沼渕紀夫は恐らく善良な男だ。
そして、平凡な男だ。
サッカーが好きだったのか、それとも部活を指導する事が好きだったのかと言われれば、私は後者だったんじゃないかと思う。
それがバスケットであっても、テニスであっても、吹奏楽であっても、やはり「紀夫ノート」は産まれていたのではないか。
でも、とにかくここではサッカーだったのだ。
紀夫ノートが時空を超えて、新たな世界で産声をあげる全く新しいサッカー。紀夫と全然関係のないところで動く歴史。
天才的なひらめきで発見されたにも関わらず、性格の不一致で見向きもされなかった十進法。
二日酔いで動けない父親が、模擬演習に代理で行かせた八歳の女の子。
お人好しな支配者とその娘の所へ流れ着いた異国の者。
一方で産まれる衝突、他方で育まれる絆。
「サッカーとは」という深遠な問いをたてずにはいられない、歴史あるあるをスパイスにした壮大なサッカー誕生史。
沼渕紀夫に、合掌。
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「擾乱 ≪8≫」まで読了。
私の評価ポリシーにつき、未完の作品は星二つが最高評価。
文句なく面白い。
一見、さいきん流行の兆しを見せる『異世界転生モノにちょっと皮肉交えつつ特殊な設定を盛り込むヤツ』の亜種に見えるんですが、この作品はもう一回捻りを入れてきてます。
異世界転生しないんです。
これ、この作品。スゴいのが、転生するモノが『人間』じゃなくて『文化』そのものなんですね。
本来異世界モノって、大まかに言えば
『人間』が転生して、異世界の『文化』に触れる。
その『文化』に触れた上で転生者が何を見て何を感じるか、みたいな話じゃないですか。
構造が逆なんですよね、これ。
いきなり『文化』が異世界にポンと出てきて、異世界の『人間』がそれに振り回されるわけです。
その異世界人たちのてんやわんやがこの作品の面白さの真骨頂なんですが、これがまた軽妙で面白い。
文体自体は堅い方に分類されると思うんですが、それを全く感じさせない読みやすさと、作者のシニカルなユーモアが読み手をぐいぐい引きつけます。
これは個人の所感というか妄想なんですけど、オーパーツってあるじゃないですか?
コロンビアの黄金シャトルとか、テキサスのハンマーの化石とか。
たぶん、ああいうの見つけた人たちって、この作品の登場人物みたいな反応してたんじゃないかな。
「ああでもないこうでもない」と相談しながら、手探りで真の『サッカー』を探求する異世界人たちの今後の動向を、引き続き見守らせて頂きます。
異世界転生、という概念そのものを、特段の理由もなくまた必要以上に大真面目に考えて、ものすごく面白いものにしてしまった、という印象のお話です。平たくいえば「どういうことなの」。すごいお話です。
通常、というか一般にというか、『異世界転生』という概念そのものは、ある種マクガフィン的な使われ方をするものだという印象があります。現世があって、別の世界がある。そこに主人公が転移する。現世で培った知識や技能をもって活躍する。その『活躍』が主軸であり、そのためのお膳立てが『異世界転生』という設定。異世界に転生することそのものについては、本質的には結構どうでもいい部分だったりするものだと思うのです。
本作はそのあたりのアプローチの仕方が違うというか、「現世ともうひとつの別の世界があって、現世側からもう一方に何かが転移する」という、ただそこだけをしっかり押さえたうえで何ができる(起こる)のか、といった作品です。
転移するのは一冊のノート。本来その世界には存在するはずのないもの。転移先の世界は一応ファンタジー(空想)世界ではあるのですが、魔法といった超常技能や現世には存在しない異種族のようなものはありません。どちらかといえば現実世界の中世・近世に近く、つまりファンタジーというよりはある種のSF的な思考実験のような、そういった様相を呈してきます。
こう書くとなんだか難しい話のようにも見えますが、さにあらず。語弊をいとわずあえて言います、安心してください、このお話は一言でいえば『アホ』です。突然厳密かつ壮大な歴史ものが始まって、登場人物の言動は大真面目でリアリティがあるのに何故か(というか、だからこそ)コミカルで、つまるところこれは壮大な与太話です。真剣で、緻密で、繊細かつ濃密であるのに、しかしそうであればあるほど増していく与太話感。
このお話がどこに向かっているのか、何を読まされているのかまるでわからない。なのに面白い、というか、だから面白い。ある意味では「アイデアの勝利」とも言えるのですが、アイデアをただアイデアだけで終わらせない、それを元にどんどん面白さを積み重ねて膨らませていく、その熟練の職人のような徹底した姿勢が本作の最大の魅力であるように思います。
作品の魅力として、ある種のシニカルさのようなものは確かにある、と思います。事実、ジャンルとしての騎士道物語に対する『ドン・キホーテ』のような、そういった風刺的な意味合いを読み取ることも可能なのですが、しかし個人的にはそういう印象はあまりありません。ただ『異世界転生』という単純なルールを間違いなくなぞったそのうえで、この作者の一番面白いものを叩きつけてきた。そんな感想を抱きました。
シニカルさが生きているのは他の部分、例えば作中の『サッカー』の開祖たる『聖四祖』。彼らの行動原理や目的の、そのびっくりするくらいの身勝手さや噛み合わなさ加減。何か偉大なことを成し遂げる感動の物語が、でも実際の内情はまあこんなもの、といったような。翻って、なんかみんな好き勝手やってるのにどんどんすごいものができていく(しかも『すごいもの』ではあるのに現実のサッカーを知っている立場からすると斜め上に見える)、その不思議な小気味良さ。ただ楽しく、面白い。作者の「これが面白いんだ」を真っ直ぐぶつけられているみたいな、そういう爽快感がありました。
騙されたと思って読んでみてください。騙されますから。異世界転生もの、といった作品に期待する魅力、それとは明らかに違うものが飛んできます。飛んできますが、でも飛んできたその『何か』は、間違いなく面白い何かです。保証します。ぜひ。