第201話 番外編 / とある令嬢の初恋
星が眠り、太陽が目覚めようとしている。
薄明かりが広がる紫色の空の下で、
不用心にも施錠されていない扉をすり抜けた人物は客室の更に奥に進むと、薄暗い寝室の中央に置かれた大きなベッドによじ登る。
そして小さな体を思いっきりベッドの上で跳ねさせ、目標に向かって着地した。
――ドスンッ
「ぐえっ」
少女の下で、眠っていた客が呻く。
「起ーきーてー!」
まだ五歳にもならない少女は、その客の背中の上で何度も飛び跳ねた。
一度呻いたきり全く音沙汰がなくなった客を叱るように、小さなお手々でボサボサの赤毛を掴んで引っ張る。天使のような可愛い顔で、悪魔のように凶暴な振る舞いだ。
「いてて……! んんん……」
頭を引っ張られ、強制的に体が起き上がっても、男はなんとか惰眠を貪ろうとした。しかし悪魔な天使はそれを許さない。
「起きるのよっ」
「わかった、わかった……」
わかったといいつつ、男は目を閉じたままだった。ベッドの上に胡座をかき、こくりこくりと舟を漕いでいる。
少女は男の肩によじ登り、強制的に肩車の姿勢を取った。男は寝ぼけ眼で、少女が落ちないよう、彼女の背中に両手を添える。
「ねえ、起きてっ!」
「んー」
「あのね、私、恋したのっ! 応援してくれるでしょ?」
ナーサリーメイドが廊下の隅でこそこそと同僚とする恋バナを真似たような物言いに、男の目がパチリと開く。
男は肩を下げ、少女を自分の肩からずり落とした。突然ぐるりと姿勢が変わった少女は楽しそうに「きゃっきゃっ」と笑っている。
ようやく目覚めた男は、抜け目ない猫のような目を細めて、にまーっと笑った。
「もちろん、マイ・ラブ」
【 とある令嬢の初恋 】
「とっても素敵なの。一緒に走ると、大好きって思ったの」
「そうかそうか」
「ねえ、恋っていうんでしょ?」
「そうな」
「一緒に遊んでほしいの。でもパパが、お前にはまだ早いって。あとね……お誘いに行くの、ちょっと恥ずかしいの」
「よし、一緒に準備しような」
胸元のボタンを二つ残して着替えを終えると、男はお利口にもソファに座って待っていた少女に向き直った。
いくらまだ暖炉掃除をする使用人くらいしか起き始めていないような早朝とはいえ、友人の屋敷でガウンのまま歩き回るのはさすがに不作法である。
こんな時間から男が起きているのを目にするだけで、幼い頃からの付き合いである友人は目玉を落とさんばかりに驚くだろう。
長身の男は腰をかがめて少女の手を握った。少女の身長は小さく、手はそれ以上に小さい。
小さな手は、男の太い指をくいっくいっと引っ張った。
「抱っこがいい」
「仰せのままに」
男が抱き上げると、少女の長い金髪がふわりと揺れる。
ネグリジェのままベッドから抜け出してきた少女を子ども部屋に連れ帰れば、少女の脱走に気付いて右往左往していた乳母と男は鉢合わせた。
「お嬢様!」
涙を流さんばかりに喜ぶ乳母に聞こえないよう、小さな令嬢が男の耳に唇を寄せる。
「撒いてきたの」
「いかしてんじゃん」
ひそひそと話す二人に、乳母が首を傾げる。男は人好きされる笑みを浮かべた。
「今日は俺が見とくから、久しぶりにゆっくり朝食でも取ってくるといい」
「は、はいっ……」
三人の子どもがいるにもかかわらず乳母は胸を押さえ、ふらりとよろめいた。よろよろと子ども部屋を出て行く乳母と入れ替えに、男と少女が子ども部屋に入室する。
「まずは戦闘服だな。一番のお気に入りは?」
「これ!」
「リボンは?」
「最近買ったのはこれ。でもこっちの方が好きなの」
「んじゃそっちにしような」
子ども部屋の奥にある衣装部屋に入った男達は、ずらりと並ぶ衣服から一張羅を手に取っていく。
自分で着替えたことなどない少女の着替えを大きな手で器用に手伝うと、男は鏡台の椅子に少女を座らせた。男の指先は迷いなく動く。子ども特有の絡まりやすい細くふわふわとした髪をブラシで梳きながら、鏡の中の少女に話しかける。
「手土産が必要だな」
「なにがいいかしら」
「かの有名な次期紫龍公爵は、手摘みの花で奥さんを仕留めたと有名だ」
「まあっ!」
少女は口を小さな手のひらで覆うと、くすくすと笑う。
髪を整え、素敵なドレスに着替えた少女を、男は片手で抱き上げる。腕に乗った少女は、指先一つで男を操縦した。
子ども部屋を出てると、男は階段を降りた。そしてキッチンへと長い足を向ける。
「庭にお花を摘みに行くんじゃないの?」
首を傾げた少女に、男は不敵に笑った。
「プレゼントは、相手が喜ぶものを選ぶこと。いい女への第一歩な」
キッチンには、既に何人かの使用人が来ていた。朝食を作っている料理人からニンジンを一本もらうと、男は少女に持たせた。
男が二本の指でつまんだニンジンを、少女はぎゅっと抱き締める。
キッチンから廊下に出ると、何人もの使用人が仕事に取りかかろうとしていた。その誰もが、男を見て驚く。何度も屋敷に泊まったことのあるこの男の寝起きの悪さは、使用人にまで知れ渡っていた。
ニンジンを抱えた令嬢を抱えた男を、適齢期の女性の使用人らの誰もが、頬を染めぽーっと見つめる。
四歳児が少し顔を動かせば、注がれる視線など歯牙にもかけない、自信に溢れた美しい男の横顔がある。
少女が、少し火で炙ったマシュマロよりも柔らかそうなほっぺを、男の頬にくっつけた。
「ん?」
頬をくっつけたまま、男が灰色の目が少女を見る。優しく細められた瞳から滲み出る愛は、疑いようもない。
「んふ、んふふふ」
少女が肩を揺らして笑うと、くっついたままの男の頬も小刻みに揺れた。
***
「これはこれは。早朝のお散歩でしょうか?」
朝早くに厩を訪れても、馬丁は嫌な顔一つせずに男を出迎えた。ずらりと並ぶ鞍を手にかけようとする馬丁に、男は手のひらを向ける。
「いや、用があるのは俺じゃない」
「と言いますと――まさかお嬢様が?」
目を見開き、男の腕にいる少女を馬丁が見る。身をかがめ、男が馬丁に何かを呟くと、馬丁は小さく頷いた。
「ええ。あれは気性が優しい方でして――」
「ならよかった」
少女を抱えたまま、男はピカピカに磨かれた革の靴で、藁が散らばる土間を闊歩する。
目的の者の前に辿り着くと、男は腕の中の少女を促した。
「ほら、来たよ」
「……」
「どうした」
黙りこくった少女の頬を、男が指の背でぷにぷにと遊ぶ。
少女はこれまでの明るい表情を消し、男の服に顔を埋めた。
「……かわりに言って。恥ずかしい」
もじもじする少女の名前を男が呼ぶ。
「顔上げてみな」
「?」
少女は恐る恐る、男を見上げた。
「今日の服は一番のお気に入りだし、リボンは服に似合ってる。世界一可愛い君からもらうニンジンを、喜ばない男はいないな」
「そ、そうかしら」
少女は頬を染め、ニンジンを抱き締める腕に力を込めた。
「でも、あのね。ちょっと怖いの」
「それは正しい。男には常に警戒心を抱いているように」
にんまりと笑った男は、抱えた少女に手のひらを差し出す。
「ほら。一緒に持ってやるから」
少女はおずおずと、ニンジンを掴んだ小さな両手を男に向ける。
男は少女の両手ごと片手ですっぽりと覆うと、目の前で事の成り行きをじっと見つめていた馬の口元に、ニンジンを差し出した。
お利口に待てが出来ていた雄馬は、大きな歯でニンジンを囓り取り、首と唇を揺らしてむしゃむしゃと食べる。
「声はかけんくていいの?」
「今は、ご飯に夢中だから」
「そうな」
ニンジンを全て渡し終えると、少女を抱えた男は一歩下がった。ニンジンを貪る馬を一心に見つめる少女の横顔を見て、男は目を細める。
馬がニンジンを食べ終えた頃合いを見計り、少女はごくりと生唾を飲んで、口を開いた。
「こ、今度、私も乗せてくれる?」
「ヒィーーッヒヒッヒヒヒッン!」
馬が大きくいなないた。
びっくりしたのか、少女はびくりと体を震わせると、男の首にしがみつく。
「な、なんて言ったと思う?」
男は笑うのを我慢しながら、真剣に尋ねる少女に、真剣な声で言った。
「多分だけど、いいよ、かな?」
「そうよねっ!」
パァッと少女が顔を輝かせる。彼女を抱く男と、離れた場所でひっそりと見守っていた馬丁達の胸に安堵が広がる。
少女の満足を感じ取り、男は厩を出ようと屋敷に足を向けた。そろそろ、ダメ元で友人が自分を朝食に誘いに来る時間だ。もぬけの殻のベッドを見て慌てふためく友人の姿を、男は是非とも見たかった。
「ねぇ」
「ん?」
道すがら、神妙な顔をした少女が男を見上げた。
少女の目に映る男は朝日に照らされ、いつもよりもうんと輝いて見える。優しい顔でこちらを見つめる男の灰色の目に自分を映し込むくらい、少女は背を伸ばして顔を近づけた。母親によく似た空色の瞳で、少女がじっと男を見つめる。
「初デートも、ちゃんとついてきてくれる?」
懇願の声に、男はたまらずに笑い出してしまった。
カラカラカラと笑う男にムッとしている少女に許しを得るべく、男は赤毛を風に靡かせて慇懃に頭を下げた。
「もちろん、仰せのままに。お嬢様」
- とある令嬢の初恋 - おしまい
死に戻りの魔法学校生活を、元恋人とプロローグから (※ただし好感度はゼロ) 六つ花 えいこ @coppe
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