なにかがいる
まちかり
・なにかがいる
なにかがいる。
小学校に行く途中に、ふと振り向いた。
……何もいない。見えるのは深い雪に覆われた、見慣れた街並みだ。
この辺りは有数の豪雪地帯で、街は屋根から降ろした雪が高く積まれ、真っ白な壁に覆われている。
それでもなお、薄暗く空を覆った雲からは激しく雪が降り注いでいる。目の前は降り注ぐ雪と家々を覆った雪の壁のせいで真っ白に見え、違う世界に来ているようだ。
……まただ、またなにかの気配がする。僕は振り向いて白一色の世界に目を凝らした。やはりなにもいない、僕は再び学校に向かおうと前を向いた。
聞こえた! 今度は、はっきり聞こえた!
『シャァァァァァ』と、雪の中を切り裂くような、金属のような音が!
僕は今度こそ完全に向き直って、自分が歩いてきた街並みに目を凝らした。朝早く、白一色の雪深いこんな日に歩いているのは、部活の早朝当番を任された僕だけだ。
立ち尽くしてしまった、一歩も動けない。以前お父さんに聞いた話を思い出し、魂まで凍ってしまった。
◇
「世界には寒い世界に生きる、不思議な生き物がいるんだぞ」
「またそんなことを言って怖がらせようとする!」
僕はご飯を食べる手を休めて、文句を言う。
「いやいや、人間が住んでいる場所なんて世界のほんの僅かなんだ。人知れず生きている未だ見ぬ生き物がいるはずだ。未だに世界では新種の昆虫や魚が見つかっているんだ。この雪深い世界にも、そんな生き物が見つかるかもしれないぞ」
「……そんな生き物、聞いたこともないよ」
「モンゴリアン・デスワームっていう映画に出てくるウジのような芋虫は、存在するのではないかと思われているんだ」
「本当に生きているものが捕まったわけじゃないんでしょ」
「まあ、そんな夢のないことを言うな。スイスのアルプスにはタッツェルヴルムっていうのがいるらしいぞ」
「タッツェルヴルム?」
「ああ、タッツェルヴルムっていうのは〝足の有る虫〟と言う意味でな。シュトレンヴルム……〝トンネルの虫〟、〝太く短い足〟っていう名前もある。全長は30センチから2メートルにもなる目撃があって、芋虫のような体に鋭い爪の付いた何本もの足で雪の中を進むんだ……どうしたんだ? 顔がひきつっているぞ?」
◇
お父さんは〝タッツェルブルム〟や〝モンゴリアン・デスワーム〟を本当には信じていない、話ぶりからしてもそうわかる。
だけど僕は、そういう生物がいるかもしれないと本気で信じている……だからこそ本当に怖いのだ。
だってそうじゃないか? もしそんな生き物が本当にいたら、何を食べてその大きな胃袋を満足させているのか、って考えないのだろうか?
学校のみんなは恐竜が現代に生きていたらうれしいというが、僕はイヤだ。ティラノサウルスが生きていたら、僕らはエサにしかならない。僕らをエサにするような生物は、僕らの世界で共存は出来ない。軍隊かなにかに退治してもらって排除するしかない。
だがこの変な音を出す雪の中の生き物は、何か判らない。もし本当に〝タッツェルヴルム〟だとしたら『なぜここに居るのか』が最大の問題だ。
こんなひと気のない通学路の雪の中で何をしているのか? それがもし、『エサを求めている』としたら大問題だ。今、この場でエサになりそうなのは、この僕だけなのだから。
「おい、そんなところで何してるんだ?」
突然、声をかけられた。
見ると音のした雪の壁の横に、見たことのある同級生が立っている。同じ小学校二年生で、確か名前は……あだ名しか思い出せない、〝やっちゃん〟だ。本名にも似ているが、関わるとやっかいなことにしかならない、それで〝やっちゃん〟だったと思う。
「おい、何でそんなところに突っ立っているんだ、って聞いてるんだぞ?」
見たことのない生物も怖いが、リアルなトラブルも怖い。僕が何も言い返さないと、ますます不機嫌な声を張り上げて聞いてきた。
「お前、なめてんのか?」
僕はその声の大きさに驚いて、慌てた。
「そ、そんな大きな声出さない方がいいよ」
「ああ? 何言ってんだ、お前」
僕の声のかぼそさに、よけい腹を立てたようだ。さらに声を荒らげて僕を問い詰める。ここまで来たら仕方がない……僕は腹をくくった。
「そ、そこの雪の中からヘンな音がしたんだ。な、中に何かがいるかもしれないんだ!」
「この雪の中に? なにかがいる?」
〝やっちゃん〟は大声で笑い始めた。
「ははははは! 俺を脅かそうっていうのか! バカだな、お前。そんなミエミエのウソに引っかかるものかよ!」
そう言って〝やっちゃん〟は自分の横にある壁に手を突っ込んだ。
「ほら、何がいるっていうんだ? 何もいないぜ」
〝やっちゃん〟は突っ込んだ手を雪の中でぐりぐりとかき回す。
その瞬間だ。『ボソッ』と何かが動き始める音がして、僕のすぐ横の雪の壁の中から〝やっちゃん〟の方にめがけてなにかが『シャァァァァァ』と壁を切り裂くように煙を上げて移動してゆく。
〝やっちゃん〟もそれを見て、ようやく本当に何かが雪の中に居たことに気が付いた。
僕は自分のすぐそばまで何かが近付いていたことに驚いていたが、それでも反射的に叫ぶ。
「やっちゃん!」
〝やっちゃん〟は慌てて雪の中に突っ込んでいた手を引き抜こうとしたが、遅かった。
「ぎゃあああああ!」
悲鳴が聞こる。だが雪に阻まれているせいか、大きな声には聞こえない。しんしんと降りしきる雪がまるで悲鳴をかき消しているようだ。〝やっちゃん〟はようやく手を雪の中から引っこ抜いた。だがその手は何かが食い千切ったように、ボロボロになっていた。
「ああああああああ!」
〝やっちゃん〟はその手を見つめて、何かを言おうとしたが声にならない。その時、雪の壁が雪煙を上げて中から何かが飛び出した。雪煙に掴まった〝やっちゃん〟は雪の壁に引き込まれる。
なにかのうなり声、バリバリと肉や骨を噛み砕く音がする。見る見るうちに雪の壁は、真っ赤に染まっていった。
「あ、あ、あ、あ、あ、あ」
僕はその様子を何も出来ず見つめていたが、壁の中の音が止まった瞬間、心の中のスイッチが入った。
『逃げろ』
僕は駆け出した。降る雪が、積もった雪がまるで生き物のように僕を捉えようとする。だが僕はそれをものともせずに走った。自分でこんなに早く走れるのか、と思うくらい走った。
振り返ると、何かは雪の壁の中を猛スピードで追ってくる。雪の壁の間を飛び越え、雪の厚みに関係なくスピードを落とすことなく追ってくる。視線を戻すと目の前に交差点が見えた。信号は赤だったが、構わず走った。
『ここで雪の壁は途切れている、追ってくるものの正体が見られるかもしれない』
何気なくそんな考えが浮かんで、僕は足を止めて振り返った。すると地面に積もった雪に何かが隠れたように盛り上がると、今度は道路の端に積もった雪の中を何かが『シャアアアアア』と音を立て、雪煙を上げながら追いかけてくる。
僕は再び走った。見慣れた景色にハッとして前を向くと、先生が校舎正門の横の通用門を開けている。
先生はゆっくりと僕の方を振り向くと、のんびりした調子で言った。
「おお早いな、そんなに慌てなくても大丈夫だぞ」
僕はお構いなしに先生の服をつかんで校庭に引きずり込むと、叫んだ。
「先生! 門を閉めてください!」
僕の声にはただ事ではない様子がこもっていた。先生は慌てて通用門を閉じた。
『ガッシャァァァァァン』
何かが通用門に激突し、門がこちら側に大きく膨らんで先生が弾き飛ばされると同時に
「ピギャアアアアアアア!」
と今まで一度も聞いたことのない悲鳴が上がった。
先生と僕は醜く膨らんだ通用門を見つめていたが、僕は『シャアアアアア』と雪を切り裂く音が遠ざかって行くのを黙って聞いていた。
何も聞こえなくなった世界の中で、ようやく僕は我を取り戻す。
「先生、〝やっちゃん〟が! 〝やっちゃん〟が!」
◇
そのあとは大騒動だった。僕が案内した場所で、〝やっちゃん〟の死体が見つかった。死体はあちこちが食い荒らされて人間には見えなかったらしい。
「……あれがまた、来たんじゃ……」
駆けつけた古老のハンターが、信じられない様子でつぶやく。意味不明なその言葉を、僕は不思議に思いながら聞いていた。
謎のケダモノの捜索が始まってとんでもないことがわかった。〝やっちゃん〟以外に、四人もの人が殺されていたのだ。みな雪の壁の中に埋もれるようにして、体のあちこちを食われて死んでいた。
地元猟友会で捜索隊が組まれ、近くの山の捜索が開始された。冬眠していない熊が見つかり、猟友会に駆除された。熊に責任を負わせて、街は平穏を取り戻した。僕はその話をくもった顔の父から聞いたが、僕の心に平穏は訪れない。
熊だって? かわいそうな熊、バカなことを言う大人たち! 熊があんな巨体を雪の壁に隠して、高速で追ってなんか来れるものか!
だが、本当の事はとても言えなかった。言ったところで誰が信じてくれるだろうか?
雪の壁の中を高速で移動し、わずかな間に五人もの人を殺せるなにかの事を。言ったが最後、変人扱いされてつまはじきにされるのがオチだ。最悪、僕が殺したとか言われるのも御免だ。
実際のところ、僕はしばらくの間、まるで腫れ物のように扱われた。人が殺される現場を見てしまった人になんて声をかけて良いかなんて、誰にもわからない。僕自身何を見たか、はっきり説明できないのだからよけいだ。周囲の人たちはさぞかし動揺したに違いない。
父は僕の前で怪物の話をしなくなった、もちろん気をつかってだろうが、父自身も何を話していいか判らなくなったのだろう。
◇
腫れ物のようにあつかわれて二年、可哀想な目撃者になって二年、ようやくふつうに中学生になって一年が過ぎ、僕はやっと自分の生活を取り戻した。そして僕は部活の早朝練習のため、雪の降るなかをあの時と同じように雪の壁の横を歩いている。
五年間、あの奇妙な出来事は起こらず、犠牲者の家族と一部の人の記憶にとどまるだけで、多くの人の記憶からは消えてしまったに違いない。僕ももうあんな経験はこりごりだ、二度と起こって欲しくない。
「おはよう」
今朝はラッキー、部の美人マネージャーに出会えるなんて。
「おはよう、朝早くから大変だね」
「本当よ、もう少し寝てたかった」
目をこすってマネージャーが言う。あれ? 何か変だ。
「マネージャー、何でここに居るの? 僕たちより先に学校に居るはずじゃ……」
「それがね、おじいちゃんが引き留めるの。『今年は危ない、気を付けろ』って」
僕はそれを聞いて、ハッと思い出した。
そう、僕はあのあと、町の図書館で古い新聞を調べたのだ。事件の五年前、この町で五人の人々が殺されていた。やはり熊の仕業だと言われて、熊が殺されていた……。
あの時の老ハンターのつぶやきはそのことなんだ! この町には五年に一度、五人の人間を食う何かがいるんだ!
道路に積み重ねられた雪は、周囲の音をほとんど遮断し、僕が歩いている辺りは無音の世界が広がっている。その中を切り裂くようにあの音が聞こえる。
「マネージャー、走って!」
「ど、どうしたの?」
僕はあの時と同じように走った、それしか方法はない。
後ろから音がする、あの雪を切り裂く音が。
『シャアアアアア』
なにかがいる。
了
なにかがいる まちかり @kingtiger1945
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