君に想いを伝える五分前 

白石 幸知

投稿日:10月3日

「ねえ、元気にしている?」

 勉強机に置いたスマホから、僕の手の届かない遠い場所に旅立っていった幼馴染の声が聞こえてくる。


 まあまあボチボチかな。よくもないし悪くない。可もなく不可もなく。そんな感じだ。


「そっか、そういう返事をするのもいつもの君らしいね」


 ……ごめんなさいね、どっちつかずの優柔不断な自分で。そのおかげで大事な場面で幾度となくチャンスをみすみす見逃し続けてきたわけなんだけど。

 今、こうなってしまったのも、いわば僕のこれのせいなわけで。


「最近さ、よく昔のことを思い出すようになったんだ。小学生とか中学生くらいのとき」

 なんでまたいきなり。ホームシックにでもなったのか? 地元を離れて東京に出て行って、実家が恋しくでもなったのか?


「私にも色々あってさ」

 色々、ねえ。……子供のときはただただ負けず嫌いで、とにかく何においても僕に負けるのだけを嫌がっていた単純な奴だったのに。


「よく小学校の帰り道で川に石を投げていたり、意味もなく追いかけっこして泥んこになっていたなあ」

 あったあった。大抵必ず僕が水切りの回数多くなって、ムキになって僕に勝つまで繰り返すけどなかなか勝てなくて、挙句の果てに手首痛めたりとか。


 いきなり僕のすねを蹴って挑発してきては、笑いながら走り出して僕から逃げたり。いっつも最終的には手も服も土まみれになってお互い母親に怒られた。まあ、結果僕が捕まえていたから僕の勝ちだったんだけど。


「あの子供のときの時間って宝物だったんじゃないかって、思ってくるわけです」

 ……らしくもなく、宝物、みたいなちょっとクサい言葉使ってくるな。面と向かい合ってだったら、絶対に恥ずかしくなって選べない単語だよ。僕も、君も。


「中学生になって、私が帰宅部に入ったのに」

 帰宅部なんて部活は存在しないよ。っていくら僕が主張しても君は「いいや、私はれっきとした帰宅部です。」って言って譲らなかったな。


 これも、負けず嫌いの一端だったのかもしれない。


「君は運動部に入ったせいで、こんなふうにはしゃげる時間は減ってきちゃったけど」

 僕より楽しい中学校生活を送りたい、みたいな意識からの。中高生といえば部活、部活と言えば青春、的な思考回路で。


「たまに帰りが揃う日に話すそれぞれのことも、それはそれで楽しかった」

 ま、そこでも僕と張り合っていたけどね。


「つまり何が言いたいかって言うとさ」

 君は、スマホの向こう側にいる僕にも聞こえるくらいに大きく息を吸って、続きの言葉を繋いだ。


「またあんなふうに君と話したいんだ」

 それを聞いて、一瞬だけ、僕の心臓が大きく跳ねてしまう。

 もう心の隅にしまうと決めたはずの感情が、そっと顔を出してしまいそうになってしまう。


 ……駄目だって。僕は、選べなかったんだから。

 そんな僕に、こんな心が痒くなってしまうような気持ちを抱くことなんて、いいはずがないんだから。


「とりとめのない話でも。私の知らない話でもいい。馬鹿みたいに笑い合ってあのときみたいに話したいんだ」


 だと言うのに、君はお構いなしに僕の心の玄関をズカズカと入り込んでくる。

 見えない、隠れていたはずの気持ちを探しに来てしまう。


 ……無理だよ。君はだって、もう僕にはどうしようもないところにいるんだから。手の、届かないところにいるんだから。


 ……僕の、せいなんだから。


「お互い同じ高校に入って、君はどんどん中学で始めたサッカーが上手になってさ」

 ……続けていればそれなりに、ってやつだよ。中学のときも、友達に誘われてとりあえずで始めた程度だったし。


「三年生になる頃にはチームのエースになっちゃって」

 地区大会の三回戦がいいところだったけどね。どのしろ、何もかもが中途半端な僕にはそれが限界だったんだと思う。


「そんな、キラキラしている君が見ていて羨ましかったんだ」

 言葉を返すことができなくなり、たまらず僕は机を離れ自分の部屋から出る。微かに聞こえる音楽が、僕の耳を嫌に優しく撫でていく。


 ポタリ、と床に一滴の汗が流れたことで、ようやく僕は冷や汗をかいていたことに気づいた。


 ……ここにきて、逃げることを選ぶのは、許されないんだ。

 そんな身勝手、できる権利なんてない。

 僕は部屋に戻って再び勉強机について、彼女の言葉の続きを聞く。


「だから、私も頑張りたくなった。自分に言い訳をするのをやめたんだ」

 ……知ってたよ。なんとなくだけど。伝わっていた。


 君が僕のせいで夢を決めて目標を定めて、それを追いかけ始めたってこと。わかってた。わからないはずがないだろう?


 何年間の付き合いだと思っている。家が隣同士で知り合ってから今年で十五年になる。

 僕に君のわからないところなんてほとんどない、って言っても過言ではないと思う。


 だからこそ、なんだけど。


「東京に行くことを決めて、君と離れ離れになることを選んで」


 見つけた君自身の描いた夢を追うことにした。

「私もあんなふうに、砂煙が舞うグラウンドで煌めいていた君みたいに、いや君より」


 ……よく、そんな言葉回しをわざわざ選ぶよ。


「輝きたいって思った」


 ……駄目だ。やっぱりまともに聞くと心がやられそうになる。しんどくなってしまう。かつて犯した自分の失態に、耐えきれなくなってしまう。


「私ってわがままだし、負けず嫌いだからさ」

 ……今更何を言っているんだよ。そんなこと、百も千も万も承知だよ。


「それでも君と離れるのを悲しいって思ったんだ」

 ……やめて。そんなことを言わないでくれ。


 たった二年前のことを、この場で思い返させないで欲しい。


「君は言うなって言うかもしれないけど、このまま終わるのはなんだか悔しいので」

 ……どこまでも君も幼馴染だ。わかったように僕の心を読んでくる。


「伝えてしまいます」


 その声が届いたとき、僕はそっと目を閉じた。

 ある意味では、これから来る衝撃に対して身を備えたっていうのかもしれない。

 またある意味では、感覚という感覚を君の言葉に全て使うためなのかもしれない。

 ……どっちも同じかもしれないけど、捉えかたの問題だ。


「『頑張れ』でも、『行くなよ』でも、どっちでもいい。せめて、どっちかを言って欲しかった」


 囁くように、けれど、確かに僕に送るために確実に、はっきりとした調子で彼女は届けた。

 瞬間、走馬灯のように二年前のあの日のことが脳内を駆け巡る。


 子供のころから遊び倒したあの川で、泣きながら怒った様子で走り去っていった彼女の背中を見送った、選べなかった僕の姿が。

 ……何も、言うことができなかったんだ。


 夢のために、東京へ行くと告げた君に、僕は何も。

 安っぽい「頑張れ」も、藁に縋る「行くなよ」すら、何も。


 選べない僕は、幼馴染が自分の進路を伝えたときでさえ、何も言うことができなかった。

 それが、負けず嫌いの君の心に、変な着火をさせてしまったんだ。


 だから、僕のせいなんだ。


 僕に君のわからないところなんてないはずだった。君が多少僕に感化されてあの夢を追いかけることも知っていたはずだった。


 たったひとつの言葉でよかった。それで伝わるはずだった。

 でも、言えなかった。


 「頑張れ」って言って、君と離れ離れになるのも。

 「行くなよ」って言って、君が頑張るのを止めてしまうのも。


 どっちも選べなかった。


「何も言われないとさ、君にとって私って、その程度の存在だったのかなってなんか思えてきちゃって」

「悔しくて悔しくて、君に何も言わせることができなかった私そのものが悔しくて」

「必死で走ってきた」


 ……違う。君が悔しい思いをする必要なんてどこにもなかった。悪いのは、僕なんだから。悪い選択肢を取らせたことそのものに君は悔しさを覚えていたとするなら、それこそ僕は言ってやりたい。

 ……傲慢にもほどがあるって。考えすぎだって。


「でも、ちょっと疲れてきちゃったからさ。もう私の負けでいいや」

 彼女の言葉に、僕は目が潤むのを実感する。僕の前では、絶対に言わないようなそれだったから。


「ただ単に負けるのは癪なので、最後に伝えたいことだけ伝えて終わりにしようと思います」

 ……僕は、スマホのスピーカーから聞こえてくる音に耳を澄ませる。


「それもこれも、全部私が君を好きだったせいなんだけどね」

 っ──締めつけられるような感覚が、胸に広がる。痛い、針を思い切り刺されたように痛い。


「こんな不器用な言葉で伝わるかわからないけど。これで君が少しでも後悔してくれるなら、本望です」

 やがて音という音が小さくなっていて、そして。


「じゃあ、元気でね」


 この歌詞を最後に、君は画面のなかでギターを置いた。すぐにブラックアウトを挟み、「5:00」の文字がスマホの右下に浮かぶ。


 ……動画のタイトルは「君に想いを届ける五分前」。

 音楽っていう夢を追いかけた彼女の、最後の歌だったんだ。それ以降、彼女のアカウントから新しい動画は、一本たりとも更新されていない。


 その代わりと言ってはなんだけど、目に映るのは、二頭身で描かれた可愛らしい女の子のキャラが、まるでこれから旅に出ますと言わんばかりに大きなリュックを背負ってどこかに向かおうとしている後ろ姿。


 君自身が描いたのかどうかは知らないけど……最後の最後に、そんな困り笑いを、向けないで欲しかった。


 ……君は、どこまでも負けず嫌いだ。


 こんなに悔しいって、僕に思わせるんだから。

 今更……想いが伝わったって……遅いんだから。


 軋む椅子の足の音と、僕の漏らす行き場のない呼吸音、それだけが、部屋にむなしく響き渡っていた。

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