アドラーネストの笑わぬ仔犬
ラスカル
序章
安心していい、味方だよ
鉄輪は規則正しく線路を叩き、軽快な音を立てながら人気のない森の中を駆けて行く。
先人達が多大な労力をかけて鉄路を拓いてきたこの地には、その遥か昔からトウヒやブナの木が広範囲に生い茂り、さらにすぐ近くには豊富な資源を蓄えた鉱山がいくつもそびえ立つ。そういう環境から、都市間の移動を担う連絡鉄道というよりは物流を支える産業鉄道という性格が強く、今まで多くの資源がこの線路を通って街へと運ばれていった。
が、今や伐採された木材や鉱物を載せた貨物列車がのんびりと山を下っていくのどかな風景はない。通常の貨物便は大幅に減らされ、その代わりに兵器や補給物資、兵隊を載せた軍用列車が国境を目指し全速力で走っていくほうが目立つ。だが最早それを異常だと感じる人間はこの国には残っていないだろう。
そんな列車の、まるで揺りかごのような心地良い揺れの中、高く鋭い汽笛の音で男は目を覚ました。寝てしまうつもりはなかったのだが、情けないことに襲いかかる睡魔には勝てなかったらしい。
疲れが溜まっていたのもあるのだろう。なにせここ最近は連続勤務が続き、最後にいつ休んだのか思い出せない程だ。加えてこの慣れない長旅である。許されるならば図々しく座席を広々と占拠し、横になって眠りたいところである。しかしこれでも現場の人間たちに比べれば生ぬるい方なので、贅沢は言ってられない。
気付かぬ間に窓の外はすっかり暗くなっており、照明と呼ぶにはあまりにも弱々しいタングステンランプが、無骨で質素な車内にチカチカと光を落とす。まだ意識があったうちは太陽が山の際に残っていたと思うので、恐らく1、2時間くらい眠っていたのだろう。汽車は順調に目的地へと向かっているようだ。予定ではこのまま車内で一泊し、翌朝には終着駅に到着。そこから先は車で移動して、昼頃にはこの長旅も終えるはずだ。
が、実はそれも彼にとっては旅路の半分に過ぎない。そこにたどり着いたとしても、多分ろくに滞在することなくとんぼ返りだ。なにしろ今回は旅行で来ているわけではなく、この移動も含めて全てが仕事なのだから。
その仕事というのも、半分が現地との打ち合わせ。そしてもう半分が…
「すまない、寝ていたみたいだ」
「問題ありません。ヴェッセルス大尉」
向かいの席に座った少女は、男に目を合わせることもなくそう答えた。
十歳かそこらの年端もいかない容姿で、なのに声色や佇まいはひどく大人びている。金色の前髪からは深い紅色の瞳がちらちらと見え、あまり見つめすぎると吸い込まれてしまいそうな、そんな不思議な雰囲気を持っていた。
この少女こそが男に与えられた仕事の半分、目的地まで護衛してあげる対象だ。
もっとも、護衛というのはあくまで名目上の話。彼女は外見こそ幼いものの、その身なりは将校風の黒い軍服を身に纏い、腰のベルトには短剣と拳銃をぶら下げている。どこか呆けているように見えて、しかし一切の隙がない。誰かに守られるほど弱くはない、ということだ。むしろ守られているのは自分ではないだろうかとさえ男は思う。
「今どの辺りを走っているのかな?」
「1825頃にウルム州へ入りました。ですがここから山岳地帯に入りますので、かなり足は遅くなります」
「汽車は坂道に弱いからね」
この旅で何本目になるか分からない煙草に火を点ける。この調子で吸い続けると明日には確実に足りなくなるだろうが、如何せん他にやることがないので吸わずにはいられない。どうやらそれは他の乗客も同じなようで、薄暗い車内には様々な香りの煙が、まるで霧のように立ち込めていた。なんとかして予備を調達したいところだが、生憎車内販売なんて洒落たものはない。
「やっぱり列車で長旅というのは疲れるな。せめて寝台車だったら個室やベッドなんかもあっただろうに」
「戦時輸送便の増加に伴い、旅客扱いの列車は大幅に減便されました。特に長距離夜行列車は三年前からその運行を取り止めています」
「ああ、いや、それは勿論分かってるんだけど…」
淡々と、機械のように答える彼女に男は苦笑する。もう少し気の効いた、極端に言えば人間味のある言葉を返してくれれば可愛いのに。
これが例えば彼女に嫌われているだけだとすれば良かったのだが、少女は「なにか間違ったことを言っただろうか?」と軽く首を傾げるだけで、やがて興味を失ったように窓の外へと視線を移した。
客車を引っ張る蒸気機関車が、また一つ大きな汽笛を鳴らす。
一体どれだけの時間彼女は、この音を聞きながら車窓の外に流れる景色を眺めているのだろう。列車の音だけが空しく響く車内で、まるで忠犬のようにずっとそこに座っているだけ。眠たそうにも、退屈そうにもせずに、眉一つ動かさず外を眺めるだけだ。その容姿の美しさもあってか、人によっては彼女を人形と間違えるかもしれない。
少しくらい年相応に駄々でもこねてくれたほうが退屈しないですむというもの。かといってそこらを走り回ったりされると、それはそれで困るのだが…
「お腹が空いただろう? そろそろ夕飯にしようか」
空腹と沈黙に堪えきれず、男は立ち上がって荷台に詰んだ鞄を降ろした。
「軍から
「味気ないじゃないか。いくらかパンと、あと缶詰を持って来てるんだ。一緒に食べよう」
彼女の持っているレーションというのは物凄く硬いビスケットのことで、前線の兵士からは大変不人気な代物だ。そのくせ量産性が高いので在庫が大量にあり、こういった移動を主とした任務の際には優先して配給される。
しかし日を跨ぐような長い旅路に食事がビスケットだけでは不憫だろうと、補給担当が気を効かしていくらか持たせてくれた。あとはコーヒーでも淹れられたら良いのだが、豆と道具があってもお湯がない。まさか車内で火を使う訳にもいかず、諦めかけたその時だった。
「身分証の提示を」
いつの間にか側には「憲兵」と書かれた腕章を着けた兵士が立っていた。この列車は戦時輸送車両なので、車掌業務も軍の人間が担当している。彼はこうして車内を見回り、乗客が適正に任務として乗車しているか、また敵国のスパイが紛れていないか確認しているのだ。
ご苦労様と一言添えて、男は素直に身分証と命令書を見せた。多くの兵に嫌われがちな憲兵だが、出すものさえ出してしまえば彼等も決して怖くない。
「ご協力感謝します、大尉」
憲兵は姿勢を正し、中指と人差し指のみを伸ばした二指の敬礼をする。
「そう畏まらなくていい。それより憲兵軍曹、お湯を貰うことはできるかな?」
「お湯、ですか?」
憲兵は一瞬困った顔をしたが、男が空のコップを見せると、察したように「ああっ」と頷いた。
「車掌車に給湯設備があります。後で持って来ましょう」
「悪いね、僕の我が儘なのに」
「お安いご用です。もうすぐ巡察も終わりますので」
ニッコリと笑う憲兵に心が和らぐ。基本的に他人を疑ってかかり、情に流されないようにするのが彼等の仕事だが、どんな立場になっても人間らしさというのは棄てきれないものだなと実感する。
「さて、そちらの方も身分証を…」
彼が少女へと顔を向け、優しく手を差し出したその瞬間だった。
目にも止まらぬ速さで少女は憲兵に飛びかかる。完全に不意を食らった彼は当然反応することもできず、その勢いのまま床へと組み伏せられた。腕はがっしりと掴まれて背中へとねじ曲げられ、うつ伏せとなった身体に少女の全体重がのし掛かる。そして彼女の小さな利き手は、腰に下げた短剣へと伸びていた。
ついさっきまで無表情だった少女が、明らかなる嫌悪に満ちた形相で彼を睨み付ける。赤い瞳は炎のように燃え、全身から敵意を滲み出し、下手に動けば今すぐにでも憲兵に刃を振るいそうだった。
しまったと男は頭を抱える。こうならない為に付いて来たはずだったのに、一瞬の気の緩みが仇となってしまった。しかしまだ剣を抜いていないだけマシだろう。
「安心していい、味方だよ」
その一言で少女は落ち着きを取り戻し、静かに憲兵から身体を離した。急に倒された彼はというと、驚きこそしたものの怒っているようには見えず、なんとか大事にはならずに済んで男はホッと一息吐く。
「すまない憲兵軍曹、気を悪くしないで欲しい」
「い、いえ、自分は平気ですが…」
そう憲兵は答えるが、あまりの彼女の豹変ぶりに未だ戸惑っている様子だ。
本来、憲兵に逆らうなんて絶対にあってはならない。ましてや敵意を向けるなんてとんでもない。今回は融通の利く人が相手で良かったが、これが普通の憲兵だったら「公務を妨害した」か「敵国のスパイだ」と言って連行されていたかもしれない。
そうなれば…きっと彼女は剣を抜いていただろう。その後どうなるかは考えたくもなかった。
「失礼ですが大尉、この子は?」
憲兵が訊ねると、男が答えるよりも先に少女は立ち上がり、古参兵も吃驚な美しい敬礼を返す。
「アルスラント皇国陸軍、西部方面軍所属…」
どこかに幼さが残る声に、思わず見惚れてしまう程の凛々しさ。彼女が子供でもあり、同時に軍人でもあることを気付かせてくれる瞬間。その相対する魅力を併せ持つ少女に、男はなんとも言えない切なさを覚えた。
「レニャ・コルティッツ二等兵です」
列車は速度を落とし、ゆっくり力強く夜の峠を駆けて行く。目指すは西の果て、国境沿いの街ヘルセ。前線から程近いその場所を、人々は「西部戦線」と呼んでいた。
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