ひらめくカーテンの奥に……

衞藤萬里

ひらめくカーテンの奥に……

「ね、お母さん、ヤバいって、あたしの教室の噂?昔、男子をぶっ刺して、窓から飛び降りた子がいたんだって、それヤバくない?」

 娘の穂乃花がそう云ったとき、あたしは顔には出ていなかったとは思うけど、心臓が止まるほど驚いていた。多分、顔の表情まで硬直していたと思う。

 普段なら、百種類もの「ヤバい」で日常会話の七割を処理してしまう穂乃花にため息をついて、自分はもう若くないんだなぁなんて思ってしまうが、今日ばかりはそんな呑気なことは考えられなかった。

 もう少ししたら帰ってくる旦那のために味噌汁を温めなおしながら、あたしは関心のないふりをした。

「さぁ、そんな噂話って、どこにでもあるんじゃない?」

「ほんとだって、もう二十年ぐらい前だけど、ニュースにもなってるって、教室は血まみれで、女子は頭がぱかーって割れて、脳みそがどばーって飛び散ってたんだって。ヤバいでしょ」

 穂乃花には、今彼女が通っている中学があたしの母校とは教えていない。だからその話も、ただの世間話なんだろう。

 それでも呼吸ができなくなるほどのいやな感覚が、あたしの脚下からぞわぞわとはい上がってきた。

 穂乃花はスマホの画面に気をとられているのか、別にそれ以上つづけることはなかった。ただの世間話だったんだろう。


* * *


 掌と手の甲に、誰かの手。

 あたしの手に重なる何本もの腕。

 誰のものかとたどっても、制服の先の顔はかすみがかかる。

 重ねている掌の先に何かがあった。

 とても重みがあって、とりかえしがつかない何かだった。

 あたしの中で、ものすごい音をたてて警報が響いていた。

 望んでもいないのに、抗しがたい重みがあたしたちの手にかかっていた。

 やめて!とあたしは叫んだが、声にならなかった。

 ぞぷり――と、金属質のものが、水気のあるとても分厚い何かにもぐりこむ感触があって、背筋に異様なおぞましさが走りぬけた。

 ――そこであたしはとび起きた。

 心臓が早鐘のように激しく胸を打っていた。身体中からべっとりと脂汗が吹き出していた。悪寒。呼吸という単純な行為を身体が失調し、自分の息が長くぶざまな悲鳴のような音をたてていた。

「……どうした?」

 隣に眠る旦那が、声をかけてきた。何でもないと云いかけて、言葉が出なかった。

「お前、最近おかしいぞ、毎晩そんな調子だ」

 ……うそ、と反論しかけても、その気力もなかった。身体に液体の鉛がつめこまれたように重い。

「大丈夫か?身体、悪いのか?」

 心配そうにそう云ってくれる旦那。

 あたしは首を振る。

 本当にあたしが知りたいぐらい――いや、違う。知りたくなんかない。とてつもなくいやな気分にさせるあの感触、あれが何なのかわかってしまったら、あたしは取り返しのつかないことになる、そんな気がする。でも……

「まじめな話だけど、ここんとこずっとそうだ。身体の調子じゃないっていうんなら、今の会社で契約してるメンタルクリニックがあるんだ。なんならそこに……」

 やさしさで云ってくれていることはわかる。でもあたしは、そんなこと望んでいなかった。執拗に首を振りつづけた。


 ……カーテンがひらめくような気配があった。


「……その感触に心当たりはありますか?」

 ……え?

 眼の前に男の人がいた。年のころは若くはないが中年でもないぐらいだろう。たくましく、頬からあごにかけて無精ひげが濃いが、顔の輪郭がくっきりとしていて不潔な感じはしない。顔の彫りは深く、まるで暗がりの奥深くからのぞきこんでくるような眼光だった。

 あたしはその人と向かいあっていすに座っていた。一瞬遅れて、ここは病院の診療室であることに気がついた。でもあたしは、なぜかその人をお医者さんだとは思えなかった。白衣を着ていないだけが原因じゃない。

「あなたが夢に見るという、その感触です。心当たりはありせんか?」

 その人の声は低く、身体に染みこんでくるような感じだった。

 あたしは何も考えずに、機械的に首を振った。

 あぁそうか、お医者さんっぽくないけど、この人は旦那が云っていたメンタルクリニックの人なんだ……

 あれ、あたしいつ来たの?いや、大体診療所なんかに行かないって云ったのに、どうして?

 何、この違和感?

 くらっと視界が歪んだ。途端に壁が天井が透けていき、机やパソコンといった診療室の器具が厚みを失ったように感じた。


 ……カーテンがひらめくような気配があった。


 教室の床に、穂乃花たちが男子生徒を押さえこんでいた。女子でも数人がかりなら、男子中学生のひとりぐらいは押さえつけることができる。

 抵抗する彼のズボンと下着を、無理やりむしりとる。

(――何をやってるの!)

 あたしは悲鳴をあげた。あたしは穂乃花たちと、それを取り囲んでいる生徒たちのすぐ後ろにいた。どんなに必死で手を伸ばしても、穂乃花たちには届かなかった。

(――やめて!)

 床に押しつけられた彼の腰の上に、泣きながら激しく抵抗する女子を、何本もの腕が無理やりまたがらせた。

 彼の縮こまったあれや、女子の泣きさけぶ声に、穂乃花たちは興奮して卑猥な嬌声をあげ罵声をあびせかけた。

(――やめて!)

 穂乃花たちだけじゃない。周りの生徒たち、この残酷な見世物を好奇の眼をぎらつかせて鑑賞していた。あたしは吐き気がした。

 ひとりが彼女のスカートのすそを胸まであげると、白い下着が丸見えだった。そのみっともない様子を、みんなスマホで写している。

 どうして穂乃花が、あれをしているの?

 あたしは気が狂いそうだった。あたしは知っている、あれの結末を……それ以上やっちゃだめだ!

 でも、そんなあたしの必死の叫びも、まるで意味がなかった。


 ……カーテンがひらめくような気配があった。


 次の場面も知っている。これから何がおきるのかも。

 放課後の教室――彼と彼女、そして穂乃花たち。彼と彼女は窓際にいた。グラウンドでは運動部の声が響く。

 不細工な彼だった。よどんだ不潔な空気をただよわせたにきび面、いつも上目遣いの視線は、生理的な嫌悪感を穂乃花たちにあたえているはずだ。

 そして彼女。

「さあ、こないだは寸止めでごめんなさぁい。今日はふたりが楽しみにしてた本番の時間ですよ」

 穂乃花が残虐な笑みをうかべる。

(穂乃花!)

 あなたは一体、どうしたっていうの!

 周りの娘も、眼をぎらぎらさせている。ひとりがスマホでふたりを撮影していた。あたしはこの娘たちをよく知っている。どうして?

(やめて!それ以上やめて!)

 あたしはさっきから叫びつづけ、手を伸ばすのに、どうして穂乃花たちにはわからないんだ。

 おもむろに彼女がカバンから包丁を取りだした。骨の硬い魚をさばけるような、刃の分厚いやつだ。

 あのときのように、うつむいた彼女の表情はわからない。

 無造作に、隣の彼の腹を深々と刺した。

 耳をふさぎたくなるような、不快な絶叫。身体をくの字にして、腹を押さえて床でのたうちまわる彼。

 その光景を、あたしは知っている。穂乃花たちは動けない。あたしも声を出すこともできない。

 包丁は柄だけが、のたうちまわっている彼の腹から突き出ているように見える。 彼女はどす黒い血だらけになった掌を、穂乃花たちに見せつけた。そして窓際の机にのぼり、窓枠に脚をかけた。振りかえる。

 満足したように、そしてとてつもなく邪悪な笑顔を穂乃花たちにむけた。背筋が凍るような笑みだった。

「お前らみんな、呪ってやるからな」

 そう云うと本当に嬉しそうに、四階の窓からあっけなく身を投げだした。重たい砂袋が叩きつけられたような鈍い音がし、外では悲鳴が響いた。

 彼女がふれた窓ガラスには、べったりと血の跡。

 スマホが床に落ちる音がした。

「……うそ」

 穂乃花の隣で、誰かがへたりこんだ。

 あたしはかたく眼を閉じ耳をふさぎ、悲鳴をあげていた。

 うそだ、こんなのありえない!

 どうして!

 どうして、あたしの記憶の中に、穂乃花がいるの?


* * *


 そのわずか数年をすぎてしまえば気がつく。教室やグループの中での序列なんて、何の価値もなかったってことに。

 それなのにあたしたちは、手を伸ばせば壁に触れてしまうぐらいに狭いあの場所が、世界でもっとも価値のある場所であり、そこでの序列が何より大事だなんて、どうしてそんなばかな考えに捉えられていたんだろう?

 大人たちが忠告してきたことも、同世代の冷ややかな視線も、あたしたちには本当に大事なことわりを失ってしまったり、無理解な凡俗のひがみとしか受け取ることができなかったんだ。

 考えてみたこともなかった。彼女や彼にだってプライドがあって、辱めを受けて平気でいられるはずがないってことを。

 彼女のことは気に入らない、彼のことはただ気持ち悪いって、ただそれだけで、何をしてもかまわないって、何でそんなことを平気で思えたんだろう。

 自分たちのその感覚はまっとうなものじゃないなんて、考えてもみなかった。

 いじめを苦にした彼女が、彼を刺し殺して自殺した。

 あたしたちにとって武勇伝だった。

 人を死に追いやったんだ。ふたりの死んだ原因は知らない人はいない。学校であたしたちに逆らえる者なんか、もういないと思ったぐらいだ。

 だけど失速はあっという間だった。大人が本気になったら、あたしたちなんてまるで象にふみつぶされる蟻のようなものだった。

 炙りだされ、今度はあたしたちが狩られる側だった。

 何人ものスマホのデータの中に、そのときの映像がある。何があったか、言い逃れができない証拠だ。

 あれほど固い結束だと思いこんでいたグループの中ですら裏切りがあって、さっさと逃げ出そうとした子もいたが、逃げきることなんてできなかった。

 死んだ彼女や彼の家はモザイクをかけられて連日テレビに映り、学校にもテレビカメラを抱えたやつらが押し寄せ、校長や教育委員会がいじめがあったとみとめて謝罪会見をおこなった。

 どこで調べたのかわからないが、あたしの家まで「お話を聞きたい」という記者かライターだかもやってきた。他の子の家にも来たらしい。もちろん事情を聞きたいという意味じゃない。人をいじめ殺した気分はどうですか、このクズ?ということだ。

 噂はすぐに広まった。近所の人たちが陰口をたたいている。挨拶をかわしていた近所の優しいおばちゃんたちにとって、あたしはいじめという陰湿な行為で人を死に追いやった、心のねじくれた化け物に変貌した。

 あたしは逃げださざるをえなかった。隣県の母方の叔母さんの家に越して、素性をかくしてそこの中学に通った。

 他の何人もそうした。

 あの怨念がこもった街には、成人式でも帰ることができなかった。あたしたちの代だけ同窓会は開かれたことがないらしい。

 瓦解してしまったあのときのグループとは、もうつきあいのかけらもない。噂ではほとんど消息もわからないとのことで、何人かは十代ですでにまっとうな道から外れたらしい。正直、あたしはもう会いたくもないし、忘れてしまいたい。

 高校卒業――親は高校までは学費を出してくれた――と同時に就職をした。つまり両親からも肩身の狭かった叔母一家からも、そこで見捨てられた。

 こんなに先行きのない人生を、これからずっとつづけていくのかと考えると、絶望に呑みこまれていくような気分だった。自業自得なのはわかる、だけど……

 そんなときに彼に会った。好きという気持ちももちろんだったが、もう逆転の見込みのない試合の敗戦処理のようなあたしの人生に、何かしらの希望を与えてくれる存在に思えた、

 偶然だけど旦那は同じ街の出身だった。あたしが逃げた先の大学に進学した後、地元に戻らず就職して、そこであたしたちは出会った。

 結婚――親たちはあのことを隠し通してくれた。世間体のためだ。彼の親は鷹揚であたしの身辺調査などは、特にしなかったようだ――そして出産。

 それまでの敗け試合に、光明がさしたような気になった。

 少し不安だったのは、彼が仕事を何度も変えたことだった。別に職場になじめないほど我が強いわけでも、ばくちを打つような上昇志向があったわけでもないのに、どういうわけか状況は悪くなる一方だった。

 そして――

「頼むよ、このままじゃ先がない。伯父さんが地元で職場、世話してくれたんだ、もう断れないんだよ」

 あの街に帰る、それだけで気が遠くなりそうだった。それでも、困りきった旦那の懇願をむげにすることはできなかった。

 彼の実家の近くにアパートを借りることとなった。彼の実家は隣の校区だから大丈夫だと思っていたのに、数年前に改編があって、穂乃花があたしが通っていた中学に登校することとなってしまった。

 誰かの悪意のようだった。

 大丈夫、あのころのことなんて、もう誰も憶えていない、あたしのことなんて忘れてしまっている、大丈夫だ……心の中でそう念じつづけていた。

 同時にパートを見つけて、一刻も早く引っ越しをしようと目論んだ。でもなんだかんだと間が悪く、半年たつのにまだ実行できていない。


 ……カーテンがひらめくような気配があった。

 

「まだよ」穂乃花――あたしが、熱にうかされたような顔で、そう云った。「これは、あいつがやったのよ、いい!」

 あおむけで包丁の柄をかたく握りしめて、痙攣している彼のそばに膝をつく。彼の手に自分の手を重ねる。他の子たちも操られているようにうつろな眼で近づき、穂乃花――あたしの手の甲に自分たちの手を重ねる。

「やったのはあいつ、やったのはあいつ、やったのはあいつ……」

 誰かが呪文のようにつぶやいていた。

 誰もがうつろな笑みをうかべていた。みんな、涙と鼻水とでひどい顔だった。

(――やめて!)

 ぞぷり――と、金属質のものが、とても水気の分厚い何かにもぐりこむ感触があった。背筋に異様な快感が走りぬけた。

 彼の脚が一瞬、びくりと跳ねあがって、屋内履きのかかとが床を打ちつけて、そしてもう動かなくなった。


 ……カーテンがひらめくような気配があった。


 あたしはあの教室にいた。格好はあの当時のまま。

 窓際には彼女と彼がいた。生きていたころのままだ。あたしの後ろには、あのときの仲間がいた。でもあたし以外は見た目だけで、厚みもなかった。

「信じられない、忘れてたの?」

 彼女が無表情でそう云う。

「まさか、忘れたふりをしてたんだよ」

 彼も同じく無表情で応えた。

 ふたりとも口だけがひらひらと動き、その眼には恨みや怒りではなく、もっとおぞましい黒い澱みがあった。

「忘れたふりをして、大人になって、結婚して、子どもを産んで、母親になって、何の罪もない人のように」

「あなたにとどめをさしたくせに?」

「ぼくのお腹に包丁を押しこんだくせに?」

 あたしはのどが干上がってしまい、何もしゃべることができない。心臓の鼓動が正気を粉々にしそうだった。

 あたしの後ろでかつての仲間たちが、からかうように揺れるのを感じた。教室の広さが妙に薄ぼんやりとした印象だった。窓の外の快晴も奥行きを感じさせず、部活動のかけ声さえ何だか調子っぱずれな気がした。

「ねぇ……」彼女があたしの名を呼ぶ「ふたりの人間を死に追いやって、何とも思わないの?」

 うるさい、うるさい!

 あたしの表面の何かがひび割れて、とても醜い何かが吹きだした。

 殺したのはあたしじゃない、あんたが彼を刺して、あんた自分で飛び降りたじゃないか!

 あたしは悪くない!

 彼女があたしたちの粛清にあったってことは、何が原因だったかもう憶えていないけど、きっと彼女の側に原因があったはずだ、きっとそうだ。

 それなのに、どうしてあたしたちが悪者あつかいされなきゃならないんだ。

 あたしたちを怒らせるぐらいなら、どこに行ったって誰かに眼をつけられるはずだ。反省して自分を変えることだってできたはずだ。あたしたちがそのことを理解させてやったんだ。

 それなのにあいつは!

 あてつけかよ!

 それにあの男も何だっていうんだ!

 キモい!キモい!キモいくせに、腹さされたぐらいでいっちょ前に死ぬなよ、クソが!

 キモいお前なんて、どこに行ってもキモがられるのわかってんだから、立場わきまえて最底辺やってろっての、死ぬならあたしに関係ないところで死ね!

 お前みたいにキモいやつは、どうせ風俗以外で一生女に縁なんかあるはずない。彼女をまたがらせて、パンツ間近で見せてやったんだから、感謝してもらいたいぐらいだ。

 男のくせに、あれぐらい気合で乗り越えろよ、へたれが。

 あたしは悪くない!

 悪いのはあいつらだ!

 あいつらのせいで、あたしの人生……

 

「それが、君の夢の一番奥だ」

 太い男の声がした。


 ……あたしの周りにめぐらされていた眼に見えないカーテンが、ひらめくような気配があった。


* * *


 仰向けに寝ていた。

 声が出なかった。動かそうと思っても唇が動かなかった。まぶたが重たい。比喩でなく、本当に。

 わけがわからなかった。

 身体を起こそうとしても動かない。

 手に力を入れて腰を起点にして上半身を起こす――ただそれだけのことができなかった。身体がその動作を忘れしてしまったかのようだ。

 どういうこと?あたしは頭の中でかけめぐるその一言を呆然と見上げているような気分だった。自分に今、一体何がおきている?

「本当に、さめたんだ……」

 高い場所から、そんな声がした。

 誰?

 弟の篤志によく似ている。だけど篤志よりずっとだらしなく太り、髪も薄く、顔色も悪く老けている。全体に疲れきってよどんだ感じだ。何よりその眼は、ひどくいやなものを見るように、あたしを見下ろしている。

「……だ、れぇ?」

「弟の顔ぐらい、憶えておけよ」

 篤志に似た彼がしゃがれた声を出す。やはり篤志の声によく似ている。冷たい怒りを包み隠しきれていない声だった。

「……あつ、し?」

 わけがわからなかった。あたしたちがこの街に帰ってきたとき、縁は切ったままだからなと念押しされたときに会ったっきりだけど、こんなみっともなく疲れきった感じじゃなかったし、ここまで直接憎しみをぶつけられたわけでもなかった。

「ここ、ろこ?」

 舌がまわらない。

 云うことをきいてくれない眼球を、右から左にまたその逆に動かす。くすんだ薄クリーム色の壁や天井。点滴を吊るしているハンガー台みたいなのから、あたしの左腕にチューブがつながれている。

 変りはてた篤志と、そして驚くほど老けたお母さんが、あたしをのぞきこんでいた。

 病院?

 ようやく状況がわかってきた。

 あたしは病院のベッドで寝ている。一体、何があったの?

「あんた、ずいぶん寝てたんだよ、やっと起きやがった」

 冷たく篤志。

 ずいぶん?

「何であんたを起こしてもらったと思ってんだ?」

 疑問を思いうかべることも、大儀だった。

「あんたの病院代、月いくらかかってるか、知ってるか?」

「篤志……」

 後ろでお母さんが弟の袖を引いている。情けなさそうな、疲れきった顔だった。

「うちの会社、あんたのやったことの悪評とあんたの病院代の捻出のために、どんどん左前になっていって……もう廃業だよ」

 あたしは呆然とすることもできなかった。話についていけなかった。

「親父は五年前に死んで、倒産寸前の会社を引き継いだ俺がどんな想いしたか知ってるか?それをあんたは呑気に寝てるばっかりで……あんた死ぬふりして、薬飲んだろう?それが神経やっちまって、眼ぇ覚まさなくなっちまったんだぞ、自分のしたこと、わかってんのかよ!」

 篤志はダムが決壊したようにしゃべりつづけた。

「信じられねぇよ、あんた、夢見ながら笑うこともあったんだぜ、楽しそうに。それを見たとき、俺、あんたのこと絞め殺してやろうかと思ったんだぜ、でもそんな楽をさせるわけにはいかない、だから楽しそうな夢から起こしてやったんだ。あんた、医学的には寝てるだけだったんだよ、二十三年、二十三年もだぞ!くそっ、ふざけんなよ!」

 見てみろよと、篤志が手鏡をあたしの上にかざす。

 鼻にチューブを突っこまれて、顔中しわだらけで、骸骨の上に直接土気色のかさかさの肌が貼りついてように痩せ細った老女がいた。唇はひからび、落ちくぼんだ目の周りはどす黒く、眼球だけが突き出ている。髪は半分以上が白く、それも頭皮が透けて見えるほどに薄くつやがない。まるで、小学校の授業で見た地獄絵図の亡者のようだった。

 これが、あたし?……嘘っ!

 二十三年?

 二十三年ということは……(ここでずいぶん計算に時間がかかった)あたしは今三十七歳!

 記憶が少しづつ鮮明になってきた。

 あの日あたしは、責められつづけるこの状況を打破する賢い方法を思いついた。

 あたしも被害者になればいいんだ。この理不尽な迫害に追いつめられて、あたしも傷ついたふりをすればいいんだ。そうすれば、責めてる連中も二の足を踏むに違いない。うん、名案だ。

 早速、お母さんが服用していた睡眠導入剤をくすねた。お母さんがどれぐらい飲んでいるかは知らなかったけど、薬局で調剤されるぐらいだから、たいしたことはないだろう。ネットで調べても、致死量まで飲むことは困難らしいので、死ぬ可能性はなさそうだ。

「あたしは何もしていない、みんなに責められて辛い、死にたい云々」とぬかりなくノートに書いて机の上にのこしておく。ベッドに腰かけた。

 演技だとばれても困るが、死んでしまったら元も子もないので、これぐらいだろうと片手でつかめるぐらいの量を何錠かづつ、炭酸水で流しこんでいく。結構苦行だった。

 半分ほど飲んだところで、まだこんなにのこっているのかと、うんざりしたところまでは記憶にあるけど……

 ありえない!

 さっきまで、あたしは結婚していて旦那と穂乃花といっしょにいて、そりゃ、あんなことがあったから辛いこともあったけど、それでも……それが今……え?

 このひからびた、醜い老女があたし?今、三十七歳?

 ……ってことは?

 あたしの十代や二十代は、多分人生で一番充実しているはずのその時間は、あたしが寝ている間に、とっくに過ぎていて、鏡の中のこの女が今のあたし?

「……う、そ……」

「嘘なんかじゃない、だから!」篤志は満足そうに、憎しみをこめた眼であたしを見下ろす。「無理やり起こしてやったんだよ、あんたにもこの現実に付き合ってもらわなくっちゃ、わりにあわないからな」

「ほのかぁ、は、ろこ」

「ほのかって誰だよ!」

「あらひ、の、むすめに、きまってるれしょ!」

 篤志はとんでもないようなものを見ているような顔になった。

「あんたさぁ……どこまで……穂乃花って、あんたたちがいじめ殺した同級生の名前だろ……」


 ……カーテンがひらめくような気配があった。


 光り輝く、真っ白とも純銀とも云いようがない世界だった。

 ベッドがあって、あたしはそのへりに腰をおろしていた。

 さっきはまったく動かなかった身体が、今は軽い。

 男の人が眼の前にいた。篤志が座っていたような丸いすに腰かけている。

 たくましく、頬からあごにかけて無精ひげが濃い。そして、まるで暗がりの奥深くからのぞきこんでくるような眼光。

 見憶えがあった。あのメンタルクリニックの……?

 それより、ここは一体どこ?

「ここは、君の夢のなごりだ」

 あたしの心の中を読んだように、その男が太く重みのある声でそう云った。

「……夢?」

 ほっとした。あぁ、篤志と話していたことは夢だったんだ。肩の力がぬけた。涙がこぼれて、両手で顔をおおった。

「いやな夢だった……あたし植物人間みたいになってて、もうお婆さんみたいになってて……」

「それは夢じゃない」

「……え?」

「それが現実だ。君は病院のベッドで長い夢をみていた。自分がおとなになって、家庭を築く夢を」

 男の後ろには果てがない純銀の輝きがあった。あたしと男、あたしが腰かけているベッドと男が座っている丸いす。ここにはそれしかなかった。あたしはその異様さに、初めて気がついた。

「俺の名は美喰と云う」

「……び、くう……?」

「夢覚ましや夢探しを仕事にしている。君の家族から頼まれて、君の夢を覚ました」

「……どうして?」

「理由は依頼人が云った。もう君を、いつまでも眠らせておくことなどできないそうだ」

 恐怖が、あたしの心臓をわしづかみにした。

 これからどうなるのか――

 あたしは中学生の心のまま、白髪になった老婆のような姿かたちで、父の会社も倒産してしまい、あの弟から――いじめた彼女や彼の家族からも――の憎しみを一身に受けつづけていくのだ。

 視界が歪んだ。泣いていた。ももに生ぬるい液体の感触があった。

 いやだ、こんな現実なんていやだ!

「……もどしてよ、夢にもどして!」

「夢は覚めた、もうもどれない。君は現実を生きるしかない」

 そう云うと、男は立ち上がり、あたしに背を向けた。

 ……カーテンがひらめくような気配があって、男の後姿が純銀に輝く世界に溶けこみ、そのひらめきがこの純銀に輝く世界を震わせ、ほころび、縮まり、輝きを失っていき細かい粒子となっていく。

 消失していく夢のなごりの中で、あたしは涙とよだれとおしっこをたれ流しながら、恐怖と絶望の悲鳴をあげつづけた。

 そして、消失はあたし自身にまで及び、あたしの長い夢は本当に――終わった。


(了)

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ひらめくカーテンの奥に…… 衞藤萬里 @ethoubannri

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