男爵令嬢~謎の美女は安楽椅子探偵?~
ケンジ
その1(令嬢登場)
交差点で信号待ちをしていると、頭上で街灯がチカッと輝いた。すぐに上を見てみたが明かりは消えていた。配線か何かの都合で一瞬だけ点滅したのだろうか。その理由はわからなかったが、おかげで空が暗くなりかけているのに気が付いた。秋になり陽が落ちるのも早くなり、風も日に日に冷たさを増している。コーヒーでも飲んで身体を温めたい、という気持ちが胸の内に芽生えていた。本来なら一刻も早く報告書を作成しなければならないのだが、あいにく私は勤勉さを学生時代に使い果たしてしまっていた。明日できることは明日やればいいのだ。そして、実は街灯を見上げた時に通りの向こうにカフェテラスがあることに気づいていた。もう、これは運命だな。信号が青に変わると、当初予定していた進行方向から逸れてふらふらと店の中へと入りこんでいく。
その店はオープンカフェなのだが、別に外で飲みたい理由もないので、レジで注文を済ませてから店内の奥まった席に座ることにした。椅子に腰かけると程なくして男性店員がブレンドコーヒーを運んでくる。こだわりもなければ違いも分からない男なので、コーヒーでありさえすれば別に構わなかった。一口二口飲んだところで光が瞬くのを感じた。視線を動かすと、それほど高くない天井からはシェードのついたLEDライトが何事もなかったかのように暖色の弱い光を投げかけているのが見える。さっきの街灯といい、近所で電気工事でもやっているのだろうか。ライトは私の座席の真上にあるわけではなくやや右上にある。そのまま視界を下げていくと当然私からはまっすぐ右の方が見えるわけだが、そこに座席があって、しかも既に人がいたことにその時になってようやく気付いた。
店の片隅に座っていたのは若い女性だった。背筋をぴんと伸ばして白磁のカップに口をつけている。意識的に姿勢を正しているわけではなく、自然とそうなっているように見えた。カップを音もなくテーブルに置いた拍子に彼女の長い髪がかすかに揺れる。栗色のゆるく波打つ髪。柔らかそうに見えるが、迂闊に触れば深くからめとられる、そんな気がした。ロングスカートはクリーム色、肩に巻いた若草色のショールの下にはワイシャツが見えるが、生地の輝きはそれが特別であることを周囲に知らせているかのようだった。少なくとも私が今着ている2枚組2980円のやつとはわけが違うのは確かだ。ぱっと見ただけでも彼女が特別な人だというのはすぐにわかったし、ぱっと見るだけでは満足できずに思わずじっと見つめてしまっていた。しかし、見知らぬ女性を長く眺めるのは失礼だ、という社会常識も一応は知っていたので、苦労しながら彼女から視線を外そうとしたその時、頭上の明かりがまた点滅した。
驚いて声を上げてしまったらしい。しかし、それを恥ずかしく思わなかったのは、私の声に反応したのか、彼女がこちらを向いて、その顔がはっきりと見えたからだ。清らかでありながらみずみずしい活力も感じさせるほのかに光る白い肌。瞼ははっきりとした二重で、そのせいでいくらか眠たげに見えたが、大きく円い瞳には淡い光がたたえられていて、彼女が確かに目覚めているのがわかる。鼻の高さと形は「ちょうどいい」としか言いようがなかった。誰かは知らないが、彼女の容貌の造形を担当した者も、計算ずくで仕上げたわけではなく、無意識のうちに最高の仕上がりを見せた、そのような感じだ。そして、春を告げる小鳥のくちばしを思わせる唇はかすかに開いている。長々と形容しようとしてきたが、結局のところ「美しい」としか言いようがなく、これまでの人生でそのような美しさと遭遇したことのない私は黙り込んだまま彼女の顔を見つめることしかできずにいた。まずい。ガン見してしまっている。普段は使わない若者言葉が飛び出すあたりに自分自身の動揺を感じてしまったが、それでもなお動けずにいると、私の視線など気にしない様子で―おそらく男どもの露骨な眼には慣れているのだろう―彼女はゆっくりと微笑んだ。
「どんな話を聞かせてくださるのかしら?」
一語一語がはっきりと聞き取れる、やや高めの声が私の鼓膜を震わせた。しかし、そもそも話をしてくるとは思わなかったのに加えて、予想外の言葉に固まってしまう。どういう意味だ? まさか、いわゆる「逆ナン」などではないだろうが。
「えーと、それは一体、どういう」
「あら。ごめんなさい」
右手で口元をおさえて、一応は気まずそうな態度をとったものの、あまり気まずそうには見えないにこやかな表情で彼女は話を続ける。
「わたくし、お知り合いになった方からお話を聞くのが趣味なのです」
「はあ」
そう言われてもまだ意味がわからない。それ以上に「わたくし」だ。年配の女性がそう名乗るならまだわかるが、彼女はどう見ても20代だ。しかし、それでいて、その一人称に違和感がないのにかえって違和感があった。それに、たまたまカフェで隣り合わせで座っただけの人間を「知り合い」に含めていいものなのか。とはいえ、こんな大チャンスをスルーできるほど私は臆病でもなかった。勇気を奮い起こして尋ねてみる。
「あの、どんな話を聞きたいんですか?」
「そうですね」
彼女が天井を一瞬だけ見上げてから、私の方へと目を戻した。
「わたくしはよく知らないのですが、『すべらない話』というのがあるらしいですね?」
「ああ。テレビでたまにやってますね」
「うちにはテレビがなくて見たことはないのですが」
ん? それはどういうことなのか。テレビを買えないくらい貧しい家庭、ということなのか、ニュースでよく見る「最近の若者のテレビ離れ」の具体例、ということなのか。そんな些細なことまで気になるくらい、目の前の女性に興味津々になっている私をよそに彼女は話を続ける。
「ああいうのはあまりよくないと思いませんか?」
「と言いますと?」
「ほら、『すべらない話』という時点で、絶対にすべるなよ、笑わせろよ、とハードルを上げているじゃないですか。そういうのは話をする方にも聞く方にもプレッシャーがかかって、会話を楽しめないと思うのです」
「はあ」
言っていることはもっともだと思えたし、この流れなら「すべらない話」を要求されることもないだろう、と安心していると、
「わたくしが聞きたいのは、むしろ『すべる話』なのです。笑えない、要領を得ない、意味が分からない話が聞きたいのです」
それはそれで難しいだろう。逆の意味でハードルを上げてしまっている。相手の表情に困惑を見て取ったのか、
「あ、そんなに深く考えなくてもよろしいのですよ。あなたが今一番気になっていることをそのまま話してくれれば、それでいいし、そういう話が聞きたいのです」
彼女は少し慌ててそう付け加えた。ここに至って、私はこれは何らかの勧誘なのではないか、という可能性に思い至っていた。マルチ商法か宗教か自己啓発セミナーか。そうでもなければ、こんな若く美しい人が中年に差し掛かりつつある冴えない男に自分から声をかけてくることなど有り得ないではないか。見え見えのトラップだ。ただ、だからといって、急いで逃がれるには囮が魅力的すぎた。いいだろう。しばらくは付き合うことにしよう。今度は私から美貌の罠へと進んで向かっていく。
「あの、すみません。少しの間、話をさせてもらってもいいですか? そうしているうちに何か思いつくかもしれないので」
「ああ、確かにそれはいいかもしれませんね。では、一緒にお話してみましょうか」
彼女の笑顔には邪心が全くうかがえなかったが、しかし、全くの善意が人を陥れることは珍しくもなんともない。警戒心を保ちながら話し始める。
「ぼくは角野といいます。今はとある役所で働いています」
「はい。スミノさん、ですね」
それからひとしきり個人情報を呈示してみせたのは、そうすれば彼女も自己紹介してくれるのではないか、と考えたからなのだが、白い貌は何も言わずに、ただにこにこにこにこと笑っているだけだった。物々交換ではなく私から一方的に貢物をした格好だ。ガードの堅さに闘志が湧き起こってくるのを感じたが、悪行を暴こうとしているのか、一人の女性を口説き落とそうとしているのか、自分では明確に区別はできなかった。とにかく手がかりをつかんでやるぞ、と勢い込んで口を開こうとしたその時、彼女の胸元に光るものが見えた。大きな金色のネックレスだ。ピンポン玉ほどもある真っ赤な宝石―ルビーだろうか?-を中心にして、蛇がとぐろを巻き、自らの尻尾をくわえこんでいる。ウロボロス。確かそういう名前の伝説上の生き物がいた。あんな目立つものを、どうして今まで気づかずにいたのか。
「これですか?」
私の沈黙の理由に気づいたのか、彼女は右手で黄金の飾りをそっと持ち上げた。
「あ、すみません。珍しいアクセサリーだな、と気になっちゃって」
「わたくしもこんなものをぶら下げて外に出たくはないのですが、しきたりなので仕方がないのです」
しきたり? やはり特殊な宗教が関係しているのか。
「これは男爵の後継者の証です」
「は?」
驚きのあまり大声を出してしまったが、彼女は気に留めない様子で話を続ける。
「これを常に肌身離さず持っていなければならない、というのが先祖代々続いてきた決まりなのですが、変な目でじろじろ見られてしまうし、それ以上にださくて全然わたくしの好みではないのです」
ファッションを気にするのは普通の女性みたいだ、と思いながらも、それ以外は全くもって普通ではなかった。汗まみれの手のひらを握りしめながら聞いてみる。
「あの、ということは、あなたはつまり」
いくらか照れくさそうな笑顔で彼女は答えた。
「はい。わたくしは男爵家の跡取りです」
警戒に警戒を重ねていたというのに、その言葉を私は疑うことなく素直に受け取っていた。なるほど。彼女の存在に気づいてからずっと感じていた、どこか浮世離れした佇まいの理由にようやく気付けたように思えた。納得を得られて心が軽くなった私とは逆に、男爵令嬢はため息をついていた。
「正直、馬鹿馬鹿しいとも思うのです。今の日本では貴族制度なんて存在していないのに、いつまでもそんなものにこだわっているなんて」
そう言われてみると確かにその通りだ。高校の社会科は地理を選択したので日本史の知識は薄いのだが、確か戦後になって「法の下の平等」に反する制度は廃止されたはずだった。
「いや、そんなことはないんじゃないですか? 家でも何でも長く続くというのはいいことだと思いますよ」
「そう言っていただけるのはありがたいのですが」
私のフォローでは彼女のため息を止められないようだった。色が付きそうなほどになまめかしい吐息を止められなくても別に悔いなどなかったが。
「貴族、というのはまだいいとしても男爵、というのがちょっといただけません」
「はあ、男爵、ですか」
「ええ。男爵芋とかほら男爵とか、スマートさに欠けるでしょう?」
当事者にしかわからない悩みと言うべきなのだろうか。まるで共感できなくて申し訳なくなってくる。
「しかも、わたくしが当主になった暁には『女なのに男爵』などと陰で笑われるに決まっています。今から憂鬱で仕方ありません」
今から数年後のより美しさと凛々しさを増した彼女が女主人として君臨する姿が私の脳裏には浮かんでいたが、それを言ったところで慰めにはならない気がしたし、一人で妄想を楽しんでいたい気もしたので、それとは別に質問をすることにした。
「ご兄弟はいらっしゃらないんですか?」
「あいにく一人娘なので。子供のころから次期当主としての教育を受けて」
そこまで言ったところで、半ば閉じられていた目が大きく開かれて、私の方を見た。猛禽類に狙われた獲物の心持ちを味わう。
「わたくしのことはどうでもいいのです。あなたのお話をお聞かせください。危うく策に嵌まるところでした。スミノさん、あなた、見かけによらずなかなかやりますね」
いや、策も何も、あなたが自分から勝手に話したんじゃないか。しかも、「見かけによらず」って。
「わかってます、わかってます。えーと、そうですねえ」
なんとか考えをまとめようとする。早くしないとお嬢様を本気で怒らせてしまいそうなので若干慌て気味だが、それと同時に彼女の言動を信じている自分が奇妙だとも思っていた。初対面で男爵の娘と名乗られて信じられるものか? もちろん、信じた一番の理由は彼女のまさしく貴族的な立ち居振る舞いなのだが、彼女がさっき言っていた「うちにはテレビがない」というのも信じる材料になっていた。最初私は貧しくてテレビが買えないのではないか、と思っていたのだが、そうではなく逆だったのだ。つまり、彼女が生活するハイソサエティーではテレビという下品で下世話な機械など置く余地がない、ということなのではないか。これは私には身に覚えがあることで、子供の頃に仲の良かった友達の家に行ったら、私の実家よりずっと裕福そうに見えたのに、テレビが置いていなくて驚いたことがあった。友達に直接聞きはしなかったが、彼の両親が厳格な人だったことを考えると、子供の教育を考えたのだろうか、とこちらも子供なりに理由を考えたものだった。あ。
「そうだ」
「どうしました?」
思わず声を漏らした私を彼女が不思議そうに見た。
「思いつきました。あなたに伝える話を」
彼女に伝えたい、と言うよりは私が話したい、というのが正確なところだった。今まで誰にも言えなかった話だ。しかし、聞いたところで決していい気分にはならないだろうし、彼女を不快にはさせないだろうか、と心の中でまだ迷っていたが、
「まあ。嬉しい。待った甲斐がありました」
彼女が喜びのあまり座りながら身をよじらせ、動いたおかげでシャツに包まれた豊かなふくらみの上で後継者の証がぽよん、と柔らかく弾んでいるのを見ているうちに、逡巡はきれいさっぱり消えていた。
「ええ。ただ、その前に断っておきたいことがありまして」
視線がいやらしくなってしまったのを打ち消すために必要以上に真面目くさった態度をとる。
「なんでしょう?」
「なんというかその、聞いて気分がよくなる話ではないんですよ。なにしろ人が死ぬ話なので」
まあ、と一言つぶやいてから、彼女は少しだけ考えて、
「それは構いません。こちらから話をしてくれとせがんだのですもの。それで気分が悪くなったなどと文句を言うのはわがままにもほどがありますから」
そういえば、彼女は「すべる話」を所望していたのだった。それなら期待に応えられるかもしれない。応えすぎてドン引きさせてしまうかもしれないが。
「どうぞこちらへ」
高貴な生まれの娘が自分のテーブルの向かいの席を手のひらを上にして指し示していた。同席を許された、ということらしい。腰を上げて2メートルだけ移動する。無闇にガタガタ音を立てて座る私を見て咎めるでもなく彼女は穏やかに笑みを浮かべていた。テーブルをはさんで真正面から向き合うかたちになり、白く清らかな顔もよく見えるようになったが、嬉しさより緊張感を強く感じていた。姫君に拝謁する騎士もこんな気持ちだったのだろうか。
「それでは、お話をお聞かせ願えますか?」
「わかりました」
話を切り出そうとすると、
「亡くなられたのは誰なんですか?」
先に質問が飛んできた。よほど楽しみにしているらしい。
「死んだのは、ぼくの友人です」
「まあ。それはご愁傷さまです」
そう言いながらも瞳は輝いていて好奇心を隠せていない。とはいえ、それを非難しようとは思わなかった。よく知らない人間の死まで本気で悼んでいたら精神がとても保たないはずだった。
「小学生の時から付き合いのある、仲の良い友人でした。そういう人間がいなくなるだけでもつらいのに、死に方もあまりいいものではなくて」
そこまで言って、胸が苦しくなって話を続けられなくなってしまった。時間が経過して慣れたつもりではいたが、やはりきついものはきつい。
「あの、つらいのなら、無理にお話されなくてもよろしいのですよ?」
「いえ、いえ、大丈夫です。もう話し始めてしまったんだから、最後までやります。やらせてください」
呼吸を整えてから顔を上げる。目の前の女性は痛ましいものを見るかのような眼で私を見て、わずかな時間だけ目を閉じると引き締まった表情になっていた。これまでの柔和な態度からは見違えるようだ。
「亡くなり方がよくない、というのは、たとえば、なんらかの事故に巻き込まれた、ということなのでしょうか?」
「最終的には事故として処理されたようですが、ぼくの中では事件としか思えないんです」
「詳しくお聞かせ願えますか」
まるでレイピアのような鋭さを帯びた声だ。貴族の女の子が下々の人間の話を面白半分に聞く道楽あるいはたわむれにしては真剣すぎはしないか。しかし、それを気にしていても始まらないので話を続けていく。
「友人が死んだのは今から3か月前のことでした。彼は大手のメーカーでエンジニアとして働いていて、とても目覚ましい仕事ぶりで周囲からも高く評価されていると聞いていました。ところが、突然何日も無断欠勤をして、勤務態度が良好だった彼らしくない、と不審を覚えた会社の人間が彼のマンションを訪れたところ、自宅で死んでいる彼を発見した、ということのようです」
「具体的に、どのような状況で亡くなられていたのですか?」
「寝室のベッドで死んでいたそうです。パジャマを着て、布団をかけて、寝相もきちんとしていたと聞いています。ただ、とても苦しそうな表情を浮かべていたらしくて、ぼくも告別式に参列しましたが、彼の顔を見ることができなかったのはそのせいなのかもしれません」
「苦しんでお亡くなりになった、ということですか?」
「そう考えると、とてもやりきれないんですけどね。で、死因を調べたところ窒息死だとわかったのですが、おかしなことに何故そうなったのかがわからないんです」
「わからない?」
「はい。普通真っ先に考えるのは絞殺なんですけど、遺体に首を絞められた跡は見られず、それに凶器らしきものも彼の自宅からは見つからなかった、と。次に考えられるのは咽喉に何か詰まった可能性ですが、解剖の結果、そういうものは見当たらなかった、と判明して、結局のところ何故窒息したのかわからない、ということらしいです」
「スミノさんはさっき事故ではなく事件としか思えない、と言ってましたが、そう考えた理由はなんなのですか?」
「それはですね」
それまで頭の中身と心を整理するのに精一杯で気づかずにいたのだが、そこでようやくテーブルの向こうの女性が編み物をしているのに気づいた。ぴかぴかに磨き上げられた卓上に転がっている黒い球体から彼女の手元に毛糸が伸びていて、白い二つの手に握られた編み針が時を刻むかのように動いている。男爵令嬢が裁縫をする、まるで似つかわしくない光景に呆然としてしまう。
「どうかされました?」
彼女が顔を上げて訝しそうに私を見る。いや、それはこっちのセリフだ。やっぱりお遊びで話を聞いているのか。
「いえ、もしかしたら、ぼくの話が退屈なのかな、と思って」
黒く大きな瞳が自らの手元と私の顔と何度か往復してから、
「ああ、そうではありません。むしろ逆です」
そう言って噴き出した。噴き出す、といってもアルプスのふもとにある間欠泉のようなすがすがしさを感じさせるもので、その点はわれわれ庶民とは違っていた。
「逆?」
「はい。集中して話を聞くときの癖です。じっとして聞くよりも何かをしていた方が頭に話が入ってくるのです」
「それで編み物をすることにしたんですか?」
「ばあやに教わりました。ばあやは名人なので、とてもかなわないのですが」
「ばあや」ときた。絶対「じいや」もいるに決まっていた。
「おわかりになられたのなら、早く続きを聞かせてもらえませんこと?」
姫から厳命されたので急いで話に戻る。
「あ、はい、そうですね、すみません。えーと、ぼくが事故ではなく事件だと思った理由でしたよね?」
満足げに頷く彼女は、早くも編み物に集中しつつあるように見えた。自由だな、この人。
「でも、それは別に、ぼくが友人の死を認められない、とかそういうことではないんです。客観的に見て不自然な点がいくつもあるんです」
「お聞かせ願いましょうか?」
編み針のピッチが速まった。
「はい。まず、さっき彼の遺体に絞められた跡はなかった、と言いましたが、実はかなりの損傷があったんです」
「損傷、ですか」
「ええ。第一に両手が血まみれで、何本かは爪がはがれていました。そして、第二に全身の皮膚にただれたような跡があって、胸には深いひっかき傷が走っていたそうです。そして、第三に眼と鼻と舌にも損傷が見られた、そう聞いています」
んー、と鼻を鳴らす彼女は子猫に似ていた。編み物をしているのではなく、毛糸玉を弄んでいる、と考えれば、それは別に的外れのイメージではないのかもしれなかった。
「おそらく、なのですが、お話を伺う限りでは両手の傷と胸の傷は関係があるように思ったですが」
いい質問ですね、と人気司会者みたいに言ってしまいそうになったが、彼女の家にはテレビがないのを思い出して口には出さなかった。
「それはぼくも思ってました。手で自分の胸をかきむしったから、ひどいひっかき傷ができたのかな、って」
そこで咽喉の渇きを感じたが、コーヒーを自分の席に置きっぱなしにしたままだったので、仕方なく諦めた。
「でも、それがもうひとつの不自然な点につながってくるんです」
「お聞かせください」
「はい。彼の部屋には特に乱れた様子はなかったんです。それが不自然なんです」
「つまり、あなたの友人が何かをひっかいた跡はなかった、ということですね?」
「その通りです。フローリングも壁もきれいなままでした。ついでに言えば剥がれ落ちた爪も見つからないままです」
「金品などが持ち去られた形跡は?」
「それもありません。財布も手つかずで無造作に居間のテーブルに置かれていたそうです」
今や彼女は完全に目を閉じていた。それでいて手も動き続け、黒い織物が面積を増やしつつあった。そういえば、一体何を作っているのだろう。
「そんなわけで、おかしなことだらけで、ぼくとしては事件としか思えないんです。でも、警察は事件性はないと判断してしまったんです」
「どうしてでしょう?」
「ぼくが聞いたところだと、判断の決め手になったのは、彼が住んでいるマンションの防犯カメラに怪しい人の出入りが撮影されていなかった、ということのようです」
「つまり、ご友人が別の場所で亡くなっていたとしたら、何者かが運び込んでいるはずなのに、その証拠がなかった、ということですね」
頷きながらも私は彼女の頭脳の明晰さに内心ひそかに感嘆していた。会話が実にスムーズに進む。天は一人の人間に二物も三物も与えるのかもしれない。
「ええ。それに彼が発見された時に玄関には鍵がかかっていて、彼の持っていた鍵もテーブルの上に、財布のすぐそばに置かれていた、というのも事故だと判断する要素になったようです」
「何者かが侵入したと仮定して、鍵もなしにどうやって家を出たのか、というわけですか。いわゆる密室ですね」
「密室」というワードに若干テンションが上がったように見えたが、まさかお嬢様がそんなはしたない態度をとるとも思えないので、私の見間違いだろう、おそらく。
「でも、あなたのお話だと、遺体は傷だらけだったそうですけど、それについても警察は事件性がないと判断したのですか?」
「判断したみたいですね。ぼくもそれについては質問してみたんですけど、『息が詰まった際に暴れて傷ついた可能性もある』『事故による傷である可能性もなくはない』という返事でした」
「なくはない、ですか」
持ち前の美貌に皮肉な笑みが浮かぶ。私に向かって投げやりな返事をよこした担当刑事がそれを見たら、直ちに再捜査に乗り出すのではないか、という気がした。
「わたくしから質問してもよろしいですか?」
突然話を振られて戸惑ってしまうが、余計な考え事をしていた私が悪いに決まっていた。
「ぼくに分かることならお答えしますけど」
「まず、基本的なことですが、ご友人は独身ですか?」
「はい、それで一人暮らしをしていたんです。あ、すみません、言ってませんでした?」
「いえ、話の流れからたぶんそうなのだろう、と思ってましたが、一応念のために確認しただけです。どうかお気になさらず」
今度は温かみのある笑みが浮かんだ。
「では、ご友人に親しい人は何人くらいいたのでしょうか? 恋人とか、あなた以外の友人とか」
「そうですね。ガールフレンドはいなかったはずです。仕事仕事で出会いの機会がない、とよくぼやいてましたし。楽しみといえば、ヨガの教室に通ったり、たまの休みに南の島まで出かけてダイビングをするくらいだったそうですが、それも一人で行っていたと聞いてます。友達も一番仲が良かったのはぼくを含めた学生時代からの数人の仲間だと思います。社会人になってからの知り合いとは薄いつきあいしかない、といつだったか言ってました」
そうですか、と言って彼女は口を閉ざした。私も伝えられることは伝えたので黙るしかない。夕方から夜に差し掛かりつつある店内はいくらかにぎやかさを増していたが、向かいの令嬢は何も言わず編み物を続け、私もまた何も言わずに彼女の手をじっと見つめていた。長く細い指の精妙な動きを見ながら、コーヒーのお代わりを注文してもいいだろうか、とふと思った瞬間に、一対の編み針がぴたりを動きを止めていた。
「わかりました」
「え?」
「あなたのご友人がどうして亡くなったのか、それがわかりました」
彼女が冗談でそう言っているわけでないことは、閉じられたままの両目のすぐ上にある眉間に皺が深く刻まれていることでもわかった。まるで死の谷のように深い。いや、それはわかったとしても、私との会話だけで友人の死の真相に気づいた、というのはとてもわからなかったし、信じられないことだった。
「本当ですか? それならぜひ教えてくれませんか」
「それはできません」
にべもなく拒絶される。抗議をしようとする私を止めたのは大きく見開かれた2つの瞳の輝きだった。それは最初に見た時よりもずっと強くまばゆいものになっていた。おそらくそれが本来の彼女なのだろう、という気がする。
「スミノさんには悪いのですが、まだ言うわけにはいかないのです。何故なら」
いったん黙ってからの言葉は重々しい響きを伴っていた。
「わかったおかげで、わからなくなったからです」
(その1 終)
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