バスの中

オレンジ11

バスの中

 青天の霹靂、寝耳に水、藪から棒、窓から槍、足元から煙が出る――俺の気持ちを表すとしたら、どれが一番しっくりくるだろうか。


「私、これから告白するから。拓海は後ろに行って」


 芽衣めいが耳元でささやいた瞬間、来週からの一斉休校に浮足立つ高校生たちのざわめきが、ふっと途絶えた。


 告白って……。


「誰に?」

「大きいよ、声」


 芽衣はちょっとだけ非難するような目で俺を見た。


「次のバス停で乗ってくるひと。N校の」


 ――あいつか。なんつーか、シュッとした感じのイケメンだ。だけどお前、「男は外見じゃないと思う」って言っていたじゃないか。


「なんで? どこがいいわけ?」

「去年、バスが急ブレーキかけて私が倒れそうになった時、支えてくれたの」

「え……マジ? その日、俺休み……じゃないよな」


 なぜなら、皆勤賞だから。


「スマホに夢中で気づかなかった」


 いつもだよね、と芽衣はあきれた声で言った。


 何という失態。

 俺ときたら、芽衣のピンチに気づかずスマホを……!


「あとはね。彼、いつも文庫本を読んでるでしょ。そういうところ」


 みんながスマホをいじる中、一人だけ本を持っている姿がいい。

 吊革につかまりながら、片手で器用にページをめくっているの。

 たまにこっそりのぞき見しちゃうんだけど、意外と渋いタイトル読んでるんだ。

 だからもっと彼のことを知りたくなった。

 

 芽衣は早口で付け足すと、頬をぽっと赤らめた。


 本なら俺だって家で読む。

 ネットで小説だって書いている。

 芽衣には秘密にしてきたが。

 いっそのこと、打ち明けてしまおうか。


「芽衣。俺、実は――」


「ね、早く行って? あと五分で次のバス停」


 芽衣は後部座席を見やった。



 俺たちは幼馴染で保育園からずっと一緒。

 ラブコメとかに出てくるような、そういう関係。

 気づいた時には俺の記憶の中に芽衣がいた。


 小学校高学年になると表面上はよそよそしくなったが(クラスの奴らに冷やかされるから)、水面下では絶妙な距離感を保っていた(と俺は思っている)。

 その証拠に、初詣は毎年一緒に行っていたじゃないか(お互いの家族もいたが)。


 高校に入学してからはバスの本数が少ないこともあり、自然とまた二人で通学するようになった。

 運転席のすぐ後ろに並んで立つのが俺たちの毎朝の日課。

 芽衣の一番近くにいるのは俺だ――いつの間にか、そんな自負が生まれていた。


 それなのに。

 あろうことか、他の男のことを見ていたとは……。

 うかつだった。

 ネットでの執筆やアマチュア作家仲間との交流に夢中になりすぎて、気付けなかった。


 後悔先に立たず、覆水盆に返らず、後の祭り、死んでからの医者話、転ばぬ先の杖、濡れぬ先の傘――とはこのことか。


 トボトボと後部座席に向かいながらも振り返った俺に、芽衣は口パクをした。


(もっと後ろ)


 俺はS女子高のグループに邪険にされながらも隙間を縫ってさらに後ろへと進み、段差の直前で立ち止まってポールにつかまった。


 バスは大きく車体を揺らし、国道を左折して緩やかな上り坂に差しかかる。


 まずい。

 次の角を曲がったら、奴の待つバス停だ。


 非常にまずい。

 思わず、身を乗り出して窓の向こうを確認しようとしたが、前に立っていたS女子高生に肘で小突かれた。


 めっちゃ感じ悪い。

 芽衣とはえらい違いだ。


 その時の俺の状況を的確に言い表すならば――今そこにある危機(これ、映画のタイトルか)、背水の陣(ちょっと違う)、絶体絶命(そこまでじゃないか)、轍鮒てっぷきゅう(調べて初めて知った)……いや、ぴったりなのはこれだな、窮途末路きゅうとまつろ


 毎朝当たり前のように芽衣の隣にいた日常が今、失われつつある。

 俺はため息をつき、その直後にバスは停止した。

 プシューと音を立ててドアが開くが、この位置からでは乗ってくる客が見えない。


 くっそう。


 芽衣の様子を見るために体勢を変えようとしたものの、これまたS女子高生の奴らに阻まれた。

 

 そうこうするうちに今度はバスが発車し、まんじりともせずに過ごした数分後。やがてバスは俺たちの高校前で停車した。


 どうなったんだ、結果は。

 平静を装いつつも気になって仕方がない。

 先に降りて待っていると、やがてタラップを降りてきた芽衣は開口一番に言った。


「……こんなはずじゃなかったのに」


 肩を落としている。


 ……まさか、フラれたのか?


 なんて奴だ。

 見る目がないな。

 でも嬉しい。

 よくぞお断りしてくれた。


 しかし、腹立たしいようなホッとしたような屈辱的なような。

 芽衣の魅力がわからないとはアホだなという憤慨、さらには芽衣に対して後ろめたいような。


 ごちゃまぜの感情が胸の中でぐるぐると渦を巻く。

 高二男子が味わう感情としてはなかなかに複雑なのではないか。


 だが芽衣はそんな俺の心中を察する様子もなく、ぽつりと言った。


「来週から休校だから、今日どうしても告白しておきたかったのに」


 ん? 


「告白……しなかったのか?」


 フラれたわけじゃないのか?


「今日は乗ってこなかった」


 休みだったのか。

 なんとタイミングの悪い――いや、タイミングのいい奴。


 今年は春休みが前倒しで始まる。

 昨日突然決まり、今日が修了式。ということは、少なくとも今後一ヵ月、芽衣は奴に告白する機会がない。


 その間に俺は自分の気持ちを伝えようじゃないか。



 週が明けると、俺は芽衣の家に通うようになった。

 芽衣と弟のじゅんに弁当を届けるのだ。


 芽衣の家は共働きで、両親ともテレワークができない職種。

 芽衣たちに弁当を作ろうにも、忙しくてその余裕はない。

 「朝は一分でも長く寝ていたい」というのが、おばさんの口癖だ。


 一方、俺の両親は定食屋。

 しばらく営業を自粛することになった代わりに、持ち帰りや出前でしのぐことにした。

 つまり「利害の一致」というやつだ。


 そんなわけで俺は、栄養たっぷりの弁当三つを携えて芽衣の家に行き、芽衣と惇と一緒にテーブルを囲む。幼馴染の特権。警戒心ゼロ。

 惇が俺にまとわりついて離れないのはちょっとうざいが、将来の義弟だと思えばかわいくもある。


「っていうか拓海、うちにいる時間、長くない? お弁当、十一時半に持ってくるし。十二時でいいよ」


 弁当をテーブルに並べながら、芽衣が言った。


「細かいこと言うなよ、姉ちゃん。俺、拓海君と一緒にゲームするの楽しい」


 ナイスフォロー、じゅん


「二人とも、早く食べてちゃんと勉強しなよ。拓海、受験間に合わなくなるよ?」


 芽衣はやれやれという表情でテーブルにつくと、弁当のふたを開け、鶏のから揚げを頬張った。


 だが約三ヵ月もこんな日々が続いたにもかかわらず、俺は芽衣に気持ちを伝えられなかった。


 そしてまたピンチはやって来た。

 桜の季節はとうに過ぎ、木々が青々とした葉を茂らせている。


「明日こそ告白するから。またいつ休校になるかわからないし、そうこうしているうちに高校卒業しちゃったら後悔する」


 学校再開を前に、芽衣は気合満々だった。


 あーあ。俺は何やってたんだか。


 惇がいたのもあるが、勇気がなかったのだ。

 毎日弁当を一緒に食べるだけでも十分楽しかったし、そこであえて告白して関係が壊れるのが怖かった。


 ヘタレ――意気地なし、根性なし、腰抜け、腑抜け、ケツの穴が小さい奴……なんだろうな、ケツの穴が小さいって。ちょっと調べてみたけど、よくわからなかった。


 でも、芽衣のことはちゃんと好きだ。


 言い訳に聞こえるかも知れないが、好きだからこそ告白できなかったっていうのもある。 


 芽衣はバス停のあいつが好きだって、言っていたから。

 応援するのが男らしさってものじゃないか。

 でも、ちょっと待ってくれ。

 告白する前に、俺の秘密を知ってほしい。


 俺が最近読んだ本は、「ずっとあなたが好きでした」。

 片思いの恋愛小説かと思ったら推理ものだった。でも面白い。よかったら貸すよ。

 芽衣の感想をきいてみたい。


 俺、実は小説、けっこう読むんだ。中学に入ってから朝読ではまっちゃってさ。

 知らなかっただろ。

 芽衣が本を読む男が好みだなんて知らなかったから、言わなかったけど。

 さらに言えば、書いている。

 小説を。

 ネットで。

 毎朝スマホに夢中だったのは、執筆したり読み返したりしてたからなんだ。

 

 いつかは、ごめんな。

 バスの中で倒れそうになった芽衣を支えてやれなくて。

 もう通学中に小説は書かない。

 ちゃんと芽衣の方を見る。


 ――なんて、今さら宣言しても時すでに遅しかも知れないんだけど。


――――――――――――


「芽衣」

「なに?」

「好きだ」


 久々に乗る朝のバス。

 私の耳元で突然ささやいたのは、幼馴染の拓海。


 今、好きって言ったよね? 

 このタイミングで? 

 私、次のバス停でN校のあのひとに告白するんですけど……?


「これ。読んで欲しい。あいつが乗ってくるまでに――五分で読み終えられるから。ちゃんと文字数計算して何度も書き直した。じゃ、後ろ行ってる」


 去り際に拓海が差し出したのは、素っ気ないオフホワイトの封筒。


 気になる。


 私は封筒の中から折りたたまれた手紙を取り出した。


「青天の霹靂、寝耳に水、藪から棒、窓から槍、足元から煙が出る――俺の気持ちを表すとしたら、どれが一番しっくりくるだろうか。」


 ――いきなりことわざの羅列で始まるそれは、小説仕立てのラブレターだった。

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