02. 異世界に行こうと思いますが、その前に……

 むくりと起き上がると、白衣の女性が居た。


「目が覚めましたか?」

 

 白衣とはいっても、ここは病院ではない。

 私が夢を見ていたわけでもない。

 ギリシャ神話に登場する恋愛と美の女神『アフロディーテ』を彷彿とさせる、金髪白肌の美女が、白い一枚布を身体に巻き付けるようにして立っていたのだ。


「ええ。ここが、山田君の言っていた『女神の部屋』ということでいいですか?」

「話が早くて助かります。私は女神の、田中由衣です」


 会釈したその女性が、古代ギリシャ風の服装に反して純日本風な名前なので、私は少し驚いた。


「よろしくおねがいします。女神さんも、日本出身ですか」

「そうです」

 女神様はニマっとした。


「そうですか。すごい出世ですね」

 私は立ち上がって言った後、頭を下げた。


「そんなことないですよ」

 言って田中さんは、私に向かって右手の指を差し、その指を空中へと向けて「ステータス」と言った。

 すると、AR表示のように、四角形の領域が空中に出現した。

 四角形領域の中には、私には判読できない、文字のようなものが描かれていた。


 その、空中ウィンドウ? のようなものを目視しながら、彼女は言った。 


「伊藤忠敬さん71歳、男性で、よろしかったでしょうか?」


「はい。合っています」

 よろしかったでしょうか、という言葉遣いは間違いで、本来は「よろしいでしょうか?」と言うべきだ。しかしそれはまぁ良いだろう。


「ご希望の移動種別は【転生】で、よろしかったでしょうか?」

「ええ」


 異世界への移動種別には、「異世界転移」と「異世界転生」とがある。


 異世界転移は、今の肉体のまま、世界の境界を越えることを意味する。

 異世界転生は、いわゆる「生まれ変わり」として、世界の境界を越えることを意味する。


 かつての我が社、今は息子の会社を退職した山田くん。

 山田くんが起業した「イセカウ」というユニコーン企業による提供資料には、用語説明として、そんな事項が記載されていた。


 71歳という私の年齢と余命とを考慮すると、「転移」よりも「転生」が良いだろうと私は考えた。


「ステータス表によると、転生先へと持ち出す所持金は……、『現時点でお持ちの個人資産すべて』とご選択になっておられますが、よろしいでしょうか?」

「問題ありません」


 女神、田中さんは空中ウィンドウ? から私の方へと目線を向けた。

「失礼ですが、伊藤様には、ご家族がいらっしゃるようですが」


「はい。居ます。ですが既に家族には合意を取ってありまして。贈与、および税金絡みの処理も終えてあります。この世界の、その後の対応についても息子に委任済みですので問題ありません」

 そう言って私は、マイナンバーカードを手渡した。


「つまり、この個人番号に紐づいている資産は、純然たる資産になりますので」


「そうですか、わかりました」

 女神様は、何やら呪文のようなものを唱えた後、ボン! と突然生じた白い煙の中を左手でまさぐって、ハンディスキャナみたいなものを取り出し、私のマイナンバーカードに当てた。


「確認致します……随分とお持ちなんですね!」


「僭越ながら、社長業をやっておりましたので」


「こんなにお金があるなら、異世界に行かなくても、充分に自由なセカンドライフが送れるのではありませんか? あえてやり直さなくても……」


「確かに、このまま余裕をもって人生を終えるのも悪くないですね。でも私には、会社の為に捨ててきたこと、やり残したことがたくさんあるのです」


「そうなんですか。社長さんも大変なんですね……」

 言って田中さんは、空中ウィンドウ? に手を伸ばして、何やら操作をしていた。白い一枚布から延びる二の腕は細かった。


「転生時の初期ステータスと、所有スキルの設定は終わりました。エントリーシートにご記載いただいた通りの内容になっていますのでご確認ください」


 空中ウィンドウの角度が変わり、私に向かって正対する位置まで移動してきた。判読不能だった文字は日本語に変換されていた。


 ……。


 ……。


「はい。この設定で問題ありません。私の要望どおりです」

 私も試しに、空中ウィンドウに手を伸ばしたが、それに触ることはできず、私の手がウィンドウから突きぬけてしまった。


「権限がないと触ることができないんですよ。ごめんなさい」


「そうですか。管理がしっかりしていて良いですね」


「あはは、やっぱり社長さんなんですね」


「いや、お恥ずかしい。もう違うのでした」


 「身分の檻」から抜け出そうとしているのに、長年の「思考のクセ」というものは直ぐには変わらないようだった。


「あとは、そのゲートを潜れば、転生になります。何か不明な点などございませんか?」

 女神さんはそう言った。

 

 ……うん、応対マニュアルもしっかりしているな。さすが山田くんだ。異世界移動プラットフォームをここまで仕上げてしまうとは。私には出来ない仕事ぶりだ。それはそれとして。


「不明点は特にありません。が、一つだけ」


「はい、なんでしょう?」


「田中さん。あなたはこの仕事を続けて、どう感じていらっしゃいますか? もし差し支えなければお伺いしたいのですが」


 社長さん大変、と言った時の彼女の表情が、私には少し気がかりだった。

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