第一章 着任
なんだか今日は素敵な一日になる気がするわ
西の最果てに位置するヘルセの街は、当然のことだが皇国の中で最も朝日が昇るのが遅い。と言ってもそこに大きな差はなく、国内で最も早く日が昇る場所と比べても十数分程度のズレしかないのだが、ヘルセの朝は他所と比べるとだいぶスロースタートだ。
日が射すと同時に聞こえてくる鶏の声や、仄かに暖かくなっていく街の空気で人々は眼を覚まし、のんびりと朝の支度を始める。そこには明確な時間が流れているわけではなく、なにかを急いでいる者もいない。
活気がないと言ってしまえばそれまでだが、戦線のごく近くでありながら決して離れることなく、今日まで戦前と同じ牧歌的な生活をヘルセの住民は守り続けてきた。それほどまでにこの地は人々に愛されてきたのである。
そんなヘルセの「鷲の巣砦」に勤務するエルシア・ファインハルス伍長は、恐らくこの街で一番の早起きだろう。彼女は誰に命じられることもなく、太陽が顔を出すずっと前から床を出て、広い砦の中を一人せっせと掃除して回る。
掃除が終われば洗濯、それが終われば朝食の準備。ここヘルセ分遣隊に所属する兵士の数はかなり少なく、その雑務も一人でこなすには決して無理な量ではない。が、彼女の小さな身体では重労働なことに違いはなかった。
だがエルシアは毎日好んで早起きし、その仕事を文句も言わずに淡々とこなす。だれがやると決まっているわけではないが、誰かがやらねば困る仕事。そういうものを自ら進んで行えるのが彼女であった。
「みんな~、朝よー!」
長い髪をヒラヒラと揺らしながら、まるで子供のように小さい少女が大きな声を出して廊下を進む。
その日もいつもと変わらない一日の始まり。朝の仕事を一通り終えたエルシアは、まだ布団の中で眠りについている隊員たちを起こして回っていた。
通常の基地であればこの役目は各部隊当直が担っており、声かけではなく起床ラッパを用いるのが普通である。しかしそこをわざわざ居住区まで足を運び、直接声をかけて起こすというのが、この砦を皆の家と考えている彼女の拘りだった。
「おはよう…」
彼女の声が聞こえてなのか、ちょうど一人の若い女性兵士が部屋から出てきた。これからすぐに仕事があるのか、既に戦闘服へと着替えている。
「おはよう。ご飯は用意してるから、ちゃんと食べてから出るのよ」
「うん…君は?」
「私はあの寝坊助を起こしてくるわ。ちょっと時間がかかるだろうから、待たなくていいわよ」
そう言ってエルシアは持っていたコーヒーポットを見せた。おまけにトーストにハムといった簡単な朝食もついている。
「分かった。じゃあ先に頂く」
「足りないようだったら私の分も食べちゃっていいからね。あ、あとサンドイッチを作っておいたから、お昼ご飯に持っていきなさい。任務は大事だけど、無茶はダメよ? それと、夕飯までにはちゃんと戻ってきて…」
「分かった分かった。いつも通りでしょう?」
まるで母親みたいに細かいところまで心配してくるエルシアだが、兵士はそれを遮るように言葉を被せた。しかし彼女のことを煩わしく思っているわけではなく、むしろ嬉しそうに頬を緩める。遠く故郷に置いてきた家族の温もり。そういった優しさがそこにはあるのかもしれなかった。
「じゃあ、気を付けてね」
最後に一言添えてエルシアはその場を後にする。彼女以外にも兵士はいるはずなのだが、この後は誰とも出会うことはなかった。
まだ冷たい空気が立ち込める建物内。かつてこの砦には何百人という兵隊が暮らしていたと聞くが、今では手で数える程度の人間しかここにはおらず、居住区ですら無人かと思える程に静かだ。
石造りの階段を登り、向かう先は隊長室。その名の通り、ここヘルセ分遣隊の部隊長が執務する部屋だ。と同時に、その人が生活している部屋でもある。
「入るわよー」
ノックもせずに扉を開ける。したところで返事はないことをエルシアはよく知っていた。
広くない部屋の中に乱雑に積まれた書類の山。まだ読まれてもいない報告書がそこいらに散らばり、シワだらけの制服が無造作に脱ぎ捨てられている。部屋の主は既に起きているのか、ベッド…として使っているソファーにその姿はなく、窓際に置かれたデスクに腰掛けプカプカと煙草を吸っていた。
「もうっ!」
あまりの惨状にエルシアは頬を膨らませる。
「今日はお客さんが来るから少しは片付けてって言ったじゃない!」
「お?」
彼女の声に反応してデスクの男が顔だけこちらに向けた。どうやら早起きして仕事をしていたわけではなく、窓の外を眺めながら呆けていただけらしい。
くたびれたワイシャツをだらしなく着崩し、もはや首に引っかけているだけの限界まで緩んだネクタイ。目まで届く長い髪はボサボサで、顎にはまるで手入れのされていない無精髭。全身からだらしなさをさらけ出しており、とても軍人には見えない。だがそんな彼こそがここの部隊長、エルシアが「寝坊助」と呼ぶ男、ワルター・ベーレンドルフ中尉であった。
「よう。もしかして朝飯か? いつも悪いな」
「「朝飯か?」じゃないわよ。こんな散らかった部屋で、どこでこれを食べるって言うの?」
悪い悪い、と笑いながらワルターは立ち上がり、机の上に並ぶ書類を無造作に隅へとどかしてみせた。押し退けられた他の書類がバサバサと床に落ちるが、彼はまるで気にしていない。
そんないい加減な隊長に呆れつつも、エルシアは持ってきた朝食を机に並べ、いつも使っている愛用のカップにコーヒーを注いだ。もともと砂糖やミルクは用意していない。どうも彼は甘いものが苦手らしく、コーヒーもブラックしか口にしなかった。
「来客があるって?」
「おまけに新しい子もやって来るわ。あなたが言っていたことじゃない」
「そうだったかな…」
煙草の火を消し、淹れたてのコーヒーを一口すする。ほろ苦く、深みのある独特な芳香が漂い、まだ半分眠ったままでいた頭を優しく目覚めさせてくれる。文句なんて付けようもない、全てが彼好みに調整された味だ。
「悪いが、新入りの面倒は任せる」
「勿論そのつもりだけど、せめて最初の挨拶くらいきっちりやってよ? うちの隊長がいい加減な人だとは思われたくないわ。人は最初の印象が肝心よ」
そう言ってエルシアは放り出された彼の制服を手に取った。通称「黒服」と呼ばれる将校用の開襟式制服。貴族出身の士官が多いアルスラント陸軍はその外見にも拘っており、強く気品溢れる制服はワルターのような顔立ちの良い男性が着ると、惚れ惚れしてしまうくらいによく映えた。これでずぼらな性格さえ直れば完璧なのに、惜しい男だとつくづくエルシアは思う。
と、そこでなにかが足りないことに気が付いた。将校であれば誰しも一つや二つは着けているであろうモノ。その人が数多の戦場を駆け、祖国に貢献したことを称える証。彼の制服からは、本来そこに着いていたはずの勲章が全て外されていた。少し見舞わしてみると、部屋の隅の空き箱にガラクタと一緒に放り込まれている。
いくつかある勲章の中で特別目立つ、剣付一級鉄十字章。戦争序盤の西部戦線に指揮官として従軍し、最も敵奥地まで侵攻を果たした軍人に贈られる勲章だ。しかし本来美しく銀色に光るそれも、すっかり埃を被って醜い有り様となっている。
勿体ないことを、とエルシアは思ったが、敢えて口にはしなかった。彼が参加した西部戦線が一体どのような場所だったのか、そこでなにが行われたのかをよく知っていたからだ。
「それで、昨日はなにかあったの?」
軽く制服の埃をはたき落とし、ワルターの肩にかけてあげる。
「なにかって?」
「なんでもよ。砦や街のこと。国のこと。この戦争に関すること、色々。その機械が教えてくれるんでしょう?」
エルシアはデスクの脇に置かれた機械に目を向ける。電信機と呼ばれる代物らしい。遠く離れた場所から送られたメッセージがこの機械に届き、セットされた長細い紙テープに印刷される…と聞いているが、詳しい仕組みは判らないし、こいつが動いているところを見たことはなかった。
最近になってこんな最新鋭の装置が末端部隊にまで配備されるようになったが、噂ではこれでやり取りした内容は敵方が盗み聞きすることが可能らしく、使い方もよく判らないということも相まって、依然信用度は低い。結局のところ部隊間での業務的なやり取りは伝令や文書の直接配送、急を要するなら伝書鳩を使うことがまだまだ主流だ。
「これが動くのは本当に緊急の時だけ、それこそこの戦争が終わった時だろうな」
「ふぅん。なら、ちゃんと動いてもらわなきゃ困るわね」
しかしエルシアはこれを整備することはできない。この手のことが得意な工兵も砦にはいるが、電信機に関してはお願いしてみても手をつけてはくれなかった。もしかしたらワルターが扱い方を知っているかもしれないが、あまり期待はしていない。
少し部屋の空気を入れ替えようと、建付けの悪くなった窓を開ける。すると新鮮な朝の風が部屋の中へと舞い込み、いくつか書類を吹き飛ばしていった。ここからはヘルセの街を一望することができ、辺りははすっかり陽の光に覆われ、住人たちが世話しなく朝の支度をしているのが見える。
「平和なものね。戦争しているのが嘘みたいだわ」
一つ山を越えれば最前線。だがこの街にはそこの砲声は届かず、今日も戦前と変わらないのどかな時間が流れている。
「実は私たちが知らないだけで、とっくに終戦しているとかないかしら?」
「その可能性は俺も毎日考えるよ。けど、現実はなかなか思い通りはにいかないな」
ワルターはパンを頬張りながら一枚の文書を見せた。日付は三日前、ここに届いた書類の中では最新のものだ。
「なんて書いてあるの?」
「北部戦線で大規模な反攻作戦があったらしい。詳細は分からんが、今のところ大戦果を挙げているようだ」
長い間膠着が続いている西部戦線とは異なり、北部の方ではここ数年間苦戦を強いられており、その突破も時間の問題だろうと言われていた。北部戦線が崩壊すればもう勝ち目はない。それが今回の春季攻勢で持ち直した。
「これでまた戦争が長引くな」
「むしろ同盟軍にそんな元気が残っていたことの方が驚きだわ。上の人たちは、まだこの戦争に勝つつもりでいるのね」
「どうだろう? 案外「負けなければ良い」程度にしか考えてないかもしれんぞ」
いかに戦局が劣勢といえど、最後に一泡ふかせることができれば戦後における立場が大きく変わる。このまま負けた時よりも有利な条件で講話に持ち込むことが、あわよくば引き分けという形にできるかもしれない。だからこそ「もう勝てない」と思っていても、そう簡単には敗けを認めることなんて出来ないのだ。
全ては国の未来の為。しかしその未来の中に、明日を生きる兵士のことは考慮されているのだろうか。戦争が長引けば長引く程、その影響を直に受けるのはいつだって国民と兵士である。
が、そんな文句を垂れたところでなにが変わるわけでもない。国が決めた方針に対して愚直に従うのが兵隊の仕事だと、エルシアはもう考えるのをやめた。
「じゃあ、もう少ししたら私は出掛けるから」
風で散らばった書類を拾い上げ、まとめてデスクの上に戻す。
「警らか?」
「そう。ついでにお客さんたちを迎えに行ってくるわ。多分昼頃に帰ってくるから、それまでにちゃんと部屋を片付けておくのよ」
「まあ…努力はするさ」
気を付けて、と去り際に彼が付け加えた言葉にエルシアはフッと笑みを溢す。なにもかも適当そうな男だが、しっかりと部隊長として部下のことを心配してくれる。だから嫌いになれないのだ。
隊長室を出た後はまっすぐ自室へと戻り、休むことなく装備を整え、またすぐに出発する。時間に追われているわけではない。この砦が人手不足なのは間違いないが、休憩時間もとれない程に忙しいのかというと、決してそんなことはない。それでもここまで一生懸命に働くのは、彼女が自身の仕事を好きだと感じているからに他ならないだろう。
兵舎を出て武器庫に立ち寄り、銃を取る。一般の兵士が使っている小銃よりも15cm程短い、ボルトアクション方式カービンライフル。その取り回しの良さから騎兵銃とも呼ばれるが、彼女にとってはそれでも大きすぎるようだ。
ベルトに下げたポーチにクリップでまとめられた弾丸を入れ、ホルスターに拳銃も納める。そうした完全武装で向かう先は、兵舎から少し離れた場所に建てられた馬小屋だった。
「おはようクラウス、今日も良い朝ね!」
主人の声を聞き、小屋に一頭しかいない青鹿毛の牡馬が起き上がる。まるでエルシアのことを待っていたかのようにいななき、リズムよく蹄をカツカツと鳴らした。
クラウスと名付けられた軍馬。競走馬のように細くたくましい身体で、額には象徴的な白い流星模様。全身はよく手入れされて美しく生え揃い、とても大切にされていることが見てとれた。街の中で多く見られる馬と比べると力強さに欠け、畑を耕したり荷馬車を曳いたりは難しいかもしれないが、速く走ることならばきっと彼の右に出る者はいないだろう。
「ご飯は食べたわね? ならすぐ出発するわよ。今日はお客さんが来るから、その人たちのお迎えに行かなくちゃ」
彼女の言葉を聞いているのかいないのか、クラウスは頭や鼻面を擦り寄せてくる。
「それとね、新しく着任する子もいるの。新兵だと言っていたから、きっと若い子ね。楽しみだわ。あなたもそうでしょう?」
エルシアは彼の額を優しく撫で、甘い声をかけながらてきぱきと馬具を付けていった。頭を越して手綱をかけ、主の命令を伝達させる為のくつわを噛ませる。大抵の馬はこの頭絡と呼ばれる馬具を付けようとすると、嫌がって首を振ったりするのだが、二人の間には相応の信頼関係があるのか、クラウスはじっと大人しくしていた。
鞍を載せ、雑嚢や弾薬嚢などを次々取り付け、エルシア自身もサーベルや双眼鏡などの装備を身につける。ただ乗馬するよりもかなりの重武装。これでようやく出発準備が完了だ。
「行きましょう、クラウス! なんだか今日は、素敵な一日になる気がするわ!」
鐙に足をかけ、ひらりと相棒に跨がる。エリートを象徴する黒い制服に、首に下げた大きな双眼鏡。そして襟元にはゴールデンイエローの兵科章がキラリと光る。
偵察騎兵。それが彼女に与えられた任務だった。
アドラーネストの笑わぬ仔犬 ラスカル @43273
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