ピクルス

真花

ピクルス

 1


 右の席、女二人連れの会話は白夜のように白々しく終わりなく。後ろから聞こえる男二人の話は齧歯類のための回し車のように空回りし続けて。こんな嵐の夜にハンバーガー専門店に座っている私と彼女等彼等は方角はたがえど、距離に於いて同等かそれ以上、中心から離れている。中心にあるべきものは命あるせいだ。ガラガラの店の中でその生に近そうなのは店員、客と同数の店員達で、檻の中で主役の筈の客よりもずっと命に近い輝きがある。私達がそうでないからコントラストがはっきりついて、私達こそが世界の脇役なのだと接客の度に理解させられる。

 これがホストクラブだったらこうはならない。主役級のホストはしっかりとした技術で、そうでないホストは客よりもさらに世界の脇役が存在することを体現することで、客であった私を主役だと錯覚させてくれた。払った金に釣り合う体験だ。でも、そうやって自分の居場所を金で一過性に買い続けていた私を本当の主役に引き釣り出したのは夫だ。

「僕と結婚して下さい」

 いや、このときはまだ錯覚だ。一人目を産んだ後。

「お前の飯は不味いんだよ」

 別人かと思ったけど、私の方が先に別人のようになっていた。

「お前は! 何でこんなことも出来ないの!」

 長女を最初に殴った日のことはもう覚えていない。最後に殴らなかった日が百と数日前にあることは数えている。ネットで見た記事で、殴った日を記録すると減るとあったから書いたけど効果はなかった。あの泣き声が癇に障る。何度でも殴る。子供を選べないと言う事実に苛立つ。育てなくてはならないことは私の未来を奪う。

 マンションで隣の家族が仲睦まじい。向こうの二人の子供はいつも笑っている。うちの子供は不機嫌か泣いているか。私に殴られているか。何が違うんだ。何がいけないんだ。分からない。

 そして夫は私を殴るようになった。子供も殴る。私は叫ぶ、殴り返す。子供は殴られるままになっている。そろそろ死ぬんじゃないか。夫が殺すなら私は無罪だからその方がいい。そうあって欲しい。よくニュースになっている奴だ。本当に殺したがっている人物は殺した本人以外にいる。

 でも、私が主役になったのはこのときでもない。

 二人目を妊娠した。

「どうして虐待しているのに二人目を作るの?」

 ネットにあった呟きが自分に向けてのものだとすぐに理解出来た。私はでもそこに返信をしたら自分が虐待していることを公に認めることになるから密かに自分だけに聞こえるように言った。

「失敗作の次こそは、上手くいくと考えるからよ」

 産んでみて、すぐに分かった。また失敗した。でも確証がないから育ててみた。やっぱり失敗だと九ヶ月経って確信した。その間も長女への暴力は続けた。努力してやっていた訳ではないけど、やめる努力もしていない。夫も同じだろう。その夫が長女を連れて実家に帰ると言う。誰の入れ知恵か、いっとき離れることが虐待の改善に繋がるかも知れないと言う主張だ。

 私は次女と二人、家に残された。

 私は初めて人生の主役になった。

 これが錯覚ではないと息をする度に理解が深まって、私は主役になるべき人間ではないことが同じだけ刻まれた。

 だから私は主役を捨てた。

 だからこんな嵐の夜にハンバーガー専門店に一人で座っているのだ。ここは脇役のための椅子。

 もちろん、次女は家で死んでいる。



 2


 私は罪から逃げたい訳でも、次女を殺した事実から逃げたい訳でもなくて、ただ、主役になることから逃げたかった。そのためには家から出ることは必須だし、次女は連れて来る訳にはいかない。

 右の席の女二人はハンバーガーが来た瞬間に喋るのをやめた。喋らなくていい言い訳をやっと貰ったかのような、不貞腐れた食事風景。後ろの声はずっとカラカラと回り続けている。話題まで循環して同じことをまた話している。どちらもつまらない。

 私の前にもハンバーガーが来る。生命力の塊のような店員。圧力。息を詰める。

 次女は死んでいるのが発覚するまでは生きている扱いになると言うのが滑稽だ。その点では私は世界よりも一歩次女の死についての認識が、優っていると言うことになる。私は世界から見たら普通の女で、私から見たら子殺しの女で、夫から見ても今はまだ次女の母親か、長女の母親か、彼の妻だ。それはつまり、大したことではない。店員が遠ざかったことの方が重要で、私は存分に脇役として息を吸える。

「主役なんてもう、いい」

 ハンバーガーを噛む。

 女二人も男二人も、どう思っているのだろう。脇役であることを望んでいるのだろうか。それとも主役になりたいけどなれないでいるのだろうか。四人とも空虚で、いてもいなくても同じようなのに、存在を主張するように言葉を声を垂れ流す。女は食べながら、無言で垂れ流している。

「脇役の主張は聞き流せる」

 ピクルスを一口食べる。決して主役にならない食べ物。でも素敵な脇役を演じ続ける。付け合わせのポテトを頬張る。もしかしたらコーラもそうなのかも知れない。脇役の方が多い。でも主役のためには脇役は必要だ。人間だとそれが上手くいかないのか。誰もが主役になろうとするのか。

 女達が早くも食べ終わって、言葉の弾幕を張り直す。流れ弾はでも、痛くもない。

 男達の話がさらに循環して、三度目の同じ話。不愉快ではない。

 私達はピクルスだ。主役になることを望んでないのに、主役に嫉妬し続ける。

「だから、私は殴り続けたんだ。あの子は自分が主役であると微塵も疑ってなかった。それが許せなかったんだ」

 つまり、長女が「自分は主役ではない」と理解し、そう行動するなら私は殴らない。私は脇役だけど、彼女はそのさらに脇役にならなくてはならない。それが親子の正しい形なのだ。

「やり直せる。もっと徹底的にすればいいんだ」

 風が強い。皿は空になった。ずっとここに座っている訳にも行かない。そうだ、夜のカフェに行こう。嵐の夜のカフェなら、きっと私と同じ脇役の人が吹き溜まっているだろう。



 3

 

『育児においてはお子さんの一人ひとりが主役であることをまず最初に肝に銘じなくてはなりません。お子さんは親から生まれました。それは事実ですが親の付属物ではありません。ましてや、親の何かを満足させるための道具ではありません。主役はお子さんなのです。しかし、そのためには前提として両親自身が人生の主役になっていなくてはなりません。難しいようですが、考えてみて下さい。人生の主役であることは当然の前提だと言うことに気付く筈です。むしろ、あなたは人生の主役であることから逃れることは出来ないのです。それを逃れようとすると破滅的な行動に出ることになってしまいます。しっかりと自分の人生を受け止めて下さい。もし、それを受け止められないのなら親になることを考え直す方がいいでしょう。親になったら自然と自覚が芽生えると言うのは嘘です。これは年齢の問題ではありません。経済的な自立の問題でもありません。自分が人生の主役であることを受け入れることは精神的な自立の一つの条件です。全部ではありません。この前提があって、お子さんが主役であることと向き合い、受け入れ、対応することが出来ます。お子さんが主役であると言うことを出発点にすれば大きく外れた育児をすることはないでしょう。お子さんが悪いことをした場合に叱ることや、褒めることなどもそこを軸に考えれば外れません。お子さんは親のピクルスではありません』



 4


 ハンバーガー専門店、同じ席。嵐。また、女二人と男二人が近くで話している。

 十年近く刑務所で過ごしている間はずっと自分の意志とは関係なく生活して働いて、主役になる危惧なく過ごせた。だからまた現実世界に戻ることには溜め息が出た。私は主役にならなくてはならないリスクを負う。

 夫とは離婚した。実家の両親からは勘当のように縁を切ることを飲まされた。だから、私はひとりぽつねんと浮き世に漂わなくてはならない。生きなくてはならない。

 一人で生きることと脇役でい続けることを両立させなくてはならない。そう言う仕事はあるだろう。何もなければプライベートもそうあり続けることが出来るだろう。一人と脇役はそこまで相性は悪くない。そうしていつか死ぬのだ。その方が楽だ。何かを生み出したり、育てたりするのは、もういい。人間を生むのでなくても創作する人の気持ちが全く分からない。多分、永遠に分からない。

 女二人は別の人間なのに同じように白々しい会話をしている。男二人も別の人間なのに空回っている。この場所が脇役の住処と運命付けられているかのように、二組と私は脇役であることを、ピクルスであることを謳歌している。


(了)

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