友達なんかじゃいられない

綾坂キョウ

友達なんかじゃいられない

走っていた--あたしは。でも、理由が思い出せなくて。


いつもの通学路。二年間、ほとんど毎日歩いてきた道を。あたしはひたすら走っている。


「さっちゃん」

そう、あたしを呼ぶ声がする。同時に、後ろから腕をつかまれて。あたしはようやく、足を止めた。

「さっちゃんてば」

あったかい声。振り返ると、ぐしゃぐしゃに歪んだ視界の中に、ミキちゃんがいた。ちょっと首を傾げながら、ボブカットをさらさらと揺らして、丸くて大きな目をほんのり三日月にしたような優しい笑顔で、あたしを見つめている。

「どうしたの?」

ミキちゃんに言われて、あたしはようやく、自分が泣きじゃくっていることに気がついた。


「ミキ、ちゃ……っ、あた、し」

声が震えている。声だけじゃなく、足も、手も、震えていて。


あたしは、ミキちゃんにつかまれた手を見つめた。それから、なにも持っていない反対の手も。


血の気の引いた、真っ白な手。その、手のひら。それが、不意に真っ赤に染まって見えて、あたしはぐっと息を詰まらせた。胸が、ぎゅっと握りつぶされたような、痛み。いつぶつけたのか、背中も痛い。


「あた……し、ね。あののこと……こ、殺しちゃったかも……しんない……」

「あの娘?」

「うん、あの……娘……」

言いながら、あたしは「あれ?」と混乱しかけた。


「あの娘……なんで、名前思い出せないんだろ……? なんで。だって、いつも」

「……さっちゃん、落ち着いて」

ミキちゃんの手が、背中の痛いところを撫でてくれる。

「さっちゃん、すごく混乱してるし。ゆっくり、息吸って……吐いて。ちゃんと、整理しよ」

ミキちゃんにそう言われると、だんだんと震えが止まって。空いてる手をつかって、あたしはぐいっと涙を拭いた。

「……えっと。あたし、いつも通り、帰ってたとこで……」

ふと、制服のスカートからのぞく膝が、黒く汚れていることに気がついた。血も出ている。走っている間に、転んだんだったかな--覚えて、いないけど。


「いつも通り、ってことは。学校から、電車に乗ろうとしたんだよね?」

ミキちゃんの穏やかな声が、とっちらかりそうになるあたしの思考を、引き戻してくれる。「うん」とあたしは頷いた。


「一人で?」

「ううん。いつも一緒に通ってた……あの娘と」

そう。そうだ。

あの娘とは、思えば、いつだってそばにいた。ちょっぴり、自信がなくておずおずしたタイプで。

でもね、大好きだったの。あの娘のこと。

些細な他人の変化とか、ちょっとした季節の移り変わりとか。そういうものに、はっと気がついて、じっと目をすがめて見つめるような、感受性の鋭さとか。相手の気持ちをさっと察する、その優しさだとか。あの娘の、そういうところが大好きで。

だからあたしは、後ろに下がりがちなあの娘の腕を、いつも引っ張るようにして歩いていた。


「……それで。電車には、乗ったんだっけ?」

ミキちゃんの声。あたしは、「ううん」と首を振った。

「その前に、ちょっと新作のフラペチーノ飲んでこって、駅前のお店に入って……」

確かそれは、珍しくあの娘から誘ってきたんだった。いつも、あたしが行きたいところを言って、連れ回してばかりいたから。だから、誘ってくれたのがなんだか、嬉しかったんだ。


「……でも、あの娘。お店に入って、フラペチーノ買って。一緒に席に座ってたら……なんだか、モジモジし始めて」

「ふぅん……」

「そう……なんか、彼氏が。できたって……」

さっと、視界が暗くなった気がした。

あの娘が。いつも後ろにいた、あの娘が。あたしが腕を引っ張ってあげていた、あの娘が。


「……それで。おめでとう、って。言ってあげたの?」

すっと涼しい風が吹いて。ミキちゃんの声を、耳元に届けた。

あたしは、鬱々とした気持ちで、「うん」と頷いた。

「そう……言ったよ」

言ったよ。おめでとうって。どんな人かって訊いて、写真も見せてもらった。野球部の男子だっていうそいつは、見覚えもなかったし、どうせ覚える気もなかったけれど、「かっこいいじゃん」「お似合いだね」と、あたしはできるだけ褒めるようにした。はしゃいだ声を、精一杯に出した。


ほんとは、バカみたいだって思ってた。彼氏だとかいう男子も、まったく釣り合ってないと思ったし。彼氏なんて存在を作ること自体、ほんと、この娘には似合わないって。

そう言いたいのをガマンして、代わりに急いでフラペチーノを飲み干して。その冷たさに頭をガンガンと痛めながら、お店を出た。せっかくの、新作だったのに、味はまったくしなかった。


「お店を出たら……駅に、向かって。電車を待ってたんだ」

ほんの、十分かそこらのことだった。夕方の構内は人がいっぱいで。夕陽が紅く、集まった人たちを照らしていた。


「……列の、一番前で。あたしたちは電車を待ってた」

あの娘は、斜めに一歩下がるようにして、あたしのそばにいた。あたしは、いつもみたいにあの娘の腕をつかんでいられなかった。代わりに、自分の両腕を鞄ごとぎゅっと抱き締めていた。


あの娘が。後ろからぽつりと言った。

「さっちゃん。わたしと、これからも……遊んでくれるよね?」

あたしは、反射的に「冗談でしょ」と笑った。言ってから、マズイと思って、慌てて付け足した。

「○○ちゃんはこれから、彼氏と遊ぶのに忙しいでしょ。あたしと遊ぶ時間なんて、あるわけないじゃん」

言って。首を閉められたかのような苦しさが、あたしを襲った。

そうだ。いつも一緒だったこの娘は。もう、あたしの後ろじゃなくて。野球部の彼氏に手を引かれながら、歩くようになるんだ。この、二年間通い続けた通学路さえ。もしかしたら、そいつと一緒なのかもしれない。

あぁいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ。

自分の腕をつかむ力を、ぎゅっと強くする。なにをしてしまうか、自分でも分からないくらい、嫌悪感が高まっていく。


構内アナウンスが聞こえる。ほとんど同時に、「ねぇ」とまた呼びかけられた。あたしは、振り返らず、「なに?」とも訊き返さなかった。やや置いてから、あの娘が続ける。

「さっちゃん、これからも……友達、だよね?」

おずおずとした、声。あたしはカッとして、「んなわけないでしょ」ときつい口調で返してしまった。腕に、自分の爪が食い込む。言葉は、止まらない。

「てゆうか。あんたのこと、友達だと思ったことなんて、一度もなかったし」

電車が、近づいてくる音がする。あたしは振り返らない。振り返って、あの娘がどんな顔をしているのか、見るのが怖かった。


怖くて。だったら、壊してしまえば良いと思って。今までの関係も、思い出も。振り返るものがなくなるくらい、全部、全部--壊してしまえば。

あたしは、きつく抱き締めていた、自分の両腕をそっと放して。震えている自分の両手を、じっと見つめて--。


ドンッ、と。


背中に、衝撃を受けた。

「あっ」と呟く間もなく、あたしの足は踏み場を失くして、ぐらんと身体が傾いだ。

頭が真っ白になったあたしが。それでももがこうと、身体を無理やり捻らせて。ようやく、目に映ったのは--あの娘の。ボブカットのさらりとした、髪が。振り返った視界の端に、ちらりと揺れていて。いつもあたしが引っ張っていた細い腕が、あたしに向かって伸ばされていた。

まるで、この手をつかもうとしてくれてるかのように。


「--さっちゃん」

ミキちゃんが、あたしの名前を呼ぶ。まるでなにもなかったかのように、優しく。

「あた……し」

ようやく、心を取り戻したような心地で、あたしはミキちゃんを見つめた。穴が空くくらいにじっと、その目を。その目に映る自分を。

「あたし、あのとき……ミキちゃんのこと。ミキちゃんなんか、いなくなっちゃえば良いと思って。つ、突き飛ばしちゃおうかだなんて、一瞬だけど、思っちゃったり、して」

ミキちゃんの目の中のあたしは、まるで今にも首を落とされるのを待っているような、そんな顔をしている。

だってあたしは。勝手に傷ついて、苛立って、怯えて。その全てをミキちゃんにぶつけ返そうとした、そんな、どうしようもないヤツで。


なのに。


「そう……なの?」

きょとんとした顔で、ミキちゃんはまた、首を傾げる。それはそれは、不思議そうに。

「でも--しなかったじゃない。そんなこと」

そう、微笑むミキちゃんに。

あたしはますます、胸が締めつけられる思いがして。だから、あのときホームから落ちたのは、きっと、こんなミキちゃんを傷つけようとした罰だったんだろうって、そう思う。


「ミキちゃん、あたし」

「ほんと、びっくりしたよ。ぎりぎりで電車が停まって。なのにさっちゃん、パニックみたいに叫びながら線路を走ってっちゃうから……追いつくの、必死で」

「ご、ごめん……」

だってあたし。ミキちゃんを突き飛ばそうと一瞬考えたのとほとんど同時に、自分が落ちちゃったから。すごくパニックで、頭真っ白で、ミキちゃんのことを本当に突き飛ばしちゃったんじゃないかって。


ふと気づくと。ミキちゃんの手が、あたしの手をずっとつかんでくれていた。

その手が。いつもと立場が正反対な、そんな手が。なんだかまた泣きたくなるほどに愛おしくて仕方がなくて。

「ねぇ……ミキちゃん」

あたりはすっかり真っ暗で、向こうから走ってくる車のヘッドライトが、ミキちゃんの優しく微笑む顔を、白く照らし出す。

「なぁに? さっちゃん」

あぁ--やっぱり、無理だ。あたしには、このミキちゃんとの今までを、なかったことにするなんてこと、できない。できるわけがなかったんだ。


だって。笑顔を見ただけで、きゅっと引き絞られるような想いで胸がいっぱいになるほどに。こんなにも、あなたという存在が愛おしい。


「……あたしたち、さぁ。まだ--友達で、いられるかな……?」

それが精一杯、今のあたしが伝えられる、想いと願いで。でも。

「そんなの、無理だよ」

穏やかな声が、ほんのり笑うように、でもきっぱりと、その感傷を絶ち切った。


あたしはそれに、ただただ固まってしまって。そんなあたしをミキちゃんは、笑顔のままおっとりと見返している。

「だって、そうさっちゃんが言ったんじゃない」

それは、確かにその通りで。あたしは、「そうだよね」と顔を下げた。


バカだ。あたし、ほんと、バカみたい。


自分で壊しておいて、あっさりそれを翻そうなんて、甘ったれたバカにも程がある。なのに、ミキちゃんなら頷いてくれるだろうなんて、また勝手に寄りかかろうとしてた。胸を掻きむしりたくなるくらい、身勝手で恥ずかしい。でもそれよりなにより、失ったものの大きさが、あたしの息を止めそうになる。


「それよりねぇ……さっちゃん」

あたしの様子に、気づいているのかいないのか。呼びかけながら一歩、ミキちゃんが近づいてくる。腕を引かれて、背中にそっと、もう片方の手を添えられて。ほんのりと香るいい匂いにドキリとしながら、あたしは「な、なあに?」と、その顔を見上げようとした。


「もう真っ暗なのに、こんな道端で長々とおしゃべりしてたら、危ないと思わない?」

耳元に聞こえた、甘い声と共に。トン、と。軽い衝撃が、背中の痛む場所を押して。


あたしは一歩、道路に飛び出す。振り返ると、いつもの優しい顔と、さらりと揺れるボブカット。

あたしに向かって伸ばされた手が小さく揺れる。バイバイ、と。

そして、白い光が。あたしたちを照ら





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