第2話

「そういえば、りりちゃんは、どうして今日は早くに来たの?」

 いつも会う曜日じゃないし、そもそも、まだ学校の時間じゃないの? そうなつきちゃんが聞いてきた。そう、本当はまだ授業中。私は、特別な用事があって、それが済んだから早退してきた。用事、それは―


「実は、今度引っ越すことになってさあ。だから、今日は転校のあいさつだけで帰ってきたの。それから家を抜け出して、ここに来たってわけ。より子さんに、あいさつしにね。なつきちゃんにも会えて、本当によかった。ちゃんとさよならのあいさつがしたかったし」

 そう、引っ越す。明日。今の学校では、もう授業は受けない。


「え? 引っ越す? りりちゃん、いなくなっちゃうの!? いつ!?」

「明日。だから、今日でお別れだね」

「明日? ええ? 遠くに行っちゃうの? どうして? どこに?」

「さあ? 引っ越しは前から決まっていたんだけどね、明日ってことは、昨日、突然言われたの。理由は、お母さんの『りこん』、どこに、は知らない。ただ、外国ってだけ。いくらなんでも、大雑把過ぎるよねえ(笑)。

 …お母さん、私にはなんにも説明しない。だいじょうぶよ、心配ないからねって、そればっか。お姉ちゃんも、あんたは子どもなんだから何も考えなくていい、考えたってしょうがないでしょ、って、そればぁぁっか!!」

「…大人あるあるだよね。子どもは気にしないでいいの、って何も言わない。それって失礼じゃない? 子どもだってとーじしゃなのに」

「とーじしゃ?」

「うーん、ええと、関係あるってこと。親の都合で引っ越したり家族と離れたり新しい家族ができたり、子どもはそれに振り回されるでしょ?」

「ああ、確かに」

 関係おおありなのに、関係ないとか言われて何も知らされなくて、不安になるし、気分悪いわ―。

 ぷりぷりしながら言うなつきちゃんの言葉を聞きながら、さっきのなつきちゃんの話を思い出した。引っ越すと知らされないまま、ちゃんとお別れのあいさつできないまま、おばあちゃんちをさよならしたって。

 今、なつきちゃんが怒っているのはそのせいもあるんだろうけど、でも、その怒りの何割かは私のためということもわかって、嬉しくなった。大好きななつきちゃん。優しいなつきちゃん。…そう、もう会えなくなるんだ、寂しいなあ。でも、ちゃんとお別れができてよかった、ほっとした。


 だけど、なつきちゃんは、そんな急にお別れだなんて、寂しいよ、と呟いている。より子さんも、そうね寂しいわね、と、しんみりと言った。離婚は、子どもにはつらいわね、と。

 そんなことを言われて、思わず目の奥が熱くなって潤みそうになった。けど、一緒に落ち込むわけにいかない。ぐっと、目とお腹に力を籠める。だいじょうぶ、絶対に泣かない、私は、できる! さっきだって、学校で、みんなと明るくさよならしてきたんだもの、ここでもそうしなくちゃね。

 何とか涙を引っ込めて、何でもない顔で、何でもない声で、言った。


「うん、より子さんやなつきちゃんとのお別れは寂しいけど。でもまあ、別に、親の離婚なんてたいしたことじゃないわ。だってね、今どき、最後まで離婚しない夫婦のほうが珍しいんだから。10組のうち7組が、離婚するんだってよ?」

「へえ!?」

「お姉ちゃんがそう言ってた。よくある話よ、全然たいしたことじゃないんだから、悲しむのは変よ、って」

そう、よくあること、当り前のことなんだから、当り前に受け取らなきゃ。


 だけど、より子さんは言った。いつもとは違う、ちょっと厳しい顔で。

「…どんなに離婚が当たり前になったとしてもね、あなたが自分の両親の離婚を当然のこととして受け入れるべき、なんてことは決してないのよ。あなたにはね、怒ったり悲しんだりする権利がある」

「けんり?」

「そうよ。たとえ世界中のすべての夫婦が離婚することになっていたとしても、それが自分の身に降りかかった子どもは哀しいし切ないわ。その気持ちを否定するなんて許されないことよ」

「けんり…」


 怒っても、悲しんでもいい、より子さんは言う。その言葉は、心の中に小さな波を起こしかけたけど、私はあわてて首を振った。


「そうかもだけど、でも、怒っても悲しんでも無駄だわ。決まったことは変えられないもん。それにね、私本当に平気なの。学校のみんなにも、より子さんにも、なつきちゃんにも、ちゃんとお別れのあいさつができたし」


 そう言って、笑ってみせた。だいじょうぶ、私は、できる。

 急に、足に冷たい感覚。チロが、私の足に鼻先をぐいぐい押し付けていた。揺れる尻尾と見上げる瞳。なつきちゃんは言った、チロは私のことが好き、と。小さな、甘い、鳴き声。撫でるの、やめないで? って言っているみたい。再び手を動かすと、またごろんとなって、嬉しそうに目を細めた。

 初めて会ったころはすぐにどこかに隠れちゃって、全然触らせてくれなかったのに。私たち、いつの間にこんなに仲良くなったんだっけ?


 …急に、心臓がドキンとした。そうだ、チロにも、もう会えない。


 私は今日、みんなにお別れを言った。明日からは会えないと、伝えた。ちゃんと、さよならをした。でも。チロは? チロには、わからせられない。

 私が急に来なくなったらどう思うかしら。

 私に、嫌われたと思う? そんな私のことを、嫌いになる?

 違うの、チロ、違うの、大好き、ずっと大好き、だけど、行かなくちゃならないの―。


 お願い、忘れないで、ううん、忘れて、来なくなった私のことで哀しく辛くなるのなら、心の中から、私の存在、全部消して。

 本当は忘れてほしくないけれど、でも、チロがつらいのはもっと嫌―。

 頭の中を、同じ考えが行ったり来たり、ぐるぐるぐるぐる回る。


「理不尽よね、この世界は」

 より子さんの、静かな声がした。

「りふじん?」

「そう。理不尽」

 意味は分からなかったけれど、でも、それが今の私の思いを示す言葉なんだろうということが、なぜかすんなり納得できた。


 私がいなくなって悲しむなんて、うぬぼれかなあ? 笑おうとして、失敗した。目の表面が熱くなって歪んで、水滴が落ちた。


「ここでも、学校でも、みんなには、お別れ言えたけど」

「…うん」

 視線を落として、地面を見つめながら言う。ぐっと目に力を入れて。

静かに、より子さんが相槌を打った。なつきちゃんが、鼻をすする音がした。

「でも、チロ、チロにはわかってもらえないね。どうしたらいいかわからない。せめて、チロが悲しまなければいいと思うけど」


 難しいかなあ?


 誰も応えない。なつきちゃんがも一度鼻をすすった。より子さんが私の頭にそっと手を乗せた。チロがぱたん、ぱたんと尻尾を振った。頭上で木々が、ざあっと揺れた。私は深く呼吸をした。すべてを、しっかりと記憶するために。


 チロ、チロには、お別れが言えないんだね。チロ、子どもって、無力だ。


 これが、私が泣いた理由―。





FiN

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私が 泣いた 理由 はがね @ukki_392

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