喉の奥のナイフ
藤井杠
季節外れの夏の話
気づいた時、僕のからだの中には、とある一本のナイフがあった。
それはどれくらいの大きさで、何時、どうやって僕のなかに入ったのか、その時は分からないことだらけだったがそれでも一つ、確かなことが。それは、このナイフは時々僕のからだの中から抜け出して、時に誰かを傷つけようとしたり、それを抑え込もうとすると、今度は僕の中を刺して暴れまわる。それでもこのナイフは僕の中から出ていかないし、
僕もこの「もう一人の自分」を捨てられずにいるのだ。
今日は、近所にあるショッピングモールに来ていた。夕闇もとっくに通り過ぎて、辺りは随分と暗くなって、蛍の光がぼんやりとまわりに散らばっている頃だった。昼間とは打って変わって人の数もまばらになって、小規模なお土産売り場なんかはとっくに閉店の白ネットを店先にぶら下げていた。エスカレーターを速足で登って、二階の衣料品店売り場を通り過ぎた所で大きな鏡がある。服の見栄えなんかを確かめるためのものなのかもしれないが、道の真ん中に置くにはいささか大きすぎる気がする。手のひらをゆっくりと当てて、顔を覗きこんで、直ぐに離れた。お気に入りの黒のシンプルなTシャツと、少し裾の長いチノパンに着られている、小さな少年がそこに居た。もう少しそこに居たら、今にもぶきみな鏡の装飾に呑みこまれてしまいそうだった。
二階の売り場の奥、ゲームセンターと玩具売り場の近くには、通いなれたフードコートがある。店の一つだけが、ぽつん、とほのかに明かりを灯していた。途端、ぐうとお腹が鳴った。別に誰に聞かれたわけでもないけれど、少し恥ずかしい。ポケットの中にあったなけなしの金で、コロッケパンと冷やしうどんとたこ焼きを買った。勿論、ドリンクにミルクも忘れずに。テーブルの上にはチェック柄の濡れ布巾とその横にアンケート用紙が常備されている。最後の一枚をとって、適当に項目欄を埋めてみた。一番下の住所欄は空欄にして。・・・所詮当たりっこない懸賞に応募したところで、無駄骨だしね。残り一口でミルクをごくんっと飲み干した。
こういうところに時計はほとんど見当たらない。全ての空間が時間を忘れて眠っているみたいだ。大きな音を立ててゴミ箱に吸い込まれていくのを見るのは少し心が痛くなる。耳鳴りが目に染みついてくるように。
一階は雰囲気のある雑貨店・お土産売り場と小さな定食屋やクレープハウスなんかが並んでいる。二階はカオスな衣料品売り場とフードコート・ゲームセンターの奥には隅の方でひっそりと本屋と文房具屋が肩を並べている。心なしか売ってある本にも埃がかぶっているみたいに感じた。立ち読みには向かない店である。とはいってもこんなに暗くちゃあ文字なんてほとんど見えないんだけれど。
三階には立体駐車場。屋上はない。・・・これ以上の行き場はなかった。何処にも。
二階の売り場を冷やかしながらぐるりと一周回ってみた。ずっと歩いていれば元の場所に戻れるような、円状の構造。しばらくしてフードコートの近くに戻ってきた。先ほどの明かりもなくなっていた。
「ねぇ、君。」
不意に後ろからかけられた声に、背筋がすうっと凍りついた。居る筈のない、『居てはいけない』存在。最悪の状況を想定しつつ、ゆっくりと後ろを振り返りながら、今までのつまらない走馬灯までもが頭に流れ込んでくるような気がした。
「このアンケート、君の?」
途端、思いついた限りのいくつかの予想は全てかき消された。目の前に居るのは見覚えのある紙きれをこちらに差し出している見覚えのない少年だった。大きめの黒のフードを頭にかぶっていて、大きな弧を描く口元以外は周りの暗さも相まって、よく見えなかった。
「そこの床に落ちていたんだ。折角書いたものなら、捨てられるより本人に返してあげた方がいいかなぁって思って。」
「あ、ありがとう。・・・でもアンケートだから、別にそこの回収箱に適当に放り込んでくれればよかったのに。その、別に俺にわざわざ渡さなくったって・・・」
なんだが、奇妙な会話だ。誰も周りに居ないことが更に不気味さをかもし出しているような気がした。
「・・・・・あ、そうか。そうだね、ごめん。僕ここに来るの初めてだからさ、回収箱とか近くにあるのよく知らなくってさ。そうかそうか・・・ふーん。」
そういうと、アンケート用紙を眺め始める。・・・何で赤の他人に目の前で読まれなくちゃいけないんだよ。自然と目をそらしていた
『氏名:本屋 了』
「ほんや・・・りょう?」
「とおる、って読むんだよ。これで。それにほんや、じゃなくてもとや、な。」
「なるほど。もとや、りょうね。んー・・・? ねぇ、」
「何?」
「どうして一番下の住所の所、ここなんで書いてないの?」
「・・・別に書かなくたっていいだろ。個人情報だってあるし。別にそんな懸賞なんか当たるとも当たりたいとも思ってないし・・・」
何気なく伸びた右手が、左腕を軽くつまみ始めていた。
「ほんとにそう思ってる?」
「!!!」
少年の口から、鈍く光る白い歯がにっと見えた。見透かされているような気がして、咄嗟に次の言葉が出てこない。
「・・・別に何だっていいだろ。お前には関係ない。」
じゃあな、と言い残してそのままフードコートを離れる。気分が悪い。胸の奥がギュリギュリとして、食べ過ぎ癖を少し後悔しそうにさえなった。行き場所なんてないけれど、これ以上あいつと話を続けるよりはよっぽどましだった。・・・そう言えば俺はあいつの名前を聞いていない。なんか損した気分だ。
フードコートから少し離れて、衣料品店をもう一度冷やかしに行く。一度見た所と言っても、気分が違えばまた違ったように見えてくる。何枚も何枚もレールで重なり合ったシャツやズボンをペラペラと一瞥していく。退屈だ。が、このもやもやとした気持ちが晴れるまではここを離れる気にはならなかった。
のだけれど!
「何見てるの?とおる君。」
何故ここに居る。・・・わざわざついてきたのか?
「あ、そのシャツいいね。僕はこういうデザインも・・・ってちょっと!」
無言でその店を出る。何だよあいつ、初対面のやつに馴れ馴れしすぎじゃないか?
そのまま歩き出す。
「ねぇ、待ってよ―。」
まだついてくる。何なんだよ・・・俺なんかしたか?
「あ、見てよ!あそこにある黒のシークレットブーツなんて格好良くない?ねぇってば!」
・・・煩い。
どうにかしてあいつを引き離そうとして、駆け足で、わざと入り組んだ道を通った。この辺は知り尽くしている。初めてここに来るあいつなら、直ぐに迷うのがオチだ。自然と口元に笑みが零れた。
入り組んだ道を抜けると、自分でもよく分からない所に出た。周りを見る限りだと、コートの反対側くらいだろうか。
「君は、何処へ行くの?」
「うわあ!!!」
居る筈のない声に、まさかの腰が抜けた。・・・尻もちをついたまま、目の前の少年を見上げる。何も変わらず、口に笑みを浮かべたままの表情がより一層不気味だ。
「なんなんだよ・・・お前」
「僕は・・・」
「ぼくは、モトヤ トオル。紛れもない、君自身だよ。とおる君。」
真っ黒なフードの向こうには、見慣れた自分の顔が見慣れない不敵な笑顔を浮かべていた。
「は・・・俺自身?ってことは、お前、ドッペルゲンガ―ってやつ・・・なのか?」
『ドッペルゲンガ―に会ったものは死んでしまう。』そんな言い伝えが頭を駆け巡ったが、どこか冷静にこの状況を受け入れている自分もまたここに居た。
「うーん。ドッペルゲンガ―とは少し違うかな。僕は君と同じ姿をしているけれど、君と全く同じってわけじゃない。」
「・・・だったら、なんだっていうんだよ、お前は。」
「僕は、もう一人の君だよ。ここに囚われている君を助け出すために、ここじゃない別の所から来たんだ。」
「・・・は?」
さすがに意味不明だった。別の世界から来た、もう一人の俺。あやふやでとても現実離れしている言葉はまったくもって何処にも引っ掛らない。ただ唯一、「囚われている」という言葉を除いては。
俺が気づいた時には、いつもこのショッピングモールの中に立ちすくんでいた。目が覚める時間帯もいつも決まって、ここの正面入り口が閉まりかける直前なのだ。着ている服もいつも同じ。右ポケットには必ず一回の食事分だけの金額が入っている。気づいた時には目が覚めている。
「君がいつからここに迷い込んでいるかまでは僕には分からないけれど、君はいつも鏡を見つめていた。いつも同じことをして、最後には消えてしまいそうだった。いつだって。」
「きえる・・・俺がか?」
「君はいつも、おんなじことの繰り返しで、かつあやふやに生きている。君がいるべきはこんな暗闇なんかじゃない。もっと光の方へ進んで、歩き続けるべきなんだ。こんなところで、立ち止まっちゃいけないよ。
指差した方向は、いつも、行きどまりだと思っていた場所だった。
見飽きた衣料品売り場を抜けて、止まっているエスカレーターを駆け上がった。昇りきった先にある、使ったことのない通用口へと、迷うことなく飛び込んだ。今まで感じたことのない心拍数を胸が慌てふためきながら示していた。
真っ白な光が目の前に広がり、僕を包んでいた周りのうすら闇を吹き飛ばした。
「さようなら、もう一人の僕。」
鈍い光と錆び付いた音が、辺りを包み込み始めた。
喉の奥のナイフ 藤井杠 @KouFujii
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