act.3 緒方 寿


 胸の中で光がぜた。まるで火花だ。自分の持つあらゆる感情が暴れ、ぶつかり合う。スポットライトに射抜かれたような彼女から目が離せない。火の粉を浴びた心はやがて嫉妬の炎を灯し、赤くただれた。

 こんな気持ちになるなんて、俺は信じられないでいた。



《act.3 緒方おがた 寿ひさし



「“彼の才能と心を殺したのは、あなたよ!”」

 その台詞を投げ掛けられるとき、最初の頃は深く傷ついていたような気がする。愛する恋人ヘレナからの告白、その真相を受け止めきれないウィリアム。そうだ、俺は自分が演じるウィリアムに同調して心を痛めていた。

 いつからだろう。俺はウィリアムをただ演じるだけになった。役者としては正しいはずなんだ。『誰が為』はウチの看板作品、公演ごとに精神を磨り減らしていてはいつか病んでしまう。舞台上だけの喜び、悲しみ、愛を表現し、それでも劇団員や観客からの拍手を集めた。

「お疲れ様でしたー!」

「寄り道せずに帰れよー」

「明日もよろしくお願いしまーす」

 sparkの団員たちが口々に挨拶し、ミーティング室を出ていく。今日は二年ぶりになる『誰が為』公演だった。明日からもしばらく俺は、表面的なウィリアムを演じるんだ。

「緒方くん、帰らないの?」

 ヘレナ役を受け持つ同期が、いつまでも席を立たない俺に気がつき振り返った。

「ああ、もう一回舞台で確認してこようかなって」

「ふうん。あんまり無理しないようにね、主役なんだから」

 わかってる、と手を降り同期の背中を見送る。無理をしているわけじゃなかった。しかし、何かしないといけない気がしていた。少なからず現状のままではいられない思いが、俺にはあった。

 練習を繰り返すほど感情移入が出来なくなっていく感覚。なのに練習するしかない。焦れる気持ちを持て余しながら、舞台上手かみて側に繋がる通路を歩いた。

 ふと耳を傾けると、キュッキュッと擦るような音が聞こえる。

「……まだ誰かいるのか?」

 袖からそっと舞台を覗いてみると、女性が一人で黙々と床掃除をしていた。俯いてモップの先を見つめているのでハッキリと顔は見えないが、覚えのある背格好だ。研究生だろうか。

 声を掛けるか迷った。すると彼女はおもむろにモップを置いて、背筋を伸ばし、誰もいない客席をスッと見据えた。

「“ならば、誰が彼を殺したというのか!”」

 声が響く。空間に、俺に、染み込む。

(何だ、これ)

 立ち尽くしたまま、背筋がゾッとするのがわかった。急に彼女が俺の台詞を言い放った、それだけなのに。

 そこには一瞬、本物のウィリアムが居た。そしてモップを拾い上げ、あっさりと掃除に戻っている。誰だ。何故だ。何なんだ。どこにこんな女優がいたんだ。正体を突き止めないといけない、そう思って足を踏み出した。

「掃除してるのかい。君、名前は何ていったかな」

 震えそうな声は隠しきる。これでも劇団のトップ俳優だ。対する彼女は、突然袖から現れた俺にひどく驚いたようだった。

「スタッフの穂村です。すみません、お邪魔でしょうか」

ホムラ? ……ああ、穂村さん。いや構わないよ」

 記憶と名前が合致する。よく美術を担当している子だ。少し話をしないかと誘い、舞台の縁に腰かけた。彼女もそれに倣った。

「どうしてウィリアムの台詞を? 女優を目指しているなら、『誰が為』における女性の大役はヘレナじゃないか」

「き、聞こえてましたか。なんかその、すみません……その、どうしてもウィリアムの役が……好きというか……」

「ウィリアムが?」

「はい、あの、ウィリアム自身もですし。緒方さんが演じるウィリアムも好きです。ヘレナからすべてを打ち明けられる場面があるじゃないですか、その時の──すみません、ベラベラと」

 我に返ったのか、瞳に宿った輝きが霧散していくのがわかった。この控えめな様子が普段見せる穂村なんだろう。問題ないから続けてくれと笑い掛けてやると、ホッとしたような顔をしてから再び口を開いた。

 いわく、役についての話をする機会がないので嬉しいそうだ。

「その時のウィリアムの表現を、緒方さんがだんだん変えてるのがすごくて。やっぱり年数を重ねるごとに解釈を深めてるんですね」

「……どういうところが、そう思ったんだい?」

 もぞり、と。何かが身体の中で動いたような違和感を覚えながら先を促す。早く聞いてしまいたくて、でも聞きたくないという矛盾が鼓動と同じリズムで体内を巡った。

「私が初めて公演を観たのはもう随分前で、大学四年生でした。ウィリアムの純粋さが前面に出ていて、本当に何も知らず、気づかず、自分のアイデンティティを打ち砕かれたような絶望を漂わせていました。最近は、何て言うか」

 いったん言葉を切って、考えるような仕草をする穂村。何を言われるのか。どうしてだろう、わずかに恐怖があった。

「最近は?」

「えっと……ヘレナの言葉を受けて、衝撃で、悲しくて、悲しくて悲しくて悲しくて。……でも、心のどこかでそれを知っていたような。最愛の女性から真実の愛を与えられていないことを感じ取っていたような、諦めにも似た切なさがあるんです」

(違う。違う、違う。それは)

 それはウィリアムじゃない。役への解釈でもない。コイツが観ていたのは、見抜いているのは、俺自身だ。ウィリアムと一緒に絶望出来なくなった俺が、最初から真相を知っている俺が、それらしく演じている姿そのものだった。

 何もかもを見透かされている。本人にその自覚なく、誰にも暴かれなかった空洞の演技を、すべて。

 胃が気持ち悪さを訴え、背中が粟立った。コイツの眼が恐ろしいと感じた。加えて、あの隠れた才は何だ。たった一言で空気を支配する声。芝居の流れもなく急に全力を出せるエンジン。あんなもの俺にはない。

「……オーディションを受ければいいじゃないか」

 乾いた喉から音を出す。スタッフとはいえあんな演技をするんだ、興味がないとは思えなかった。

「受けたこと、あるんですよ。でも駄目なんです。私、人前だと緊張して声が出せなくて。台詞が一言も読めずに落ちました。それからスタッフとして拾ってもらったんです」

 人前で台詞を喋れない。これは致命的だ。でもいつか克服したら?

 女である穂村にウィリアムの役は勝ち取れない。でもいつか他の適役が見つかったら?

「スタッフとしての仕事も好きですけど、私はいつか、この舞台に立ってみたいです。夢なんです」

 その後も穂村が何か言葉を続けていたが、俺の耳にはほとんど入ってこなかった。

 いつかこの埋もれた天才が役者の俺を殺すかもしれない。


──彼の才能と心を殺したのは、あなたよ。


 頭の中でヘレナが囁く。ウィリアムのようにお前が殺してしまえとそそのかしてくる。作中、そうやって穏やかに語る台詞ではないし意図も違う。ではこれは誰の声なのか。

 共感できる役しか出来ないんじゃ役者は無理だ、とか。

 客がいたら喋れないなんて弱点を克服出来るわけない、とか。

 お前にはスタッフの仕事がちょうどいいだろ、とか。

(どの言葉なら、どの表現ならお前の心を折れる?)

 そうだ。克服できるかわからない欠点を抱えたまま夢を見るより、今のうちに折ってやった方が彼女の為になる──


 彼 女 の 為 ?


「緒方さん?」

 ヒュッと音を立てて、酸素が急に肺まで到達した。今、突然息をしだしたのかと感じたくらいだ。驚きもあって少しせた。心配そうな顔をする穂村に、問題ないと手だけで伝える。

「……穂村さんは、役へのシンクロが激しい。相性の良し悪しが明確に出るタイプだ」

「あ、はい」

「君にヘレナは合わない。かといって女の君にウィリアムは出来ない」

「……はい」

「だから……だから。君は、いい役者になる」

「はい。……んぇ?」

 “誰かの為”なんて言葉、大抵は自己満足だ。ただの“自分の為”でしかない。いや、自分の為なのが悪いんじゃないんだ。

(他人を思いやるフリをした“自分の為”が、最も罪深い)

 俺はそれを知っているじゃないか。何年ウィリアムをやってると思ってる。何度も、何度も何度も、口にしてきたあの台詞。

 深呼吸をした。もう、ヘレナの声は聞こえなかった。

「俺は何も言わない。役者になるべきだとも、諦めるべきだとも言わない。穂村が……穂村さんが、自分で決めろ。自分の為になる選択をしろ」

 噛み締めるように話す。彼女にも、自分自身にも言っているような感覚だ。穂村はしばらく呆けてこちらを見ていたようだが、唇を一度引き結ぶと、力強く頷いた。

「……はい!」

 きっと、近いうちに彼女はまたオーディションに挑戦しにくる。そんな予感がした。

(俺はウィリアム。死を迎えなかっただけのウィリアム。踏み留まったからこそ、違いを演じられるはずだ)

 頭が冷えてくるのがわかる。同調型の演技が出来なくなったのなら、冷静に分析すればいい。感情移入をしない演技。観察して、己との違いを知り、それを表現すればいいんだ。

 負けない。俺はまだ役者として死んでいない。お前が追ってくるなら、俺の役を奪おうというのなら、俺は俺の芝居でお前に思わせてやる。


 これは、緒方寿の舞台だと。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

誰が為の舞台 藤咲 沙久 @saku_fujisaki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ