四月某日、東京に雪

詩一

春は灰色

 春は灰色に染まった。


 じゃびじゃびじゃびじゃびじゃびじゃびじゃびじゃびじゃびじゃびじゃびじゃびじゃびじゃ——。


 シャーベットになった雪は車のタイヤにかき回されてアスファルトの色を拾っていく。


 四月某日、東京に雪。


 クローゼットの奥にしまい込まれた防虫剤の匂いが染みついたマフラーだけではやり過ごせない温度が、シャツの間をすり抜けていく。


 改札を通り抜けてから階段を上がる。ホームに滑り込んできた電車の黄緑色のドアがため息を吐く。なだれ込んで吊革に掴まってから、いつもとは違う景色に驚いた。

 あ。これ、左回りだ。しかし気付いたときにはもうドアは閉まっていた。

 スマフォの時計を見る。

 大丈夫。このまま乗っていっても間に合う。

 急に冬みたいになったものだから、感覚がおかしくなったのだろう。こんなミスをしたのは初めてのことだった。


 それにしても朝方にこっち向きの電車に乗ったのはいつぶりだろうか。上京したての頃を思い出す。


 僕はバンドマンをしていた。

 売れないマイナーバンド。メインストリームからかけ離れた場所に居た。でもだからと言ってオルタナティヴと言うわけでもない。音楽の系統とかそう言う理由じゃなくて、単純に実力不足でインディーズ契約すら結べない無名のバンドの隅っこで、ベースをはじいていた。

 バンドで得られる収入はごくわずかで、それも機材の購入やら交通費やらで簡単に溶けてしまった。寧ろ足りないくらいだった。マイナスだ。バイトをしながら生計を立てて、でも立てきれなくて何度か電気が止まった。


 あるライブの帰り、出待ちのファンの子にお菓子を貰った。「好きです」と言われた。生まれてこの方、好きだと言われたことなどなかった。付き合ったことがないわけではない。でもすべて僕からの告白だったし、どれも長続きしなかった。付き合った彼女たちはみな口をそろえて言った。薄っぺらいと。

 人間の厚みってのは、どうやったら出来るもんかなと悩んでみたりもしたが、中学、高校と悩み続けても適当な解は見つからなかった。

 ある日ふと「もしかしたら全部別れるための言い訳だったりして」とシャワーを浴びながら独りってみたら、なんだかそれがものすごく的を射ているように思えてしまって、涙が溢れて止まらなくなった。


 だからファンの子の言葉はものすごく嬉しかった。バンドマンとしての好きですでも、お世辞でも、嬉しいことには変わりなかった。涙がちょびっとだけ出た。それからなんとなく流れでご飯を食べに行くことになって、お酒を飲んだ。彼女が未成年かどうかを確かめなかったけれど違和感なく酒を飲んでいたので、まあ多分大丈夫だろうと思って深くは考えなかった。僕はとても気持ち良くお酒が飲めて、彼女も楽しそうだった。僕は気付いたら彼女の手を握っていたし、彼女も僕の胸やら肩やらに頭をくっつけて来ていたし、彼女から漂うアナスイの香りが前の恋人を思い出させていたしで、ホテルに向かうのは自然の流れだった。

 新宿と新大久保の間の薄暗い安ホテルに転がり込んで、彼女を抱いた。処女じゃなかったことにホッとしている自分が居て、だからつまり心のどこかでは未成年なんじゃあねえかって言う疑いがあったりもしたのだけれど、僕はすべてをバンドマンの——ひいてはロックのせいにして交わり続けた。ロックを履き違えているのは百も承知だったけれどそのときだけは履き違えたままでいたいと思った。


 ある日メンバーにファンとそう言う繋がりを持つのは良くないと言われた。そりゃあそうだろう。僕もこの辺りのことはしっかりとけじめを付けなければと思っていた。だからそのことをそのまま彼女に伝え、加えてこう言った。


「だから、ファンじゃなくて僕の恋人になってくれ」


 けれども彼女は即答で「それは嫌」と言った。どうしてなのかよくわからなかった。僕が感じていた彼女への思いはなんだったのだろう。でも彼女は初めから彼女にしてくれなどとは言っていなかったし、僕への「好き」もバンドマンとファンの間に生まれたものだった。彼女は応援している僕に抱かれたかったし、ファンとして抱かれたかったのだろう。男女の営みなどというものは、そこには初めから存在してなかったのだ。そう思ったら彼女への未練などと言うものも存在させてはいけないもののように思えて、僕は「そっか」とだけ言った。

 僕らは別れた。初めから付き合っても居なかったのに。


 あのときの彼女は、今このときをどう生きているだろうか。季節外れ予想外の雪の日に、外で凍えてなければいいのだけれど。


 そろそろ下車する駅が近づいてきた。人が少なくなってきて、そこで初めて気が付いた。アナスイの香り。鼻腔をくすぐるそれはすぐそばから漂っていた。目を向けると、そこにはあのときの彼女が居た。僕が掴まった吊革のすぐそばにいつのときからか居たのだ。突然のことに呼吸が止まった。そのくせ心臓の音は耳元でやかましかった。声を掛けたい衝動に駆られたが、彼女の隣には友達が居たのでそれは無理だった。二人はにこにこ笑いながらお喋りをしている。

 片耳にイヤホンを付けていて、もう片方のイヤホンは友達の方へ伸びていた。


「ね、ね! すごいでしょこれ!」

「うん、ヤバイ」


 少し興奮した感じだ。なにを聴いているのだろう。気になったのもあって、視線は彼女のスマフォの画面に向かっていた。

 見たことも聞いたこともないバンド名が表示されていた。


「それにしてもまたマイナーなところからよく見つけてくるよね。どうやって見つけるの?」

「足よ、足」

「なにそれ。刑事みたいでカッコイイ」

「ふふん。この前ね、代々木公園でフリマがあったんだけど、そこのステージで歌ってた人たちなの。超カッコイイなって思ったの」


 ドアが開いた。僕のためのドアだ。続きが気になっていたのは確かなんだけれども、このまま聞かない方がいいような気もしていて、だからなのかドアの開閉音がどこか新しい呼吸の音のようにも聞こえた。


 外に出て深呼吸をしながら、胸のバクバクが収まるように願いつつ、階段を下りる。

 結局最後まで向こうはこちらに気付く様子もなかった。なんだか寂しい気もしたが、トイレの鏡で自分を見たら、なるほど確かにわかるはずもないとなんだか妙に納得してしまった。


 外はまだ雪が降っていた。

 人もまばらなのは、雪のせいか。或いは今の僕にそう見えているだけなのか。


 はらはらと舞い落ちる雪の奥、信号機の赤いおじさんをじっと見つめていたら、温かい車両内でにこにこ笑って他のバンドを褒め称える彼女の顔が浮かんだ。今でもマイナーなバンドが好きなのは変わりないらしい。やはりベースの人が良いんだろうか。そのベーシストにはお菓子をプレゼントしたのだろうか。酒は飲んだだろうか。セックスはしただろうか。


 僕がバンドをやっていた頃にもサブスクと言うものは存在していたけれど、今ほどではなかった。今は見たことも聞いたこともないバンドのサウンドが、老若男女にダウンロードされて耳に届く。日常的に、当たり前に。あのときも音楽は当たり前にあった。僕の指の傍にあった。ただそれを多くの人の耳に届ける技術がなかっただけで。

 それでも彼女の耳には届いていたんだろうなあ。

 ぼんやりとそんなことを考えていると、まつ毛の上に乗った雪がじゅわっと溶けて流れた。頬を伝う頃にはそれは温かいものに変わっていた。滑り落ちていく刹那に、温度は奪われていったけれども。

 あのときもしもバンドメンバーに止められていなかったら、今でも彼女との関係は続いていただろうか、いや。

 ああ、そうか。

 僕は今さらながらにあのとき恋をしていたことに気が付いた。バンドマンとファンとの交わりの中に、下心だけで塗り固めたセックスとキスの中に、確かに真っ白な恋心があったのだ。それはもう溶けてしまって久しいが、こんな季節外れの寒さに、もう一度結晶化してしまったに違いなかった。


 青信号でゆっくりと歩き出す。


 花などとうに散ってしまった桜の木の枝の上に、どうせすぐ溶けるくせに腰を据える雪の欠片。なにかを作って飾っておけるほど降り積もることはないだろう。

 赤いポストの上に積もった白い雪。僕はそのうえを掌で舐めて、雪を掬い取った。しゃびしゃびの雪は掌の中に握りこむと、やわらかい氷に変わった。親指で押すと、ポスッと音を立てて崩れるほどの氷。

 胸の中に呼び覚まされたあのときの苦くて甘い匂い。それを外に吐き出したい衝動に駆られた。

 もしもこの氷をあのビルの窓にぶつけたらガラスは割れるだろうか。隣を走る車にぶつけたら事故を起こすだろうか。すれ違う人にぶつけたらケガをするだろうか。


 ギュッギュッ。


 手の中で水っぽくなっていくやわらかい氷を絞る。

 起こり得るはずのない未来に恐れをなして、僕は結局ポストの側面に投げることにした。

 投げると言うにはあまりにも緩やかな放物線。しかし氷は思いのほか強かった重力に負けてポストの手前に落ちていく。じゃびじゃびにアスファルトを吸ったシャーベットの中に落下したそれは、すぐに交わってわからなくなってしまった。


 なんだかそれはまるで……。

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