海難
緯糸ひつじ
海難
神様は勤勉な掃除夫だ。
煤けて真っ黒なうえ、白いペンキをぽたぽた溢した天蓋を、世界の裏側で一点の曇りもない青色に磨き上げてから毎朝、寄越してくるんだから。
船長が「いい天気だ。エンジンはどうだ」とご機嫌な様子で聞くので、僕もご機嫌に「良好です!」と返す。
僕はこのポンポン船の機関士だった。
船の大事なエンジン、ロウソクの火を管理している。
水平線から大きな白熱電球がレールに沿って昇っていく。フィラメントが発する温かい熱と光が、この世界、平らな海を照らす。
厚い布地でできた凪の海だ。
ポンポン船はまっすぐすすむ。海の布地を裁ち切りめくって航跡を描く。イルカの群れが船を追って遊ぶように水面を跳ねて、その軌跡で裁ち切られた海をまた縫いつけていく。
大きく深呼吸すると、甘い香りが鼻を抜けた。
コットンキャンディの白い雲が、いくつか遠方でポリエチレンの透明な袋に入れられて、糸で空中に吊るされている。
時間が経つとひとつ、黒々とした雲を発見した。
まさか、と思った。
嵐だ。回転釜の不調で、飴が炭化しているんだ。
目を凝らせば、鋭い雨粒を大量に落としている。ふりそそぎ鈍く光る金属の針が、生地をボロボロに傷つけていた。
風が強まった。船長は焦った面持ちで「こっちに近づいてるぞ」と叫んだ。
バタバタと海の布が風で震える。振動で舵がきかないのか、思ったようにすすめない。
不意に、焦げ付いた苦さと砂糖の甘さが口の中に張りつきだした。電球の下に雲がもぐり込み、明かりが遮られた。嵐に入ったんだ。
船のロウソクの火を見た。暴風で今にも消えそうだった。
船長が悲鳴を上げた。
振り向くと、船長の肩に一メートルほどの針がぐっさりと刺さっていた。痛みに呻いてよろよろと甲板を歩き、そのまま船から転落した。ケチャップみたいな赤色で青の布地を汚して、嵐の針があけた穴を破きながら海中に消えた。どんどん雨が強くなり、甲板は針だらけでボロボロになっていた。
死ぬかと思った。けれど船の下なら大丈夫かもしれない。
神様は勤勉な掃除夫だ。
だから、なんとか気づかせないといけない。
僕は必死に祈った。僕はゴミではありません。僕はゴミではありません。必死に祈りながらドーナツの浮き輪をやっと手にして、ボロボロの海へ飛び込んだ。そして僕は、生き残れた。
以上が、一九三二年に太平洋沖で起こった貨物船「韋新丸」の沈没事故で、乗組員三十五名の中で唯一生存した者の証言だった。
海難 緯糸ひつじ @wool-5kw
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