凍った海の底で
フサフサ
第1話
頭上から『Days of Wine and Roses』の旋律が聞こえてくる。瞬時に、二十世紀を代表するジャズピアニストの一人、オスカー・ピーターソンによる演奏だと理解する。これは僕のリクエストによるものだ。既に古典中の古典と言ってしまって良いだろう。
覚醒したばかりの僕の脳は、いつも何かしらの不調を訴えてくるものだ。不機嫌な子供を頭の中に住まわせているような感覚である。数分の惰眠をおねだりしてくる程度なら、まだラッキーな方だ。しかし、今回に限っては拍子抜けするくらい、何の不調も感じられない。眠りの余韻すら存在しなかった。
体を起こしても、その感覚に変わりは無かった。視界には一片の曇りもなく、冴え渡っている。覚醒直前の記憶を引っ張り出せないという事実だけが、どうやら自分は眠っていたらしい、という推測に裏付けを与えるものだった。
――これもテクノロジーの進化か。
そんなことを思いながら、僕はその小綺麗な寝床をあとにした。
「デバイスの起動をお願いしてもよろしいですか」
「沓沢様ですね。少々お待ちください」
受付の中年男性が応答する。ホテルのフロントで働いていそうな装いをしている。実際その場所には木製のカウンターがあり、少し離れて、ホテルのロビーにありがちなテーブルと椅子がセットで並んでいる。程なくして、その椅子に座るよう促された。
以前なら医療系スタッフ然とした人間と技術系スタッフ然とした人間が、寝室にまで押しかけてきてデバイスの起動にあたっていたものだ。だが今回対応した男性は、医療・技術のいずれの畑にも該当しないように見える。マニュアル化された愛想の良さを、たんまりと仕込まれた人間の発する空気をまとっている。理系専門職が苦労しても、一生手に入れられないスキルの一つだ。
新調されたデバイスを起動する前の手続きとして、まずは受付の男性がアップデートされた点を大雑把に説明してくれる。変更は多岐にわたるが、ヘルプが充実しているから困ったらそちらを当たれという、何ともありがたいレクチャーであった。
それが終わると、男性はおもむろに一枚の電子ペーパーを手渡してきた。利用規約、とその電子ペーパーには書かれている。アップデートされたデバイスを利用する際に必要なものだ。長々と連なる文面には、その時々に応じた法律の抜け穴や、正気の沙汰とは思えない訴訟の顛末を教訓として設けられた条文が並んでいる。だが、間違っても『いいえ』を選択する余地は残されていない。
それは一度装着したが最後、死ぬまで道連れとなるよう設計されているからだ。
最初はヘッドマウントARデバイスという、三十分と装着していられないヘルメットの類いだったそれは(そしてその当時はまだ珍奇なガジェットの一つに過ぎなかったそれは)、そのうち頭に埋め込まれる電子チップになり、前回眠りから覚めた際には、有機インプラントという名の、脳細胞とそっくりな生体回路に変貌した。本来の脳みそに人工脳みそがくっ付いたような形だ。ここまでくると、もはやそれは脳髄を浸食するように固定されており、顕微鏡を用いたところで取り除くことは出来ない。ナノロボットで『溶解』できる仕様にはなっているが、それを試した勇気ある人柱については、寡聞にして知らない。
現行デバイスの機能について説明するならば、ダイレクトに脳、あるいは思考と連結していて、頭を使う作業を肩代わりしてくれるものである。加えて、生体認証・電子決済・通信といった機能も付加されている。経済活動を営む人間の急所を、的確に掌握している存在だ。もし利用規約に従えないならば、百年以上前の文化水準で暮らしていかなければならない(そしてそのような暮らしを指向する人たちも当然のようにいる)。
利用規約に署名をしたためると、デバイスの起動は瞬時に完了した。
デバイスがアップデートされると同時に、この世界に関する情報もまたアップデートされていくのを知覚する。世界における主要な出来事、株・為替相場、流行、天気、その他。意識の表層にとどめておくには雑多すぎるそれらは、長期記憶と呼ばれる大釜の中に溶かされ、必要なときにだけ取り出せるよう処理される。
そのオフィスビルとしか呼びようのない外観の建物をあとにすると、僕はさっそく脳内にデバイスUIを呼び出した。
――ハロー、コンシェルジュ。
――初めまして、沓沢様。ご利用ありがとうございます。イグドラシルVer.36.3.0初回起動になります。ご用件をどうぞ。
――ある人とのアポイントを取りたい。木田稔、という名前のはずだ。最後に会ったのが二十年前になる。
――その人物に対するアクセスは許可されています。直接通話して面会をセッティングしますか?
――対話は直に会ったときに取っておこう。先方の事情が許すようであれば、一週間以内にセッティングしてくれ。
――かしこまりました。……アポイントが成立しました。明日の正午、エリオット・ホテル三十二階ラウンジにお越しください。
脳内だけでやりとりを済ませ、デバイスUIを切る。
そうこうしているうちに、僕は空腹を自覚した。このデバイスの数少ない欠点を挙げるとすれば、外部電源装置を必要としない代わりに、僕の血液から勝手にブドウ糖を抜き取ってエネルギーにしている点だ。よって、油断して処理の負荷をかけ続けると、すぐおなかが減る。
そもそも、寝ている間は何も食べていないのだから、腹ごしらえが必要なのは明らかだった。
この辺りがオフィス街であることは、遥か以前から変わらない。そして、オフィス街にはコーヒー屋がつきものであるという事実も、もう何四半世紀と変わっていないのだろう。
北米スタイルのコーヒーチェーン店の扉を開け、デバイスを通じてシナモンロールフラペチーノとサンドイッチを注文した。低血糖に陥ってさえいなければ、ブラックコーヒーを欲していたところだ。
とりあえず窓際の席に腰掛け、必要なエネルギーを摂取する。サンドイッチの歯ごたえは、もう随分と長く味わっていなかったもののように思えた。
次いで、僕はこれから取りかからなければならない数多の作業について、思考を巡らせることとした。コーヒー店は、古来より考え事をするにふさわしいロケーションと相場が決まっている。
何分にも、今の僕には身寄りが無い。親・同胞・子といった近親者はもとより、少なくとも親等という尺度を用いて一桁に収まるアクセス可能な血縁者は存在しない。天涯孤独とは、このような状態をいうのだろう。
財産の管理について、定期的に考えなければいけない。とはいえ、資金や資産の運用については、今となってはその大半を他人に任せている。それが複数の法律に携わるエキスパートに監視されたビジネスである限り、赤の他人は時に近親者以上に信頼できるのだ。
人生の前半戦で、僕は経済的に恵まれることに成功した。控えめに言って、それなりに上位にいる成功者の千人分を合わせても、僕が築いた資産には遠く及ばないだろう。
しかしながら、運良くお金持ちになったことが僕らを幸せにしたかというと、必ずしもそうではなかった。並の成功者が手に入れられるだろう幸せの一人分に、僕の手は届かなかったのだ。
どれだけお金を持っていようと手に入らないものがある。
人生の長い後半戦を、僕はこの命題に抗うために費やしている。
エリオット・ホテル三十二階ラウンジは、都心を見下ろすにはうってつけの眺望を提供していた。眼下を横切る国道一号は、東海道と呼ばれていた頃から同じ場所にあり続けている。何度も取り壊しを検討されながら歴史的建造物として存在することを許された東京タワーは、延命処置が功を奏してか今でもこうして生き残っている。
これから相まみえる木田稔氏は、僕が是非とも会っておきたかった人物だ。身寄りの無い僕にとって、数少ない知り合いの一人である。
稔は定刻通りに現れた。二十年ぶりの再会でも、その顔を見間違えることはなかった。白髪をたたえ、風貌は老年中期に差し掛かっている。
「どうもお久しぶりです、沓沢さん」
「こちらこそご無沙汰しています」
形通りの挨拶を終えると、僕たちはそのまま窓際の席に着いて会話をはじめた。
「昨日、あなたからアポイントのリクエストを受け取って驚きました。あれから二十年経つのですね、私も年を取るわけです」稔がコーヒーのミルクをかき混ぜながら切り出した。
「僕が見たところ、東京は良くも悪くもあまり変わりませんね」
「お金が回らないから、停滞から抜け出せないのでしょう。こればかりはどうしようもない。特にニッチなところにお金が回らなくてね。研究分野も厳しい状況が続いています。沓沢さんのような篤志家の方々には、本当に頭が上がりません」
「いえ、僕は自分のためにやっているに過ぎませんから」
特に意図していたわけではないが、暗い話題から入ってしまったようだ。僕は意図的にそこで言葉を切り、コーヒーカップに手を伸ばした。
しかし、稔の口から発せられた次の言葉は、より重い話題を提供するものであった。
「妻が十五年前に他界しました。沓沢さんも覚えていらっしゃると思いますが、既に病が進んでいましたからね。それでも、あの五年のお陰で妻も浮かばれたと思います」
「そうでしたか……遅くなりましたが、お悔やみ申し上げます」
僕は二十年前、稔の妻に会っていて、その時既に闘病中であることを知っていた。
そのことを考えると、未だにやりきれない気持ちになる。
「実のところ、沓沢さんとお話しできるのを楽しみにしていたんです。妻のことを話せる人が、もうほとんどいなくなりましたから」
「お子さんたちは?」
「子供たちにとって、何歳であろうとも彼女は『母』なんです。何というかやはり、そういう感覚ってあるじゃないですか」
稔はそう言って、複雑そうな表情を見せた。
◆
僕が木田夫妻のことを知ったのは、四十年も前に遡る。
それは、僕がとあるクラウドファンディングについて知ったことに端を発した。一般には名の知られていない創薬ベンチャーが、『稀なマーカーを発現する中枢神経原発T細胞リンパ腫に対する治療研究資金』という名目で資金を募っていたのだ。分かりやすく言い換えると、脳に発生する珍しいタイプの血液系がんの治療開発を目的にお金を集めていた。
とりあえず三万ドル程を寄付してみたところ、その返礼としてプロジェクト・リーダーとの面会がかなうことになった。
面会場所として指定された建物は、神奈川県南部にある、築年数の浅い良物件であった。八階建ての鉄筋ビルで、多数のバイオ系ベンチャーがテナントとして入居していた。このタイプの研究施設では、少ない元手で高額な実験機材を共用できるというメリットがある。
八畳ほどの広さの応接室に案内されると、そこには一人の若い男が立っていた。若き日の稔だ。
「このたびは私たちのプロジェクトに多大なるご支援を賜り、厚くお礼申し上げます」
そう言って稔は頭を深々と下げた。一見穏やかそうなたたずまいだったが、その声からは気味が悪いほどに生気が感じられなかった。
「三万ドルでは、ライバルと渡り合うには不足じゃないですか?」
僕は敢えて挑発的に言い放った。
「私たちの相手はライバルとかではなく、目の前にある病気です。それに、与えられた資金を使って結果を示し、さらなる資金を呼び込むことこそが健全なサイクルですから」
見え見えの挑発に乗ることはなく、稔は淡々と正論を吐き出した。
立ち話も何だから、と僕はソファに着席を促された。
「それでは、このプロジェクトの概略について説明いたしま――」
そう切り出した稔を制止して、僕は本題に入ることにした。
「いえ、僕は素人なので聞いても分かりません。それよりも、僕が知りたいのはあなた個人についてです」僕の呼びかけに、稔は怪訝そうな表情を浮かべた。「まず、ここでプライバシーに踏み入る無礼を許していただきたい。だが、数百万ドルを投資するかも知れない相手のことを知っておきたいと考えるのは、ごく自然なことでしょう」
相手の表情が、いよいよ怪訝から不興に変わった。それに合わせるように、生気を欠いていた稔の声色に冷たい鋭さが加わった。
「私はあくまで、科学者としてこのプロジェクトに関わっています。よって、科学者としての経歴の範疇であれば、喜んでお話ししましょう」
「それで構いません」
実際そこは構うところだが、序盤で話を拗らせても仕方ないので適当に流すことにした。数百万ドル(僕の知る限りどの年代においても一般的なサラリーマンの生涯年収を上回るであろう金額)と聞いても不機嫌さを隠そうとしない相手に、逆に好感さえ抱いていた。
「そもそも、私の経歴や業績自体はウェブサイトに公開されているかと思いますが、何か追加のご質問はおありですか?」
「日本の大学を卒業してすぐに渡米し、オレゴン州の大学で博士号を取得。その後も順当に博士研究員、主任研究員とキャリアを積んでおられる。三十代半ばとしては極めて優秀な部類でしょう。会社に例えるなら、海外で経営学修士を取得してそのまま外資に採用され、幹部級まで昇進した、といったところでしょうか。また、研究者として発表してきた論文の量・質ともに申し分ない。そのような方がなぜ突然、人脈の乏しい日本に戻って、起業などされたのでしょうか」
露骨に詮索するような質問をぶつけたところ、たちまち稔の表情に嫌悪の色が浮かんだ。
「私たちの世界では、業績がそのまま名刺代わりになります。国際学会でも会場に行けば、日本人同士ということで会話もするし、人脈をつなげることも出来ます」
まともに答える気が無いことは明白だった。あまり相手から嫌われるのは本望ではなかったが、話を前進させるために、僕はより攻撃的な質問を続けた。
「アメリカであなたがされてきた仕事は、主にウイルスの感染受容体変異に関わる分野だ。方や日本では腫瘍学を主な研究対象としており、まるで畑違いの分野に進出しておられる。その矛盾を、科学の範疇だけでご説明いただますか?」
「……変異ウイルスを用いた不活化ワクチンは、抗腫瘍免疫の獲得に応用できる可能性があります」
この説明には無理があった。サッカーで培ったドリブルの技術は野球の盗塁にも応用できる、と言うくらいの飛躍がある。
そのことは本人も自覚していたのだろう。そのままうなだれて、うわべを取り繕う余裕を無くした。
「それともあなたが知りたいのは、もっと下世話なことですか? 申し訳ありませんが、私にはあなたという人物にまるで心当たりがありません。なぜそのような話をしたいのか、まるで見当が付かないのです」
下世話と言われてしまうのは本意ではなかったが、そう取られても仕方が無かっただろう。
ややあって、稔は観念したように話し始めた。
「どのみち、ある程度調べはついているのでしょう。私の身の回りにいる人たちのSNSをたどれば、何となく察しが付くことです。私には難病を患っている妻がいて、彼女を助けたいがために現在のプロジェクトを立ち上げました。症例が少なすぎて、まともに研究さえされていない疾患なのです。私が研究するしかないじゃないですか」
その投げやりな言葉に、僕は彼の心のうちにある絶望を見たような気がした。稔自身、自ら畑違いの分野に手を出して、すぐに成功を収められるなどとは思っていないはずだ。
「カマをかけるような言い方をして申し訳ありません。ですが、僕ならあなたの力になれると思ったから、ここに来たのです。それは、資金面での援助にとどまりません」
僕は、もったいをつけるように間を置いた。これから口にする突拍子もない話を受け入れさせるのは、簡単なことではないのだ。
「率直にお聞きしますが、奥様に残された時間はどれくらいと感じていますか? 仮に僕が一千万ドルの資金を提供したとして、あなたの研究がそれに間に合うと思いますか?」
その質問に返答がなされることはなかった。それを認めてしまったら、これまで行ってきたことを全否定することになるからだ。
僕はそのまま言葉を続けた。
「まず僕には、さしあたりあなたの奥さんを何十年、あるいは何百年、死なさずにおける環境を提供できる」
その言葉を聞くと、稔は硬直して目を見開いた。長期冷凍睡眠に関する話だと直感したのだろう。その目には、警戒心がありありと浮かんでいた。
「あなたの善意を疑うようで恐縮ですが、話が出来すぎています。何かしら見返りを要求されるのであれば、今ここではっきりお伝えください。さらに、私を担ごうとしているわけではないことも、併せて示してください」
「そうですね、それでは見返りの方からお話ししましょう。現在のプロジェクトが一段落したところで結構ですから、一つ脳に関する研究テーマを請け負ってくれませんか? 僕個人はいつまででも待てるので、結果が出るまでに何十年かかっても構いません。また、研究によって生じた特許使用料などの分配については、エージェントが交渉します。ベンチャーに対する投資であることを踏まえると、妥当な見返りだと思いますが」そこで僕は一息ついた。それに合わせるように稔もうなずいた。僕はそれを肯定の印と受け取り、話を続けた。「次に、僕があなたを担いでいないことの証明ですが、それには僕自身の来歴をお見せする必要がありそうです」
僕は自身の右側頭部に存在する電子インプラントデバイスに意識を向けた。まだデバイスが市場に出回る前の、フェーズ3だのβテストだの言われていた頃の試作品だ。
手元のタブレット端末を展開し、デバイスと無線通信を開始すると、僕の記憶を忠実に再現した視覚情報が画面上に展開された。
そうして僕は、未だに向き合うことに多大な精神的負担を強いられる回想を、目の前にいる稔と共有することになった。
◆
僕が自分の婚約者と最後の対面を果たしたのは、人工冬眠のために極限まで冷やされた部屋の中だった。開頭血腫除去術を受けた後の脳は、そのまま開放された傷口からはみ出し、冷温維持のため
体組織を低温から保護するための人工血漿が体全体に行き渡り、全身の代謝機能は極限まで落とされていた。事故でダメージを負った脳を、わずかでも生きながらえさせるために必要な措置だった。
「脳浮腫が不可逆的な段階に差し掛かりつつあります。このままだと、脳死と呼ばれる状態になります」
説明にあたったのは、この施設における最高位の医師であり、教授・外傷センター長・外傷外科学会理事長などの肩書きを有していた。そんな彼の言葉は、病状説明と言うよりも死亡宣告を導入するための儀礼に感じられた。
若くして経済的に破格の成功を収めていた僕のことを、どのように知り得たのかは分からないが、少なくともこの場で僕はVIPとして扱われていた。それゆえ理事長のお出ましだったわけだ。目の前の変わり果てた姿で眠る婚約者、僕、そして初老の権威者という三人の組み合わせは、絶望的なまでに調和を欠いていた。
「このまま、凍らせることは出来ませんか」
僕のつぶやきはあえなく無視された。動転した人間は、得てして要領を得ないことを口走るものだ、とでも思われたのだろう。
諦めきれなかった僕は、なおも引き下がった。
「あなた方の教室には、低温保護液と体外循環を併用して生体の凍結に成功した、と報告した論文がありますよね」
「動物実験の話ですよ。それに解凍には成功していない。凍結組織切片の解析で、うまく復温すれば細胞を生かしたまま戻せるかも知れない、という可能性が示されただけです」
「十分じゃないですか。復温する方法など、後からいくらでも考えられる」
「お気持ちはお察ししますが、それは倫理を超えた神の領域だ。我々が踏み越えていい境界ではない」
「人間に出来る可能性を感じたから、動物で実験したのでしょう?」
押し問答をしている時間が無いのは明らかだった。彼女を凍結させると決めたのなら、ただ冷温槽の安全装置を外し、氷点下の数値を入力すれば事足りる。
「いくら出せば、そのろくでもない安全装置を外してもらえますか?」
「……その実験に必要な倫理審査は通っていない。諦めてください」
「そんなものはいくらでも手を回せる。そうだ、こうしよう。彼女は脳死を宣告され、法的には既に存在しない人間になった。これなら問題あるまい」
「いい加減にしないか!」
「即金で五千万ドル。受け入れられないのなら、僕は全力で君たちに敵対する」
思えばむちゃくちゃな要求だった。しかし、この場で死亡を宣告できる唯一の人間がそれを行えば、婚約者の真の死亡は遥か未来に先延ばしできる。
結局のところ、僕はそれでその場を押し切った。その後彼女はゆっくりと氷点下の世界に沈められ、最終的には液体窒素が循環する冷凍槽内で死とは異なる長い眠りについた。
件の理事長が運営する研究室は、潤沢な資金を背景に、数年越しで長期冷凍睡眠の手法を完成させた。数多の動物たちを犠牲にした末に、安全な解凍方法が示されたのだ。
しかしながら、それだけでは僕の婚約者を解凍し、覚醒させる条件が揃ったとは言いがたかった。結局のところ、頭部に負ったダメージもそのまま冷凍槽内に残されているからだ。現状では復温した瞬間に脳死が完成してしまうことだろう。ここまで損傷がひどい脳を回復するのは、通常の方法では絶望的と考えられた。ナノマシン、人工神経回路などといったミクロの技術を用いて、彼女の脳に刻まれた回路をそっくりコピーして置換するくらいの離れ業が必要だろう。
また、長期冷凍睡眠の技術がすぐさま市井に流れることはなかった。それが可能な施設があまりに少なかったからである。何の伝手もない市民が(大金を積んで)長期冷凍睡眠の恩恵にあずかれる時代が訪れるのには、開発から半世紀の時を要することになる。
もちろんこの研究の出資者である僕は、伝手のある側の人間だ。何なら、この新しい技術が生み出す利益の何割かを受け取る権利を有する側の人間である。
ともあれ、僕が積極的に脳に関わる研究に関することならば基礎・応用・臨床にかかわらず支援しはじめたのは、この頃だった。優秀だと思われる研究者に目星をつけ、研究資金を提供する。上手くすればその成果からリターンも得られるし、人間社会に貢献できる。何より、彼女を目覚めさせるための研究に資することになる。
こうして僕にとって現世でやり残したことは、ただ一つだけとなった。再び目を覚ました婚約者と相まみえることである。
最終的に僕は、一回あたり二十年の長期冷凍睡眠を、何度も繰り返すことを決めた。
この段階でやれる手段は、全て尽くした。あとはその成果が得られるまで、定期的に眠る以外やれることはない。
◆
ホテルのラウンジから見渡せる景色は、夕暮れの色調をまといはじめていた。
昔話は尽きることがない。僕が四十年前、資金提供の見返りとして研究することを要求したテーマの成果の概要も、ここで聞くことが出来た。これも次世代につながる成果である。
そろそろ話を畳む必要があると感じた僕は、最後の質問を投げかけることにした。
「結局、奥様は僕と同時期、あれから二十年後に長期冷凍睡眠を終え、再び闘病生活に入られました。あなたの研究にそれなりの進捗はあったものの、当時まだ完成していなかったはず。それが完成するまで眠ろうとは考えなかったのですか?」
僕の言葉にしばし考えるそぶりを見せ、稔は答えた。
「先ほども申したとおり、妻は子供たちにとっては母だった、ということです。この先、全ての研究が完成するまで眠り続け、目覚めたときに親しい人たちがいなくなっていたり変わり果てていたのでは、何とも寂しいことでしょう。三十を少し過ぎて子を授かった妻にとって、二十年が費やせる期間の限界だったのです」
そして僕の目の前に座る老人は、そろそろいい時間ですね、と名残惜しそうに言った。
こうして僕たちは、今生の別れを告げた。
帰り道、僕は再び脳のデバイスを立ち上げた。思えばこれも、僕が投資した研究の成果物だ。未だに僕が羽振りよく暮らしていけるのも、投資した見返りに得られた分け前のお陰である。
――ハロー、コンシェルジュ。
――ご用件をお伺いいたします。
――一週間後、コールドルームに入る。次回も二十年だ、よろしく。
――かしこまりました。
このやりとりにも抵抗がなくなってしまった。長期冷凍睡眠の手法も、目覚めるたびに洗練されていく。
たった一つやり残したことがある長い後半生は、これからも続くのだろう。
僕が望んだ
凍った海の底で フサフサ @Levalier
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