鼠の妻

 わたしの夫はまるでネズミのような人だった。

 なんで傘を買わなかったの?ずぶ濡れじゃない。

 いいんだ、傘なんて買ったら玄関が埋まるだろ。

 そう言って垂れた髪の毛をバサバサと振り回すと、陰気な顔と合わさってよりネズミのように見えてくる。

 あぁ、いやだ。これじゃあわたしはネズミの妻だ。冗談じゃない、わたしまでネズミみたくされたんじゃあ堪らない。

 はぁ、もっといい男の妻になりたいものだわ。

 こんな卑屈な男の妻なんてごめんよ。なにかの拍子に死んだりしないかしら。

 


 その日も雨が降っていた。

 わたしは夕飯も準備し終えたところで、雨音を聞きながら本を開いていた。若い女と男の恋愛を描いた作品で、ここ最近はこれで不満を押し隠していた。

 しかし、最近の作品はどれもこうなのだろうか。物語が終盤に近づくと必ずと言っていいほど営みへと発展する。わたしには文学なんてものは分からないからこれが普通のことなのかどうなのか分からない。だけどあまりにも激しい情交を想像させられては胸のあたりがうずいてしまう。

 あぁ、あんなのの妻になったばかりにわたしはずっと満たされるという感覚に飢えていた。

 わたしは本を閉じたり開いたりしながら、どうにか夫を作中の男に差し替えようとする想像を巡らせた。伸ばされた腕が、手が、わたしの体をなで我が物とするかのように激しく掴むところを想像すると、腐りかけた女が顔を見せてくる。

 自分で自分の両腕をきつく抱きしめるのではどこかもの足りない。そう、ぬくもりがないのだと思う。外は雨で、窓越しにも湿気と寒さがわたしの体を襲う。そのどれからもわたしを守ってくれるような存在は何一つない。それが余計にわたしに現実感を突き付けてくる。せっかくの気分も台無しだ。もはや目の前に映る男は、虚像からただの記憶にすり替わってしまった。

 はぁ・・・

 ため息をついて気分を落ち着かせることにした。夫が帰ってきたときに変に呼吸が荒くては無駄に心配されるだけだからだ。あの男のおどおどとした表情や喉になにか詰まらせたみたいな声を聞いているとイライラしてしまう。そんなところもまるでネズミのようだ。

 沸き立つ怒りのようなものを吐き出す息にのせて分散させていると玄関のほうから、なにかが扉をきしませたような音がした気がした。

 なんだろう、帰ってきたのだろうか。

 ならさっさと扉を開けて入ってくればいいものを。

 わたしはテーブルに手を置いて腰をあげて玄関へと足を運んだ。金属製の扉はまるで存在しないかのように外の温度をじかに伝えてくる。

 扉を開けるとそこにはやはりずぶ濡れの夫がぽつんと突っ立っていた。

 「なにしてるの?鍵なんかかけてないんだからさっさと入りなさいよ」

 わたしはこんな姿を誰かに見られるのではと恥ずかしくなり、声を荒げてしまった。扉越しに聞くよりも雨の音はかなり大きく聞こえる。わたしの声が聞こえていないのか夫は微動だにしなかった。

 「なに・・・?どうしたのよ」

 わたしは訝しがりながら脇によけるとまるで何かを察したように横を通り抜けていった。わたしはなぜか扉の向こうへ視線を移した。そこに夫が落とした何かでも探すみたいに。

 でも特別おかしなものはなかった。

 夫の態度以外では。

 おかしい、いつもなら何かしら言葉を口にしているはずなのに。今日は何も言わない。かと思えば、美味しい、ありがとうなどと言葉にする。

 いつもと変わらない台詞。

 なのにおかしいと感じるのはどうしてだろう。

 きっとおどおどとした様子が無いからだと思う。

 今日の夫はまるで違う。普段があまりに自信なさげ過ぎるせいか、今の夫はとても自信に満ち溢れた姿に見える。

 ネズミではなく、はじめて人間として見ることができた。

 そんな夫は、人間でありなにより男であった。

 あぁ、いけない。こんな時に男だ女だなんて。はしたない想像をしてしまったことを内心恥じた。

 少し離れていよう。今日はなんだか調子が狂う。

 そう思って席を離れようとしたとき、急に指先に柔らかいものが触れる感覚がして驚いて身を縮こませた。見てみると夫がしゅんとした顔をしてわたしのほうへ手を伸ばしている。

 一体どういう風の吹き回し?

 これまでそんな風に触れようとしたことなんて一度もなかったくせに。

 わたしは驚いて手を引いたことを棚に上げてそう呟いていた。

 なんだか落ち着かない。いつもならわたしが近づいただけでも身を縮こませるのは夫のほうだったのに、これではいつもの逆だ。

 それに夫の伸ばした手の感触、指先に感じた柔らかさは忘れかけていた感情を一気に呼び覚ました。

 そうだ、出会ったばかりのころはこの人だって落ち着きがあった。温もりがあった。驚きや喜びといった感情を湧き起こす源泉でもあった。

 それを変えてしまったのはわたしであり、夫であり、わたしたち自身だ。

 夫をネズミのようにさせていたのはわたしのほうだったのだろう。そのことを自覚した途端、わたしは夫にどんな顔を向けたらいいのかわからなくなってしまった。

 わたしが俯いてしまっていると、夫はゆっくりと立ち上がってわたしの横に立つと静かに肩に手を置いた。わたしが見上げるように夫の顔を覗き込むと、夫はただ優しく笑顔を向けるだけだった。

 表情を変えるわけではない。かといって、なにか言葉をかけるわけでもない。ただ笑顔を向けるだけ。ただし、その瞳からは喜びや嬉しさではなく、強い感情が込められているような力強さを感じた。まるで獲物を狙う狩人のようにわたしを捉えて離さない。

 わたしは、これだけひどいことをしてきたわたしは、夫の優しさに触れていいのだろうか。

 わたしは恐る恐る肩に乗せられた夫の手に触れようとする。夫の肉付きが悪く骨が浮き出たような見た目の手にゆっくりと腕を伸ばし、指先でその角張った手の甲に触れてみた。

 すると見た目とは裏腹に、ぷにゅぷにゅと柔らかな感触が返ってきて驚いた。まるでゴムを詰め込んだみたいな感覚にわたしは夫のまだ見ぬ優しさを垣間見た気分になった。 

 「今日はどうしたの。なにかあったの?」

 わたしはまるでサプライズを知りながら知らないふりをするみたいにご機嫌な声を出して尋ねた。

 それにもやはり夫は答えない。普段ならなんとか言ったらどうか、と声を上げていただろうが、今はそれも許せてしまう気分だった。

 だってこんなに素敵な笑顔を見せられて、とても穏やかな気持ちになっているのだから。

 わたしはどうしても夫の体に触れたくなり、立ち上がって空いた手を夫の顔に近づけた。少し湿った髪の毛が夫の体温が低いであろうことを想像させる。温もりを与えてあげたい。

 そんな想いで触れた夫の顔は、フサフサとして柔らかかった。



 とあるマンションの一室で起きた事件は日本中を震撼させた。

 異臭がするという苦情を受けて部屋に入った管理人が見たのは、大量の糞とそこから発生したハエ、そのなかで所々に腐肉を残した白骨死体だった。

 発見された死体は女性のものであることがなんとか着ていた衣類から推測できたが、それ以外のことは一切理解できるような状況ではなかった。

 それから様々な憶測やら噂やらが飛び交うなかで懸命な捜査が続けられたが、わかったことは付近の側溝に同じく白骨化した男性のものを思われる死体が捨ていられたことと、マンションの部屋の中に糞と混じって大量の動物の毛が混じっていたことであった。

 解析の結果、それは鼠の毛であることが分かった。

 この女性は殺害後に鼠によってその肉体をすべて食い尽くされてしまったのだろうか。

 それとも・・・・

 しかし、真実が明かされることはなかった。

 

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