その2(友人たちの思い出)

「それは一体どういうことですか?」

 言葉に疑念が色濃く浮かんでいるのが自分でもわかった。わかったおかげでわからなくなった、という男爵令嬢の言葉の意味が私には理解できなかった。

「スミノさん」

 疑問を投げかけられても彼女はいたって冷静に見えた。

「あなたはまだ全てをお話になってません」

 そんな馬鹿な。事件について話せることは全部話したつもりだ。

「確かにあなたのご友人が亡くなられた状況についてのお話は伺いました。しかし、それだけではまだ不明な点があります。そんな状態のまま、あなたに説明して差し上げることはできないのです」

 彼女が別に勿体ぶっているわけではないとわかって少し安心したが、それでも私にどんな話を求めているのかわからずに戸惑ってしまう。そんな私を見兼ねたのか、高貴な娘は微笑みとともにアドヴァイスをしてくれた。

「物事を理解するためには引いた視点から眺める必要があります。わたくしにはまだ全体像が見えないのです」

「つまり、ぼくと友人についての話をもっと聞きたい、ということですか?」

「ええ。その通りです」

「でも、子供のころからの付き合いですから、長くなりますよ?」

「それは一向にかまいません。長ければ長いほどいいというものです」

 黒い瞳の中に満天の星空が見えるかのようだった。謎を解く必要だけでなく話を聞く喜びをシンプルに感じているのだろうか。

「それならお話ししますが、その前にひとつだけお聞きしたいことがあります」

「なんでしょう?」

「あなたがどうしてぼくから話を聞いているのかよくわからなくなったんです。最初は見ず知らずのぼくから暇つぶしか何かで世間話をしているつもりなんだ、と思ってましたが、それにしてはあなたは真剣すぎる、と話をしているうちに思えてきたんです。何か他に目的でもあるんですか?」

 口元に添えられた指の白さで鮮やかさがより引き立った紅い唇が笑みを描いた。

「スミノさん、どうやらあなたを困らせてしまったようですね。申し訳のないことです」

「いえ、別に謝らなくてもいいんですけど」

貴族的な女性に謝られて恐縮してしまう。

「しかし、わたくしは初めからいたって真剣なつもりなのです。あなたの仰る通り、これは暇つぶし、退屈しのぎと捉えられても仕方のないことです。仕事と呼べることではありません。しかし、たとえ遊びでも、いや遊びだからこそ、真剣にやらなくてはならない、というのがわたくしの信条なのです。何事もおろそかにせず全力で取り組みたいのです。まして、今はあなたの大切なご友人の話をしています。ここで真剣にならなくて、いつ真剣になるというのでしょうか」

 ノブレス・オブリージュ。高貴なる者が負う義務、というものがある、と言葉だけなら知っていたが、目の前にそれを体現しようとする人間がいた。もちろん、彼女が身分を偽っている、などという疑いはだいぶ前に消えていたが、ああ、やっぱり彼女は貴族なのだ、と改めて痛感させられていた。

「わかりました。それならぼくも真剣に話をさせてもらいます」

ふふふ、とそよ風のような笑いがテーブルの向こうでこぼれた。

「はい。これはわたくしとあなたの真剣勝負、というわけですね」

 彼女の伝家の宝刀に私のなまくらがどこまで通用するか、はなはだ心許なかったが、それでも真剣な思いには真剣な思いで応えたかったし、死んだ友達に対しても真剣でありたかった。そんな風に気負っているところへ、いきなり目の前にホットコーヒーが置かれたので驚いてしまう。ウェイターがお嬢様の前にも私と同じ飲み物を置いていく。

「長丁場になりそうなので頼んでおきました」

 いつの間に。おそらく、私の咽喉が乾いていたのもお見通しだったのだろう。まったく、この人にはかなわないな。でも、彼女なら私の疑問を何とかしてくれるかもしれない、という思いもあった。

「それでは、お話ししますが、最初に言っておきたいことがあるんです」

「なんでしょう?」

淹れたてのコーヒーの湯気で霞んでも美貌はやはり美貌だった。

「ぼくの友人の名前をまだ言っていなかった、と気づいたので。鏡、というんです」

「カガミさん、ですね」

見目麗しい人に名前を覚えてもらってあいつは喜んでいるかな、と感傷にとらわれつつも話を始めた。


 私と鏡は小学生の頃からの付き合いだった。といっても、本格的に仲が良くなったのは中学に入ってからだ。鏡は文句なしの秀才で、新しい学年になるとクラスの委員長を自動的に割り当てられるほど周囲から一目置かれていたが、私も勉強は比較的できた方だったので、それでいつの間にかお互いを認め合う関係になっていた。友達になってみると、鏡がかなりの心配性だとすぐにわかった。「鍵をちゃんとかけたか」くらいなら一応は理解できたが、「世界が滅んだらどうしよう」「地球が爆発したらどうしよう」というのにはさすがについていけなかった。そんなこと心配してもどうしようもない、と言いたくなる壮大な悩みに本気になっているのも人より頭が良すぎるせいだろう、とそんな鏡に当時の私はなんとなく敬服したものだった。共に都心の男子校に進学が決まった際には、家の近くのファストフード店で「一緒に頑張ろうな」と健闘を誓い合ったものだった。

 しかし、高校に通うようになって私はすぐに間違いに気づいた。鏡はそれまでと変わることなく成績上位に名前を連ねていたが、私の方は学年の中間よりも下、気分としてはどん底より少し上くらいで安定して、入学からしばらく経ってもそこから上がることはなかった。何故だ、と私はショックを受けたが、考えてみれば当たり前の話で、東京やその近県の成績上位者が集まる進学校でそれまでと同じように行くわけがないのだ。本物だった鏡と見せかけだった私の差が出たに過ぎない、というわけだ。別に勉強ができるのを鼻にかけていたつもりはないが、むしろできるのが当たり前だと思っていたからこそダメージは深く、私は勉強に身が入らなくなり、したがって成績も上がらない、という悪循環に嵌まり、かといって登校拒否をするわけにもいかなかったので、なんとなく入った柔道部での活動のために学校に行く、というある種倒錯した高校生活を送っていた。


「田舎のねずみと都会のねずみ、という話がありますよね?」

「イソップ物語の、ですか?」

 突然話題が変わっても、お嬢様は編み針を、ちくちく、ちくちく、と動かし続けている。

「あの話を聞くと、高校の頃を思い出すんです。田舎で満足していたらよかったのに、わざわざ都会に出てきつい思いをしてしまった、って。ぼくも田舎のねずみのようだ、って」

「あら。わたくしには、田舎のねずみさんは今は都会でも立派にやっておられるように見えますけど」

 さも可笑しそうに笑われて顔が熱くなる。身分が違うとはいえ、年下の娘にからかわれるのも癪な気分だ。

「あの、こんな話をして役に立ちますかね?」

 今のところ鏡の死につながる情報を彼女に提供できたとは思えないが、

「役に立つかどうかはこちらで判断しますから、どうぞお気になさらずに続けてください」

 ぴしゃり、と言われた。それも、洋館の重い鉄の扉を閉めるかのような「ぴしゃり」だ。仕方なく話を続けることにする。


 そういう事情もあって、私は鏡を避けるようになってしまっていたのだが、鏡の方はまるで気にすることもなく、ある日の昼休みに学食で私に「一緒に食べよう」と声をかけてきた。断るのもおかしいので誘いに乗ることにすると、鏡と同じテーブルには既に先客が2人いた。「紹介するよ」と昔からの友人は言ってくれたが、どちらも学校の有名人だったので私も顔と名前は既に知っていた。

 箕輪は学園きってのプレイボーイ―これは死語なのだろうか?―だった。近隣の女子校にガールフレンドが複数いて、他にも芸能人や人妻とも交際しているとの噂だった。いざ面と向かってみると、男でものぼせてしまいそうになるほどの美男子で、噂は事実なのだ、と思わざるを得なかった。

 成田は学校でも恐れられている存在だった。高校1年で既に190センチ近い体格を誇り、腕っぷしも滅法立つという評判だった。一度だけ、成田が数人の他校の不良に絡まれているのを下校途中に目撃したことがあるが、あっという間に全員をのしてしまったので、助けに行くまでもなかったし、もし行っていたらかえって邪魔になっていただろう。

 そんな2人と鏡はすっかり打ち解けている様子だった。旧友が順調な学園生活を送っているのを見て、我が身を省みて落ち込むばかりで、昼食の箸も進まずにいたのだったが、箕輪と成田は何故か私を気に入ってくれたようで、積極的に話しかけてきた。それどころか、

「今度、天堂のところに一緒に行こう」

 と箕輪が誘ってきた。それこそ学校一の有名人じゃないか、と16歳の私は津波の前兆のように心が引いていくのを感じていたが、断るわけにもいかずに曖昧に頷き返していた。

 天堂に会いに行ったのはその次の週の昼休みだった。他の3人と一緒に校舎の最上階の広々とした空き教室まで来ると、天堂は一人で机に向かって昼食を食べていた。正月でもないのに三段の大きな重箱に入った弁当だった。

「君が角野か」

 黒いフレームの角張った眼鏡の奥から感情のない目で見られて、落ち着かない気持ちになってしまった。天堂が只者ではない、というのは入学してすぐにわかった。私とは別のクラスだったが、背の低い小太りのいかにも冴えない外見の男子が、初日に担任教師をよく通る大声をマシンガンのごとく浴びせかけて泣かせて教室を飛び出させて、名前が響かないはずがなかった。ちなみに、その教師は勤続30年の男性教諭で、それ以降学校には来ていない。頭の回転が速くで弁も立ち、それ以上に傲岸不遜で授業も定期テストも真面目に受けはしなかった。「当たり前にできるとわかりきったことをわざわざやるのは無駄だ」というのが天堂の勝手な言い分だったが、確かにその通りだろう、と周囲に思わせるオーラを彼はまとっていて、口出しできる人間は同級生にも先輩にも教師にも誰もいなかった。

「鏡の友人なら、ぼくの友人でもある。歓迎するよ」

 同学年の男子の悪魔的なエピソードを山ほど聞かされていた私は内心ひそかに震え上がっていたが、意外にも暖かなムードで迎えられた。これなら無事に帰れるかな、と鏡たち3人とともに天堂と一緒に食事をすることにしたのだが、見通しが甘かったのを痛感させられるのに時間はかからなかった。確かに天堂は私を含めた友人には温かく接してくれた。しかし、食事をしている間、それ以外の全てを果てしなく罵倒し続けたのだ。学校。社会。国家。歴史。世界。そういったこの世の全て諸々を皮肉と悪意でずたずたに切り刻んだ。ほんのわずかに存在したユーモアも私の動揺を収めてはくれなかったが、鏡も箕輪も成田も「いつものことだ」と言わんばかりの涼しい顔で天堂の罵詈雑言に同調している。人生で一番つらい45分間だった。休み時間の終了を告げるチャイムが天使の福音のように感じられたものだが、自分の教室にそそくさと戻ろうとする私の背中に、

「また来なよ」

と天堂の低い声が掛けられたときには、暗い底に引きずり込まれるかのような気持ちになったのが、15年近く経った今でもまざまざと思い出される。


「すごい人もいたものですね」

 あなただって十分すごいですよ、と軽口を叩きたかったが、向かい合った彼女の編み針の運びがあまりに優雅なので、声を掛けるのはためらわれた。桜貝のような可憐な耳にだけはワルツが聞こえているのかも知れない。ライトがバチバチ音を立てて点滅したので、漏電していないか不安になる。

「でも、いくらすごい才能だからといって、あまりにも好き勝手やりすぎではありませんか、その天堂さん」

「彼の親が権力を持っていたみたいで、それも影響していたんだと思います。一度だけ、彼の家に遊びに行ったのですが、門をくぐってから玄関まで5分以上掛かるようなお屋敷で、『すごい家だね』と褒めたんですけど、『これくらいの家ならいくらでも持っている』って、こともなげに返されちゃって。一番広い家は東京ドーム5個分の敷地だ、と聞かされて、そんなに広いとかえって暮らしにくいんじゃないの? と思ったんですけど」

「ああ、それはわかりますね。わたくし個人で大阪ドーム数十個分の広さの別荘を持っていますが、管理が行き届かないのでどうしたらいいのか考えているところです」

「何故、東京ドームじゃなくて大阪ドームなんですか?」

「いえ、近畿地方にある土地なので」

 そこは律儀に合わせなくてもいい気がする。というか、やっぱりとんでもない金持ちなんだな、この人。

「まあ、金持ちの子供に変わり者がいるのは珍しいことではありませんから、天堂さんのような方がいらっしゃっても不思議ではないのかもしれませんね。さあ、先を続けてください」

 今度こそさすがに突っ込んでいいのではないか、と思ったが、お嬢様の命令に逆らうのは怖いので、再び思い出話に戻ることにした。


 最初は面食らっていた私も、昼休みだけでなく放課後、休日と4人に付き合っていくうちにだんだんと楽しくなってきていた。親や教師に逆らおうとする気すら持っていなかった高校1年生にとって、権威を冒瀆する発言や振る舞いはただただ新鮮で興味深いものだった。天堂は事あるごとに「このままでは人類は破滅だ」「世界は滅びる」「強い人間だけが生き残れる」といった極端な発言を繰り返していたが、当の本人はいたって本気なのが伝わってくるので、聞いている側もいつもつい引き込まれてしまっていた。

 箕輪は女性体験を赤裸々に語り、中学まで同級生の女子ともろくに話したことのない私は頭が沸騰しそうな思いをさせられることもしばしばあった。一番記憶に残っているのは、テレビでたまに見かけることもあった女子のアイドルグループを一晩でまとめて相手にした話なのだが、この話を詳しくしようとしたところ、向かいの席の令嬢からにわかに冷気が放出されだした気がしたので、急いで話題を変えることにした。

 成田からはいつも武勇伝を聞かされていた。この巨漢は部活に入らない代わりに、あちこちの道場やジムに行っては稽古を申し込みひと暴れするという迷惑な趣味があって、ある日珍しく顔に青あざを作っていたので話を聞いてみると、相撲部屋に道場破りに行ったそうで、「さすがに関取は強い」と敗北を認めていたが、相撲取りを相手にしてその程度の怪我で済んだ成田の強さを私を含めた他の4人は半ば呆れながらも大いに認めていた。

 そして、鏡といえば、彼は別に毒を吐くこともなく、いつも温和に相槌をうっては、偏差値の高そうな話を時々する、という具合だったので、私としても無理に受けを狙わなくてもいいとわかって、小学校からの友人に感謝したい気がしたものだった。

 

「いいお友達ですね」

 彼女はコーヒーカップをテーブルに置きながら呟いた。

「そうですね。ぼくとしても楽しい思い出はたくさんあります」

「お話を伺っていて、わたくしも楽しませてもらいました。アイドルの話がなければもっと楽しかったと思いますが」

 寒気がしたのはカフェの空調のせいではないのはわかった。どんな話でも聞いてくれるのではなかったのか。

「まあ、楽しい思い出ばかりでもなかったのが残念なんですけど」

 私の口ぶりに何か感じたのか、黒いふたつの瞳が誰もいない冬の湖のように澄んでいくのが見えた。今まで誰にも話したことのない、話したくないことだったが、人影の絶えた湖畔に佇む白鳥になら語ってもいいのではないか、という思いが自然と口を開かせていた。


 天堂たちと一緒の時間を長く過ごしても私は何も変わらないつもりでいたし、変わっていたとしてもそれはいい方向のもので、少し大人になれたかもしれない、くらいの気持ちでいたのだが、それが間違いだと気づかされたのは彼らと付き合うようになって3カ月ほど経った自宅の食卓でのことだった。

 その日も私と父と母、家族揃って夕食を摂っていた。そこで、父が今手掛けている仕事の内容を説明しているのに、つい茶々を入れてしまったのだ。そんな真似を今までにしたことはなかったのだが、天堂たちとの会話ではいつも当たり前にある皮肉っぽい冗談で、あの連中に比べれば全然大したことのないジョークのはずだった。しかし、我が家ではそうではなかった。父の顔色が変わり、まだ全部食べ切っていないというのに、席を立つと自室へと戻って行ってしまった。変なの、と不思議がる私を母が咎めた。

「あなたのために無理して頑張っているお父さんになんてことを言うの」

 それから、母は我が家の置かれている経済的な状況について語り出し、今の高校に私を通わせるために父が趣味を諦めたり知り合いに頭を下げたりしていることを詳しく聞かせてくれた。知らない話ばかりが出てきて私は驚く一方で、「そんなに大変ならどうしてもっと早く教えてくれなかったのか」と逆ギレしそうになっていたが、大変だから教えなかったのだ、というのは16歳の未熟な頭脳でも理解できたので飲み込むしかなかった。それに、父は真面目一方で子供を理不尽に怒ったりしたことのない人で、息子から貶められるいわれなど全くないのだ。過ちに気づいて、すぐに父の部屋に行き謝ると、「わかればいい」と私の顔を見ずに父はそれだけ言った。父は怒りを引きずる人ではないから許してくれたのはわかっていた。しかし、他ならぬ私が自分自身を許せなかった。天堂たちのせいだ、あいつらと付き合っていなければあんなことを言わなかったのに、とその日の寝床で思い込もうとしたが、正確には天堂たちに毒された私のせいなのだ、というのもわかっていた。そして、彼らとこのまま付き合っていくべきなのか、という疑問が私の胸に根付いたのもその夜のことだった。


「恥ずかしいことをしてしまった、と今でも反省しています」

 15年近く前の出来事なのに、今でも頭が上げられなくなってしまう思い出だった。

「失礼ですが、ご両親は今どうされているのですか?」

「幸い、今でも元気で実家で暮らしています。ぼくは離れていますが、なるべく顔を見せるようにはしています」

そうですか、と言って彼女が両手を動かすと、ますます大きくなった黒い毛織物もつられてひらひらと揺れるのが見えた。まだ何を作っているのか判別できない。ブランケットか、セーターか。

「真っ白なシーツに小さなシミがついていると目立ちますよね」

「はい?」

いきなり話を振ってきた。しかも今までとは全く関係がない。

「シミを見つけると、ああ、嫌だな、こんなところに、と気になって仕方ないんですけど、でも、そのシミは普通のシーツだと見つからないんですよ。真っ白だからこそ見つけてしまったんです」

そして、私に向かってにこやかな笑みが浮かべられた。

「あなたはいい息子さんだと思いますよ。いい息子さんだから、ずっと昔のたった一度の口答えをいつまでも気にしているのです」

たとえ話はいささかまわりくどかったが、それ以上に彼女に褒められている、という事実が私を動揺させていた。よく晴れた青空の下で、笑顔の彼女がたくさんの洗い立てのシーツを干している姿が脳裏に浮かんだが、お嬢様が洗濯仕事をするはずもないので、幻であることは明らかだった。

「むしろわたくしの方こそ大いに反省させられました。これまで父にどんな態度をとってきたかを思い返すと、穴に入って閉じこもりたくなります」

 そう言いながらも涼しい顔をしているので、情状酌量の余地はなさそうに見えた。可愛らしく口が達者で自由奔放な娘を持った父親の苦労など私にはとても想像できなかったが。

「それで、天堂さんたちとのお付き合いはおやめになられたのですか?」

「いえ。そんなにすぐにやめられはしませんでした。いきなり関係を断つのはまずいと思ったので、徐々に距離を置こうかと思ったのですが、なかなか理由がみつからなくて。今になってみると、周囲の眼もつい気にしてしまったんだと思います」

「高校生でも世間体を気にするものなのですね」

 あなたはもっと気にした方がいい、と言いそうになったが、あの夜の父のように席を立たれるのも嫌なので黙っておく。

「でも、それは本気じゃなかったからだと思います。本気だったら理由などなくてもすぐにやめていたはずですから。結局、ぼくは天堂たちと遊ぶのが楽しくてやめられなかっただけなんです」

「それなら、本気になったきっかけ、があるのではないですか?」

 ご明察。話を先回りするのはあまり感心できないが、彼女にそれを注意するのは後に回しても構わないだろう。


 食卓での出来事があってから1か月後の休日に、私たちは連れ立ってとあるシネコンまで映画を観に来ていた。天堂の家にホームシアターがあるのだからわざわざ観に行かなくても、という気がしたのだが、当の天堂が何故か行きたがったのでそうすることになった。大丈夫だろうか、と少々不安を覚えていた私だったが、案の定と言うべきなのか、天堂は上映中も映画にブツブツと文句を言い続けていて、2つ隣の私にまでその声は聞こえていたし、周囲がそれを不快に思っていることは関係のない私の座席が後ろから蹴られたことからも明らかだった。せっかく面白い映画だったのに2時間もの間、私はずっとびくびくおろおろし続けてスクリーンに集中できないまま上映は終了した。

 場内が明るくなり、ロビーに出てみると天堂の姿だけがない。トイレかと思っていたが5分経っても戻ってこないので、「見てくるわ」と成田が探しに行くと、それからまた5分経って、ようやく2人が戻ってきた。だが、天堂の外見はひどいものだった。髪も服も乱れ、眼鏡がずれている。

「なんかからまれてたんで助けてきた」

 成田によると、数名の男子大学生にトイレの個室に押し込められていたのを救出したのだという。上映中に騒いだのが原因なのは明らかだった。傲岸不遜な同級生の丸々とした頬が紅潮しているのは暴力を振るわれたせいなのか感情的になっているせいなのか判断できなかった。泣いてもおかしくなかったが、私たちに弱みを見せるのが嫌なのか、懸命に平静を保とうとしているのがわかって、かえって痛々しく感じられた。

 とりあえず私たちは映画館近くのファミレスに入った。鏡と箕輪は「気にするな」「大したことない」と言い、成田は「ボコボコにしておいたから安心しろ」と言って、天堂を落ち着かせようとしていたが、私は彼のプライドの高さを考えると、下手に慰めるとまずい、というのはわかっていたので何も言えなかった。

「よくわかったよ」

 店に入って15分くらい経った頃だろうか、黙り込んでいた天堂がぼそっと呟いた。

「何がわかったの?」

 それまで一言も言えないで若干気まずかった私が聞いてみると、ぎょろっと丸い目がこちらをにらんできた。

「まあ、前から考えていたことだけどさ、これでよくわかったよ。やっぱり、この世界は一度滅んだ方がいい。それに、今の人類もいなくなった方がいい」

 おいおい、と思ったが、声は真剣そのものなので迂闊に突っ込むわけにもいかなかった。それから天堂の演説が始まった。科学技術の発達は既に限界に差し掛かっていて、地球上を開発しつくし、宇宙にも活路を見出せない以上、この世界に未来はないのだ、と。

「じゃあ、ぼくらにも未来はないってこと?」

 鏡がドリンクバーから持ってきたメロンソーダを飲みながら聞くと、天堂は小馬鹿にしたような笑いを浮かべた。

「まさか。そんなのはぼくは嫌だね。他の人類がどうなろうとかまわないが、ぼくだけは生き残るつもりさ」

 それから天堂の話したことは今までに聞いたことのないものだった。私の頭脳で理解できた点をなんとか要約してみると、世界を変えられない以上は自分自身が変わるしかないのだ。世界が滅んでもただひとり生き抜く力をつけるべきなのだ。それが天堂のたどり着いた答えらしい。最初私は気分の持ちようでつらい状況も前向きに受け止める、といった一種のポジティブシンキングを唱えているのかと思っていたが、どうやらそうではなく、もっと積極的に自己を改造していく方法を考えているようだった。だんだん私は怖くなってきてしまっていた。天堂のやり方はあまりに自己を変えようとしすぎていて、そこまで変えてしまったらそれはもう自分自身とは言えないのではないか、と思ったが、それは大人になった今だから明確に言葉にできたのであって、当時はただただ動揺することしかできないでいた。それに加えて、私が嫌になったのは他の3人の態度だった。箕輪は「醜い人間は全員死ねばいいよ」「きれいな人間だけを集めてハーレムを作るんだ」と言い放ち、成田も「弱いやつが生き残れなくてもしょうがない」「おれは世界最強の人間になる」とあっけらかんと言い、そして鏡も「そうだね」と天堂の言葉に笑って頷いている。優れた人間だけが生き残り、そうではない人間はいなくなってしまってもかまわない。そんな思想をみんなで是認しているので、私の方がおかしいのか、と思ってしまいそうになっていた。

「なあ、角野。君もわかってくれるよな?」

 天堂ににらまれて私は反論もできずに「まあね」と意気地なく曖昧に頷いてしまったが、私に向けられた眼に失望あるいは侮蔑が浮かんだのが確かに分かったので、その時ようやく彼らから離れる決心がついていた。もしかすると、以前からそう思われていたのにようやく気付けただけなのかもしれなかったが。


「ひとつ思ったのですが」

 毛糸を編む手をペースアップさせながら目をつぶったまま彼女が訊ねてきた。

「なんですか?」

「それはいわゆる『中二病』というやつじゃないですか?」

 妙な言葉を知っているな、と思っていると、

「以前、腐女子の方から教わったんです」

 妙な人から教わったのがわかった。その知識、ためになっているのだろうか。

「そう言われるとそうかもしれませんけど、『中二病』って面白おかしい笑える部分があるじゃないですか。でも、あの時の天堂は本気だったんです。しかも、自分を変える具体的な方法まで詳しく説明してくるから、とても笑えるような状況ではなかったんですよ。ただ、ぼくの頭ではとても理解できないような話でしたけど、今考えると一種の自己啓発セミナーみたいな感じだったのかな、と思いますけど」

ふうん、とお嬢様はあまり気乗りのしないような態度をした。

「でも、それでようやく天堂さんたちとのお付き合いをおやめになったのですね?」

「ええ。『成績が落ちていて進級が危ないから勉強したい』とか『柔道部でレギュラーになれそうだから頑張りたい』とか理由をつけて離れるようにしました」

「向こうの反応はいかがだったのですか?」

「特に何もなかったですね。ただ、距離を取ってから気づいたんですけど、ぼくと彼らでは最初から世界が違ったな、と。」

「世界、ですか?」

「ぼく以外はみんな立派な家庭なんです。天堂は言うまでもないし、箕輪の父親は大企業の社長で、成田は鎌倉時代あたりから続く名家の出身で」

「鏡さんのご家庭も裕福だと言ってましたね」

そんなこと言ったか? と思ったがそういえば言っていた。記憶力もいいらしい。

「だから、みんなはある程度身分が保障されていたんですよ。現に天堂は学校で無茶苦茶やっていても許されていましたから。でも、ぼくはそうじゃなかった。頑張らないと将来はなかったし、父と母の苦労を無にしてしまう。それだけは嫌だったんです」

 ご立派だと思いますよ、と向かいの女性は褒めてくれたが、しかし、連中から離れてしばらくたったある日、成田とたまたま会った時に「あんな弱い柔道部で頑張る意味はあるのか?」と言われたことは忘れられない。頑張ろうとする、あくせくする私を下に見ていたんだろうな、と思うと気が重くなる。15年近く前の事なのに新鮮な痛みだ。

「あ、そうだ。そういえば前に鏡と話したことがありました」

痛みに記憶が呼び覚まされた格好だったが、その記憶もまた痛みをいくらか伴うものだった。


「あの時は悪いことをしたね」

社会人になったばかりの春だった。二人で飲みに出かけた時に鏡にいきなりそう言われた。

「あの時?」

「ほら、高校の時にぼくがきみを天堂たちに紹介したじゃないか」

「ああ、あったな、そういうこと」

実際私はそう言われるまで天堂たちのことを忘れかけていた。大学受験、大学生活、就職活動、そういった時間の中で高校での出来事は早くも忘却に沈みかけていた。

「あれさ、本当は天堂に言われてやったんだ」

「ぼくを誘って来い、って?」

「いや、そうじゃなくて」

そこで鏡は黙った。居酒屋のカウンター席に似つかわしくない暗い表情だった。

「『なるべく普通のやつを連れてこい』、そう言われたんだ」

一瞬何を言われているかわからなかった。ビールに手を出していいかもわからない。

「ぼくが普通、ってどういうことだ?」

「要するにさ、あの集まりは、天堂も箕輪も成田も、それにぼくも、みんな出来るやつばかりだっただろう? 違う人種を入れないと発展性がない、と天堂が考えたんだ。だから、そうじゃない平凡な人間を仲間にしたい、という話だったんだよ」

 その「平凡」は言葉通りではなく、もっと別の意味だろう、と言おうと思ったし、腹を立てるべきかと思ったが、何故か感情は動かないままだった。

「ふうん、『普通』ね」

その言葉に何を感じ取ったか知らないが友人は目に見えて慌てていた。

「結局、きみはぼくらのところに来るのをやめちゃっただろ? きみにつらい思いをさせたんじゃないかとずっと気になっていたんだ。ごめん」

 長い付き合いだったが、鏡を馬鹿だと思ったのは初めてだった。そんなことをわざわざ言うのも馬鹿だし、私の気持ちを誤解しているのも馬鹿だった。

「いや、謝らなくてもいいよ。全然気にしていないって。っていうか、ぼくはあの頃楽しかったんだけど。お前が考えているのと逆だよ」

本当か? と鏡の顔が綻んだのを見て、咄嗟に女性関係の話を振ったので、その夜はそれ以上その話題には触れなかったし、それ以降も鏡と高校時代の話をすることはほとんどなかった。鏡が天堂たちと付き合っているのはわかっていたが、それは私がどうこう言うべきことでもないので、やはり話をすることはなかった。


「スミノさんはよくよく人のよろしい方なのですね」

 テーブルを挟んだ向こうで不穏な気配があった。まるで獲物にとびかかろうとする雌豹がいるかのようだ。

「気になっていたのですが、何故鏡さんとずっと友達のままだったのですか?」

「え、いや、だって、小学校からの付き合いで」

「そうだったとしても、鏡さんも天堂さんと同じように弱い人間を見捨てる考え方の持ち主で、しかも友人であるあなたを陥れるような人ではありませんか。何故怒らないのか不思議でなりません」

「いや、でも、本当にいいやつなんですよ。確かに天堂といる時はおかしかったかもしれませんが、ぼくと2人のときはそうでもなかったし、それにあいつから見てぼくの方にも欠点はあっただろうから、お互い様ですよ。別にぼくの性格がいいわけじゃないと思いますよ」

「お人よしめ」と対面の白い貌に大きく書かれているのが見えたので、全くもって説明になっていないのはわかった。だが、鏡を嫌いになったことが一度もないのは事実なので、嘘は付けない。

「でも、ぼくは鏡だけでなく天堂たちのことも悪く思えないんですよ。その理由があるんです」

令嬢の手がぴたりと止まる。何かを感じ取ったらしい。

「理由というのは、いったい何ですか?」

知らず知らずのうちに溜息が出ていた。今の自分は残り滓のようだ、という気がした。

「鏡も、箕輪も、成田も、そして天堂もみんないなくなってしまったからです」


(その2 終)





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