その5(さらに令嬢は真相を語る)

 あまりに理解できないことを言われて、頭の中が真っ白になる経験は久々だった。と言っても、前にそうなったのがいつだったのかは思い出せない。犯人が誰か、を聞いたつもりだったのに、返ってきた答えは「思想」が犯人だという。人ですらない。

「納得していただけませんか?」

 目の前の才媛は私が答えを飲み込めないというのも織り込み済みだったらしく平然としていた。いや、納得するも何も。

「あの、『人を超えようとする思想』が犯人、と聞きましたけど、そもそも思想が人を殺せるものなんですか?」

「別に珍しいことではありませんよ」

いくらか毒を秘めたつもりの問いかけにも男爵令嬢はやはり平然としていた。

「理想や正義を追い求める思想が多くの人を死に追いやったのはよく聞く話です。過去にも現在にもある話ですし、残念ながら未来でもそれは変わらないのでしょうね」

それは私も理解しているつもりだ。ただ、今聞きたいのは歴史の講釈ではなく、友人達が姿を消した謎の解明だった。

「スミノさんから伺ったお話からこの答えにたどりついたのですよ」

年下の女性になだめるように言われて、自分が不満を隠しきれていないことに気づく。

「ぼくの話から、ですか?」

「ええ。学生時代にあなたの友人が、今の世界は限界に来ている、一度滅ぼして新しい人類でやり直すしかない、とかそういった話をしていたのでしょう? 違いましたか?」

 確かにその通りだった。4人がそんな話をしていて私は否定も賛同もしないままただ話を聞いていた、という思い出を彼女に話している。しかし、それは本筋とは関係のない高校生活の一コマで、既に過ぎ去ったひとつのエピソードにすぎないはずだった。それがどうして今になって甦ってくるのか。

「誰かにとっての過去も他の誰かにとっては現在進行形である、という話ですよ。時間は誰にでも平等に流れているわけではありません」

「いや、でも、そんな理想だけで動くものなんですか? こう言ったらなんですけど、ぼくらはもう30歳を過ぎてるんです。もう大人なんです。いくら立派でも理想だけでは動けませんよ」

「ご自分の物差しだけで世界の全てを測ろうとするのはおやめになった方がよろしいでしょうね」

 細く長い刃で心臓を突き刺されたかのような、鋭く冷たい痛みがあった。これが私と彼女との真剣勝負だということをつい忘れてしまっていた。

「スミノさんがまっとうな社会人だというのはわたくしも理解しています。しかし、自分は大人になった、と思い込んでいても何かの弾みで眠っていた子供が目を覚ます、ということはよくあります。地位も名誉もある人間がつまらないことで身を滅ぼす話はわたくしの身近にもありますが、あれは大人になったつもりの子供の仕業なのです。大人だとか子供だとか、というのはきわめて曖昧な区別でしかない、というのがわたくしの考えです」

 これほどきれいな人がどうしてこんな冷徹なものの見方をするのだろう、と思ってから、きれいな人だからだ、と気づいた。きれいな人はその分汚く醜いものを目にするさだめにあるのかもしれない。

「まして、スミノさんのお友達には仕事も家庭もない自由な方がいらっしゃると聞きました。自由、ということは逆に言えば不安定な身の上でもあります。そのような方が浮世離れした考えにとりつかれるのは、意外と言うよりはむしろ自然だと思えます」

 鏡はちゃんと働いてましたよ、と反論しようとしたが、あいつの具体的な仕事ぶりを聞かされていないことに気づかされた。上司や同僚とコミュニケーションはとれていたのか、それも知らなかったし、考えれば考えるほど不安が増していった。長いつきあいのはずなのに、友人の普段の暮らしが頭に浮かんでこない。うわべでは仲良くしていても、深いところでの話はあまりできていなかった気がする。鏡について知っていることが少なすぎる、ということを今更思い知らされていた。あいつは一体何を考えていたんだ?

「あまり責任を感じることもないと思いますよ。あなたが何かを聞き出そうとしていたとしても、鏡さんは教えてはくれなかったでしょう」

 そうかもしれない。しかし、友人として何かできたのではないか、という思いはどうしても残った。

「突拍子もない話だと思われるかもしれませんが、でも、そのように考えれば、スミノさんのご友人たちの行動に説明がつくのです」

「鏡が死んだことも、ですか?」

「はい。鏡さんが真空状態で亡くなったことは確かです。しかし、これが殺人だとしたら、わざわざそんな面倒な方法を選ぶのは考えにくい、というのは話しましたね。そうだとすると、事故、ということになりそうです。ただし、その場合でも、どうして鏡さんはそんな状況に置かれていたのか、ということにひっかかっていました。わたくしの考え方ならば、それに説明がつきます」

 つまり、鏡は「人を超えようとする思想」に基づいて、自分から真空状態の部屋に入った、ということになるのか。

「些末なことですが、鏡さんが部屋に入ってから空気を抜いたのでしょうね。あらかじめ真空状態にして中に入ろうとすると外から空気が流れ込みますから」

 令嬢の細かすぎる突っ込みよりも私には気になることがあった。

「でも、おかしいですよ。真空状態の部屋に入って、それでどうして人を超えることになるのですか?」

「普通の人間なら真空では生きていけませんが、真空で生きていけるのであれば、それは人を超えた存在、超人と呼べるでしょう」

「地球が爆発したらどうしよう」と鏡が昔よく言っていたが、まさかあれはジョークではなく本気だったのか。

「いや、超人になるとしても、まず最初に息が出来なくても生きていけるようにしようと思いますかね? ぼくには理解しかねます」

「そもそも超人になろうとすること自体理解しかねます。鏡さんにとっては無呼吸で生きていけるのが何よりの目標で、ある種の強迫観念になっていたのではないでしょうか。実際に努力もしていたようですから」

「努力していたんですか?」

そう言ってから、冷ややかなまなざしで見られて身体が凍えた気がした。

「スミノさんがご自分で仰っていたでしょう。鏡さんはダイビングに行ったりヨガに通っていたりしていた、と」

 ダイビングで肺活量を鍛え、ヨガで呼吸法を学んだ、ということなのだろうが、そんな途方もない目的のために真面目に努力を重ねていた時点で私の友人は常軌を逸していたと思わざるを得なかった。しかし、そんな努力をした結果、むごい死に方をしたとすれば、あまりにも悲劇的だ。とても苦しかったんだろうな、自分の胸をかきむしったりして、と思ってからあることに気づいた。

「その、真空の部屋、というのはどこにあるんです?」

「はい?」

 カップを手にしたまま彼女は曖昧に微笑んだ。

「真空状態が作り出せる、というのはさっき話を聞いたのでわかります。でも、それは鏡がひとりだけでやれるようなものではないでしょう。もっと大掛かりな組織みたいなものが関わってないと」

「いえ、それはとっくにわかっていたことではありませんか。思い出してください、鏡さんを自宅に運んだのは複数のプロフェッショナルなのですよ」

「あ」

そうだった。うっかりしていた。しかし、それなら一体誰が鏡の死に関与しているというのか。

「気になるのはわかりますが、その話は後回しにした方がよろしいかと思います」

粗忽な私に腹を立てることもなく、目の前の麗人は歌うように話した。小鳥が肩に止まってきそうな優雅さに食い下がる気が失せていく。

「では、箕輪と成田のことを先に話す、ということですか?」

「ええ。じきにわかりますから安心してください」

ふふふ、という忍び笑いが耳に届く。どんなディベートの達人でも彼女に勝つのは無理だ、という気がしてくる。

「では、箕輪のことをお聞きします。あいつは病気で死んだわけですが、それにも『人を超えようとする思想』が関係しているわけですか?」

「はい。その通りです」

コンマ1秒の速さで答えが返ってきた。

「もしかして、さっきの疑問、箕輪が性病になった理由も、その思想が関わっているわけですか?」

「そうです、そうです」

我が意を得た、とばかりに微笑まれる。確かにそれは不思議ではあった。女性にもてる秘訣はこまめであること、と聞いたことがあるが、箕輪もマメな男で、身の回りにはいつも気を配っていた。病気にも気を付けていただろう、というのは想像がついた。にもかかわらず病気になったのはどういうことか。奇妙なことだが、しかし彼女の明晰な頭脳はその理由も既に見つけ出しているだろうから早く聞けばいい、と他力本願の安直な態度でいた私だったが、向かい合った女性の顔が心なしか赤いのに気づく。そして、先程の惨劇を思い出す。そうだ。この箱入り娘はセックスの話題が滅法不得手だった。箕輪の死の真相に気づいたのはいいが、どうせそれにも下半身のまつわるエトセトラが絡んでいて、それを私にどう伝えようか悩んでいるのだろう。血が上って桃色に染まった顔を眺めるのは心ときめくものがあったが、また怒りを買ってはたまらない。美しい竜の逆鱗に触れれば命を落とすのは必至だと思われた。

「あの、今度はぼくに考えさせてもらえませんか?」

「はい?」

 ひとまわりほど彼女の目が大きくなったので、何でもお見通しというわけでもないのか、と思った。少なくとも私の言動は読めていなかったようだ。

「あなた一人に考えさせてばかりじゃ悪いから、ぼくにも考えさせてください。それで当たっているかどうか判断してもらいたいんです」

 わずかなシンキングタイムの後で、

「それもいいかもしれませんね」

そう言った笑顔が華やかに見えたのは、厄介事から逃れられた喜びもあったかもしれない。少しでも彼女の助けになれたのなら、それに勝る喜びはなかった。

「じゃあ、考えをまとめるのでちょっと待っていてください」

 そう言って集中しようとする。あまり見当はずれのことを言って彼女を失望させるのも嫌なので、正解とは言えないまでもある程度は答えに近づきたかった。ニアピン賞を取れるくらいには近づきたい。箕輪が病気になった理由。あいつの病気、というのは性病だ、というのが彼女の見立てだ。性病を防ぐ手段として考えられるのはコンドームを装着することだ。あいつはつけていたのだろうか、と考えてからふと気づく。コンドームの用途といえば性病の予防以外にもうひとつあるではないか。

 思い付きを口にしようとして顔を上げると、双眸の輝きが直接目に飛び込んできて視界が一瞬消失した。私が何を考えているのか興味津々だったようだが、あまり熱心に見つめないでほしかった。このカフェに入って以来おかしくなっている頭が完全におかしくなってしまう。

「えーとですね、ひとつ思いついたことがあるんですけど」

「なんでしょう?」

身を乗り出したおかげで首からぶらさがった大きな金色のレリーフが、きら、と光った。いや、そんなに楽しみにされても困る。

「箕輪は、あいつは避妊をしていなかったんじゃないですか? だから病気にかかったんじゃないですか?」

私の答えを聞いた彼女の表情がどことなく気の抜けたものになる。見当違いのことを言ってしまったのだろうか。

「いえ、そうではなくて、もっとユニークなことを仰るかと思っていたら、意外と普通だったので、ああ、そうなんだ、と思っただけです」

 難しい。お嬢様の相手は難しすぎる。一体どう言えば正解だったのか。

「でも、大体そういうことですよ。箕輪さんは生殖に励まれた結果、病気にかかってしまったのです」

遠まわしな言い方をしているせいでかえってエロティックに聞こえるのは気のせいだろうか。

「それも『人を超えようとする思想』がそうさせた、ということですか?」

「そうだと思います。箕輪さんにとってはたくさん生殖行為をすること、子を多くなすことが、人を超えた証だったのでしょうね」

 私も男なので精力にこだわってしまう気持ちはわかるが、それにしても短絡的すぎないか、と天国―に行けていればいいのだが―の友人に物申したくなっていると、ふとあることに気づいた。

「あれ? でも、子供をたくさん作れる、というのは別に進化とは関係ない、というかむしろ逆な気がしますけど」

 人間が一度に生める子供は一人か二人だが、犬や猫は一度に5、6匹は生むし、マンボウがたくさんの卵を産むのはしばしば話の種になっている。子の数が種としての優秀さを証明するものではないのではないか。

「まあ、箕輪さんにとっての超人、ということであって、実際の進化とはまた別の話ですから」

 ハイソサエティーに属する佳人に似つかわしくもなく、全身から「どうでもいい」と言いたげなオーラを発散させていた。もっとも、セックスに目の色を変える男など女性が見てよく思えるはずがなく、男から見ても滑稽きわまりなかった。箕輪、お前馬鹿だろ、と笑ってやりたかったし、生きているうちに笑ってやれていれば引き返せたかもしれないな、と思ってしまい、笑っていいのか悲しんでいいのかわからなくなってきてしまった。

「あ、でも、成田の話ならわかりますよ」

 しんみりした気持ちを振り払おうと声を張ってみたが、空元気はバレバレだったようで向かいの女の子は憐れみの目で私を見ていた。

「あいつはわかりやすいです。要するに世界最強を目指したわけですよね。それならぼくにもわかります」

「その辺をお聞きしたいのですが、スミノさんもそういった、世界で一番強くなりたい、とかそういった憧れはおありになりますか? わたくしは女だからか、いまひとつわかりにくいのです」

 それが彼女の言っていた成田に関する謎なのだろうか。喧嘩で相手をぶちのめしたい、という願望は今でも私の中にあったし、暴力で何もかもを解決してしまいたい、という思いに駆られることはごくたまにあった。

「そうですね、そういう気持ちがあることは否定しません。でも、仮に相手をぶっとばしてスカッとしたとしても、後が面倒になりますから。お金を払わなくなければならなくなったり余計な恨みを買ったりで、それだったら穏当なやり方をとった方がずっといい、といった考えに落ち着いたんです。夢がない、というか、つまらない話かもしれませんが」

「いえ、大変参考になります。それは暴力に限りませんね。口でも同じことです。誰かを一方的にやりこめて論破するよりは適当に話を合わせてやり過ごす方がいい、ということですね」

 いかにも実感のこもった口調で、そういった苦い経験があるのだろうか、とぼんやり思った。頭が良く論が立つからといって、順風満帆に生きていけるわけでもないのだろう。

「だから、もしも成田が暴力団にその場で殺されなかったとしても、いずれ大変なことになっていたと思いますよ。腕力では勝っていたとしても、社会的に圧力をかけられて無事に済むとは思えませんから」

 人間を超えて、世界最強になったとしても、それだけで生きていけるはずもなかった。メシはどうするんだ、住むところはどうするんだ、人質を取られたらどうするんだ。強さだけで解決できないことはいくらでもある。成田にも、お前馬鹿だろ、と言いたくなった。

「さて、ここまでお話してきましたが、お三方が『人を超えようとする思想』を実践した結果、あえなく命を落とされた、というのはおわかりになられましたか?」

 どこかからかうような響きのある男爵家の跡継ぎの口ぶりだったが、私も3人を馬鹿だと思っていたので、嘲弄されても仕方がない、と思うしかなかった。自業自得だよ、お前ら。

「ええ、それはわかったつもりです」

「では、これが偶然ではない、というのもおわかりですか?」

「3人が話し合って行動した、ということですか」

肩にかけたショールに右手で触れながら、ふふ、と小さく笑った。

「3人ではない、ということもおわかりなのでしょう?」

私のもう一人の友人も関係している、ということか。それはそうだろう。高校の頃も、この手の進化だとか破滅だとかの話を主導していたのも一番熱が入っていたのもあいつだった。

「そうですね。この状況で天堂も関わっていないとしたらおかしいです」

「天堂さんが姿を消されたのも偶然ではないでしょう。天堂さんが率先して、超人になる夢を実現しようとしたのでしょうね」

高校の頃から考えると足かけ10年以上かけて実現に向かっていたわけだ。4人とも本気だったのは確かなのだろう。本気すぎて狂気にまで行きついたのかもしれないが。

「それでは、ここでスミノさんの先程の疑問にお答えしておきましょうか」

「え?」

話の転換についていけない。ファンタジスタに翻弄される凡庸なディフェンダーになった気分だ。

「鏡さんが入った真空の部屋は誰が作ったのか、です。かなり気にされている様子だったので、一応解決してから天堂さんのお話に移りたいのですが」

確かにそれは気になっていたし、知らないままでは終われない話だった。

「一体誰が作ったんですか?」

「天堂さんです。天堂さんが友人である鏡さんの夢の実現のために部屋を作ったのです」

あまりにもシンプルで意外な答えだった。同じ理想を共有する者として協力した、ということなのだろうか。

「お話を伺う限りでは、天堂さんの家はそれなりの権力と財力をお持ちのようですから、どこかの施設で真空の部屋を作り出すのは十分可能でしょうね」

 私のような庶民からは圧倒的な力を持つように見えた天堂の実家を「それなり」と評するこの人はどれだけの力を持っているのか、背筋が寒くなる。

「そして、鏡さんのご遺体を周囲に見つかることなくご自宅までプロフェッショナルに運ばせるのも、天堂さんなら可能です」

「お言葉ですが、真空の部屋を作るのもプロを使うのも力のある人間ならやれることではないですか? 確かに天堂なら可能かもしれませんが、天堂に限定することはできないんじゃないですか?」

「なかなか手厳しいですね」

そよ風に吹かれているようなさわやかな表情で言われると、逆に自分の手ぬるさを痛感させられた。

「ただ、最初に鏡さんの亡くなった様子を伺った時から、鏡さんに近い方が運んだのだな、と見当をつけていたのです」

「近い人間が、ですか?」

「はい。鏡さんのご遺体はパジャマを着て寝相もきちんとしてベッドに寝かされていたのでしょう? ただの仕事に似つかわしくない、思いやりが感じられるとても丁重なやり方だと思いました。だから、近い方のやったことだと思ったのですよ」

 天堂がそのように指示を出したのだろうか。そんなに友達思いのやつだったかな、と少し困惑する。しかし、悪い気はしなかった。

「天堂さんは友情のつもりだったかもしれませんが、本当に友達思いなら隠蔽したりせずに正直に報告してますよ」

 正義の女神テミスのごとき峻厳な裁きが私の目から曇りを拭い去る。どうして私はこうも考えが甘いのだろう。また点滅をくりかえす照明も気になって、気分が滅入る。

「それでは、最後の天堂さんのお話になります。結論から申し上げると、天堂さんも他のお三方と同様に『人を超えようとする思想』のもとに超人に進化することを目指した末に、行方をくらましたのです」

とんでもないことを言っているが、これまで話を積み重ねてきた過程がある以上、絵空事だと笑い飛ばすことは私にはできなかった。

「行方をくらました、ということは、死んではいない、ということですか?」

私の問いかけに、眉をひそめつつ首をすくめるという、彼女にしては珍しいしぐさをしてから、

「さあ。どう言えばいいのでしょうか。わたくしには今の天堂さんが置かれた状況を的確に言い表す言葉が見つからないのですが」

「教えてください。天堂は今どうしているんですか?」

焦る私を見て、しょうのない人ですね、と言いたげに溜息をついてから、男爵令嬢は一言だけ呟く。

「成功したのです」

「はい?」

「天堂さんは超人になることに成功したのです」

ぴかぴかと頭上で光るのも気にならなかったのは、まさに開いた口がふさがらなかったからだ。

「超人に、なることに、成功した?」

「はい。天堂さんは人間からレベルの高い存在へと進化を遂げられたのです」

やはり聞き間違えではない。本気でそんな話をしているのか? 貴族がそんな話をするのか? そもそもこの人は本当に貴族なのか? 疑いすぎて彼女の存在理由までも怪しく思えてきてしまった。

「さすがにそれはありえないでしょう。そんなことができるわけがない」

「常人には無理でしょう。しかし、スミノさんからお話を伺う限りでは、天堂さんはきわだって優れた、天才と呼ぶにふさわしい存在だったそうではありませんか。人間の中では超人に近い、と言ってもいいのではありませんか?」

 確かに10代の頃のあいつは飛び抜けていた。集団から浮くどころかはるか上空を飛んでいた。しかし、だからと言って人間を超えられるかというとそれはきわめて難しいだろう。とても信じられない。だが、クエスチョンマークを投げつけていてばかりでは話は進まない。不本意だが彼女の話に乗ることにしよう。

「仮にあなたの言うことが本当だったとして、超人になった天堂はどこへ行ったんですか? どうして姿を消したんですか?」

「他のお三方も超人を目指されていたわけですが、目的は同じでもありようは異なっています」

「ありよう、ですか?」

「はい。鏡さんは真空でも生きていけるように、箕輪さんはたくさんの子をなせるように、成田さんは世界で一番喧嘩に強いように、とみなさんそれぞれ異なる理想をお持ちで、それがありようの違いにも出ているわけです」

 それならば、天堂が超人になったとすれば、それはあいつなりの理想が実現した形としてあらわれるのだろう。

「天堂さんの理想はあなたが先程話されていたことからも推測できます。いわば、肉体に左右されない純粋に自立した精神、とでも呼ぶ存在を目指されていたのではないでしょうか」

 映画館のトイレから半べそをかいて出てきた小太りの少年が脳裏にハッキリと浮かんだ。活発な頭脳と絶えず前進し続けようとする魂、そういった内面とはかけはなれた己の肉体をあいつがどれほど憎んでいたか、わずかな時間だけ傍らにいた私にもそれは伝わっていた。

「だから、肉体を捨ててしまおうとした、ということですか?」

「そして、捨てるのに成功した、ということですね」

 ライトの光が弱まって令嬢の笑顔が暗く見えた、かと思えば元の明るさに戻った。いい加減煩わしいので店員に苦情を言った方がいいだろうか。

「もし本当に肉体を捨てたのなら、どこを探しても見つかるはずもない、という理屈はわかりますけど」

「ええ。天堂さんの家に身の回りの品々が残されていたのも当然です」

 自信たっぷりな彼女がレディの風格を漂わせる。年齢はまだガールに近いはずなのに。しかし、ここまでの話だけで到底納得がいくはずはなかった。あまりにも突飛すぎる。

「そう判断した理由は何ですか?」

「おや、反論がおありですか?」

女検事は被告側の異議にも動じなかった。しかし、有罪にするためには証拠が必要だった。論理の積み重ねだけで真実に迫れるはずはなかった。

「当然ですよ。そんな現実離れした話を『はい、そうですか』と信じられるわけがないじゃないですか。目に見える形で残されたものがなければ受け入れるわけにはいきませんよ。まして、天堂はぼくの昔の友人ですよ。いい加減な話をしないでください」

 初めて目の前の女性に向かって強い口調で言い募った後で、すぐに不安になった。彼女は別に悪気があってこんなことを言っているわけではない、というのはわかっていたのだから、怒ってはいけなかったのではないか。言い過ぎた、と反省しても口から出たものを消しようがなかった。

「いえ、それでいいのですよ」

 夏の青空のようなからっとした態度で彼女が笑う。

「あまり簡単に信じられても張り合いがありませんし、お友達を本気で心配しているからこそ怒ったのでしょう? 友情に基づく行為に文句をつけるのは騎士道精神にもとります」

 貴族であると同時に騎士でもあったとは。属性がてんこもりだ。

「いいでしょう」

 一瞬で怒りを忘れたのは2メートル向こうから流し目で私を見つめてきたのに背筋が凍り付いたからだ。魅力も行き過ぎれば暴力になるのだ、と否応なく悟らされていた。深海に降る雪のように、黒すぎる瞳にほのかな光が宿る。胴体を縦に貫く氷柱から甘い痺れが走るのに身を任せていると、魔眼の使い手がまたまっすぐに向き直ったので、ようやく身体の自由が利くようになった。そのことに安心しながらも失望もしている我が身を奇妙だと感じていた。

「それでは、勇敢で頑固な殿方に証拠を示すことにしましょうか」

「証拠があるんですか?」

 驚きのあまり立ち上がりかけて右膝をテーブルに強打してしまう。痛い。痛すぎる。

「まあ、大丈夫ですか?」

「いや、そんなことより、早く証拠を。というか、本当に証拠があるんですか?」

 右手を挙げて平気だとアピールする。

「はい。スミノさんのお話から状況証拠は見つけています。それに物証もあります」

 荒唐無稽な話としか思えなかったが、彼女は彼女なりに理屈を構築してきたらしい。しかも物証まであるという。

「ぼくの話、というのは、天堂の家のお手伝いさんのことですよね?」

「もちろんです。あの話からわたくしは天堂さんの身に何が起きたのかがわかったのです」

 私には怪談まがいの話としか思えなかったが、女探偵の慧眼には何が見えたのだろうか。

「スミノさんは先程わたくしの話を『現実離れした話』と仰いましたよね」

「すみません。言い過ぎました」

「そうではありません。謝罪を求めているのではなく、あなたも既に重要な点にお気づきになられている、と申し上げたいのです」

「現実離れ」が重要、ということだろうか。

「はい。わたくしの話が現実離れしたものになったのだとしたら、それは天堂さんに現実離れした出来事が起こったからに他ならないのです」

 確かに天堂の家では奇妙な出来事がいくつも起こっていた。家中に充満したガス。どこからともなく現れた蛇。血にまみれたキリスト像。そんなものを立て続けに目撃したお手伝いさんがパニックになるのは当然だと思われた。

「ほら。やっぱりお気づきではありませんか」

 長年の念願がかなったかのように微笑まれても事情がさっぱりわからない。私は何に気づいているというのか。

「その3つの現象は、天堂さんの家で奇跡が起こった証明です」

天井の明かりがバチバチと音を立てる。頭が真っ白になるのは今日何度目だ。この女流作家、私の頭の中に消しゴムをかけすぎじゃないか。

「きせき、というのは、ミラクルのことですか?」

「はい。miracleです」

 欧米人よりも流暢な発音で答えが返ってきた。

「いや、人間が超人に進化するのもそれは奇跡なんでしょうけど、奇跡が起きたのがどうして天堂が行方不明になった証拠になるのか、よくわからないというか」

 自分でも何を言っているのかわからなくなってきた。

「ここでいう奇跡とは、宗教上の現象を指しています」

「しゅうきょう?」

 知力に差がありすぎて鸚鵡返しするのが精一杯だ。

「実は天堂さんのような考え方は古くからあるものなのです。汚れた肉体を捨てて純粋な存在を目指そうとする、というのは決して珍しいものではありません」

 それを指摘したら、あいつは進化するのをやめていたかもしれない、と思った。誰かの真似だ、と言われるのはプライドが許さないだろう、と思いながら、ふと考えが浮かぶ。

「そういえば、解脱、というのをぼくも聞いたことがあります」

「仏教の考え方ですね。全ての煩悩から解放され、輪廻からも自由になる、という。天堂さんもそれを目指して、成功したのかもしれません」

「どうしてそう思うんです?」

目の前の女性がアルカイック・スマイルを浮かべたのは仏教の話をしているからだろうか。

「雲です」

「はい?」 

「お手伝いさんが家に入った時に雲が漂っていた、というのは、スミノさんもお話になられたばかりではありませんか」

「いや、あれは煙かガスか、それかお香じゃないんですか?」

「雲、というのが大事なのです。色とりどりの雲、というのが」

 色はともかく雲は家の中で発生しないだろう。蜘蛛ならともかく。

「もう。わからない人ですね」

 怒られた。頬を膨らませているのが可愛いのでもっと怒らせたい、という邪心が芽生えかけたが、仏罰が下りそうなのでやめる。そうだ。今は仏教の話をしているのだ。

「仏教ではそういう現象があるんですか?」

「そうなのです。その通りです」

 話を合わせるとたちまち機嫌が直った。ちょろい。

「仏教では阿弥陀如来が菩薩を従えて天から降りてくるときに、色鮮やかな雲に乗ってくるそうなのです。瑞雲とも、彩雲とも呼ばれる五色の雲に」

その雲が天堂の家にあったということはつまり。

「仏さまが天堂を迎えに来た、ということですか?」

「おそらくそうだと思います。阿弥陀様も何の用事もなしに、ちょっとそこまで、という感じで降りては来ないでしょうから」

たくさんの仏を引き連れてコンビニに出かける阿弥陀如来を想像してしまう。

「でも、そうだとしたらすごいな。阿弥陀如来が降りてきたとしたら、天堂は悟りでも開いたのかもしれない」

「徳の高い人が亡くなるときに降りてくる、という話らしいですが、まあ、悟りかどうかはともかく、天堂さんが何らかの法則を発見して実行したのは確かでしょうね」

 悟りと入学試験の必勝法をいっしょくたにするかのような、ひどく味気ない言い方をお嬢様はした。彼女自身はあまり信心深くないのかもしれない。

「天堂の家で奇跡が起こった、というあなたの考えはわかりました。でも、お手伝いさんが見たという、蛇は別にそうではないんじゃないですか?」

「あれもれっきとした奇跡だと思いますけど」

けろり、と言われた。

「その蛇は白かったのでしょう? 白い蛇は神様の使いです」

かみさま? 仏様の次は神様か。

「ええ。神社で祀られているのはよく知られているはずですが」

それなら私も聞いたことがある。ただ、その考え方はあまりに飛躍が過ぎるのではないか。

「いや、確かに白い蛇は珍しいですけど、神様とは関係なく実在しますよ。いわゆるアルビノ、というやつですよね」

「あら、スミノさんは動物もいけるくちなのですね」

その言い方だとどんな肉でも食べる人みたいだ。

「あなたの推理を聞いていると楽しくなります。でも、真実というのはつまらないものなんですよ。もっと普通の考えをした方がいいと思います」

「ペットショップはお調べになりました?」

「え?」

「動物嫌いの天堂さんが蛇を飼うはずもない、というのなら、どこかから入り込んできた、と考えるのが普通でしょうね。そして、アルビノ、というのは自然界でそうある事例でもないので、その蛇は野生ではなくどこかで飼われていてそこから逃げ出してきた、と考えるのも普通でしょう」

うわあ。あからさまに嫌味を言われている。でも、その嫌味がいやらしく聞こえず、様になっているのは彼女が普段から言葉の毒を使い慣れていることを意味していた。いったい、どんな魑魅魍魎が跋扈する世界で生きてきたんだ、この人。

「だから、ペットショップを調べろ、と」

「ええ。お手伝いさんが目撃したような蛇ならすぐに見当はつくでしょう。普通でしたらね」

追い打ちをかけてきた。実に容赦がない。

「そうですね。そこはこちらの調べが甘かったですね。心当たりをあたってみることにします」

説教をしておいて努力不足を指摘されたのが情けなくて素直に頭を下げた。そうだった。確かに彼女はいつも何の用意もなしに思いつきを話しているわけではなかった。考えが飛躍しているとしてもその前に深く屈んでいるから、空中でも全く危うげがない。

「あら。それはいい心がけですね。それでしたら、天堂さんの家の近所もお調べになるとよろしいとか思います」

「近所も、ですか?」

「ええ」

 さっきまでの辛辣さが嘘のように甘い微笑みだった。苦い薬を無理に飲みほした後で口の中に押し込まれた飴玉のように甘い。

「それで何がわかるんですか?」

「さあ。それは調べてみてのお楽しみ、ということです」

勿体ぶられた。こちらとしては、もうひとつ飴が欲しかったのだが。

「あ、でも、おかしくないですか?」

「何がおかしいのです?」

「だって、白い蛇は神社で祀られてますから、つまり神道でしょう。しかし、その前の、雲の話は仏教だったじゃないですか。どうして別の宗教が出てくるんです?」

「わたくしには特に違和感はありませんが。天堂さんは超人になることを目指していたのであって、特定の宗教に帰依していたわけではありません。想像になってしまいますが、天堂さんは自らを進化させるために宗教を利用していたのだと思います」

「宗教を利用、ですか」

「はい。そうであれば、別に一つの宗教に限定する必要はありませんし、むしろ複数の宗教を利用した方が成功する可能性は高い、とも言えます」

そんな風に宗教を扱っていいものだろうか。クリスマスのすぐ後に正月を祝う日本人の節操のなさを批判するのも、もはや陳腐になっているとはいえ、さすがにひっかかった。あ、そうだ。クリスマスと言えば。

「じゃあ、あれもそうですか。天堂の家の2階にあったというキリスト像も」

「ご名答。まさしくあれも奇跡の証です」

仏教、神道と来て、今度はキリスト教か。そんな風にいくつもの宗教を扱うから罰が当たったんじゃないか、と現代人らしくもないことを考えたが、この点では彼女に対して反論があった。

「机の上のキリスト像が血まみれだった、という話ですが、ぼくにはあれは奇跡とは思えないんですよ」

「あら。どうしてです?」

首を傾げる仕草に、コケティッシュ、という言葉に頭を支配されて、話を本題に引き戻すのに苦労する。

「あれこそまさに事件だったという証明じゃないですか。あの像で天堂は殴られたんですよ」

強盗目的で押し入ってきた何者かにやられたのか、あいつがいつも通り横柄な態度でいたのに腹を立てた誰かにやられたのか、それは知らないがとにかく殴られて流血した、と考えるのが自然な見方のはずだった。にもかかわらず警察が動かないのが不思議で仕方がなかった。

「それでしたら、机だけでなく他の場所にも血が飛び散ってないとおかしいでしょう」

私の渾身のカウンターはあっさりと撃墜された。

「ついでに言えば、机の上に溜まるほどの血を流して、天堂さんが生きていられるとは思えませんが、それならば遺体が見当たらないのは解せません。仮に遺体を始末したのだとしても血を拭かずにそのままにしているのも解せません。それに」

しっかりと前を、つまり私を見つめながら令嬢が訊ねる。

「その血は本当に天堂さんのものなのですか?」

言葉に詰まった。鑑識が調べていないわけはないが、何故か報告がなかった。

「え? 天堂の血じゃないとしたら、じゃあ、天堂が殴られたのではなくて、逆に天堂が誰かを殴ってそのままにしたということですか?」

「天堂さんが加害者だったとしても同じ話です。あの部屋で誰かが殴られた形跡はなく、血液だけを放っておいているのも不自然なのは同じではないですか」

 往生際の悪さを責められている気分になった。貴族は何より潔さを尊ぶのだろう。

「ぼくは常識的に考えたつもりなんですが」

「わたくしも別に突飛な話をしているつもりはありません。誰かの血が付いたのでないなら、像が自ら血を流したのだと思ったまでのことです」

それこそが突飛な考えではないのか。像が血を流すなんて。

「そう言われましても、実際に起こっている話ですから。スミノさんもご存じではないですか? 血を流すマリア像のことは」

そんなニュースが海外から定期的に伝えられるのは知っている。しかし、お嬢様がそんなB級ニュースをよく知っているものだ。

「ほんのたしなみ程度にしか知りませんので、褒められても困ります」

別に褒めてはいないし、うら若き女性がトンデモ話をたしなむ必要もないと思うのだが。

「でも、まあ、そういう『奇跡』があるのはぼくも確かに知ってます」

マリア像は血の涙を流し、キリスト像は掌の聖痕から血を流す。それに神の慈悲なり怒りなりを見て取って、人々が恐れおののくのも知っていた。

「イエス・キリストは磔になった後で甦り、そして天へと昇っていったといいます。天堂さんがヒントにしたのはおそらくその言い伝えではないかと」

肉体を捨てて精神のみの存在になるためのヒントか。よく考えるものだ。あいつ、頭が良すぎて逆に馬鹿なのかもな、とかつての友人のことを思った。私を含めて鏡も箕輪も成田もみんな馬鹿だと思えばそれほど悪い気もしない。

「どうですか? 納得していただけました?」

 探りを入れられて笑いそうになる。そうは言われても納得はできなかった。ただ、納得はできなくても彼女の仮説に一定の説得力があるのは認めざるを得なかったし、それを上書きするほどの見方を呈示することは私にはできそうもなかった。しかたがない、降参しよう。

「いや、実に面白いお話でした。最初は有り得ないだろう、と思ってましたけど、あなたのお話は実によく考えられていて、確かにそうかもしれない、と思わされました。それに物証まで出されては信じるしかないですね」

 時間を潰すために入ったカフェで論の立つ美しい女性と同席して話ができたのだから、それ以上求めてはいけないはずだった。楽しい時間を過ごせたのだから、それだけでいいはずだった。そういうことにしておけば、全てが丸く収まるのだ。それでいいのだ。

「物証とは何のことですか?」

 にもかかわらず、テーブルの向こうで彼女は訝しげにしている。

「あなたが言っていたじゃないですか。物証がある、と。そして、キリスト像の話をしたから、確かにあれは物証だな、と思ったのですが」

 雲や蛇については確かめようがない。しかし、像は警察で保管されている。それが奇跡が起こったことの物的証明であると私は理解していた。

「それは違います。そうではありません」

脳を揺さぶったのはセイレーンの歌ではなく彼女の笑い声だ。船乗りのように私の進路も迷い始める。

「いや、でも、あの像は確かに物証になりますよ」

「定義にもよるのでしょうが、わたくしにとってはその場で示されるものが物証であって、そういう物がある、と指摘するのは物証のうちには入れておりません」

男爵令嬢は微笑みとともに告げた。

「わたくしはまだ証拠を示してはいません」

さらに、

「それをこれからお目にかけます」

と続けた。

「いやいやいや。ぼくとあなたは今日初めてたまたまお話する機会に恵まれたわけじゃないですか。証拠なんて用意できるはずがないでしょう」

「そう言われましても、気づいてしまったのですから仕方がありません」

気づいた? 一体何に気づいたというのだ?

「スミノさんは今日お一人ではない、ということです。そして、その方がわたくしの話が確かなものだと証明してくれるはずです」

意味がわからない。私に連れなどいるはずがないではないか。しかも、その人間が彼女の証人になるとは。

「あら、お気づきになっていないなんて、意外と冷たい人なのかしら」

そう言うと彼女は天井を見上げて、

「ね、天堂さん?」

私のかつての友の名前を呼んだ。なんだそれ。さすがに笑えない冗談だ。いくら高貴な身分だろうと、ガツンと言って聞かせるべきだ。そう思って怒声を浴びせようとしかけたその時。

かち。かち。かち。

音を立てて頭上の照明が3回点滅した。なんだ。一体何が起こっているんだ?

「わたくしが気付いたというのに、あなたのご友人はわかっていらっしゃらないようですよ? どうぞ知らせてあげてください」

その言葉に促されるように、また、かち、かち、かち、と光と闇が交互に訪れる。脳髄にガツンとやられたかのようで姿勢が保てなくなる。

「あなたがやってるんですか?」

「はい?」

「このいたずら、悪ふざけですよ。どういう手を使って明かりをつけたり消したりしてるんです?」

「わたくしがあなたをからかっている、と思いたいのは理解できますが、残念ながらそうではありません。この席のライトがずっとおかしかったのは、スミノさんもお気づきになっているのではありませんか?」

 それはその通りだ。話の最中に何度も明滅して、そのたびにイラっとさせられたものだった。

「わたくしも最初は気に障りましたが、途中であることに気が付きました。天堂さんの話題をする時に限って、この照明がおかしくなる、と」

 また煙に巻こうとしている、だまされるものか、と思いたかった。思いたかったが、私もあることに気づいてしまった。私が最初に座った席の明かりが消えなければ、彼女の存在に気づかないままだったかもしれないし、それ以前に街灯が一瞬だけつかなければ私はこの店には立ち寄らなかったはずなのだ。

「そういうことだったのですか。それでしたら、わたくしたちは最初から天堂さんに誘導されていたのかもしれませんね」

 かち、かち、かち。彼女の言葉は正しい、とでも言いたげにまた点滅する。しかし、誘導と言っても一体なぜそんなことを。

「ねえ、天堂さん」

 私の質問には答えず、男爵令嬢は斜め上に視線を走らせながら問いかける。夢見がちに光る瞳には何が見えているのだろう。

「あなたは、わたくしとスミノさんにご自分の存在を気づいてほしかったのではないですか?」

かち、かち、かち。

「肉体から解き放たれ、精神だけで自立した、人間よりも高度な存在になった自分のことを、わたくしたちに知ってほしかったのではないですか?」

かち、かち、かち。

「でも、おかしいですね」

溜息の後で彼女の顔に浮かんだのはとびきり冷たい笑みだった。

「人間を超えた、超人になったあなたが、今更こんな下界に興味を持つとは、はなはだ疑問です」

かち、かち、かち。かち、かち、かち。

「これはわたくしの想像になってしまいますが、天堂さん。もしかすると、あてがはずれてしまったのではないですか?」

かち、かち、かち。かち、かち、かち。かち、かち、かち。

「精神のみの存在になればきっと素晴らしいものを感じられるはずだ、と思っていたのに、いざなってみるとそうでもなかった、いえ、それどころか、人間だった頃の方がマシだった、とそう思っているのではないですか?」

かちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかち。

恐るべきスピードで私たちの頭上で光が点滅を繰り返し、店内のほかの客もさすがに気づいてざわつきだした。

「あなたは超人になるために長い間すさまじい努力を重ねられたのでしょうね。でも、その結果が考えていたのとは違って、さぞかしがっかりされたのではないですか? 本当にご愁傷さまです」

 もういい。やめてくれ。そう叫びたかった。だが、私は確信していた。これは天堂だ。天堂に違いない、と。彼女に浴びせかけられている至近距離で落ちた稲妻のようなフラッシュ。あれはかつて何度となく見た友人のヒステリックな怒り方にきわめてよく似ていた。いつだったか、休みの日に出かけた時に、街ですれ違った女子に馬鹿にした目で見られた、と怒った時にそっくりだった。理屈では納得できなくても、体感でそうに違いない、と悟らされていた。

「しかし、残念ながらもう元には戻れません。進化へと至る道は一方通行です。人が超人になれたとしても、超人は人へと降りられないのです。天堂さん。どうぞ、わたくしたち人間のことは気になさらず、超人として高みを目指してください」

かっ、と音を立てて、真夏の真昼の太陽のように真上でライトがひときわ強い光を放つ。

「ただひとりで、誰も届かない場所へと進んでください」

さようなら。そう彼女が決別を言い渡した瞬間、店内の全ての明かりが、かちかちかちかちかち、と激しく点滅する。そして、ぱん、と大きな音を立ててカフェ全体が真っ暗になった。遠くの席でノートパソコンのモニターが光っているのが見えているから停電したわけではなさそうだ。落ち着いてください、と男の店員が呼びかけても、立ち上がる者、悲鳴をあげる者が続出し、このままではパニックになる、と感じたその時、ふっ、と何事もなかったかのように柔らかな光が室内を満たした。上映が終わった映画館のようなのどかな空気が流れ、状況を把握できない客と店員の呆然とした気持ちがこちらへの伝わってくるかのようだった。

「行ってしまわれましたね、天堂さん」

 彼女が左手を店の中央へと指し伸ばしていた。今年初めて降るひとひらの雪があの掌に届いても、たちまち溶けて白い肌に交わってしまうだろう。

「行った、というのは何処へです?」

「さあ。わたくしたちの知らない、行きようのない場所なのは確かなのでしょうけど」

 そこで突然彼女に対して非礼な態度をとったことを思い出した。

「すみません。ぼくが間違ってました。天堂です。あれは天堂に違いありません。それなのに、あなたを疑ったりして申し訳ない」

「スミノさん、顔をお上げください」

 女王陛下に命じられて、下げていた頭を戻すと、怒っているはずだ、という予想は外れて、興味津々な表情が待ち受けていた。

「どうして天堂さんに違いない、と思われたのです?」

「いや、それは。友人だからわかった、としか言いようがないです。雰囲気、というか、感覚です。何の根拠もないんですけど」

「そういうものが案外正しかったりするものですよ」

彼女が納得してくれたように見えたので安心する。何の気なしに鏡について話したつもりが、まさかこんなことになるとは。いまだにざわついている店内の空気を感じて、私自身の疲労をまた感じていた。

「あいつは、天堂は、身体を捨てたことを後悔してるんですか?」

「わかりません。たとえ後悔していたとしても、この場合、やり直しはききませんからね。キャンセルもクーリングオフもできませんから、わたくしとしては推奨しかねる、としか言えません」

貴族の娘も通販を使ったりするのだろうか。本当に妙な人だ。

「わたくしの話はこれでおしまいです」

 テーブルの上で両手の指を組み合わせながら彼女が言った。

「くりかえしになりますが、わたくしの話は正しいとは限りません。むしろ間違っている可能性が高い、と思っていただいた方がよろしいかと思います。何の証拠もない、と言うのも先程申しあげたとおりです」

「でも、キリスト像は立派な証拠だと思いますし、それについさっきまで天堂がここに来ていたじゃないですか」

「そんなことは、他にいくらでも説明のつくことですよ。天堂さんが来ていた、というのも、信じるのはわたくしとあなたくらいのものでしょう。大多数の人は電気系統のトラブル、と考えるはずです」

 じゃあ、今までの話は何だったのか、という気もしたが、上流社会に生きる女性はあくまで慎重を期したいのだろう、と思うことにした。

「ですから、わたくしの話を信じない方が、スミノさんにとっては幸せかもしれません」

「確かにそう信じたいです」

しばらく黙ってからまた口を開く。

「あなたの話が間違いだと、ぼくもそう信じたい。鏡と箕輪はもう帰ってこないとしても、成田と天堂はまだ帰ってくるかもしれない。2人が帰ってきたら、『男爵家の跡継ぎの人がこんなことを言ってたんだ』と言って、笑い合えたらどんなにいいだろう、そう思います」

言葉を続けていくほどに、自分の言っていることが決して起こらない、という確信が強まっていき、胸の中が冷えていった。鏡も箕輪も成田も天堂も、もう帰ってこないのだ。人目がなければ、特に彼女の目がなければ、泣いて楽になりたかった。

「ありがとうございました」

涙を振り払うように礼を言うと、言われた当の本人は明らかに困惑の色を浮かべていて、それでも美しいのはさすがだ、と思わざるを得なかった。

「あの、何を感謝されているのか、わからないのですが」

「あなたに感謝しているに決まっているじゃないですか。ぼくの友達がいなくなった理由を一生懸命考えてくれて、ありがたく思わなかったら人としてどうかしてますよ」

「あなたや、お友達にも失礼なことを言ってしまった、と思うのですが」

「そう言われてもしょうがないことをしたんだから、仕方ないですよ」

 あいつらのしたことは馬鹿げている。しかし、馬鹿げてはいても、やつらなりに真剣だったと信じたいし、短い人生でも真剣になれたのであれば、まだ生きている人間はせめてそのことを大事に覚えていたい、そんな風に思っていた。

「変わった方ですね」

 感謝されているというのに、向かいに座った女の子は不服そうに見えた。いや、だから、あなたの方が全然変わっているんだって。

「ぼくは変わってますか?」

「変わっています。すごく変です。わたくしの話を真に受けるなんておかしいです。『夢みたいなことを言うな』といつも言われているのに、お礼を言うなんてどうかしています」

 ひどい言われようだ。しかし、その時初めて、彼女の孤独に私は触れたような気がした。そして、彼女が自分の世界を離れ外部へと出かける理由もわかったような気がした。

「誰かの話を聞くのが好きだと言ってましたけど、自分から話したりはしないんですか?」

「変な目で見られたくないので、いつもはなるべく自分の考えを話さないようにしているのです。それなのに、あなたの語る謎があまりに興味深くて、今日はつい話しすぎてしまいました。それもこれもスミノさんが悪いのです。そうです、そうに決まっています」

ものすごい言いがかりだ、と思いながらも、別に悪い気もしなかった。だから、自分の気持ちを率直に伝えることにした。

「そんなこと、別に気にしなくてもいいと思いますけど」

「はい?」

「他の人のことは知りませんが、ぼくはあなたを変な目で見たりしませんから、話したいことを話せばいいんじゃないですか?」

 私の言葉を聞いたからなのか、白い蕾がほころぶようなやわらかな表情をしてから、

「変わった方ですね」

もう一度言われた。さっきまで天堂を挑発していたのと同じ人だとは思えない。しかし、その時私は確かにこの上ない幸せを感じていたし、友人たちには悪いとは思いながらも、人間を超える必要など全くなく、彼女のいるこの世界を見限る必要も全くない、と心の底から信じていた。

「ここにいらっしゃったのですか」

突然横から誰かに話しかけられて驚いて飛び上がりそうになる。年配の男性の声だった。

「あら、じいや。意外と時間がかかったのね」

令嬢がいたずらっぽく笑う。「ばあや」がいた時点で予想はついていたが、やはり「じいや」もいたのか。

「GPSがカムチャッカまで行ったので肝を冷やしましたぞ。いつも肌身離さず持ち歩いていただかなくては困ります」

「そう言われれば、どこかにやってしまいましたね。これからは気を付けることにしましょう」

わざとやったのも、反省する様子がないのも見え見えだった。しかし、カムチャッカとは、一体どんな手を使ったのか。ここで「じいや」は私の存在に初めて気づいたようで、ぎろり、と睨んできた。

「この者は?」

「この者」と来た。あんたの家来になったつもりはないぞ、と一気に反発心が湧き起こる。それでも文句を言わなかったのは、「じいや」が髪が真っ白になっているにもかかわらず、筋骨隆々たる体格で周囲を威圧していたからだ。プロテクターなしに野球の審判を平気でこなせそうだ。決してびびったわけではないが、しかし、それだけに反発心は全く収まる様子がなかった。この人は敵だ、と明確に認識していた。何をもって敵対しているのかはわからなかったが、とにかく私とは決して相容れない関係であることは確実だった。

「わたくしのお相手になっていただいていたの。わがままを言って困らせてしまったかしら」

「いや、そんなことは」

「どこの者とも知らぬ人間と接触されるのは考え物ですな」

 会話に割り込まれてますますイライラしてきた。しかも明らかに見下しが入っている。

「お嬢様、あなたは将来大蛇家おろちけ女男爵バロネスとなられるお方です。お立場をわきまえていただかないと」

「じいやの気持ちはありがたいのですが、この方は決して怪しい人ではありませんよ」

「しかし」

「それならじいは刑事さんを怪しい人だと言うの?」

そう言われて「じいや」が固まるのがわかったが、それ以上に私も固まっていた。全身をタールで漬けられた気分になる。

「どうして、ぼくが刑事だと?」

「お役所勤めだと仰ってましたし、加えて一般人にしては事件の中身に詳しすぎる、と感じました。それに、警察手帳がわたくしの方から見えてましたから」

そんな馬鹿な。手帳は紛失しないようにきちんとしまっていて、外側からは決して見えないはずだ、と右手をスーツの内側に差し入れるとやはりいつもの場所にあったので、安心するのと同時に落とし穴の存在に気づいた。警察手帳を確認した、今の仕草が私が刑事であることの何よりの証明になってしまっていた。

「ぼくを嵌めましたね?」

「あら、人聞きの悪いことを仰る」

 穴を掘った張本人である女狩人の顔には「してやったり」と書いてあった。いくら賢くても、素人のハッタリに乗せられるとは我ながら脇が甘すぎた。

「あなたが正直に名乗っていれば、わたくしもわざわざそんなことをせずに済んだのです」

ぐうの音も出なかった。刑事と名乗って警戒する女性も世の中には珍しくないから、ついぼかしてしまったのだ。

「だから、じいが心配する必要はなくってよ。万が一何かがあったとしても、スミノさんがナイトとしてわたくしを守ってくれていたはずですから」

「しかし、わたしもその業界を知らぬわけではないので言いますが、刑事にもいろいろな人種がいます。中には極めて性質タチの良くない人間も」

「ぼくは違います」

 今度は私から話に割り込む。「ぼくは違います」と書いて「この野郎」とルビを振りたい気分だった。

「ぼくは彼女を守ります。刑事として、いや、刑事であろうとなかろうと彼女を守ってみせますよ、絶対に」

 「じいや」がまた、ぎろり、と睨んできたが、私の方でも睨みつけているはずだった。向こうも私を敵だと認定したらしい、と薄々気づく。

「そちらのお気持ちは有難く思いますが、お嬢様を守るのは私一人で十分かと」

「そのお嬢様の行方を何時間見失ってたんですか? 本当に守れるんですか?」

 闘志が自分の中でみるみる燃え上がっていくのを感じる。自分で見ることはできないが、髪が炎に変わって火の粉を撒き散らしているのではないか。そして、老爺の屈強な肉体が私への敵愾心で膨れ上がっていくのも感じていた。やってやろうか、と思い、向こうも私と同じ思いでいるのがわかったその時、

「はいはい。そこまでになさい」

ぱんぱん、と女主人が手を叩いた瞬間に「じいや」からそれまでの熱が消えうせ、同じように私の身体も冷えていくのを感じていた。私も「じいや」も本気でいたのに、彼女にとっては野良犬がじゃれついている程度でしかなかったらしい。人間としての器がまるで違っていた。

「わたくしを守ろうとする二人の気持ちは嬉しく思います。目的が同じなら、いがみ合う必要はないではありませんか」

 私と「じいや」の目的はおそらく違うはずで、こちらも向こうもそう思って反論しかけたのだが、

「わたくしの考えは、何か間違ってますか?」

 永久凍土からやってきた雪の女王の一言で、私たちは承服する以外に道はないと即座に判断していた。

「いえ、お嬢様の仰る通りです」

「右に同じです」

大の男が2人して、20歳そこそこの女の子に頭を下げている図は、さぞかし奇妙に見えただろうが、それを気にする余裕はなかった。私だって命は惜しい。

「しかし、お嬢様。もう屋敷にお戻りにならないといけません。明日も早うございます」

 忠実な執事の顔を取り戻した「じいや」にそう告げられた令嬢は、そうね、と小さく呟いてから、少しだけ考えると、

「では、まいりましょうか」

と言って立ち上がった。そういえば、私と話している間、彼女は座ったままだった、と気づいたが、立ち上がる、というそれだけの仕草なのに、全く余計なもののない、優雅さにあふれた動きに、天堂のせいでまだざわついていたカフェの空気が一気に静かになり、客の視線が彼女へと釘付けになるのを感じていた。そして、私もまた彼女から目を離せなかった。彼女の全身から目を離せなかった。身長は思っていたよりも高く、私よりも頭ひとつ低いくらいか。手足は長くほっそりした肢体に全体的にボリュームが足されていて、スレンダーとグラマーのいいとこ取り、という風に見えた。もちろん、それを私が気に入らないはずはなかった。

「こちらへ」

「じいや」が先導するのに続いて、彼女が私の横を通り過ぎようとする。迷いのない歩き方。赤いルビーと金の蛇、そして甘くさわやかな香りがまた鼻を衝いた時、何かを言わなければならない、と強く感じながら、何を言うべきかを思いつけずにいた。このまま別れるのは嫌だ、と子供のように思っていた。何より彼女の名前もまだ知らない、と今更気づく。

 そんな私の焦燥を知ってか知らずか、お嬢様の瞳がこちらを向き、二つの視線がぶつかりあった。目が細くなり、さも可笑しそうな顔をされる。

「またお逢いになれますよ」

「えっ?」

「いつかまた、わたくしたちは逢うことになります」

「どうしてそう思うんですか?」

 私が呼吸を荒くしていたせいなのか、少し噴き出してから、

「ただ、なんとなく、そう思っただけのことですが、いけませんか?」

私を見つめる黒い瞳にはまた星が輝いている。奇妙なことに、その答えで身が震えるほどの感動を覚えていた。根拠もなしに再会を予期していたことが、何よりも嬉しく、そして、それだけで十分だ、と思っていた。

「ぼくもそう信じたいです」

 そう言うのがやっとだった。

「お嬢様」

「じいや」に促されると、ふふ、と私を見て笑ってから、いずれ女男爵となる人は私のもとから離れていった。未練がましく、ふらふらとその後を追ってしまう。そうしたところで意味はないとわかってはいても、そうするしかなかったし、そうしたかった。カフェの店先には4、5人ばかりが集まっていた。何かと思えば、入り口の真正面に黒塗りの大きな外車が停められていた。高い金を使って作られ、高い金を払って管理されている堂々たる偉容だった。この辺りは駐車禁止区域のはずだが、あれでは違反の切符を切るのもためらわれそうだ。「じいや」が分厚い後部ドアを開け、愛車に乗り込もうとした彼女が何かを思い出したかのように振り向く。

「スミノさん、ごきげんよう」

 優美に一礼して、今度こそ車に乗り込む。「じいや」に憎らしげに睨まれてもまるで気にはならなかった。男爵令嬢の最後の挨拶に心を占められてそれどころではなかったのだ。女主人が乗るのを確認した「じいや」が左前方のドアから車に乗り込んだのを見ても、運転手も兼ねているのか、ご苦労なことだな、とそれまでの因縁も忘れて素直に同情してしまったのも、やはり彼女のことで頭がいっぱいだったせいだ。夜の闇の中でも黒く光る巨大な車体が、彼女を乗せて遠くへ走り去るのを見守りながら、首に巻かれたマフラーに知らず知らずのうちに触れていたのに気づく。今となってはそれだけが私と彼女をつなぐものになっていた。


(その5 終わり)


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