今日から君がお世話になる街だ

 アルスラント皇国。国境の殆どを山脈や海で囲われ、自然の要害によって他国の侵略から守られてきた恵まれた国。資源は豊富で領土的野心も抱かず、攻め入る敵は強靭に鍛え上げられた兵と大地によって退け、多くの大国に囲まれながらも、数百年の間平和と中立を保ち続けてきた。優秀な皇帝の存在と温厚な性格の国民性もあり、国内での内乱などは一切起こらず、世界地図にその国が記されてから一度も国境線を変えたことはない。


 そんな「理想郷」とも呼ぶべき国のずっと西、ウルム州のさらに端の国境線近くにヘルセの街はある。連なる山々に、その間を縫ったように流れるいくつもの川。そしてそこに生まれた渓谷に、敵を追い返すための城塞都市として築かれたのがこの街だ。


 その役割は今でも変わることはなく、アルスラント陸軍ヘルセ分屯基地が西の守りとして置かれている。だが鉄道も通らず訪れることが困難という特性から、物資や兵器を大量消費する近年の戦争には拠点として不向きで、現在では監視所としての役割のほうが強い。なのでこの戦争においても、敵味方双方から「前線に最も近いが、重要性は低い基地」という評価をされていた。


 足場の悪い峠道を、ガタゴトと武骨な音を立てながら馬車はヘルセを目指す。鉄道とは違って決して乗り心地が良いとは言えず、しかもこれがまだ往路に過ぎないことを思い出し、カール・ヴェッセルスは憂鬱そうに空を見上げた。朝早くに夜行列車を降りてから数時間。昨晩は当然熟睡できているはずもなく、退屈と疲労で既に眠気はピークに達している。


「軍人さん、どっから来たんだい?」


 そんな乗客に気を使ってなのか、この馬車の主である老父が話しかけてきた。駅を出発してからずっと彼一人で手綱を握ってきたわけたが、まるで疲れた様子はない。熟練の技というやつだろうか。


「中央の方から。生憎詳しくは…」


「ああ、構わんよ。ワシら民間人には話せんこともあるだろう」


 助かりますとカールが返すと、なにが可笑しいのか老父はガハハと豪快に笑った。顎に蓄えた立派な髭を揺らし、まるで童話に出てくるドワーフのようだ。


「いやなに、この定期便を使う人間なんて久しぶりに見たものだから、ちょっと気になったのさ」


「確か…以前はバスが走っていた気がしますが」


 ほう、と老父は遠くを見るように目を細める。


「懐かしい話だ。お宅、ヘルセに来たことが?」


「ずいぶんと前です。まだ開戦して間もない頃でした」


 まだその時は公共交通機関として、バスが麓の街とヘルセとを往復しており、多くの人が利用していたとカールは記憶している。聞けばここ数年でバスは馬車へと変わり、定期便の数も激減した為、今では専ら軍の輸送車両に相乗りさせてもらっているのだという。カールたちがこの馬車を利用することになったのは単なる偶然で、タイミングがずれていれば、他の民間人と同じように陸軍のトラックに乗せられていたのかもしれない。


「最初は燃料からだった。ガソリンは軍隊に優先して回されることになって、しばらくすると車もバスも走らなくなった。それでもいつか元の生活が戻ると思ってたが、今度は兵隊の輸送に使うんだってバスも持ってかれちまった」


 戦時下における半ば強制的かつ大規模な供出が行われたのはこの戦争が初めてだ。これまでの戦争というと全てが戦場の中で完結し、兵隊以外に弾が飛んでいくことはなく、民間人はピクニックがてら戦闘の様子を見に行くなど、どこかスポーツのように捉えられていた。


 しかし新兵器の登場や国家としての規模の拡大化、それに伴う戦争の長期化が、過去に例を見ない程に国民の生活を蝕んでいった。いつしか戦争は軍隊同士のぶつかり合いではなく、国対国の総力戦へと変わってしまったのだ。


「でもまあ、まだ馬を持ってかれてないだけマシさ。バスの代わりに馬車こいつを走らせることができる。そうしたらこんな老いぼれでも活躍の場が生まれるってものよ」


「もしかして、以前は馬車の仕事を?」


「バスが走るようになって、一度はクビになったがね。けれど戦争が始まったらすぐに呼び戻されたよ。ありがたい話さ」


 そう言って老父は器用に馬を操る。懐かしげに楽しそうに。だがこの馬たちも、戦争がさらに長引けばいずれ軍へ供出されることとなる。そうなればこの老父はいよいよ行き場を無くしてしまうのだろう。


 可哀想な話だが、どうすることもできない。せめてそうなる前に終戦を迎えられれば良いのだが、カールの耳に届く戦況はいつも進展がなく、先行きはまるで霧の中にいるかのように見えない。


「ほうら見えてきた。ヘルセの街だ」


 老父に言われて前方に目をやると、まだだいぶ遠くではあるが、山々の中の開けた台地に大きな街が見えてきた。昔ながらの石造建築が並び、周囲の緑に白い外壁がよく映える。そして元々が城塞都市として造られたためか、あちこちに古い城壁が残り、その街の端に黒く堅牢な要塞が市街から追いやられるようにポツンと建てられていた。


 その要塞こそが目的地であるアルスラント陸軍ヘルセ分屯基地、高い山中にあることから通称「鷲の巣」と呼ばれる国境監視所だ。


「レニャちゃん、おいで」


 遠方から臨む美しい街の姿を見て欲しくて、カールは荷台の隅に座っていた少女に声をかけた。


「あれがヘルセだよ。綺麗だろう。今日から君がお世話になる街だ」


 レニャはカールの隣にちょこんと座り、言われるがままに前を見た。絶景を目の前にしても相変わらず無表情で、景色を楽しむ様子はまるでない。どちらかというと、狩りの前に偵察をする獣のような表情だ。


「歴史ある城なのですね」


「たしか11世紀頃に造られた要塞だよ。何度も戦争を経験してるが、一度も陥落したことはないんだ」


 歴史には疎いカールだが、軍人として戦史の研究だけはしている。国境線と交通の要所付近に建てられたヘルセ要塞は、他国がアルスラントに進攻する際、常に最初の戦略目標とされてきた。完全に包囲され補給が絶たれても、要塞内部に敵を侵入させたことはない優秀な砦だ。


「現代戦でも通用するのでしょうか?」


「老朽化が進んでるからなぁ。装備も殆ど撤去されてるから、本格的に攻撃を受けると耐えられないかもしれないね」


 もっとも、ヘルセは本戦争において重要拠点と見なされておらず、大規模進攻を受ける可能性はかなり低いとされているが。


「お嬢ちゃん、あの街に住むのかい?」


 ふと老父がレニャへと顔を向ける。ずっと声をかけたかったが、丁度いいタイミングがなかったのだろう。


「良い街だぞぉ。人はいいし、飯も旨い。特に水が良くてな、あそこで作られたワインを水で割って飲むと旨いんだこれが…と、嬢ちゃんには分からん話だったか」


 嬉しそうに話す老父だが、やはりレニャはあまり関心がないようで、じっと要塞を見つめたまま頷きもしない。しかし構わず老父は続ける。


「あとは…街の商店街に有名なパティスリーがあるんだが、かなりオススメだ。中央の方で修行を重ねた職人さんが開いてる店で、綺麗で美味しいお菓子が沢山置いてある。きっと気に入るだろうから、お父さんにお願いして色々買ってもらうといいさ」


「…お父さん?」


 その単語に、まるで聞く耳を持たなかった彼女が急に反応を示す。


「父はいません」


「え?」


 初めて戸惑いの表情を見せる老父。確かになにも知らない他人からすれば、カールとレニャは親子のように見えてもおかしくない。まさか彼女が軍人で、カールとは上司と部下の関係に過ぎないだなんで誰も思わないだろう。


「両親は十年前に死にました。ヴェッセルス大尉とは、任務で行動を共にしているだけです」


「…この子は孤児なんです。ヘルセに行くのも、新しい赴任先として向かうだけで、引き取り手があるわけではありません」


 言葉が足りないようなのでカールが付け加える。すると老父は申し訳なさそうにうつむき、ゆっくりと顔を前に戻した。今時戦災孤児なんて珍しくない。なのにその可能性を考えず、無神経なことを言ってしまったと反省しているようだった。


 しかし当の本人はまるで気にしておらず、むしろなぜ老父が気を落としてしまったのか分からない様子だ。物心ついた時から両親はおらず、それを当たり前として生きてきた。自分が他の人間とは違う人生を歩んでいることは理解しているが、そこを話題にされたところで傷付くはずもなく、どうしてこの老父が後ろめたさを感じるのかまるで理解できなかった。


「すまんかったなぁ…」


「…なにがですか?」


 なにに対して彼は謝ったのだろうか。しかし、考えても分からないということは、自分には取るに足らないということだ。レニャはすぐに興味を失い、再び荷台の端に戻って小さく身を縮めた。


 そんな彼女を横目に見つつ、カールは残り少ない煙草に火を付ける。


「あまり気にしないで下さい。彼女も慣れてますので…」


 老父に一応のフォローを入れて、幸先が悪いなと思いながら大きく煙を吐く。


 これから新しい生活が始まるにあたり、彼女は多くの人間と出会うこととなるだろう。その度にこんな微妙な気持ちのすれ違いや、小さな衝突が起きるのだろうか。昨日の列車で出会った憲兵や、この馬車を操る老父。そのどちらともファーストコンタクトは上手くいっていない。


 彼女はその生い立ち故に、やや他人とズレている部分がある。しかし本人にその自覚はなく、そこを指摘し矯正しようという大人は、カールを含めて誰もいなかった。


 今日からは全く新しい人たちの中で暮らしていくことになる。誰かとのズレが生まれた時、一言フォローをしてくれる人がいるとも限らない。それらを全て運に任せるというのはやはり無責任だろうか。



 やや気まずい雰囲気のまま馬車は進む。季節はもう春になるが、山の空気はまだまだ冷たい。道の脇にはまだ僅かに雪が残り、それを拾って吹き付ける風に男たちは身を震わせた。

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