本当の音

棗颯介

本当の音

 この世界には嘘と欺瞞が満ち溢れている。そのことに私が気付いたのは、まだ口から発する言葉も拙かった頃。

 私には、物心ついた頃から不思議な力があった。

 人の本音が聴こえる。

 相手が話している言葉の裏にある本当の音が、私の耳にはなぜか届く。

 今年で二十五歳になる私が他人を信用しない性格になったのは間違いなくこの力のせいだ。学校の教師の優しく熱い言葉の裏にある生徒への侮蔑、表面上仲良くしているようで実は互いを見下し合っている同級生たちに、発育の良かった私を邪な目で見る思春期男子の下卑た考え、果ては内向的な私を内心扱いづらいとすら考える両親まで、私の身の回りという極めて狭い世界でさえ虚言と醜い欲望が渦巻いている。

 私が役者の道を目指したのは、堂々と嘘が言える職種だったからだろう。相手への甘い愛の囁きも、高らかに叫ぶ永遠の友情も、最初からすべて嘘だと分かりきっていればいっそ清々しい。役者というのは不思議なもので、役を演じているときは台詞と本音が一致することが多い。舞台の上に立っているときだけは私の世界からは欺瞞が消え去り、美しくて都合の良い”本当”だけが残る。本当の音に包まれているときだけは、世界のすべてを信じることができた。

 

 他人の本音を聞くことができる私は、逆に言えば他人を疑うことを知らなかった。

 だから、”彼”と初めて出会った時、私はかつてないほど恐怖した。初めて知った、”相手の本心が分からない”という恐怖。出会った”彼”の言葉からは、本音が聴こえなかったから。


 初めて彼と出会ったのは、私が演劇の発声練習のためによく通っていた寂れた海岸。いつも通り台本片手に波打ち際を歩いていたら、波に運ばれて彼が砂浜に打ち上げられていた。誇張でも冗談でもなく、言葉通りに。私は急いで救急車を呼んで、電話の向こうの救助隊の人の指示通りに人工呼吸と心臓マッサージをした。何分か続けているうちに息を吹き返した彼はそのまま病院に運ばれて、なんとなく救急車に同乗した私も事情聴取を受けて。幸い彼は怪我も後遺症の類も見当たらなかったらしくて、私は去り際に一目無事を確認しようと思って病室を訪れた。


「……助けてくれて、ありがとう」

「……?えぇ、いえ、気にしないでください」


 開口一番、彼がそう言った時に、私は内心驚愕した。

 この人からは、本音が聴こえない。今まで耳を塞いでも目を閉じてもどうしようもなく私の耳に届いていた醜くて不快な他人の本当の音が、この男の人からは全く聴こえなかった。


「……」

「……」


 彼は無口な人だった。そもそも人間嫌いだったのかもしれない。

 普段は人の本音を聞きたくなくて自分から誰かに話しかけることを滅多にしない私が珍しく声をかけたのは、彼の本音が聴きたいと思ったから。本音が聴こえないという、普通の人にとっては当たり前な、しかし私にとっては異常ともいえる事態が、ただの偶然か気のせいだと思いたかったから。


「あの、何があったんですか?海で溺れるなんて」

「……いや、別に。いろいろと」


 やはり、何も聞こえない。


「いろいろって?」

「……いろいろです」


 何度聞いても、やっぱり何も聞こえない。どうしてだろう。この人が特別だから?それとも私が普通に戻っただけ?

 誰かのことをこんなに気にしたのは多分生まれて初めてだった。


 ***


「ごめん、待たせちゃった?」

「いや、俺も今来たところだから」

「どうだった?今日の舞台」

「良かったと思うよ。最後の長台詞は観てて感動した」


 最初の出会いから一月が経つ頃には、私達は多分世間的に「友達」と呼べる程度の関係にはなっていた。と思う。私は元々人を信用しない性格だったから友達なんてできた試しがないし、彼は彼で自分の交友関係をあまり話したがらない人だったから、私たちが客観的に見てどういう関係だったのかは正直疑問だ。

 彼は時々、私が出ている舞台を観に来てくれた。私が所属している劇団はあまり知名度のない小さなところだったから、普段上演している劇場もどちらかといえば小規模なステージがほとんどだった。だからこそ、彼のように演劇に疎い人でも気軽に観に来れるのはメリットだと私は思っている。


「ありがとう。どこかご飯食べに行こうか」

「いいよ、何食べたい?」


 こうして彼と何度も言葉を交わしているけれど、あれから結局彼の本音を聞いたことはついぞない。いつも通り私を見ているのかどこを見ているのか分からない暗い目で私を見て、心がこもっているのか呪詛でも唱えているのか分からないボソボソした声で私に返事をする。

 彼のことを、名前以外ほとんど何も知らない。聞いても教えてくれないか、うまくはぐらかされてばかり。だから私も、舞台役者をしているということ以外はほとんどプライベートを彼に話さなかった。もちろん、人の本音が聴こえるという不思議な力のことも。

 私達の間には、真実も嘘もない。あるのは、強いて言葉を選ぶなら”安心”だろうか。相手が本当は何を考えているのか分からないというのが最初は恐怖でしかなかったが、彼と会うたびに相手の本当の音が聞こえず、相手のことを何も知らないということに一種の安心感を覚えていた。知らぬが仏という言葉があるように、世の中には知らない方が幸せなこともあるということだ。この中身のない、信頼も恐怖もない形だけの交流が、今まで他人と深く関わってこなかった私にとっては逆に居心地が良かった。


「今度やる予定の舞台、もしかしたら殺陣をやるかもしれないの」

「殺陣?へぇ、経験はあるの?」

「ううん、でも楽しみ」

「そっか、怪我だけはしないようにね」


 食事中の私達の話は決まって演劇の話ばかりだ。お互いのことをあまり話さない私達の間で、唯一語れる話といえばそれくらいしかない。もっとも私は自分語りは得意ではないし、彼も彼で喋りは達者ではないから会話はあまり弾まないけれど。


「そういえばさ」

「え?」


 細かく切り分けたステーキを口に運んでいるとき、珍しく彼の方から話しかけてきた。


「どうして役者になろうと思ったの?」

「……それは、芝居が好きだからだよ?」


 嘘は言っていない。けれど真実でもない。舞台に上がっているときだけはすべての嘘が本当になる。その感覚が心地いいから。

 彼は普段から悪い目つきをいっそう細めて私を見る。まるで私の言葉にある嘘を見透かそうとするかのように。今まで人とこうして会話をしたこと自体あまりないから、誰かから自分の言葉を疑われるというのは新鮮だった。


「……ふーん、そっか」

「それがどうかしたの?」

「いや、別に」


 ”別に”。彼の口癖だった。まるで他人の余計な追及を避けるかのように放たれる簡潔で短い一言。それさえ言ってしまえば自分に降りかかるすべての声から耳を塞ぐことができる。

 そんな彼の口癖を聞いて、私は少し、彼の中に足を踏み入れてみたくなった。知らないでいることは確かに安心だけど、ちょっとした気の迷いみたいなものだった。


「ねぇ、こっちも一つ聞いていいかな」

「なに?」

「私のことどう思ってるの?」

「は?」


 彼は珍しく普段半目の目を見開いて私を見た。こんなに動揺する彼を見たのは初めてかもしれない。本当に、彼と一緒にいると初めての体験ばかりだ。だから私はこんな彼と一緒にいるんだと思う。


「どうなの?実際」

「どうって、別に……」

「”別に”は無し。たまには貴方の本音を聞きたい」


 本音を聞きたい。今まで散々他人の本音を聞かされてきた私がまさか誰かにそんなことを言う日が来るとは。我ながら感慨が深い。


「———てるのかなって……」

「え?」

「何考えてるのかなって、思ってる、かな」


 彼は私と目を合わせずにいつも以上にか細い声でそう言った。絞り出すような声で、同じテーブルに座っている私にしかきっとその声は聞こえていなかったと思う。その姿はさながら、クラスメイトの前で女性の先生に優しく頭を撫でられて恥ずかしがっている幼稚園児のよう。彼が”羞恥”という感情を持っていたことに、私は少しだけ驚いた。当たり前のことであるはずなのに。

 何を考えているのか分からない。それはこっちの台詞なのに。


「それは、私だってそうだよ。貴方が何を考えているのか知りたい」

「———ろ」

「え?」

「やめろよ!」


 彼は今まで聞いたことがないような大きな声をあげて勢いよく立ち上がった。

 唐突に発された彼の声に店内にいた他の客が一斉に私達を見る。しかし、彼はそんな注目を集めていることも気にせず言葉を紡いだ。


「もう、いいじゃん。お互いのことなんか知らなくたって」

「あっ、ごめん!私、何か気を悪くするようなこと言っちゃったかな」

「俺はさ、誰にも自分のことを知られたくないんだよ」

「え?」

「……もう帰る」

「あっ、ちょっと!」


 彼は財布から代金だけを置いてそそくさと店を後にしてしまった。

 残された私は、しばらくテーブルから立つことができなかった。食事もそれ以上口に運ぶことはしなかった。頭の中では彼の言った言葉が何度も何度も繰り返し再生される。


 ”もう、いいじゃん。お互いのことなんか知らなくたって”。

 ”俺はさ、誰にも自分のことを知られたくないんだよ”。


 私は、後悔していた。私も、お互いのことを何も知らないままでいる今の関係が好きだったのに、軽率にそれを壊してしまったこと。他人の本音なんて聞きたくない、大嫌いだと思っていたのに。彼の本音を聞きたいと思ってしまったこと。彼が私のことをどう思っているのか、知りたいと思ってしまったこと。彼のことを、もっと知りたいと思ってしまったこと。

 ふと、彼が席を立つ前に言っていたことを思い出す。


 ”何考えてるのかなって、思ってる、かな”。


 あの時彼が絞り出した小さな声は、紛れもなく彼の本音だったんだと思う。彼のあの表情を見れば本音が聴こえなくたって分かる。

 彼も、私のことが知りたいと思ってくれていたの?私の本当の気持ちを聞きたいと思ってた?

 そうだ、彼はその前にも私が役者になった理由を聞いていた。その時私は、本当のことは言わなかった。もしかしたら私は、自分が気付かないところで、彼のことを傷つけていたのかもしれない。私が自分のことをあまり語らないことに、彼はどこかで寂しさを感じていたのかもしれない。私がさっき彼につい本音を問いただしてしまったように、彼も今まで私に本音を語ってほしいとどこかで思っていたのかもしれない。

 私は、彼を探しに外へ出た。

 彼に、私の本当の音を届けるために。


 彼は、最初に出会った海岸にいた。

 もうすっかり夜も更けていて街灯もないこの海岸で、彼はまるで入水自殺直前の自殺志願者のような暗い表情で波打ち際に体育座りをしている。


「一ヵ月前」


 私が彼のすぐそばまで歩み寄ると、彼は私の存在に気付いたのか徐に口を開いた。


「俺、崖から飛び降りて死のうとしたんだ」

「……やっぱりそうだったんだ」

「知ってたの?」

「ううん、なんとなく」

「……俺、他人が嫌いでさ」

「どこが?」

「嘘ばっかり言うし、平気で裏切るし、誰も信用できないって小さい頃から思ってた。友達も、恋人も、家族も。みんな俺のことを裏切ったし。俺が心を開いても、どれだけ信じた相手でも」

「だから、自分のことを話したくないって思うようになったんだね。人の本音を聞くことも」


 私と同じだ。周りの人が言っていることには常に裏があって、口にしていることと真逆のことを腹の底で抱えている人ばかりで、人間っていう生き物はなんて醜いんだろうって私もずっと思っていた。


「聞きたくなくても聞こえるから」

「え?」

「人の本音。どうせ信じてくれないだろうけど、俺、昔から人の話していることの本音が聞こえるんだ」

「……え?」

「小さい頃から、家族が内心俺のことを鬱陶しく思ってる声とか、友達が俺を馬鹿にする声とか、恋人が実は俺のことを嫌っている声とか、全部、聞きたくなくても聞こえてくるんだよ」

「……私と、一緒?」

「え?」


 彼はようやく私の顔を見た。

 私は、彼と初めて言葉を交わした時以上に驚いていた。

 彼は、本当に私と同じだった。

 私と同じ、他人の本当の声が聞こえる人なんだ。


「私もそう。昔から人の本音が聞こえる」

「……冗談だろ?」

「ううん、冗談じゃない。本当のこと」

「なら、わざわざ俺に自分をどう思ってるかなんか聞かなくたって、本音が聞こえるなら分かるだろ?」

「貴方だけは、違ったの」

「え?」

「貴方の声だけは聴こえなかった」

「……一緒だ」

「え?」

「俺も、お前の声だけは聴こえなかった」

「……本当?」

「本当」


 私達はかなり長い間無言で見つめ合って、それから、どちらからともなく涙を流した。

 こんなことがあるんだ。自分と同じように悩んで苦しんで、人の心と世界の醜さに絶望していた人がいたんだ。私は、本当に久しぶりに泣いた。ずっと人の悪意を聞き続けて、人知れず流していた涙。もうすっかり枯れたと思っていたのに。

 私と彼は、本当の音しか聴こえない砂浜で、抱き締め合いながら泣き続けた。


 泣き疲れた私達は、二人で砂浜に腰かけながらぼんやりと月明かりに照らされた海を眺めていた。


「——ねぇ」

「ん?」

「貴方の本当の音、聴きたいな」

「……そっちが先」


 彼は照れくさそうにそう言った。


「……そうだね。じゃあ私が役者になった理由だけど―——」


 今夜だけは世界のすべてを信じようと、私は思った。

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