思えない非情なものだが、その顔には隠し切れない苦渋が浮かんでいて、業界の大物も子供への愛情にかけては普通の父親と変わらないようだった。

「末の息子で、しかも歳を取ってからの子供で、つい甘やかしてしまったのがよくなかった、というのは今になってわかることだ。それにあれは賢かったからな。こっちが一を言えば十言い返してくる。それを頼もしく思ったこともあったが、そうではなかった。あれの賢さがかえって命取りになったのだろう。まあ、賢い奴の知能を下げるわけにもいかんからな。どうしようもないことだ」

 諦めようとしても諦めきれない、というのが伝わってきてやりきれなかった。天堂のみならず、進化を目指した友人たちの頭の片隅にでも家族の存在が残っていたら思いとどまってくれたかもしれない、と思ってしまうが、それも今となってはどうしようもないことだった。

「わしも気になっていたことがあったのだが、きみの話を聞いて得心が行った。この2、3年、あれの金遣いが荒いと報告を受けて一度問い質してみたら、何かの研究をしているとかで、よくわからん横文字を並べ立てられて煙に巻かれてしまったのだが、それも、その進化だか超人だかの実験をしていた、ということになるのだろうな」

「お金だけではなく人も使っていたのではありませんか?」

「ああ、そういえば、うちの傘下の企業が運営していた工場の施設にあれが無断で何かを運び込んだ、という話は聞いたな。あれが勝手をするのはいつものことで、止めようとすると面倒になるから抛っておいてしまったが」

 おそらくその施設で鏡の「進化」のために真空の部屋を用意したのだろう。そして、目の前にいる小男が裏社会とつながっている、というのは警察の内部ではなかば常識のようになっていた。鏡の遺体を自宅に運び込んだのもそういった連中なのだろう。とんだ脛かじりだ。

「すみません。お役に立てる話が何もできなくて申し訳ないです」

「そんなことはない。きみには感謝している。きみだけでなく、死んでしまった3人の方にもな。あんなわがまま放題の息子にも友達がいた、というのは親としてはわずかなりとも救いになるというものさ」

ありがとう、と深々と頭を下げられて、こちらも頭を下げる。特に理由もわからないまま胸が熱くなってくるのを感じた。おお、そうだ、という声がして頭を上げると、

「きみが妙な話をしたおかげで思い出したのだが、最近うちでも妙なことがあってな」

 立ち上がって廊下の方へ出ていった。後についてこい、ということのようなので、こちらも立ち上がる。

「こっちだ」

 居間のすぐ横にある部屋から顔を出している。開いた襖の間から中を覗き込むと、居間と同じように畳が敷かれていて、奥の方に小さな本棚が並び、その横に文机があるところを見ると、どうやら書斎らしい。

「あれを見なさい」

 書斎の主は文机を指さした。正確に言えば、文机の上でほのかに光っているテーブルランプだ。照明が点いていない午後遅くの暗い部屋の中でただひとつの光だ。これのどこが妙なのだろう、と思っていると、

「近づいてよく見てみるといい」

 そう言われたので、部屋に入り、文机に近づこうとして、あることに気づく。畳の上で黒く長いものがうねっていた。電源コードだ。机の上のランプから伸びたそれは、コンセントにも、どこにもつながっていなかった。ということは、つまり。

「そういうことだ」

 私も理解していた。テーブルランプは電源も無しに光っているのだ。

「家の者は気味悪がって捨てろ、というのだが、特に害もないものを捨てるのもどうか思ってそのままにしてある」

 その時、かち、かち、かち。かち、かち、かち。とランプが点滅した。あのカフェと同じだ。

「ほう。そうなるのは初めてだな」

 驚く父親に向かって、あなたの息子さんですよ、と言ったところで頭がおかしいと思われるのがオチだろう。何も言えないまま、点滅を繰り返すランプを見守るしかなかった。そのうちに光は弱まっていき、ぽっ、と一瞬だけ光ってから消えてしまった。

「おう。消えたか」

 部屋を出て、父親の傍へと戻ったが、彼はまだランプの方を見ていた。

「あれはもう点かんのだろうな」

 その声は、さっき聞いた、息子の帰りを諦める言葉と同じ響きを持っていて、何も返事はできなかったし、返事をしない方がいいと思っていた。


 警視庁―くりかえしになるが、私の職場である―を出ると、あたりは暗くなっていた。年の瀬の夕方の風は冷たかったが、私の首は黒いマフラーに守られていた。手渡されて3か月近くなり、ますますほつれてきていたが、本体はしっかりできていて、防寒の用途を十分に果たしていた。

 私の足音がいつもより大きかったとすれば、機嫌が悪かったからだろう。成田の死体を捜索する提案が却下されたのだ。根拠がチンピラの話だけであること、20人以上の死者が出るなど荒唐無稽であること、などが却下された理由で、上司や同僚からは揶揄の言葉も飛んできたのだが、私が大して抵抗することなくあっさり提案を取り下げると、「それでいいのか?」と心配してきたので、どういう反応を期待していたのか理解に苦しむ。警察の内部ではつまらないいざこざも多く、とても褒められない人間も一人や二人ではないのだが、「それ見たことか」と「じいや」に得意げな顔をされるのもいまいましいので、耐えて歩き続けるしかなかった。私一人がしっかりしていればいいのだ。それに、死体を捜索すれば、チンピラを死体損壊および死体遺棄の罪に問わなければならず、約束を破ることになってしまうので、捜索されないのは悪いことばかりでもなかった。希望的観測に過ぎないかもしれないが、あの時のチンピラからは立ち直りの可能性が見えた気がしていて、その芽を摘みたくはなかった。おおよその場所はわかっているから、いずれ個人的に成田に花を手向けに行こう。ついでに、成田の「進化」の犠牲となった20人近くのヤクザにも。

「進化、か」

ふと立ち止まりビル街を仰ぎ見てひとり呟く。天堂と鏡と箕輪と成田。4人が超人を目指して進化を遂げようとした結果、それぞれ命を落とすか、あるいは姿を消す羽目になった、という男爵令嬢の推理は正しかったのだろう。しかし、あの推理だけでは捉えられていない事実もあった。天堂が肉体を捨て精神だけの存在になったように、他の3人の肉体も変貌を遂げつつあったのだ。鏡の内臓が発達していたというのは、真空の状態にも耐えうるためで、身体の内側から裂けていたというのはさらなる進化の兆しではなかったのか。それを達成していれば鏡もまた「超人」になっていたかもしれない。箕輪は生殖能力を高めようとして身体全体が性器のようになり、成田は世界最強を目指した結果、大勢のヤクザと相討ちになり、しかも頭を砕かれながらも尚も生きていた、という。天堂は目的を達成し、他のみんなも目標までかなり近い場所まで来ていたのだ。それが本当にあいつらが目指していた理想なのかはわからないにしても。

 しかし、それでも、彼女の推理を間違っていた、というつもりはなかった。あの人は自分の推理を「他にいくらでも説明のつくこと」と言っていて、つまり、この可能性も見えていたのではないか。そうしなかったのは、私から提示された情報が少なかったため、断定することができなかったからだろう。もし仮に4人の肉体が変質していた、という推理があそこでされていたとすれば、私も素直に聞けていたか、あまり自信はなかった。そうしてみると、あの時の推理は、彼女なりに考えた振る舞いなのだ、という気がしていた。

 そう。今、私が何より気になっているのは彼女のことだった。もういちど彼女に会いたかった。会って話をしたかった。いくら手を尽くしても大蛇家について手がかりは得られず、そうなると彼女のいそうな場所を探し回るしかなかった。彼女と出会ったカフェにはあれからほぼ毎日通った。いかにも貴族的な高級な喫茶店も回れるだけ回った。いや、彼女なら逆に普通のカフェにも行くのではないか、と思い、チェーン店を含めて都内の店には可能な限り足を運んだ。休日には朝から晩までコーヒーを飲み歩きカフェイン中毒になりかけたこともあった。しかし、どこにも彼女の姿はなく、その痕跡も見つからなかった。これ以上何処を探せばいいのか、まるで思い当たらなかった。

 見上げた高層ビルの窓の大半に光が見えた。まだ仕事だなんて、みんな勤勉だな、と可笑しく思ってからまた歩き出す。それでも、彼女を諦めることはできなかったし、これからも探し続けるのだろう、という気がしていた。少なくとも、今の私には、見果てぬ夢に挑んだ友人たちを笑うことはできなかった。決してつかめない幻を追い求めているのは、私も友人も同じなのかもしれなかった。


(その6 終わり)



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