閑話 束の間の安息
勝報を背負って大坂城に凱旋した幸村は、感激と共に迎えられた。
「幸村殿!! 御戦勝、おめでとうございまする!! あの徳川めに一矢報いるなぞ、大手柄ですぞ!!」
「義兄上、おめでとうございまする!」
「やるじゃねえか幸村ぁ!」
大広間に通された途端、
「え、えっと、有難うございます」
戸惑う幸村を見かねてか、
「はいはい、皆さん落ち着いて下さい! 幸村殿の御戦勝を
「ん、席……?」
見れば、幸村の知らない間に、小さな宴席が用意されていた。大勝の宴とまではいかないが、九度山では見なかった色鮮やかな料理が盛られている。
「戦の最中ですが、このような機会もあっていいでしょう」
奥には、秀頼や淀君ら豊臣家中が勢揃いしている。
「おーい幸村ー!」
「遅いですよ、幸村殿」
「幸村殿、御戦勝おめでとうございます」
「おめでとうございますー。次の戦では、私も負けませんからね!」
「ありがとうございます。ですが、今日の勝利はあくまで前座。大将首は獲れませんでした。次こそ、家康の首を獲って御覧に入れましょう」
「お、随分と大きく出たなぁ。じゃあ、次の戦でお手並みを拝見するか」
「又兵衛殿、ついさっき『いい武者ぶり』などと言っておりましたよね?」
「おまっ、全登バラすなよオイ!」
「ぐぇっ」
顔を紅潮させた又兵衛に裸絞めをかけられる全登は、逆に顔色が蒼白になっていく。
「又兵衛殿、どうか落ち着かれよ! 照れ隠しで全登殿を殺められると困ります!」
「ほら、お爺ちゃん落ち着いてー」
「ジジイじゃねえよ!」
解放されげほげほと咳き込む全登をよそに、皆わいわいと賑やかに酒を酌み交わしている。
しかし――
(……あれは、
たった一人、頬杖をついて賑わいを冷ややかに眺める者がいた。織田
豊臣家中の者が近寄ればにこやかに応えているが、どこか壁があるようだ。
大勝ではないが、勝利は勝利だ。なぜ不満気なのか。
(内通……いや、それにしては目立ち過ぎている。逆に内通の線は有り得んな)
幸村はひとまず有楽斎を横目に見ながらも、仲間達の輪に入っていった。
宴の後、「少し用があるから」といつもの面々の輪から離れる。廊下の人気が無くなったところで、有楽斎に声を掛けた。
「有楽斎殿」
「おや、どうされましたかな。真田殿」
有楽斎は柔和に微笑むが、やはりどこか壁を作っているようにも見えた。
「少しお話があります。立ち話もなんですし、
「いいえ。私の部屋にいらして下さい。他人には聞かれたくないのでしょう?」
「……確かにそうですね。では、お言葉に甘えまして」
有楽斎の部屋に入ると、ほんのりと湯気が出る茶釜がまず目についた。他にも、恐らく名物であろう茶器が並んでいる。
「あれ、私の部屋には、茶釜なんて無かったですよ」
「秀頼殿にわがままを言って、茶釜を置ける部屋にしてもらったんですよ。さて、では略式の茶会ですので、御料理は無し、
有楽斎が徐に抹茶を取り出し、薄茶を点て始める。茶筅の擦れる音が、静かに響く。
「菓子は、その箱にあるものをお好きにどうぞ」
箱を開けてみると、干菓子が色々と置かれていた。少し悩み、梅の形の
「どうぞ」
ちょうど落雁が溶け切った頃合いで、薄茶が供された。ほろ苦さを孕んだ控えめな甘さが、落雁ですっかり甘くなった口の中を整えてくれる。
「いかがでしょう」
「結構な御
さて、本題をどう切り出そうかと、淡い草色の泡がぷつぷつと消える様を見つめていると、
「貴方がなぜ私を疑ったのかは分かりませんが、私は、徳川に内通などしておりませんよ」
と、相手から切り出してきた。
「話が早くて助かります。思えば、本当に内通していれば、あえてあの宴の席であからさまに浮かぬ顔をなさる意味などありませんからね。失礼しました」
軽く皮肉を吐くと、有楽斎の微笑が消えた。
「浮かぬ顔をするのは当たり前でございます。何せ、貴方の勝利はめでたくはありますが、大局はまるで動いていませんからね」
ひくり、と幸村の眉が動く。
「それは……どういう意味でしょうか」
「そう怖い御顔をなさらないで下さい。貴方の働きは目覚ましいものでした。それは紛れも無い事実です。雲の上の太閤殿も、さぞや御満悦でしょう。……しかし、徳川殿の首どころか、大将首すら取れていない、それも事実です。まあそちらは、籠城戦ですし仕方がありません」
しかし、と、有楽斎が嘆息する。
「大将首一つ獲れていないというのに、さも徳川殿を討ち取ったかのように大喜び。真田殿が勝利したところで既に敗色濃厚だというのに、秀頼殿や淀君は『大坂城は落ちない』と豪語し、敗北した時の事をまるで考えていない。一人が勝ったところで本軍が敗北すれば意味が無い事など、真田殿の方がよくご存知でしょう」
「うっ……」
確かに幸村には苦い経験があった。関ヶ原での戦と並行して上田城で戦った時、父・
「この際ですので、はっきり申しましょう。豊臣は九割九分敗北します。豊臣家中は、戦を見た事はあれど、した事などほぼ無い素人ばかり。そのくせ、戦慣れした牢人衆の話はまるで聞かず、素人判断で戦を動かそうとする。かと思えば、細かい作戦の内容は牢人衆に丸投げ。家中は秀頼殿を割れ物でも扱うかのごとく溺愛し、その一方で当の秀頼殿は、降伏して一大名に成り下がるのは嫌と駄々を
相当鬱憤が溜まっていたのだろう。幸村が無言で聞いていると、畳み掛けるように不満が出るわ出るわ。
「おまけに、頼りの戦慣れした牢人衆は、いかに自分が手柄を立てるか、いかにして華々しく討死するかに執心してばかりで、団結などそっちのけで好き放題。牢人衆同士の連携すら取れていない。一枚岩ではないとはいえ指示が各大名に隅々まで通る徳川を相手に、この程度では、ねぇ……」
「…………」
言葉は刺々しく、おいそれとは聞き入れ難いが、言っている事そのものはすこぶる妥当だ。返答に詰まっていると、有楽斎が
「別に、貴方を悪く言う気は無いのです。この徳川の天下となった世で、豊臣に加勢して下さる方がいるのはありがたい事。ですが、聡明な貴方の事です、もうとうに気付いているのでしょう? 豊臣はもう長くないと」
頷くしかなかった。元より不利など承知、豊臣と心中する腹積もりで馳せ参じたのだから。
「私とて、二度ならず三度までも自らの城を失う茶々など見たくはないのです。茶々に求められたのならば、姪の頼みですもの、いくらでも知恵を絞りましょう。ですが、どうやら私は家中に嫌われている様子」
「なぜでございましょう? 豊臣と浅からぬ縁の有楽斎殿が」
「私は何度も秀頼殿や豊臣の家臣に、『徳川の世は既に盤石になりつつある。盾突くと痛い目に遭うだろうから、無駄に逆らわず一大名として仕えた方が身のためだ』と忠告して参りました。しかし彼らは、先程も申し上げた通り、一大名に零落するのは不服だと仰せになり、私の話など聞こうともしない。徳川との対立が激しくなって以来、豊臣は家中の総意と異なる事を言う者を嫌い、あからさまに追い出そうとしております。あの、真に豊臣の未来を考え仕えてこられた片桐
再び嘆息する有楽斎を見ていると、妙に申し訳なくなってしまう。
「ただ、そろそろ和睦せざるを得ない状況になるでしょうから、交渉が終わるまでは何とか居座りましょう」
ふと、幸村が片眉を上げる。
「和睦、でございますか? 豊臣家中も牢人衆も、あくまで抗戦を貫いているのに、でございますか?」
「ええ。豊臣家中は、必ず和睦を選ぶことになるでしょう。いえ、より正しく言いますと、和睦を選ぶまで、徳川はあらゆる手段を用いて豊臣家中に揺さぶりを掛けるでしょうな。相手も、豊臣を抑え込むのに必死でございますから」
「……まるで、未来を見たかのように仰せになりますね」
「これも、年の功でございますよ。生き恥を晒してこの歳まで生きてきたのです、時勢を見る目には多少の自信がありますよ」
有楽斎も、自分で点てたお茶をぐいっと飲み干す。
「悪い事は言いません。せめて貴方だけでも、豊臣を離れるがよろしいかと。確かに徳川にとって真田は恐怖でしょうが、自ら降ったものを邪険にはなさらないはずですが。何なら、あちらから調略の手紙が来るやもしれませんな。徳川殿も、真田を調略出来るならば願ったり叶ったりでしょうからなぁ」
それは無い、とは言えなかった。兄、叔父、甥……自分達一家以外の真田家中は、徳川についている。いつ、調略の手紙が来てもおかしくはない。
「貴方は命を捨てる覚悟で入城されたようですが、身の振り方を考え直してみるのも
「…………」
茶釜のプツプツと沸き出す音が、妙に大きく聞こえた。
結局、煮え切らないまま有楽斎の部屋を後にした。
「貴方には、私に会うより先にすべき事があったのでは?」
そう言って、にやつく有楽斎からなぜか茶菓子を持たされた。首を傾げながら数を数えると、ちょうど妻子と自分以外の五人衆の分を足した数になると気付いた。
「あっ! そういえばろくに御礼を言っておらんかった!」
すぐさまその足で厨に向かった。
「おお。幸村か」
先客がいた。又兵衛だ。
「そういえば、御礼を失念しておりました。有難うございます、又兵衛殿。この度の戦勝も、又兵衛殿の御協力あってこそ」
「そうだな。元は、俺とお前の合作だったもんな。あの出丸」
「ええ。それに、八丁目口からの援護に大いに助けられました。そうだ。他の皆様にも御礼を言わなければ」
「おおそうだな。この茶菓子も御丁寧に五つあるもんな。……でも、あの怪しい腰抜け茶坊主の菓子って大丈夫か? 変な物入ってねえか?」
「それは絶対に大丈夫です」
恐らくあの言い草だと、豊臣の防御の要となるべき牢人に、毒など盛らないだろう。淀君と豊臣を案じているのは事実らしいのだから。
「ほぅ。ま、じゃあ一つ
又兵衛は茶菓子を丸ごと口に入れる。「上手い」とくぐもった声が漏れる。
「しっかし、伸び代はあるたぁ思ってたが、まさかああも化けるとはなぁ。ほとんど
「そうでしょうか。やはり、父の戦を間近で見ていた甲斐があったのでしょうかね」
「あー、確かお前ん家、
「そう、ですね」
ふと、つい十五年前まで仲睦まじかった、今は徳川に仕える兄、
「何だ? 兄貴が徳川にいるっての、やっぱり気にしてんのか?」
「……いえ。父と兄と私、三人で話し合った事なので、今更悔いはありません。真田を残すため、ですので。ですが……戦場では直接相見えたくはありませんね」
「そりゃそうだ。戦の世じゃよくあるが、覚悟で割り切れるもんじゃねえからな。辛かろうな。何なら、お前と兄貴を鉢合わせさせないように、俺から言っておくか?」
「……お?」
ひくり、と無意識に片眉が上がる。
あの又兵衛が、自らの感情をほとんど言葉に乗せず冷徹に事実しか述べてこなかった又兵衛が、自らの感情を吐露し、さらには幸村の心配までしている。
「又兵衛殿が他人の心配をするなんて、どうなされたのです?」
「あ?てめえこそ、随分と言うようになったじゃねえか。入城した時にはオドオドしてた癖によ」
「はは、そうでしたっけ」
「ちっ。いいから他の連中にも配ってこい。長さんにはまだ家臣が帰ってきてねえ今にとっとと渡さねえと、家臣にねだられたらほいほい譲っちまうぞあの人」
「ごふっ! ……行きます! 行きますから背中を蹴らないで下さい!」
そういえば入城して間も無い頃にも、こうやって背中を蹴られてたっけ……そう思いながら、鈍く痛む背中をさすった。
***
「わーありがとうございますぅ! いただきますねー!」
「わ、私ろくに功を挙げておりませんのに、いただいてよろしいのですか?」
「おや。これは有難い。早速いただきましょう。……アーメン」
ぱっと顔を輝かせる勝永、なぜか謙遜する盛親、茶菓子に十字を切る全登に菓子を渡し終えた幸村は、屋敷に帰還した。
「戦勝おめでとうございます、幸村様!」
「おめでとうございます、父上!」
「おめでとうございます父上ー! え、それお茶菓子ですか!? 有難うございますー!」
幸村は、出迎えた家族に――娘の梅は父より茶菓子に釘付けだがそれは置いておいて――改めて戦勝を報告した。
「戦勝、と言っても、手放しに喜べるものじゃないけどね。依然として、我らが不利なのは変わりない。でも……有難う」
「豊臣が不利なのは致し方ない事。豊臣が約九万、対する徳川は二十万。たかが二倍とはいえ、兵数の差は十万以上、戦力差を覆すのは並ならぬ事でございましょう。幸村様も、不利を承知で豊臣につかれたのでしょう?」
「それもそうなんだが、たとえ死地を求めて戦に出たとしても、やはり戦うからには勝ちたいのが武士の性だよ」
「それはそうでございますね。しかし勝利の為には休息も大事。お風呂の準備は終えておりますので、ゆっくりなさって下さい」
「有難う」
幸村はすぐさま、戦勝を聞いたお竹が用意しておいてくれたらしい風呂に直行した。今日は、父親がいない最初の戦だ。妙に疲れた。
「父上も、戦の時はこれ位悩んでらしたのかな」
ちょうど良い加減の蒸し風呂で冷えた体を温めながら、生前の父の言葉を思い出す。
『軍勢を一つの塊と思うてはいかん。所詮は一人一人の集まりよ』
あの時の父は、敵軍を塊として見ず、軍を構成する将兵にいかに揺さぶりを掛け、瓦解させるかを説いていた。しかし今の幸村は、味方一人一人の集まりに翻弄されている。有楽斎に言われた通り、豊臣は一人一人の目指す所がてんでばらばら、正に瓦解寸前だ。
「せめて、目的だけでも統一出来ればなぁ……」
溜め息が、湯気に交じった。
「父上、御一緒してよろしいでしょうか」
風呂の戸が開き、大助が入ってくる。
「ああ。隣に来なさい」
「では失礼して」
大助が、ふうと一息つく。
「改めて父上、この度の御戦勝、おめでとうございます」
「ああ、有難う」
「私も、父上のお傍で、父上の戦を見てみたかったです」
俯く大助はむくれ面だ。
「そう焦るな。お前はまだ若い。二十歳にも届いておらんだろう」
「ですがこの戦の後は、私が産まれる前のような動乱は続かないでしょう。この機を逃せば、私は武家の者ながら戦を知らぬ者になってしまうやもしれません」
大助が、ばっと父に向き直った。
「父上! 次の戦は、私も出陣させては下さいませんか!?」
「いや、やめておけ! この度の戦は、負ければ後が無いどん詰まりの連中が、生き残りを賭けて天下を治める男達に最期に噛み付く、討死上等の大博打。
「しかし……」
口を尖らせる大助の頭を、幸村が小さな手で優しく撫でる。
「だからそう焦るな。危ない戦は私がやる。お前は、秀頼様をお傍で御守りするのだ」
「…………承知致しました」
相変わらずむくれ面だが、一応口だけでは納得したようだ。
「そうむくれるな。主君をお傍で御守りするのも立派な武士の勤めよ。忠義と誠実さは、むしろ私よりお前の方が上だ。お前は、お前に出来る勤めを果たしなさい」
大助の火照った顔が目に見えて華やぐ。やはり素直さは息子の方が上だ。
「今宵は寒い。もう少し温まってから出ようか」
「はい、父上」
正直なところ幸村は既にのぼせかけていたが、大助に合わせて少し長風呂してしまった。
「あら! 幸村様ったらお顔が真っ赤!」
「ははは。我ながら調子に乗り過ぎた。さ、夕餉にしよう。終わったら茶菓子もあるぞ」
いつもより少し豪華な夕餉を終え、皆で茶菓子を美味い美味いとつまみ、談笑する。ごく普通の、ありふれた幸福。
「いつまで続くかなぁ」
顔を綻ばせながらも、誰にも聞こえないよう、そっと独りごちた。
日輪と共に散りぬ~大坂城五人衆異聞~ 森林樹 @itsukishinrin
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