円結びの縁

 「とよさん、また靴ひもほどけてますよ」

 またか、いい加減にしないと彼女に呆れられるぞ。俺はため息をこぼさないよう口を堅く閉じながら腰を下ろした。

 「ふふふ、豊さんったらあの時からいっつも靴ひも結んでますね」

 彼女が小さく笑い声を上げた。確かになにも変わっていない。あの時も俺はほどけた靴ひもを結んでいたし彼女はそれを見て笑っていた。でもそれで彼女と出会えたと思うと特段悪い気もしない。

 彼女の名前はまどか。

 それ以外のことは、なにも分からない。それもそうだ、俺と彼女はべつに交際しているわけでも婚約しているわけでもない。言ってしまえばただの友達・・・いや知り合い程度の関係だと思う。

 俺と彼女は偶然出会った。あの時座って休んでいた俺の靴ひもがほどけていなかったら、彼女は俺に声をかけようとは思わなかっただろうし、俺も慣れない土地に外出するなんてことしなかったら彼女とも出会わなかったはずだ。

 あの、靴ひも・・・ほどけてますよ?

 まるで教師の間違いを指摘する生徒のようなか細い声は、街中の喧騒のなかではひどく聞き取りづらかった。はじめは風の音かとも思ったがそれが二度も続いたのでおずおずと顔を上げると、目の前に若い女がこちらを見下ろしていた。

 若いといっても恐らくは成人している。かといって達観しているほどではない。一人の女性としてはまだまだ成熟しきっていないように見えた。シンプルな短髪にまとめた顔は幼さと落ち着きを備えていた。

 だからだろうか、俺はこの女に対して悪い印象を抱かなかった。

 俺が彼女の目の前で靴ひもを結び直している間も、彼女はそれを見届けるかのように俺の前で仁王立ちを続けていた。俺はまるで子供のころに戻ったような気分に襲われ、二度も三度も結び直す羽目になった。小さい頃から靴ひもを結ぶのがへたくそで、よく親に違うと𠮟られた苦い思い出が甦ったのだ。

 俺はそれがなんだか可笑しくて軽く鼻から息を吐き出した。

 50を超えたただのジジイの自分が子供のころに戻った気分になるなんてな。

 そう思いながら靴ひもと奮闘していると目の前の彼女が急に慌てた声を出して謝りだしたのだ。

 「すすすす、すいません!?わたしなんかがとんだ・・・ごめんなさい!」

 「あぁ!?どうしたって?」

 「あああぁぁ、ごめんなさい!」

 そう言って彼女は突然走り出してしまった。俺は訳も分からず走り出した彼女をほっておけず緩い結び目も忘れて走り出した。年老いたただのジジイに彼女のような若いもんに追いつくなど無理な話かと思っていたが、彼女はそこまで多くもない人混みの中で弄ばれるボールのように右往左往していた。そのためこの体でもなんとか追いつくことができたのだ。

 体に触れることははばかれたが、まるで周りが見えていない彼女を落ち着かせるため一度肩を押さえて体の動きを止めた。

 俺の顔を見た瞬間にまた逃げ出されては困ると思い、先手を打つことにした。

 「お・・・おい。どうしたんだ、いきなり走り出したりして。なんか用事でも思い出したか?ならいいんだが、俺が何かしちまったのならすまねぇ。言っておくが若いなんて理由であんたのことを悪くなんか思ってねぇからな」

 そこまで言ったところで彼女はようやく落ち着きを取り戻したようだった。

 「え・・・?怒ったりして・・ないんですか?」

 「あぁ、あんたが俺らみたいな年寄りに変な偏見ってのを持ってねぇんだったらいいんだがな。とにかく俺はジジイといえばジジイだが、くそなんて言われるような生き方はしてねぇとは思うがね」

 彼女は恐らくそんな下劣な表現を好みはしないだろう。だがこの時においては自虐的な表現がすこしばかり彼女の心の緊張を緩めてくれたようだった。

 「そ、そうだったんですね。わたしったら勝手に怒らせたなんて思って・・・」

 「まぁ落ち着いてくれ。言っておくが本当に怒ってなんかないからな。わざわざ教えてくれたってのにそれに怒るような頑固ジジイじゃねぇからよ」

 そう言って俺は彼女から少し距離をとる。落ち着かせるためとはいえ少々近すぎる。これでは不安で落ち着けないだろうし、誤解が解けたのであればこれ以上付き合わせることはない。それこそはた迷惑な話だろう。

 「そういうわけだ、俺は怒ってなんかないからな。それじゃあ迷惑かけたな」

 そういって離れようとしたとき、今度は彼女が俺のことを引き留めた。

 「あ、あの・・靴ひも・・・」

 そう言われて足元に視線を向けると緩んでいた右足だけでなく、左足の靴ひもまでもがほどけて左右に大きく腕を伸ばしていた。

 これはだらしない。

 こんな格好で立ち去ろうとするのはなんとも締まりがない。

 俺がそれを想像して小さく笑い声を出すと、彼女も少し気を許したように小さく笑った。

 俺と彼女の縁を結んだのは、そんなほどけた靴ひもだった。

 そして、今もまた靴ひもがほどけている。また何かと結び付けられる前兆であるかのように。

 今はとある山道の途中にいる。

 こんなジジイと年若い女が一緒に山登りなどおかしな話だ。

 はじめて会った日以来何かと顔を見ることが増えた。それは俺だけでなく彼女にも縁という思い込みを与えるほどに偶然とは思えない回数だった。それがきっかけか彼女はこんなことを提案してきた。はじめは新手の詐欺かとも疑ったりもした。だが、俺はとっくの昔にジジイだ。それにろくな貯蓄もない。騙すのならこんなところまで引っ張ってくる理由もないだろう。

 彼女を無根拠に信じるというわけでもないし、女として意識なんてしてはいない。ただ彼女がそれを求めているのならそれに応えてやるのみだ。

 昔から縁は大事にしろと教えられてきたのだ。

 これも何かの縁だと思えばそれでいい。残りの人生に風を起こすにはもう年をとり過ぎていたところだったのだ。

 それに今回の山登りというのも決して無関係というわけではないようだった。どうやら彼女が行こうとしているのは縁結びの神様にお参りするためらしい。こんな山奥にわざわざお参りに行こうとするとは、彼女は見た目によらずかなり信心深いようだ。

 それにしてもこんなジジイを駆り出すなんて彼女は友人の一人でもいないのだろうか。それともそのための縁結びなのだろうか。いや、要らぬ詮索はよそう。それは彼女が求めることではないのだろうから。

 「すまないな、前にも言ったかわからんが俺は子供のころから靴ひもを結ぶのが下手くそでな」

 「そんなことないですよ。わたしも気が付いたらほどけてることなんてしょっちゅうでしたから」

 そういって笑うその笑みにはどれほどの噓が交じっていることだろう。俺はなんだか彼女に無理をさせているような、付き合わさせてしまっているような罪悪感を覚えた。

 俺は今度こそほどけたりしないようにと、固くひもを結んだ。両指の関節が圧迫されて痛みを覚えるのも我慢して更に力を加えた。

 「豊さん・・・?大丈夫ですか」

 彼女がいつまでも靴ひもと格闘する俺の身を案じて声を掛けた。俺は自分で言っている以上にジイさんなのかもしれない。彼女のような若い人間からすればそんなに違いはないだろう。

 「あぁ、大丈夫だ。ここまでちゃんとついてこれただろ。俺がかがむのは靴ひもを結ぶときだけだよ」

 似合わない冗談を言って彼女の不安をすこしでも和らげようと心掛ける。決して彼女の気を引こうなどとは思っていない。

 「ふふふ、そうなんですね」

 「あぁ、それよりも目的地ってのはあとどれくらいなんだ」

 「えぇ、そうですね。あともう少しですよ、少し休憩しましょうか?」

 「ありがたいが遠慮しとくよ。人間優しくされ過ぎちまうと脆くなるもんだ。こうしてついていくのも若いもんに置いてかれないためだよ」

 強がりだ。それもまた体を脆くさせる原因にしかならない。何をしてても老いるだけなら俺は一体なんのために生きているのか分からなくなりそうだ。

 「無理だけはしないでくださいね・・・」

 今ここで死んでしまうのは、よくないな。

 「あぁ、惨めな顔を神様に見せたりなんかしたらご利益も受けれるもんじゃねぇからな。おめぇさんのためにも頑張るさ」

 「えっ!?わたしですか・・・?」

 「あんたの付き添いが邪魔したら、せっかくのお願いごとにも集中できないだろ?ちゃんと神様にお願いごと伝えないとな」

 俺は再び軽口を挟んでごまかした。

 「えぇ・・そうですね。あぁでも、豊さん休むのも大事ですけど、靴ひもがほどけてたときにはまず結んでくださいね。山では転んだりした怖いですからね」

 「俺の靴ひもはほどけやすいからな」

 「冗談で返さないでください。そうじゃないとわたし・・・」

 彼女の悲痛な顔が目に映る。悪いことをした。彼女だって本当は無理を承知でこんなことを頼んだりしてきたのだ。それに応えるのなら適当なことを言うほうが余計に不安をあおるだけだろう。俺は一呼吸おいてから改めて約束した。

 「ちゃんと靴ひもを結ぶし、転んだりしたりしないように注意する。これでいいか?」

 「は、はい・・・あの、すいません。連れて来たのはわたしなのに偉そうなこと言って・・・」

 「何言ってんだ、俺はあんたに呼ばれたりしなきゃこんな経験せずに一生を終えてたかもしれねぇ。そんなのはきっとつまらんだろうよ」

 俺は彼女を追い抜いて道の先を指差す。

 「俺がここにいるのもすべては縁のおかげだ。縁に文句はつけらんねぇよ」

 そういって俺が彼女を見つめると、彼女もまた俺が指差した方向へ視線を移した。その瞳に明かりが戻るのを感じる。

 彼女が山の空気を味わうように深く息を吸い込むと、明るい調子で応えた。

 「う~んおいしい、豊さんも深呼吸してみてください。山の空気ってとっても新鮮ですよ」

 そう言って彼女は再び先へと進みだした。俺も少し空気を味わってみる。この味を堪能するにはもう20年は早く来るべきだったかもな。そんな想いは胸にしまいこんで彼女の後に続いた。目的地はもうすぐだ、おそらくな。

 それから10分ほど登り続けたところで小さな脇道に入った。元より山道らしい道標はほとんど無かったが、それでも先ほどまでの道が道として整備されたものであったということが分かる。脇道というよりまるでけもの道だ。傾斜はそこまできつくはないが、視界を覆う枝葉のせいで足の置き場を把握しにくい。彼女が先導してくれなかったら進むのは難しかっただろう。

 進んだ距離はそこまで長くはなかったのだろうが、俺が一々視界を確保しようと奮闘するたびに彼女の歩も止まってしまいかなり時間をかけてしまった。

 俺がすまないな、と言うと彼女は大丈夫です、とだけ言って枝葉を分けるのに集中していた。俺も登ることに集中した。突き出た岩に右足を運んだとき大きく揺れる靴ひもが目に入って集中が切れそうになった。ほどけるのならこの坂を登りきってからにしてくれ、俺はこの先にいるという神様に心のうちで強く願った。

 彼女の背後に強い光が見えてくると、彼女はこちらに手を伸ばして俺を最後に励ました。

 「豊さん!見えました、ここを登りきればすぐ目の前です!」

 彼女の言葉と伸ばされた腕を信じ、俺は腹に力を込めた。グイっと引っ張られるような感覚を覚えた頃には俺の体は坂のうえに立っており、反面彼女は目の前で尻餅をついていた。

 俺が慌ててかがむと彼女は痛がるどころかむしろ楽しそうに笑っていた。それは、はじめて触れた雪の冷たさと感触に興奮する子どものようだった。

 「お、おい。どっか打ってないか?」

 俺の心配そうな声をよそに彼女は楽しそうに笑いながら答えた。

 「え、えぇ大丈夫です。なんだか子供のころに戻ったみたいな気持ちになってそれがまた可笑しくてつい」

 そう言いながら彼女は一人で立ち上がり、パッパッとはたいて安心させるように笑顔を向けた。

 「そうか、ならよかった」

 「あぁ、そうだ。ほら豊さん、見てくださいよ。あれがそうですよ!」

 彼女は急に我に返ったみたいに背後を振り返るとその先にある小さなくぼみの方を指差した。そこには反り返った傾斜に覆い隠されているような形で何かが静かな存在感を放っていた。群生した植物の葉に隠されてよくは見えないがそれが木製の祠のようなものであることがここからなんとか確認できた。恐る恐る近づく俺とは違って、彼女はまるで子犬でも見つけたかのようにグングンと近づいていった。近づけば近づくほど反り返った壁の迫力に押しつぶされそうになる感覚を覚えるが、彼女は平気なのだろうか。それともあの祠しか目に写ってはいないのだろうか。

 近くで見てもそれは木製の扉に屋根を括りつけたようなものにしか見えず、そこに人と人を繋ぐ効果など望めるのかいささか疑問だ。それでも彼女がここまで遠出してまで来たがっていたのだから、今は相当に嬉しそうな表情を見せていることだろう。そう思って彼女の顔を後ろから覗き込んだが、その表情は俺の予想を裏切りとても辛そうな、悲しみを抑えるような表情だった。

 さきほどまで尻餅をついたことで笑い、宝物を発見した子供のように小走りをしていたとは思えない変化に俺は言葉を失ってしまい、ただなにも見なかった振りをすることしかできなかった。

 「ここがあんたの来たかったってとこなのか?」

 俺が興味もなく遠くを眺めるような顔をして聞くと、彼女は急に顔を引き締めてぎこちない笑みを浮かべた。

 「えぇ、ここですね」

 まるで心ここにあらずだ。せっかく縁結びの神様のもとまで苦労して来たというのに。俺は話題を変えようとそのことを聞いてみた。

 「縁結びの神様といってもここはえん違いなんですよ」

 彼女はそんなことを口にした。

 「えん違い?そりゃ一体どういうことだ?」

 「ここの神様は人と人を繋ぐ縁ではなくて、丸を、円を結ぶ神様とされているんです。だから世間一般で聞く縁結びとはちょっと違うんです」

 「それは初耳だな、まぁ俺みたいなジジイからすりゃどっちのえんも似たようなもんに思えるが違うのか?」

 再び彼女の表情が曇ったような気がした。そこには触れてはいけなかったのかもしれない。

 「ここに祭られている神様は、円結びの神様というのは供養するためにあるんです。だから、こんな辺鄙なところにあるんでしょうね」

 供養?彼女の口から聞くにはあまりに違和感を感じる言葉の響きに俺は耳を疑った。

 「それはどういう・・・」

 俺が真意を尋ねようと口を開きかけた時、一陣の風が吹いて俺の視界を封じる。巻き上がった枯葉に隠れて見えなくなった一瞬のうちに、彼女の姿が消えていた。

 どこだ!?

 周囲に目をやってもあるのは鬱蒼と茂る草木ばかりで、彼女の姿はどこにもない。いや、よく見ると大きく揺れ動く枝が見えた。きっとあの一瞬であの先へ走り去ってしまったのだろう。そこに近づいて覗くとやはり重なる枝葉のせいで見通しが悪い。それでもなにかが勢い良く通り抜けたような雰囲気がある。勘違いかもしれない、だがこんな山の中で彼女を一人にさせるのは良くない。俺はその思いに駆られて走り出していた。

 顔や腹や足に当たる葉の感触が痛みに変わる。時々太い枝が俺の歩みを滞らせる。それでも俺の意識はそれとは別のところに集中していた。

 「まどか!おい、まどか。どこに行ったんだ!?」

 俺はどこにいるのかも分からない彼女の姿を想像しながら、遠くへ遠くへと声を響かせた。しかし、それに応える声もすすり泣く声も何一つ聞こえはしない。

 どうすればいい、彼女はどこに行ったんだ。

 俺はもう一度大声で呼び掛けた。

 「まどか!いるなら声を出してくれ!」

 彼女からの返答はない。まるではじめからここにはいないかのように。

 もしかしたら俺の勘違いだったのかもしれない。もう一度あの祠の前に戻ってみようかと振り返りかけたとき、カサッと草の動く音がした。

 俺はその音のした方向に目を向けそのまま走り出した。俺が走り出すとその先からカサカサと同じような音が続くのがわかる。それが彼女なのかどうかなんて分からないが、それでも追わずにはいられなかった。

 まるでウサギを見つけたオオカミ、いやオオカミに見つかったウサギなのかもしれない。それなら俺は誰を追いかけているのだろう。そして誰に追いかけられているのだろう。円を描くウサギとオオカミの関係がいつの間にか逆転しているみたいに、俺もまた追いかけているつもりが追い立てられていたのかもしれない。姿を見せない彼女に段々とそんな不安を抱き始めていた。

 胸のあたりの違和感は段々と体全体に広がってきて、ついに足元の違和感に気が付いた。靴ひもがほどけている。葉から滴り落ちた水分で湿った土がほどけたひもに泥汚れをつけている。

 俺はイライラしながらも再び彼女を追おうとした。彼女に対する違和感は恐れから怒りへと変化し、俺の足を突き動かそうとする。

 だがその時、彼女が言っていた言葉を思い出しスッと怒りが引くのを感じた。

 『ちゃんと靴ひもを結んでください・・・じゃないとわたし・・・』

 あの時の不安そうな表情を思い出すと俺までもがもの悲しい気持ちになる。俺ははやる気持ちを何とか抑えて、かがんで靴ひもを結び始めた。こんな時に限って結ぶのに時間がかかる。湿った繊維が指先を滑り、泥の感触が不快感をもたらし神経を逆なでする。二度も失敗したときは諦めて走り出そうとも思った。だがそんなことをして本当に怪我をしたりすれば彼女を探すどころではなくなる。俺は三度目にしてようやく靴ひもを結び直して前方を見据えた。

 そこには原生林かのように生い茂る枝葉で隠された道が続いているはずだった。

 だが目の前に広がるのは空、空いた空間、切り取られたかのように広がる崖だった。

 俺は、どうしてこんなところに。

 理解が追い付かずたじろいでいると後ろから聞きなれた声が聞こえた。

 「豊さん!危ないから下がってください!」

 首を回して振り返るとそこには、恐怖と不安に塗りつぶされた表情の彼女が息を荒げながら叫んでいた。

 一体これは・・・?

 ほとんど恐怖心に促されるように崖から距離をとると、自然と腰から力が抜けてその場に倒れそうになる。なんとか近くにあった樹に寄りかかったが全く踏ん張りがきかない。それは疲れだけが原因ではないし、目の前に広がる崖を目にしたからでも恐らくはない。

 それは俺を駆り立てたものに対しての恐怖だったのだと思う。

 近づいてきた彼女が俺に何があったのかを頻りに尋ねてくるが、それは俺にもわからないことだった。所々聞き取れなかった部分もあったが、彼女の言葉から分かったことは、彼女も同様に風が吹いた後に俺のことを見失って追いかけてきたということ。なら俺が追っていたのは何だったんだろうか。疑問は尽きないし、答えを何処に求めればいいのかすら分からない。

 俺たちはここで起きたことに恐怖し、共に身を寄せ合うようにして山道を降りた。その途中で二人が出した結論はなんともいえないものだった。

 いわく、神隠しのようなもの。それに俺たち、いや俺がそれにあったのだろうという結論に至った。

 俺はとてもそんな話を信じる気にはなれなかったが、彼女はそうではないようであの円結びの神様とやらの話を始めた。彼女の言葉の調子からもわかる通り、あまり気乗りする話ではないことだけは感じていたが、彼女がそれになにか救いを求めているようにも感じたので流れに任せることにした。

 「あの神様は名前の通り、丸を描く“円”にまつわる神様らしいんです。わたしも詳しくは知りませんが」

 彼女は最後の言葉を濁した。後悔しているのかもしれない、こんなことになるとは思いもしなかったんだろう。それは俺も同じだ。だから話を進めることにした。

 「前にも言ったと思うが、その縁と円の違いってのはあるのか?俺にはそこんところがさっぱりだ」

 「えぇ、どちらも捉えようによっては人と人を繋ぐ意味にとれますが、ここの神様はちょっと、いや全然違うんです」

 そう言って彼女は後方の山の中腹に目線を向けた。

 「それで、どう違うんだ?」

 「円を結ぶんじゃないんです。円を切る、死んだ人をいつまでも地上に繋ぎ止める円を・・・切ってくれる神様なんです」

 「死んだ人間を繋ぐ・・・そりゃ一体どういうことだ?地縛霊とかか?」

 霊魂に関しての知識はない。死んだ人間がみんな地縛霊などになったりしていたら、この世に生きやすいところはほとんどなくなってしまうだろう。それに人がなくなったのなら近くのお寺などに行けばいい話だ。こんな山奥の見捨てられた秘密基地のような祠にわざわざお参りに来る必要などない。なら彼女のいう死んだ人間というのはなにか特殊なのだろう。たとえば、その死に方とか。

 「地縛霊・・・たしかにそうかもしれません。あの人が死んだ日から、わたしはまるで憑かれたみたいにあの人の影を感じてばかりいるんです」

 あの人という言葉には興味をひかれたが、こちらから聞くのは失礼だと自分をいさめた。そんな沈黙を相槌ととった彼女はそのまま話を続けた。

 「あの人・・・いや、それじゃあ分かりませんね。あの人っていうのは・・わたしの父なんです」

 彼女はそれがスイッチにでもなったかのように次々と喋りだした。

 「父はとても明るい人でした。小さい頃から根暗で、おどおどとしてばかりいたわたしにも父は優しく、そして温かく接してくれました。そんな父でも、いやそんな父だからこそでしょうか。わたしには見せないくらい一面を隠し持っていたんです。わたしは明るい父の姿しか知りませんでした。父がどんな仕事をしていて、そこでどんな苦悩を抱えているのかも、まるで知りませんでした」

 俺は彼女の父親の姿を想像する。きっと理想の父親像をそのままにしたような人だったのだろう。彼女の心の支えとなるような、光のような父親だったのだろう。そんな父親が亡くなればどんな子供でも傷つかずにはいられないだろう。

 「父はある日、自殺しました。首をつって亡くなっていたんです・・・」

 俺は言葉を失ってなにも言えなくなった。だがそれでよかったのだろう。今は何を言っても彼女の心の慰めにはならないだろうから。

 しばらく互いに黙り込んでいると、少し落ち着いたのか彼女は再び父親のことを語りだした。かつて優しく喋りかけてくれたであろう父親のことを思い出しながら、その最期について語りだした。

 「父が首を吊ったのはわたしたちの住む家とは別のどこか離れた山の中だったそうです。わたしには聞きなれない名前だったので近くだったのかどうかはわかりません。でも、唯一首を吊ったという言葉だけは理解できたんです。だけど、わたしにはそれが父が死んだということには繋がらなかったんです」

 「そりゃあ混乱もするだろう。身内が亡くなったとなればそれだけで一大事だ。その上、なんだそんな最期だと聞かされたりしたら・・・ひでぇ話だ」

 俺は思うがままに言葉を発していた。他人の死別に口挟むなんて失礼にもほどがあるというものだが、彼女はそれを良い方向にとらえてくれた。

 「えぇ、私もその当時はとても混乱しました。でも、だからというわけではないと思うんですが、やはりわたしは父が死んだとは思っていなかったんですね」

 「それは、その・・・亡くなってたのがあんたのお父さんじゃないって、思ってたってことか?」

 「いいえ・・・わたしはちゃんとその亡骸も確認しました。私自身の意志で見たんです。だから、たしかにあれは父だって分かりました。そんな状況にあっても、でも、わたしは父が死んだという実感が湧かなかったんです」

 それは一体・・・。

 俺は何とも言えず、ただ口を開いたまま固まってしまった。かなり滑稽であっただろうし、見方によっては失礼な態度だったかもしれない。それでも彼女はそれだけのことを口にしていることを理解してくれていた。

 すいません、意味が分からないですよね、と軽く謝った彼女の顔にはまだ落としきれていない影が残っていた。

 俺はそんな影を落とす助けになればと、話を続けさせることにした。

 「あぁ、あんたが嫌じゃなきゃ・・・その、あんたが思ったとおりに話してくれないか?嫌なら無理して話そうとしなくていいんだが」

 「え?そうですね・・・上手くお伝えできるか分かりませんが。あの時、最初に父が自殺をしたと聞かされた時、わたし、頭の中で円が浮かんだんですね」 

 「えんってのは、あの丸っこい円のことか?」

 「えぇ、その円です。なんの円かというと、首を吊った縄の円なんですね」

 実の父の自死を聞かされてはじめに浮かぶのが縄というのも違和感を感じることには感じるが、逃避するためと思えば納得もいくと思う。

 「変ですよね、父の死を悲しむわけでもないなんて。母は悲しみのあまり言葉を失ったんだろうって勘違いをしていました。きっとこのことを聞いたら哀しみますよね、親不孝だって思いますよね」

 「そんなことはないだろう。誰だって大きな悲しみをはじめっから正面で受け止められるほど、強くなんかないぞ。あんたの母親は涙を流すことでその悲しみを受け流したんだろうし、あんたは違うことを考えることで受け流そうとしたんだ。そんなときにどうすりゃあいいかなんて、正解はないだろうさ」

 こればっかりは俺もきれいごとしか言えない。それに親不孝というなら俺の方だ。彼女は今もこうして父親の死を悲しんでいるではないか。俺みたいになんとも思わない人間ではない、それだけで十分ではないか。

 「豊さんは優しいですね・・・ありがとうございます」

 「こんなこと、誰だって言えるただのきれいごとさ。それにあんたがここまでわざわざ来た理由はお父さんのためなんだろ?供養って言ってたじゃないか、俺だったらそんな娘を親不孝だなんて思わんぞ」

 「いえ、そうじゃないんです。やっぱりわたしは親不孝ですよ」

 「どういうこった?親不孝だなんて言うもんじゃないぞ」

 「いいえ、わたしは親不孝ですよ。亡くなった父がいつまでもいつまでも、繋がれたまま彷徨っているなんて想像をしてしまっているんですから」

 そう言って彼女は足を止めた。少し遅れて止まった俺から見た彼女は、証言台に立って罪を告白しようとしているかのような、感情の見えない表情をしていた。

 「自殺したと聞かされたとき、縄の円が頭に浮かんだように、その亡骸を見た瞬間にも父の首に巻き付いた縄が見えた気がしたんです」  

 それは、恐ろしい想像だと思う。亡くなったという結果を目にするのと、死ぬ過程を想像することは全く別物だと感じる。人間死んでしまえばもうそれは過去のこととなる。生きているという進行形ではなく、生きていたという過去だけが残される。両者の区切りがはっきりとしている分、そういうものだ、そうなのだと納得させやすくなる。

 だが、死んでいく過程というのは生きていることと同じ、ともに進行形だからその区切りがつけにくい。いつになったら死ぬのだろう。今は生きているのか死んでいるのか、その区切りが付けづらい。だからこそ、怖いのだと思う。

 父の亡骸という過去を見てもなお、父が死のうとしている過程を浮かべてしまうのはとても怖いことだと思う。

 「縄を想像したというのは、お父さんが亡くなるところが浮かんだということなのか?」

 彼女は少し驚いた表情を見せた。

 「よくわかりましたね、わたし自身この感覚をどう表現したらいいのか分からなかったのに、すごいです」

 「いや、今のはただの・・・思いつきだ」

 人の苦しみを思いつきという言葉で片付けてよいものかと少し不安になったが、彼女はあまり気にしてはいないようだった。

 「そうです。豊さんの言葉を借りるなら、わたしは父の死を、ずっと頭の中で繰り返していたんだと思います」

 「それは辛いだろう・・・すまない、こんなことしか言えん」

 「そんなことないです。豊さんにこうして話せて少し落ち着けました」

 俺はその言葉に深くうなづいてやった。彼女の心情を思えば、この程度安いものだと思う。

 「それでこの円結びの神様とやらに神頼みに来たのか?」

 「えぇ、聞くところによるとその神様は縛り付けられた想いを解放してくれるというお話を聞いたので」

 「解放することと円を結ぶってのはなにか関係があるのか?」

 俺は少しでも話題を軽くしようとその神様とやらについて広げることにした。

 「そうですね、わたしも聞いた話なので詳しくはないのですが、わたしの父のように亡くなった人々を円のうちに閉じ込める役割を担っているとかなんとか」

 「閉じ込める?封印するみたいなことか?」

 「そのような雰囲気なのでしょうか、詳しくは知らないんです。そのうわさを聞き付けてすぐに動き出していたものですから」

 「そうか、うん?ところでその目的は果たせたのか?もう降りてきちまったけど、ほとんど何にもしてねぇよな?」

 思えば、俺が神隠しかなにかにあっていたせいでなにもせずにここまで降りてきてしまった。かといってまたあんな所に戻るのは少々気が引ける。

 「いいんです。こちらこそ無理を言ったばかりにとても危ない目に合わせてしまって、本当に申し訳ないです」

 「いやいや、それはもういいんだ。何はともあれ無事だったんだからな。それよりもだ、あんただって観光できたわけじゃないだろ?お父さんとのことにけりつけるためにここまで来たんだろ?」

 「そうですが、あんなことがあったばかりですから。わたしもちょっと怖くて・・・」

 俺もそうだがここは行かなければ肩の荷が下りない。

 「いくぞ・・・」

 俺はただ一言告げて道を遡りはじめた。

 「え・・・?」

 立ち尽くす彼女の腕を軽く引っ張りこちらに向かせる。

 「俺も乗り掛かった舟だ、あんたの目的ってのを果たすまで付き合うのが道理ってものだ。まぁ古臭い考えに過ぎねぇんだがな」

 彼女の表情には困惑と恐怖が映る。父親の死、神隠し、あまりに突拍子もない話が続いて俺も腰が引けている。だがここで引き返せばまだ変わるかもしれない。彼女に繋がれた縄を、その円を切るためには今ここで進むしか方法はないとすら感じる。

 だからこそ、俺は彼女の目を見据えてもう一度告げた。

 「いくぞ」

 それで納得したのかわからない。俺の表情かおが怖くてただ従っただけなのかもしれない。それでもいい、とにかくもう一度あそこに立たなくては始まらない。

 今度は俺が彼女の先を行く形であのけもの道を進んだ。年老いた体でもまだ若い彼女の体を支えるのはそこまで苦ではなかった。彼女は半ば動かされているような動きで難無くあの坂道を登りきってしまった。祠の前に到着したのは彼女のほうが早かった。

 俺は荒くなった息を整えながらあの祠の目の前に立つ。なにも変わってはいない。見た目は小学生の工作のようにも見えるが、それを目の前にして沸き立つ恐怖に足が震えるのがわかった。

 「さて、それでどうするんだ?お祈りでもすりゃあいいのか?」

 先急ぐように聞きたてる。それでようやくここまで来たことを実感したのか、彼女は少し肩を震わせて胸ポケットから小さな布袋のようなものを取り出した。

 「これは父の遺骨です」

 懺悔するように、罪を告白するように、ポツリとこぼした一言が周囲の空気を一気に重くさせる。

 「作法はよく分かりません。それにわたしもこの神様の力というのを信じているわけでもなかったので、ただの気休めかもしれませんが・・・」

 「いいからやりな。作法なんか関係ねぇさ、あんたがそれで少しでも楽になれんるのならやってみればいい」

 「・・・・はい」

 決心がついたように一歩二歩と祠に近づき、祠の前にあの布袋を置くと一歩後ろに下がり手を合わせた。これは彼女と父親との決別のためのもの。他人である俺が彼女のために手を合わせるなんてのは場違いだ。だが心のなかでは目の前の神様とやらに頼み込んでいた、どうかその子に繋がれた縄を切ってやってくれと。

 どれくらい経ったのだろう。そろそろ分からなくなってきたころ、彼女が俯いた頭を上げてこちらへ振り返った。

 「豊さん・・・ありがとうございました・・・」

 その表情に救いを見出してもいいものかどうか。俺には分からなかった。

 ただ、信じられないという思いが人の死をなかったかのように感じさせるように、信じるという思いがその円を断ち切り、過去と対面する勇気を与えてくれるかもしれないことにかけるしかない。

 もし彼女にも父親と同じような円が現れそうな時には、それを切ってやらねばと思う。

 神様とやらにも切れない円が、果たして俺に切れるのか。それはその時に考えることにした。

 「あぁ、よくやったな。さぁ、帰るか」

 俺たちは帰路に就いた。

 そこに断ち切れた縄があると信じながら。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鼠の妻 ネコイル (猫頭鷹と海豚🦉&🐬) @Stupid_my_Life

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ