その4(令嬢は真相を語る)
大学生の頃に学習塾で講師のアルバイトをしていた。小学生と中学生が対象で、進学のために来ている子を相手に集団で授業をしたり、学校の授業に遅れ気味の子をマンツーマンで励ましながら宿題をやったり、今思い返しても楽しい経験だった。そこでは、子供たちに教えるだけでなく、私も教えられることがあった。私は主に算数と数学を担当していたが、小学生につるかめ算を教えるにしても、中学生に二次方程式を教えるにしても、当然そのことを理解しているつもりで教えていた。しかし、いざ子供たちに教えようとして言葉に詰まることがしばしばあった。理解していなかったわけではなく、その理解を明確に言葉にして筋道だった考え方にできていなかったので、他人に上手く伝えられなかったのだ。そして、子供たちに指導しながら、自分でも気づかなかった点に気づかされることもしばしばあった。自分の中で考えを貯め込むばかりでなく、人に伝えることで新たに見えてくることもある、というのが私が学習塾で得た最大の教訓だった、と今でも考えている。
すっかり夜になったカフェでそんな過去を思い出したのは、男爵令嬢に話をしながら私自身もなんとなくではあるが感じることがあったからだ。そして、それは先程の彼女の言葉で確信に変わりつつあった。
「お話を伺う前に、ぼくからもひとついいですか?」
「あら、なんでしょう」
テーブルの向こうで余裕のある笑みが浮かぶ。
「もしかしてなんですけど、ぼくが今話した友人の件は、みんなつながっているんじゃないですか?」
きょとん、と音がしそうになるほど目を大きくした後で、彼女はにんまり、と音がしそうになるほど喜びにあふれた顔になった。
「そうですね、わたくしもそのように考えています。スミノさん、自分でもお気づきになっていたのですか。驚かせようと思っていたから少し残念ですね」
「じゃあ、鏡と箕輪が死んだのも、成田と天堂がいなくなったのも、同一犯の仕業なんですか?」
興奮のあまり椅子から少し腰を浮かせてしまった。
「同一犯、ですか。まあ、広い意味ではそうとも言えますね」
一応賛同してくれたようだが、あたりが暗くなってますます白く見える顔の上で「×」が大きく赤く浮かんでいるのが見えた。広い意味での同一犯、とはどういうことなのか。
「すみません。ぼくはなんとなくしかわかっていないので、詳しく説明してもらっていいですか?」
「はい、もちろんです。スミノさんがお一人で全部わかられてしまったら、わたくしもちょっとつまらなかったでしょうから、それでいいのです」
ん、ん、と小さく咳払いをしてから、それまで無意識でも伸びていた背を意識して伸ばしてから、彼女が私をしっかりと見た。
「では、お話しさせてもらいますが、その前にお断りさせてもらいたいことがあるのです」
「なんでしょう?」
「まず、これからわたくしがお話しすることは、あくまでわたくし個人の推測に過ぎない、ということです。証拠も何もなく、正しい真実とは限らない、いえ、むしろ間違っている可能性が高い、とお考え下さい」
「はい。わかりました」
慎重な人なんだ、と思っていた。軽挙妄動していては貴族の社会は生きていけないのかもしれない。
「それから、わたくしの話は、スミノさんにとって多分に不愉快な話のはずです。そうならないように気を付けるつもりですが、どうしてもあなたを傷つけてしまうかもしれません。それでもかまいませんか?」
「いや、それは、友人が死んでいなくなった時点で既にかなり不愉快なんですから、別にいいですよ」
ルージュを引いていなくても紅い唇がわずかに歪んだのでジョークだと伝わったらしい。
「そうですか。それなら、スミノさんを信じてお話しさせてもらいますね」
「はい。お願いします」
ここからは少しも聞き逃したくなかったので、気合を入れて聞くことにした。気負いすぎて、ごくり、とつばを飲み込んでしまう。
「では、最初に鏡さんの事故についてお話ししますが」
「待ってください」
いきなり突っ込んでしまった。だが、スルーできない言葉があったから仕方がない。幸い、高貴な生まれの女性は出ばなをくじかれてもあまり気にする様子はないように見えた。
「どうされました?」
「今、『事故』と言いましたよね? 『事件』ではなく」
「はい、そのように申し上げましたが」
「鏡が死んだ状況がとても不可解なものであったことは説明しましたよね? それでも事故なんですか?」
「鏡さんが事故で亡くなられたことは最初からわかっていました。確かに変わった状況ですが、それでも事故は事故なのです」
順を追って説明しますね、と彼女が私をなだめるように言ったので、ようやく自分が大人げなく興奮していたのに気づいた。
「すみません。つい頭に血が上っちゃって」
「お友達が亡くなられて冷静でいられないのは当たり前のことです。謝る必要はありませんよ」
また可愛らしく小さな咳払いをしてから説明が再開された。
「鏡さんのご遺体の状況について整理させてもらいますが、死因は窒息死。首に絞められたような跡はないものの、胸にひどい傷があって、両手の指も傷ついていて、いくつか爪も剥がれていた。さらに、全身にただれたような跡があって、舌と鼻と眼にも損傷がある、ということでよろしいですか?」
鏡の話をしたのもだいぶ前のように感じるが、彼女は正確に覚えていた。
「はい、その通りです」
「スミノさんから伺った点を総合して考えると、鏡さんは真空の状態で亡くなられたのではないか、と思われます」
一瞬何を言われているかわからなかった。真空? 真空とはなんだ。
「しんくう、ですか」
「はい。空気が一切ない状態です。たとえば、宇宙空間がそうですね」
「じゃあ、鏡は宇宙で死んだんですか?」
目の前でうら若き女性が突然無言で身体を折り曲げた。笑っているのだ、とわかるまで少し時間がかかった。声を出して笑うのははしたない、と教えられているのだろうか。しかし、顔を赤くして何かに必死で耐えている彼女を見ていると、理由は分からないが動悸が速まるのを感じた。悪くない眺めだった。
「それは、さすがに、ありません。普通の人間は、簡単に宇宙には、行けないし、戻っても、来られないですから」
まだ笑いが収まらないのか、話が切れ切れになる。考えてみれば確かにそうだ。いくら鏡でもロケットなど持ってはいないし、たとえ宇宙に行けたとしても地球に落下する途中で燃え尽きてしまう、というのは私でもさすがにわかった。
「スミノさんはSFの才能がおありですね」
白いレースのハンカチを目元に軽く当てた彼女にお褒めの言葉を頂戴したが、逆に私にはSF小説を書く能力が皆無であると痛感させられていた。泣くほどおかしいのか、と不満に思ったが、泣くほどおかしいだろう、と自分に突っ込みをいれるしかなかった。馬鹿げたことを言ってしまった。
「でも、真空の状態って、そんな簡単に作り出せるものなんですか?」
「別に難しくはありません。たとえば、空の瓶があったとして、そこからポンプで空気を吸い出せば、瓶の中は真空になりますから」
しかし、瓶の中に人間は入れない。
「理屈は同じです。密閉した部屋からポンプで空気を吸い出せば真空になりますから、十分可能でしょう」
それは確かにその通りなのだろう。しかし、とても納得できない。そもそも本当に鏡は真空状態に置かれて死んだのだろうか?
「最初にそれをお話ししようと思っていましたが、スミノさんが宇宙の話をされるので先走ってしまいました」
どうやら私が悪いようだった。自分なりに考えてみたが、真空状態は「窒息死」「絞められた跡がない」という鏡の遺体の状況に適合しているとわかる。だが、それだけで真空が死因だと判断できるものだろうか?
「『全身のただれたような跡』も真空状態の証明になっていると思います」
物わかりの悪い相手を諭すように彼女がつぶやいた。いや、この場合は比喩ではなく、本当に物わかりの悪い相手を諭しているのだ。
「実際にご遺体を確信してませんし、診断書の所見も見てはいませんが、おそらくそれは凍傷なのではないかと?」
思いがけない単語が出てきた。
「えっ? ということは、真空というだけじゃなくて、気温も低いところで鏡は死んだ、ということなんですか?」
「気温は関係ありません。空気がないだけで十分です」
そう言われて自分の愚かさにようやく気づいた。空気がなければ熱は伝わらないではないか。さっきの宇宙の件といい、中学生レベルから理科をやり直す必要を感じていた。
「宇宙空間の温度は絶対零度に近い、と本で読んだ覚えがありますから、おそらく鏡さんもそのような状況に置かれたのでしょうね」
うわあ、と声が漏れてしまった。空気がないのに加えて零下273度の部屋など、想像したくもないし、そこで人が生きていけるとも想像できなかった。
「そして、もうひとつ、『眼と舌と鼻の損傷』からも真空だと考えました」
「肌と同じように凍り付いた、ということですか?」
モンシロチョウが舞う程度の速さで首を横に振られる。
「それもありますが、おそらく沸騰したのだと思います」
またもや思いがけない単語だ。しかし、今度は脳裏に閃くものがあった。
「もしかして、気圧がないからですか?」
彼女の顔が輝いたので、自分が正しいことを言っているのだとわかった。正解を出したくらいでここまでうれしくなるのか、と自分で自分がわからなくなる。
「気圧がないと高温でなくても沸騰します。眼の結膜も舌も鼻腔も要は粘膜です。粘膜の水分が真空状態で沸騰して、それがひどい傷になったのでしょう」
そこで黒い二つの瞳に見つめられた。
「でも、気圧がないことが関係しているとよくわかりましたね?」
瞳の中で星雲が渦巻いているのが見えて、彼女が心から感嘆しているとわかった。この先何度もあるとは思えない経験だったし、それ以上に照れくさくてたまらない。
「いや、全然たいしたことじゃないですよ。ぼくも昔雑学の本か何かで読んだ、山の上は気圧が低いから低い温度で沸騰する、という豆知識をたまたま覚えていただけなので」
「でも、本当にその通りなのですよ。10代の頃に家出してアンデス山脈まで行ったときに、現地で自炊しようとしたら、うまくいかなくてとても苦労したのですが、後になって気圧のせいだと知って、あのときそれがわかっていたなら、と悔しく思ったものです。まあ、今となってはそれもいい思い出ですが」
ものすごい思い出話がさらっと出てきた。突っ込みどころが多すぎて逆に突っ込めない。お嬢様がお忍びで一人でこっそりカフェまで出かけるなんて、と心配していたのがまるで阿呆らしかったのだと気づかされる。
「というわけで、スミノさんから伺ったお話から、鏡さんが真空状態で亡くなられた、というのはすぐに推測できたのです」
ティーンエイジャーの頃から筋金入りの放浪癖があるようには見えない端正な顔立ちで事も無げに言ってのけた。しかし、そう言われても、私にはまだまるでわからないことだらけだった。
「その通りです。ですから、わたくしも申し上げたではありませんか」
「わかったおかげでわからなくなった」か。鏡の死因がわかったせいで、余計に不明な点が出てきてしまった、ということだ。何周遅れかは知らないが、ようやく彼女に追いついた気分になっていた。
「ぼくは一番気になるのは、そんな死に方をした鏡がどうして自宅にいたのか、というなんですけど」
「わたくしは特に問題だとは思いませんが」
ようやく背中が見えてきたと思ったらまた突き放されてしまった。
「いや、だって、鍵もかかっていたし、防犯カメラには怪しい人間は誰も映っていなかったんですよ」
「どちらも不可能ではないでしょう。おそらく合鍵を使ったと思われますし、防犯カメラも事前に位置を確認しておけば、映らないように移動するのはできるはずです」
確かに合鍵の存在は聞いていないので辻褄は合う。
「でも、大人の男の身体を人目につかないように運ぶのは一人では難しいですよ。それにカメラは大丈夫だとしても完全に人目につかないようにするのは素人には無理だと思います」
「でしたら、鏡さんのご遺体を運んだのは一人でもなく素人でもない、ということになりますね」
つまらないことを気になさるのね、とでも言いたげにお嬢様は微笑んだが、私にはそれを気にする余裕はなかった。一人でもなければ素人でもないのならば、鏡を運んだのは。複数のプロ、ということになるのか? 確かにそれなら彼女の理屈も成り立つ。しかし、それはさらなる混乱の渦へと私を叩きこむ一押しになっていた。
「え? いや、でも、だって、どうしてそんな、わざわざ」
「まさにその通りです」
パニックのあまり口に出していたつぶやきに全力で頷かれて驚く。
「わたくしが一番ひっかかったのもその『わざわざ』なのです。少なくとも数人のプロフェッショナルがどうしてわざわざそのような苦労を犯して鏡さんをご自宅まで戻したのか、そこがわからなかったのです」
卓上の白い小皿から取り上げたマドレーヌを口にしながら彼女は言う。いつの間に注文していたのか。
「先程お店からサービスで頂いたのですが、お腹がすいてきたのでちょうどいいところでした」
おい。私にはそんなサービスはなかったぞ。この民主主義社会でそんな差別が許されるのか。
「ただし、それでわかったこともあります。プロフェッショナルが関わっているのであれば、鏡さんは殺されたのではない、ということになります」
「どうしてそうなるんです?」
「プロが鏡さんを始末していたのであれば、もっと自然なやり方をとっていたと思いますよ。わざわざ真空の部屋に閉じ込めて、わざわざ自宅まで運んでベッドに寝かせるなんて、そんな手間のかかることはしないでしょう」
確かに鏡の死にざまには不審な点が多すぎた。警察が捜査に乗り出さなかったのは幸運とも言える。
「お話はわかりました。でも、そうは言っても殺人ではなく事故だったとしても、その2つの『わざわざ』の謎は解けませんよ?」
「2つの『わざわざ』の謎、というのはいいですね」
楽しげな顔をされる。笑いのツボもわかりづらい人だ。
「鏡さんが真空の部屋で亡くなった『わざわざ』と、プロが鏡さんを運んだ『わざわざ』ですか。でも、その謎を解くのは後回しにした方がよさそうですね。物事には順序というものがあります」
「他の3人の話を先に考えた方がいい、ということですか?」
「はい。それから鏡さんについてあらためて説明させてもらう、ということでかまいませんか?」
そもそも彼女が鏡の死の真相を理解するために私の他の友人の話を聞きたがったのだ。それを解明する鍵もそこにあると考えるのが妥当だった。
「ええ。ぼくには見当もつかないので、あなたの話しやすいようにしてもらうのが一番です」
ありがとうございます、と言いながら花のかんばせがかすかに下を向いてまた元に戻る。
「それでは、まず箕輪さんの話ですね」
「まさかとは思いますが、箕輪の死も事件なんですか?」
また話の頭から前のめりになってしまったが、彼女は予想していたようで、ひらり、と私の突進を舞うようにかわした。
「いえ、箕輪さんが亡くなられたのはご病気だと思います。他人の手は介在していないのは間違いないでしょう。ただし」
いったん言葉を切ってから、
「その病気というのが問題なのです」
「腎臓の病気、ですか?」
「スミノさんは後輩の方からそのように聞かれたのですよね?」
「ええ。そう聞きました」
「具体的な症状などは聞かれました?」
「いや、そこまでは」
あいつの話は噂話の域を出ないものだった。
「ということは、これはだいぶ想像に頼った話になってしまいますが」
また言葉を切る。よく研がれたナイフを使ったようにひどくなめらかな切り方だ。
「箕輪さんはおそらく腎虚で亡くなられたのだと思います」
聞きなれない単語が出てくるのは何度目だろう。彼女のボキャブラリーが豊かなのか、私のが貧しいのか。
「すみません、じんきょ、というのは一体何ですか?」
「わたくしも詳しくは知らないのですが、近代医学ではなく漢方の考え方のようです。具体的な病気というよりはある種の症状を指す言葉、というのが正確でしょうか。つまり」
そこで黙った。しばらく待っても話は始まらない。豊かに溢れ出していた泉が尽きてしまったかのように何も出てこなくなってしまった。彼女も何かためらっているように見える。3分ほど経っただろうか。さすがに私も我慢できなくなった。
「あの、どうされたんですか。何か話してもらわないと」
「ご自分でお調べください」
「え?」
「腎虚が原因、というのはお知らせしました。ですから、ご自分でお調べください」
さっきまでいろいろ教えてくれていたのに、いきなりの方向転換だ。それまで無料だったビニール袋が有料になったかのような、と昨今の世相を思い浮かべたが、
「え? でも、ぼくが調べるよりあなたに教えてもらった方がずっと早いんじゃ」
「わたくしに何を言わせようというのですか」
空間に稲妻が走った、というのは比喩ではなく、少なくとも私にとっては事実だった。ゆるやかに波打っていた髪は逆立ち、真っ赤な顔をした彼女がこちらをにらみつけている。
「あなたは、仮にも男爵家の次期当主であるこのわたくしに何を言わせようというのですか。それが淑女に対する紳士の振る舞いと呼べるのですか」
恥を知りなさい、と続きそうなので、すみませんすみません、と理由もわからぬまま、スーツのポケットからスマホを取り出して急いで「腎虚」を検索する。わけわかんないな、俺、紳士でも何でもないのに、と思いながらも、取り立てて不愉快ではなかったのは、怒りに震える彼女もまたとても美しく見えたからだった。それに、不満を言いながらも自分の家に強い誇りを持っているのがわかったのも、何故か微笑ましかった。
「どうしてそんな変な笑い方をするのです?」
ハートの女王に首を切られると困るので手早く調べることにする。えーと、「腎虚」とは。信頼できそうなサイトを見たところ、腎虚というのは男性の精力の減退を指す言葉らしい。一説によれば、一生分の精子を出し尽くした男はそのまま死んでしまう、ともいう。そういえば、高校の部活が終わった後に、先輩が「赤い玉が出たら終わりだ」という話を道場でしていたが、そういうことなのか。
「あ」
そこで彼女の存在を思い出し、また彼女が話しづらそうにしていた理由もわかった。なるほど、これは貴族の娘としては話しにくいことだろう。
「すみません、『腎虚』についておおよそのことはわかりました」
はい、とか細い声が返ってくる。
「申し訳ありません。どうしても我慢できなくなって、頭に血が上ってしまいました」
「いやいや、ぼくの方こそ配慮が足りませんでした。女性には言いにくい話ですよね」
男爵令嬢がしゅんと萎れている、というのも珍しい光景だろう。まだ顔は赤いままで瞳も潤んでいる。
「どんな状況でも平静を保たなければならないのに、まだまだ修行が足りません」
美貌の持ち主に自ら進んで下の話をされるのもどうかと思うので、別のこのままでも構わないと思うし、腎虚の話をあれほど嫌がっていたことから考えると、つまり、この人は男性経験の方はさほど、というより全く。
「スミノさんの方から嫌な波動を感じます」
さすが勘も鋭い。下世話な思考を断ち切ってから話を再開することにする。今、私たちは友人たちについて真面目に厳粛な話をしている最中なのだ。
「はい。それでですね。腎虚というのが何なのかはわかりました。推測ですけど、箕輪が腎虚で死んだ、という話がどこかから出て、それで伝わっていくうちに腎臓の病気と内容が変わって、それをぼくの後輩が聞いた、ということでいいですか?」
「はい。その通りです」
まだ元気がない。皿の上に残ったマドレーヌを食べて空腹を満たしてほしいところだった。
「それはわかったんですけど、どうしてあなたが箕輪が腎虚だと考えたのが、それがわかりません。よろしければ教えてもらいますか? もちろん、無理にとは言いませんが」
そう言い終わらないうちに、ぴんと背筋を伸ばして私を見返してきた。
「今になって話をやめたりはしません。一度決めたことはやり通します」
さっきは彼女を激情に走らせた強いプライドが、今はその持ち主を再起させようとしていた。
「もう取り乱したりはしませんのでご安心を」
不敵と言ってもいいほどの笑みを向けられて別の意味で安心できなくなってしまう。
「確かに箕輪はプレイボーイでしたけど、だからといって腎虚になるというのは飛躍しすぎというか」
「わたくしがそのように考えたのは、スミノさんが最後に箕輪さんとお会いになった時の話を伺ったからなので、別に飛躍があるとは思いませんが」
顔をマスクで覆い隠し、季節にそぐわない厚着をして、歩き方もどこかおかしかった、かつての友人の姿を思い浮かべた。
「それが腎虚の症状なんですか?」
「いえ、腎虚ではなく別の病気の症状です。つまり」
そこでまた黙ってしまった。白い顔が再び赤くなっていく。こうなるとさすがに私も事情を察した。
「もしかして、性病ですか?」
こくり、と赤く染まった整った容貌が上下に大きく動く。危なかった。姫君をこれ以上逆上させるわけにはいかなかった。とはいえ、さっき「ご安心を」と見栄を切ったのは何だったのか、と思ったし、それにやっぱりこの人、男と付き合ったことが。
「その波動を止めないとただでは済みませんよ」
だから勘が鋭いって。というか「波動」なんてものを出した覚えはないのだが。とにかく話を戻そう。
「そうですか。性病ですか」
その方面の知識は私もあるにはあったので考えてみる。一概には言えないが、病気によっては皮膚に湿疹や腫物が出来たりする、とは聞いたことがある。梅毒にかかると鼻が落ちる、というのはよく知られているだろう。それに性器に痛みやかゆみを覚える、という症状も聞いたことがあった。
「なるほど。確かにあの時の箕輪にあてはまりますね」
マスクや厚着は皮膚を隠すためで、歩き方がおかしかったのは性器に異常があったから、と考えれば筋は通った。
「おわかりになってもらえてよかったです」
彼女も落ち着いた様子で私としてもほっとする。感情的になった姿もあれであれでいいとは思うものの。とりあえず、これまでの情報を総合すると、箕輪は精力の減退および性病によって死に至った、ということになるのだろうか。痛ましくはあるが、あいつらしい死に方ではある、と複雑な感情が生じる。しかし、そこで疑問もまた生じた。
「すみません、でも、そうなると箕輪と鏡の死に方に関係があるようには見えないんですけど」
「確かにこの時点ではそう見えますね」
「この時点」? 妙な言い方をする、と思っていると、
「さらに言えば、箕輪さんの亡くなり方にも疑問はあるのですが、それについても後回しにしましょう」
私には特にそのような疑問はなかったのだが、彼女には別の何かが見えているのかもしれない。
「それでは、成田さんのお話をさせてもらいますね」
心なしか彼女の声がのびやかになった。苦手な料理を食べ切って好物に移れたかのような感じだ。セックスが絡む話題は苦手なのだろう、と思いかけて「波動」をキャッチされるのも面倒なのでやめておく。
「最初に申し上げておくと、成田さんはおそらく亡くなられています」
そう聞かされても、意外なほどショックを受けなかった。私も知らず知らずのうちに覚悟をしていたのかもしれない。あのチンピラが成田の腕時計を持っていた時点で察していたのだろうか。
「やっぱり暴力団に殺されたんですか?」
「はい。残念ながら」
高潔な女性が私の友人の死を本気で悼んでいるように見えて、どことなく慰められる気分になったが、おそらくあいつの死体は見つからない、と判断せざるを得なかった。それこそ「プロ」の手によって処理されてしまっただろう。鏡の件とつながっているようで暗澹とした気分になる。
「でも、成田がそんな目に遭う理由がわかりません。警察が調べても別にトラブルはなかったといいますから」
「それはその通りなのでしょう。ただ、わたくしには想像がつかないわけでもありません」
婉曲な物言いが彼女の中に強い確信があることをうかがわせた。
「想像でもいいので教えてもらえませんか?」
「はい。それなら申し上げますが」
数瞬の沈黙の後、
「成田さんは暴力団の事務所に殴り込まれたのだと思います」
今度は難しい単語が出てきたわけではなかったが、何を言われているのか理解できなかった。殴り込み? それも暴力団の事務所に?
「え? いや、それはさすがにありえないんじゃないかな。いくらなんでもそんなヤクザに喧嘩を売るような真似をするとは」
「スミノさんが仰っていたではありませんか。成田さんは学生時代にあちこちで道場破りをしていたと。それと同じことです」
同じではないだろう。格闘技のジムや道場にアポなしで行くのと暴力団を相手にするのはまるで違うはずだ。
「同じというのが受け入れられないのなら、延長線上に存在している、と言った方がよろしいのでしょうか。おそらく成田さんは自分なりの強さを追い求めた結果、格闘技に飽き足らず実戦を積むことを決めたのだと思います」
彼女のその言葉を聞いて、私の中で考えが固まり出した。格闘技は最低限のルールが定められている。1対1、時間制限、急所への攻撃および武器使用の禁止。道場破りでもたぶんそれは守られているだろう。現代で道場破りを死に至らしめたケースは皆無に近いはずだ。だが、成田にはそれが不満だったのだろう。死の危険のある場所で勝負してみたい、と思ったのだろうか。戦場にでも行ければよかったのだろうが、生憎―というのも馬鹿げているが―今の日本は平和この上なかった。今の日本で一番死に近い場所として暴力団に殴り込むことにした、ということになるのか。
「そういう風に想像したヒントって何かあるんですか?」
「チンピラの方の反応です」
「方」などとつけなくてもいいのに、と思ったが、礼儀正しい令嬢は誰にでも慈愛のまなざしを向けるのだろう。
「チンピラの方が何を聞かれても答えない、というのは、それを話すことが沽券にかかわる、とでも思ったのではないでしょうか。ヤクザのみなさんというのは、そういうものにこだわる方々のようですから」
人一倍誇り高い女性に言われるのも妙だが、ヤクザもまたプライドの高い人種である。そういった連中がいくら強いとはいえ素人に殴り込まれて平気でいられるとは思えなかった。返り討ちにしたとしても「殴り込まれた」という事実だけで奴らの誇りは傷つけられるのだ。あくまで隠し通さなければならない事実であって、チンピラが黙秘し続けたのも納得できるような気がした。
「なるほど。あなたの話はわからないではないですね」
「わからないではない、ということは、全部わかったわけではない、ということですね」
揚げ足を取らなくても、と思ったが、別に彼女は意地悪をしたいわけではないようだった。
「でも、成田さんについても、鏡さんや箕輪さんと同じようにわからない点がある、というのは重要なんです。そういうわけで、ここでいったん話を整理しますね」
「天堂の話はしないんですか?」
にこ、と音が出そうなほどの見事な微笑みを見て身体が固まる。
「ここで話をまとめないと、天堂さんの件は理解しづらいと思いますので。それに、成田さんの件にしても、他のお2人とどのように関係しているかおわかりになられてないのでしょう?」
言われてみればその通りだった。成田の死については比較的理解はしたつもりだったが、それが鏡と箕輪にどうつながっているかはまるで見えなかった。
「今まで話してきた3人には不可解な点があります。鏡さんは何故真空の部屋で死んでしまったのか、箕輪さんは何故性病にかかったのか、そして成田さんは何故暴力団に殴り込んだのか、以上が主な謎ですね」
「成田は強くなりたいから殴り込んだ、ということじゃないんですか?」
「いくら強くなりたいからといっても、普通はそんなことをしないでしょう。明らかに異常です」
学生時代の成田の行状を知っていたせいで、さもありなん、と思ってしまっていたが、一般的に見れば奇妙極まりない行為であるのは確かだった。
「それから、箕輪の件は、女遊びが激しかったから、ということではないんですか?」
「だからこそおかしいのです。女性と遊ぶのであれば、危険が伴うことは当然理解しているはずですし、しかも病気にかかって、それを治さなかったのも不可解です。現代の医学では決して不治の病ではないというのに」
そう言われて、あることに気づいた。箕輪、あいつはコンドームをつけていなかったのかな、と思ったのだ。だから性病にかかってしまったのではないか。
「お気づきになられたようですね」
そう言った彼女の顔がまた赤くなっていた。人の考えをいちいち読まないでくれ、と思いながらも、南国の砂浜に咲くハイビスカスのようになった顔立ちを見られたのだからプラマイゼロ、というか、むしろプラスだな、という気がした。
「スミノさんはこの4人の件について『同一犯の仕業』と仰いましたね」
言ったが、それが間違いなのはもうわかっていた。
「別に落ち込まれることはありません。実態に即した含蓄に富んだ言い方で、真相を把握する助けになります。そういうわけなので、これら一連の事件の『犯人』を発表したいのですが、よろしいでしょうか?」
いきなりすぎる。もうちょっと前振りが欲しかった。いや、それ以上にそんなことのできる人間がこの世に存在するのか。成田はともかく、鏡は事故で箕輪は病死だと彼女は言っていたではないか。頭の中が煮え立つのを感じながら思わず身を乗り出した。
「教えてください。一体誰がそんな真似をしたんです」
「誰、というわけでもないのですけど」
よくわからないことを口ごもってから、男爵令嬢は両膝に両手を揃えて置き、座ったまま威儀を正しながら私をしっかりと見た。そして、私も彼女をしっかりと見る。
「人類を超えようとする、人から進化しようとする思想。それがこの事件の犯人です」
(その4 終わり)
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