その3(消えた友人たち)
「いなくなった、ってどういうことですか」
男爵令嬢の声は硬く冷たく、まるで金属で出来ているかのようだった。
「鏡さんが亡くなった、というのは先程伺いましたが、他のみなさんも亡くなられた、というわけではないのでしょう?」
もしそうなら「みんな死にました」とはっきり言っている。いつまでもカップの底にたまったコーヒーの残りを見ているわけにもいかないので顔を上げる。
「ええ。正確に言うと、鏡と箕輪が死んで、成田と天堂が行方不明、ということです」
まあ、と小さめの唇から慎み深く驚きの声を漏らしてから、
「『いなくなった』としても意味が違うわけですね」
と、私の言葉の意味を理解した旨を伝えてきた。久しぶりにテーブルの上に静寂が訪れ、外の通りからクラクションのかすかな音が通り過ぎた。
「差支えがなければ、詳しい話をお聞かせ願えませんか?」
ここまで来て何の差支えもあるはずもないのだが、それでも彼女がそう聞いたのは、幼少期から厳しく教え込まれてすっかり身についた礼儀によるものであり、また私の話が重要な段階に来ている、と感じたせいでもあるのだろう。
「はい。では最初に箕輪の話をします。箕輪が死んだのは今から2年前のことです」
しかし、そこで私が話したのは2年半前の春の出来事だった。出先で仕事を済ませた私は、学生たちで賑わう夕方の街を歩きながら、「そういえばこの辺に来たのは久しぶりだ」と周りを物珍しく眺めていた。ネオンの明かりと陽気で暖められた風に気分が浮き立つのを感じていると、広い歩道を反対方向に歩いてくる男が目に入った。深々と帽子をかぶり、サングラスとマスクで顔を完全に隠している。そして、ゴールデンウィークを目前にしているというのに分厚い黒のコートを身にまとって、この街で一人だけ真冬を過ごしているかのような格好だった。しかも、足の運びがスムーズでない。どこか痛めているのかも知れない。そんな人間を見てもちろん不審を抱いたが、ただそれだけではない、とも感じていた。その感覚がなんなのかわからないまま、男とすれ違いかけたそのとき、突然脳裏に閃くものがあった。
「箕輪じゃないか」
閃いたのと同時に口走った言葉に、私の近くまで来ていた男は稲妻に撃たれたかのように立ちすくみ、こちらを見た。不審だけでなく私は既視感を覚えていたのだ。高校以来会っていない上に、顔が隠れているのに何故わかったのかが自分でも不思議な気もしたが、私はもともと一度会った人間のことをなかなか忘れないようにできていた。それが今の仕事に生きているのは幸いだったが、それはさておき、男の反応が私の呼びかけが間違っていないことを証明していた。
「久しぶり。どこか具合でも悪いのか?」
一歩近づこうとすると、一歩遠ざかられた。「うう」「ああ」とマスクの陰で声が漏れているのが聞こえた。恵まれたルックスで快活だった男がこんなおどおどした態度をとるのを意外に思い、それ以上に気の毒に思って、詳しく話を聞こうとしたそのとき、スーツのポケットの中で携帯電話が鳴った。上司からの連絡なので出ないわけにはいかず、箕輪に待っていてもらうよう頼もうとしたが、そのときには既に私から離れて歩き出してしまっていた。やはりどこか覚束ない足取りのまま、旧友は人混みの中へと消えていき、それが私が箕輪を見た最後だった。
それから半年が過ぎ、秋の初めの休日に、高校の柔道部の後輩から電話がかかってきた。彼とは高校以来途切れることなく連絡を取り合っていた。お互いの近況を伝え合い、他愛のない話をいくつかしたところで、電話の向こうの声のトーンがやや落ちたかと思うと、
「そういえば、スケコマシが死にましたよ」
と言ってきた。スケコマシって誰のことだ、と聞き返すと、
「ほら、先輩と同じ学年にいたあいつですよ」
と言ったので、箕輪のことだと気が付いた。まさか。ショックで視界がぶれる。
「そうです。そのミノワですよ」
1学年下の後輩が入学したころには、私は箕輪とも距離を置いていたから、私たちが友人だったことは知らないようだった。わざわざ説明する気も起きないまま適当に話を合わせているうちに、箕輪の死因が腎臓の病気だったことや、友人が多かったにもかかわらず葬儀を身内だけで済ませてしまったことなどがわかった。
「病気かよ」
思わずそう口走っていた。てっきり事故か事件に巻き込まれたと思っていたら違っていた。まだ30にもなっていないのに、少なくとも私と一緒にいたころには健康そうに見えたのに。
「俺、正直言ってあの人のことむかついてたんですよ。いつでもどこでもいかに自分がもてたか、って話しかしなくて。何様だって。でも、こうなっちゃうとむなしいっすよ」
後輩の言葉に同意してもよかった。だが、その時の私の頭は、あの春の夕方にわずかな時間すれちがった箕輪の姿で占められていた。追いかければよかった。あの時、もう病気は進行していたはずなのだ。私にそれを癒せるはずもないが、それでも話を聞くなり何かしらできることはあったのではないか。
後輩との通話が終わると、すぐに鏡に電話をかけた。あいつは箕輪の死を知っていて「残念だよ」とだけ言った。どうして教えてくれなかったのか、と尋ねると、
「彼の家族がそっとしておいてほしいみたいだったからさ。だから、ぼくも葬式には行ってないんだ」
そういうことなら受け入れるしかないのだろう。鏡に話を聞いていなければ、箕輪の実家までお悔やみに行っているところだった。それからさらに事情を尋ねてみたが、旧友にビジネスライクかつ冷静な口調で当たり障りのない話をされるのが嫌になって、途中で電話を切ってしまった。
「病気なら仕方がない、と思いたいんですけど、箕輪の件はいまだにぼくの中では上手く消化しきれていない、という気がします」
墓参りに行きたかったが、墓の場所もわからず、決着をどうつけていいのかもわからなかった。しかし、それよりも今一番気になるのは目の前のうら若き女性が動かなくなっていることだ。俯いているせいで表情も見えない。厳密に言えば、細い肩はかすかに震え、その震えが栗色の髪を揺らしている。わすかな動きがなければ、宗教画から抜け出してきた天使と見間違えていたかもしれない。
「えーと、このまま続けてもいいでしょうか?」
無理矢理話を戻そうとしてみる。すると、ぴたりと止まっていた両手がゆっくりと黒い毛糸を再び編み出した。どんなリアクションだよ、と思ったが、一応話を聞いてはいるようなので、突っ込みはいれないことにした。そして、箕輪に続いて成田の話に入った。
成田が行方不明だと判明したのは去年の冬なので、もうすぐ1年になる。実際は秋から姿が見えなかったらしいのだが、あいつは独身の一人暮らしでしかも定職についていなかったので、消息を絶ったとしてもそれに気づく人はいなかった、ということのようだった。
それが発覚したきっかけは、ある警察署の取調室でのことだった。暴力組織の末端のそのまた末端に籍を置くチンピラがつまらない事件で捕まり、つまらない事件なので刑事たちも熱が入らないまま事情聴取を続けているうちに、一人の刑事が妙なことに気づいた。そのチンピラは顔も服装も頭の中身も法で定められたかのようにいたってチンピラらしく出来上がっていたのだが、ただひとつだけ左手にはめた腕時計だけはチンピラらしからぬ高級品だった。なるほど、時計には金を惜しまない一点豪華主義者なんだね、という性善説を採る人間は取調室はもちろん署内全体でも居はしなかった。間違いなく犯罪に関わりがある、と睨んだ刑事がチンピラをごく穏便に脅して時計を提出させると、腕時計の裏蓋に刻まれていたイニシャルから、それが以前成田が注文した特製の品だとわかるのに時間はかからなかった。
ところが、警察が成田に連絡を入れようとしても居場所がわからない。携帯電話はつながらず、自宅も長く留守にしていた。実家に問い合わせても、もう何年も寄り付いていない、と家族らしい親愛さの感じられない答えしか返ってこなかった。そうなると、実は事態は深刻なのではないか、と警察も考え始めていた。なにしろ時計を持っていたのは末端のさらに末端とはいえ暴力組織に属する人間である。成田が何らかの事件に関わっている可能性もある、と考えた刑事たちはチンピラを打って変わって熱を入れて取り調べたが、そこでもチンピラはチンピラらしくもなく口を固く閉ざしてしまったので、成田の行方を聞き出すことはできなかった。チンピラは明らかに何かを恐れ、怯えていた。その怯えぶりに「ただごとではない」と刑事たちは確信したが、その真相をつかめないまま、チンピラは署から護送されていき、今は刑務所に収監されている。名家の息子である成田が金銭関係か女性関係でトラブルに巻き込まれたのではないか、という見立てのもとに捜査も進められたが、その線から有益な情報が得られることはなく、いつしかそれを調べる人間もいなくなっていた。
「わけがわかりません」
大きく溜息が漏れた。3杯目のコーヒーの必要性を感じていた。
「あまりにも事実が分からないので、逆に暴力団の不正に関わって日本にいられなくなったから高跳びしたんじゃないか、とか、成田と幹部に仲がいいからあのチンピラも黙秘したんじゃないか、という説も出ましたが、でもそれは有り得ません」
熱が入ってきて思わず木製のテーブルを叩きそうになったが、自分の手を痛めるのがオチなのでやめておく。
「あいつは品行方正とは言えない男でしたが、ヤクザとかそういう存在を嫌っていました。少なくとも反社会的なものに自分から関わるとはとても思えないんです。まあ、自分から積極的に不良に喧嘩を売っていたりはしましたが」
友人を擁護しようとしたつもりができていないことに気づいて、そこで言葉を止めたが、お嬢様の動きがまた止まってしまっているのも気になっていた。これはさすがに何かを言った方がいい、主人の間違いを家来は身を呈してでも止めるべきなのだからと考えてしまって、いや、彼女に仕えているわけじゃないんだから、と急いで自分の中に訂正を入れた。高貴なオーラに圧倒されてつい卑屈になってしまうらしい。ともかく、失礼な態度を注意しようとして前を向いたその時、乳色の顔がはっきりと見え、閉じられた目もよく見えた。そして、伏せられたおかげでより長く濃く見える睫毛が細かく激しく動いているのもしっかりとわかった。そうか、ちゃんと聞いてくれているんだ、と自分の誤解に気づいていた。あの睫毛の震えは彼女の脳細胞が活発に動き回っていることの表れなのだろう。きっと編み物にも私にも気が回らないくらい集中しているのだ。
「わかったおかげでわからなくなったのです」
あの言葉をまた思い出していた。その意味を知りたかったし、彼女がたどり着いたという鏡の死の真相についても聞きたかった。ならば、私にできるのは最後まで語り通すことだけだろう。意を決して、しっかりと椅子に座り直した。
「では、天堂の件についてお話しします」
小さな形のいい頭が揺れたのは頷いたためだろうか。とはいうものの、その話をするのは気が進まなかった。他の3人よりもずっと不可解なケースで、上手く整理をつけて話をできる自信は全くない。それでも、私には見えないものも彼女には見えるのではないか、と信じたかった。
きっかけは約1か月前、天堂の身の回りの世話をしていた50代の女性が警察に相談に訪れたことだった。天堂は就職もせず―大学も出たのだろうか?―親から与えられた豪邸で好きに暮らしていたらしいのだが、洗濯も食事も自分では当然できないので、ハウスキーパーを雇ってやってもらっていたらしい。
「ぼっちゃんがいなくなられてしまったんです」
女性は悩み深い様子で担当した婦警に告げたという。もう1週間も姿を見せていないので心配でたまらず警察を訪れたとのことだった。天堂が姿を消した後でその女性も広い家の中を探し回り、連絡を受けた警察もその後捜索してわかったことは、家の中を物色された様子はなく、何者かが押し入った形跡がないこと、また天堂の身の回りの品もそのままにされていて、自分からどこかに出かけたようにも見えないことだった。傲岸不遜ではあったが、天堂はお手伝いさんを邪険に扱うことはなく、何か変わったことがあればすぐに言ってきたそうなので、「わたしに黙って何処かに行ったりはしない」というのが女性の言い分だった。そこまで聞いていた婦警は弱ったおばさんに同情しつつも「金持ちが気まぐれを起こしたのだろう」という程度に考えてあまり真剣ではなかったのだが、
「すごく変なんです。絶対に何かあったんです」
と女性が天堂の失踪に気づいた時の話をし出すと、完全に困惑してしまったという。一体自分は何を聞かされているのだ、と。
1週間前の朝、いつものように女性が天堂の家までやってきて、玄関の扉を開けると―一応書いておくと、鍵はしっかりかかっていた―、色とりどりの煙が、もわっ、と家中に漂っていた、というのが最初の異変だった。そんなことは今までなかったことだが、天堂が思いつきで突然奇妙なことをしでかすのは珍しくはなかったそうで、「お香でも焚いたのだろう」と自分もアロマテラピーをしたことがあるお手伝いさんはその時はまだ平静を保っていたらしい。色がかなり濃い煙だったので、家具やカーテンに染み付くのを心配した女性は、窓を開け放して換気をすることにした。居間の窓を開けて庭を眺めてから、家の方に向き直ったその時、足元で何か動くのが見えた。視線を落とすとカーペットの上に白い蛇がいた。女性の証言によれば、長さが1メートル以上あるかなりの大物で、赤い目で女性を見上げながら舌をちろちろ動かすと、そのまま滑るように家の中へと姿を消してしまったという。爬虫類が苦手なハウスキーパーさんは硬直して叫ぶこともできずにいたが、「ぼっちゃんに叱られる」とすぐに思い直して、蛇を探して追い出すことにした。動物嫌いの天堂が隠れてこっそり飼育しているはずはなかったから、野生のものか、あるいは別の場所でペットとして飼われていたのが迷い込んだのだろう、と見当をつけてから、30分以上探し回ったが見つからずじまいだった。輝くほどに白く美しい蛇だったが、いくらきれいでも家の片隅でとぐろを巻かれてはたまらない、天堂の本家から誰かを呼んで探してもらおう、と考えを巡らせながら、階段を上がり、2階の半分以上を占める天堂の部屋に入った。この部屋にもガスが立ち込めていて、心なしか1階よりも色が濃い気がした。やっぱり、ぼっちゃんがアロマキャンドルでも使ったのか、と思いながら窓を開ける。毎日掃除をしているので特に散らかった様子はなかったが、神経質な部屋の住人は何かと文句を言ってくるから、ちょっとしたことでも注意しないといけない、と思いつつ、壁際に配置された机の上にも目をやった。
「あらやだ」
わざわざ海外から輸入してきた年代物の樫でできた頑丈な広い机は、右半分をモニターが50インチもあるデスクトップのパソコンが占領していたが、左半分はキリスト像がぽつんと立っているだけだった。その像には女性も見覚えがあった。「死海の近くで作られたものなんだ」と黒光りする石で彫られた神の子を天堂に自慢気に見せられたことがあったが、さっぱり価値もわからないので、「ようございましたね」と適当に返事をしてしまった。その像が濡れている。濡れているだけではなく、液体が像の周りに溜まっている。ぼっちゃんが何かをこぼしたのだろうか。だが、原因はさておきすぐに拭かないといけない。布巾を持ってこないと、と思いながら机に近づいて様子を確認しようとして、女性の口から悲鳴が上がった。遠くでもあり、キリスト像が黒いせいもあってわからなかったのだが、その液体は赤かった。ワインだ、と思い込もうとしたが、そうではないことにも気づいていた。ワインにしては粘り気がありすぎる。血だ。あれは血液以外の何物でもない。霞。蛇。そして、血。確実に何かが起こったのだ。主のいない家の中に女性の悲鳴が響き渡った。
「その時すぐに通報すればよかったんですよ」
自分の耳でも不満気に聞こえる声だった。この話をしている間ずっと頭上の明かりが点滅していた苛立ちも混ざっていたかもしれない。店の配電盤の調子でも悪いのか。
「でも、そのお手伝いさんが慌てて天堂の親に電話を入れたら、『あいつの悪ふざけに決まっている』『家の恥になるから大事にするな』と止められたらしくて」
どうせ聞かれることだろうから補足しておいた。令嬢は依然として静かで動きもしなかったが。
「ただ、警察に相談に来て、しかも血が流れた形跡がある、となると、放っておくわけにもいかなくて、警察官が何人か天堂の屋敷まで行ったんです。で、実際に血液を確認したわけです」
少なからぬ量の血が残っていたとなれば、何らかの事件があったと考えるのが妥当なはずだった。
「ただ、さっきも言いましたけど、それ以外は変わったところはまるでないんです。盗まれたわけでも襲われたわけでもなさそうだ、と。まあ、霞とか蛇とかはありましたけど、でも、それでは警察としても動きようがないわけです」
日本中で姿を消している人間はたくさんいる。天堂だけが特別ではなく、ただ単にいなくなった、というだけでは本格的な捜査は行えなかった。それに加えて、天堂の実家が非協力的だったというのも捜査を行えない理由になっていた。通報を遅らせたことといい、他人の家のことでも家庭の不仲は気持ちを重くさせた。
「ぼくから話せることは以上です」
溜息をつくと自然と頭が下がった。長々と話して疲れたせいもあったが、4人の友人がいなくなった実感が今更ながら湧いてきた、というのが一番大きかった。わけがわからなかった。ただ死んだだけでなく、ただ行方不明になっただけでなく、不可解な要素が多すぎて、とても受け入れられそうもない。自分の頭ではいくら考えても理解できそうにもないのも悔しかった。
「どうしてだよ。なんでだよ」
思わず文句がこぼれていた。それだけでなく感情も胸からこぼれてきて抑えることができなくなりつつあった。涙がこぼれかけたその時、ふわり、と何か柔らかなものが首に巻かれた。驚いて顔を上げると、ルビーがはめこまれた大きな金色のレリーフが目の前に揺れていた。男爵家の後継者の証はやはり金色の鎖につながれて次期当主である女性の細い首から垂れている。私を見下ろす彼女の瞳が微笑みとともに暖かな光をほのかに帯びたように見えたのと同時に、甘くさわやかな香りが鼻を衝いたのを感じ、それで私の心は冷静さを取り戻していた。
「えーと、これは」
首に手をやると、黒い毛糸で編まれたものがあるのがわかった。さっきまで彼女の手元にあったものだ。するとこれは。
「マフラーですか?」
席に座り直した彼女がかすかにはにかんだように見えた。
「お話をしてくれたお礼です。まだ少し早いとは思いますけど」
「いや、そんなことないです。ありがとうございます。うわ、すごいな」
お礼を言ってから、マフラーの手触りを確かめながら眺めてみる。とてもしっかりしていて、これなら漫画のようにバラバラになったりはしなさそうだ。さらによく見てみると、編み目が粗く不統一で、端からは黒く細い糸が何本もぴょこぴょこ飛び出しているのがわかった。
「だから言ったでしょう。ばあやのように上手くはないと。そんな未熟な腕前でこしらえた代物を渡されて、スミノさんにはご迷惑かもしれませんが」
私が粗さがしをしているとでも思ったのか、お嬢様が不貞腐れていた。
「そんなことないです。女の人から手編みのものを渡されるのなんて生まれて初めてだから、とてもうれしいです」
その言葉に嘘偽りはなかった。本当にただただうれしかったのだ。何より彼女が私のために編んでくれたというのに感激していた。マフラーが不出来なのもかえって喜びを増していたのが不思議だった。
「この冬はずっとつけることにします」
私がそう言うと、お嬢様は目を丸くして視線を左右にさまよわせてから、
「あなたは変わってますね」
とだけ言って何故か気まずそうに下を向いた。変わった人に変わっていると言われることで逆にノーマルであると証明されたように思えて、私の浮かれた気分は一向に落ち込むことはなかった。
「ぼくの話、やっぱりあまり気分はいいものではなかったんでしょうね」
「はい?」
彼女の視線が私の方に戻ってきた。
「いや、途中から動かなくなって編み物もやめちゃったし、質問もしてこなかったから、もしかして退屈させたのかと思って」
「ああ、すみません。それはわたくしの子供のころからの悪い癖なのですよ。集中して考え込んでしまうと、周りのことが全く気にならなくなってしまうのです。でも、編み物は少しずつ進めていたつもりなのですが」
そう言われてみると、マフラーの長さは別に短すぎるわけでもなかった。私の目には動いていないように見えたが、ばあや直伝のテクニックなのかもしれない。
「それにスミノさんのお話には気持ちが込められていて、口を挟まない方がよろしいかと思ったのです。ええ、大変興味深いお話でした。スミノさんもつらかったでしょうね。心中お察しします」
雨に打たれて鮮やかさを増す花のように、同情心が彼女を美しく見せていた。きっと喜怒哀楽すべてがこの人を彩るのだろう。
「それで、あの、ぼくからも聞きたいことがあるんですが」
もちろん鏡のことだった。それを聞かないわけにはいかなかった。
「そうですね。今度はわたくしが、スミノさんの4人のお友達についてお話しする番ですね。」
「えっ?」
驚きのあまり、不作法にも声を出してしまった。4人? 今、4人と言ったのか、このお姫様。
「えーと、つまり、それは、鏡だけでなくて」
「はい、箕輪さん、成田さん、天堂さんも入れて4人です」
そう言った彼女の黒い瞳が知的な興奮に突き動かされて、また星空のように輝きだしていた。十字の光も見えたから南半球の空なのかもしれない。
「スミノさんが詳細まで話してくれたおかげで全てわかりました」
男爵令嬢の満面の笑みが、私をさらなる混乱へと導いていた。
(その3 終わり)
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