つややかに輝け、命

岡本紗矢子

つややかに輝け、命

 仕事を終え、ひとり暮らしのアパートに帰りつく。

 ほっと気持ちがゆるむひとときだったが、私はあとひとふんばりして、五感で部屋をスキャンするのを習慣にしていた。変わったところはないか。何かが見つめる気配はないか。動くものはないか――。とくに何もひっかからなければ、そこで本当に息を抜く。

 ところが、ある日の帰宅後のことだ。すっかりくつろいでテレビを見ていると、視界の左斜め前方をつつーっと動くものがあった。即座に全身が緊張した。これは、まさか。

 視線をものすごく鋭くして、その「動くもの」をすばやく射る。気配を察したらしいそいつが、壁の真ん中で動きを止めた。いた――やっぱりいた。ゴキブリだ!

 とうとうきたか。ここに越してから毎日警戒してきたが、今まで一匹も姿を見ることはなかったのに。どうやら、エアコン用の壁の穴から侵入してきたらしい。玄関や窓の開け閉めに注意し、排水溝には網をつけて対策してきたが、敵は思いがけないところからやってきたのだった。

 ヤツは壁の真ん中にじっとして動かない。私も視線をそらさない。考えていた。戦う方法を。

 にらむのをやめてはだめだ。やめたらヤツは、その一瞬をとらえて、ちょっとした隙間にでも逃げ込んでしまうだろう。手近に殺虫剤はない。新聞も雑誌もスリッパも、取りに行くのは難しそうだ。ひとり暮らしにも年季が入り、訪問販売、宗教勧誘、新聞の営業からオバケまで対決の経験は豊富だが、素手でヤツに立ち向かう勇気だけは、さすがに湧いてこなかった。

 ヤツは触覚をふりふりさせ始めた。その場にとどまってはいるが、少し余裕が出てきたらしい。まずい。早く何とかしなければ逃げられる――そのときふと思い出した。ゴキブリは、洗剤でも退治できると誰か言っていた気がする。確か、あの背中の艶を分解されると生きていけないのだったっけ? もっと違う理由だったかも。まあ、なんでもいい。

 背後をうかがう。アパートの間取りは1K。居間兼寝室のこの部屋とキッチンの間にあるドアは、今は開け放してあり、ユニットバスの扉が見えている。

 できるだけ空気を動かさないように、私はじりじりと背後に下がり始めた。視線はゴキブリに固定しておく。後ろ手でユニットバスの取っ手をさぐり開け、顔を前に向けたまま姿勢を低くして、スプレー式のトイレ用洗剤に手を伸ばした。届いた――ヤツはまだ動いていない。

 駆け戻るのは一秒ですんだ。


「うりゃあああーーーっっ!!」


 洗剤をぶっ放す。ブシュッと飛び出した泡が、黒光りする背を半分捕らえた。

 ヤツが文字通り泡を食って逃げ出した。壁を下へ向かって走り、床をダッシュで突き進む。カーペットの上だが、かまうものか。立て続けに洗剤を発射する。数撃はかわしたヤツだったが、あと一押しと私の放った一撃が、とうとうそいつをまともに包み込んだ。

 静寂が訪れる。

 私は油断なく洗剤を構えたままでいたが、ヤツがもう動かないとわかったので、腕の力を抜いた。戦いは終わった。私は泡だらけの床を掃除し、黒いむくろを紙に包んで、ゴミ箱経由で荼毘に付した。


 ゴキブリの侵入は、これが最後ではなかった。その都度、私は戦った。それはもう真剣に戦った。何も好き好んで殺生をしたかったわけではないが、私は私の住処を守らなくてはならなかったからだ。

 何度目かの戦いに勝ち、艶を残した命の抜けがらを紙に包んだとき、私はなんだか崇高な気分にすらなっていた。彼は全力で私に向かい、私も全力で退治した。思えばこの現代に、ゴキブリほど人を真剣にさせる「命」があるだろうか。

 私たちは常日頃、誰かが獲得してくれた命をスーパーで買って食べている。命と命の真剣勝負やりとりをする機会は、ほとんどない。だけど、家を脅かすゴキブリとだけは、自ら対峙しなくてはならない。負ければ家は彼らに占拠されるわけで、そこには、人間とゴキブリ、ともに自身の存在を賭けたやり取りが発生するのである。


 今、家族四人で住む家に、彼らはほとんど姿を見せない。出るとしてもほんのときたまの彼らに対して、しかし私は容赦しない――それが、ゴキブリをただの害虫に貶めないための唯一の態度であり、礼儀であるとすら思っているからだ。狩りも採取もしないで食べ物を得られる我々が、せめてゴキブリくらい自分で倒さなくてどうする? ゴキブリのむくろと向き合うことで、我々は、「人間は狩る者である」という事実を心に刻まなくてはならないのである。


 とはいうものの、うちには私より狩りを好むであろう猫という動物が、計3匹も同居している。もし、人間がすべき戦いをこの猫たちがほとんど代行しているのであれば、ゴキブリ様にはまことに申し訳ないと思う次第だ。

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