みずたまり

笹野にゃん吉

みずたまり

 電柱の側を横切ると、ぴちゃんと音がした。スニーカーに泥がついたのを見て、ぼくは顔をしかめた。ろくに舗装されていない、でこぼこの道だ。夜明け前の土砂降りのせいで、そこここに水たまりができてしまっていた。辺りには濃い霧が立ち込めていて、視界まで最悪だった。月曜日というだけで憂鬱なのに、朝っぱらから幸先が悪い。


「……でも」


 と、ぼくは汚れたスニーカーを見下ろしながら思い出す。

 ほんの数年前、まだ小学生だった頃のぼくは、目につく水たまりを片っ端から踏んで回って、通学ズックを泥だらけにしていた。水に映った自分の顔が乱れて、ぴちゃぴちゃ弾ける水音を聞いているのが楽しくて、バカみたいにはしゃいでいたのだ。


 ぼくはスニーカーで踏んづけた水たまりに目をやった。揺らいだ水面が元にもどっていき、中学生になったぼくが、ぼくを見返していた。


「いまさら、あんなことできないよなぁ」


 ついさっきまで泥が撥ねて苛立っていたくせに、急にむかしの自分が羨ましく思えてきた。肩書が中学生になると、まるで大人の階段に爪先だけをひっかけたみたいだ。まだまだ子どものはずなのに、子ども扱いは許されなくなるのだ。自分自身、ちょっと前の自分を恥じるようになって、心から楽しんでいたことも忘れてしまうのだ。


「ほんとうに、今はもう楽しめないのかな……?」


 ぼくは、ふと辺りを見回した。

 一寸先とまでは言わないまでも、電柱や塀の影さえおぼろに見せる濃霧だ。ちょっとくらいはしゃいでみても大丈夫かもしれない。現に、人らしきシルエットは見当たらない。普段なら、ぼくと同じ制服を着た生徒がそこらを歩いているのに。奇跡的に無人だ。車一台やっては来ない。


 ぼくはごくりと喉を鳴らすと、一転してにんまり笑った。

 足許の水たまり。

 そこに映った顔を思い切り踏んづけた。


 ぴちゃん。


 とたんに顔が砕けた。波紋をうってぐちゃぐちゃに乱れた。

 すると、胸の奥で抑えつけていたものが水面と一緒に弾けた。

 これだ。あの頃の感情が、マグマのように湧きあがってきた。


 近くの水たまりに向かって、ぼくは年甲斐もなく駆け出した。大嫌いな教頭のすがたが脳裏を過ぎった。朝礼の度にしゃしゃり出てくる、くたびれたグレーのスーツのおっさん。襟の上にちょこんと載った赤ら顔が、水たまりに映りこんでいるのを想像した。そして、ぴちゃん、ぴちゃん、ぴちゃんぴちゃん。何度も踏み付けた。


 嫌いな相手の顔が次々と浮かび上がってくる。ぼくは、教頭とは別の顔を思い浮かべながら水たまりを踏んづけようとした。けれど、同じ水たまりでずっと地団太を踏んでいるのは、なんというかマヌケだ。そこで、ぼくは自分にルールを課すことにした。


 いたぶる相手は、水たまり一つにつき一人だけと決めた。これなら、新しい水たまりを探す楽しみも生まれるだろう。


 ちょうどその時、霧が薄らいできた。幸い、周りにはまだ誰もいなかった。向こうの電柱の根元に水たまりを見つけた。ぼくは嬉々として、憎らしいクラスメイトの姿を想像した。絞った雑巾みたいにシャツの裾を結んだ、いけ好かない奴だ。ぴちゃん。


「はは! ははは!」


 無邪気に気ままに遊んでいたあの頃より、今のほうが楽しめていた。こうしてムカつく連中を蹴散らしているとスカっとした。


 次の相手は誰にしようか。


 深いも浅いも関係なく、水たまりを見つけては、ぴちゃん。踏み付けた。ぴちゃん、ぴちゃん、ぴちゃん……。幾つも顔を壊していった。


 そんなことを何度くり返した時だろう。

 軽やかな水音に突然、


 グシャ。


 気味の悪い音が混じった。

 ぼくはピンと背筋を伸ばして、霧の奥に目をやった。


「なんだ……?」


 音は一度で途絶えた。音の聞こえた方に目をやったまま、ぼくは正体をたしかめに行くべきか迷った。


 そうこうしているうちに、強い風が吹いてきた。

 霧が悶えるように揺れて、あっという間に空の青色が鮮明になった。電柱、家々を囲む塀、屋根の瓦までくっきりと、ぼくの目の前に広がった。


 だけど、その景色はいつもの通学路とは微妙に異なっていた。水たまりを探すのに夢中になって迷ってしまったのではない。道のうんと向こうのほうには、見慣れた神社が見える。だから、違うのは場所ではなくて……。


 ぼくは、電柱の陰から斜めにとび出したグレーのスラックスに目を留めた。

 上向いた爪先に黒い革靴を引っかけた、脚だ。誰かが倒れていた。

 しかも、ひとりではなかった。何人もいた。痩せている人も、太っている人もいた。中には、ぼくと同じ制服姿まで見てとれた。


「なんだよ、これ」


 血の気が引いていった。なにか良くないことが起きている。一目でわかった。

 けれど、このまま立ち去るわけにはいかない。倒れた人を放ってはおけない。

 ぼくは恐るおそる脚に歩み寄っていった。そして、やや離れたところから声をかけてみた。


「あ、あの、大丈夫、ですか?」

「……」


 しかし、返事はなかった。爪先がうごく気配も感じられなかった。

 ぼくは焦った。臆する心に鞭を打った。今度は身体に触れて反応をみようと一息に駆け寄った。電柱の陰になって見えなかった上半身を、ぼくは見た。くたびれたグレーのスーツが、そこにあった。


「え……」


 血塗れの頭が、そこにあった。電柱の根元のくぼみに、血だまりができていた。


「あ、おあああぁああッ!」


 ぼくは身を翻し、バタバタと後退った。


「うぇ、っぶ……!」


 そして、こみ上げてきたものを一気に吐きだした。

 スーツの人物の顔が脳裏に焼き付いていた。いや、もはやあれは顔ではなかった。目も鼻も口もなかった。血と肉と脂が潰れ、捏ねられ、溢れだしていた。まるで、何度も、何度も、何度も何度も、踏みつけられたみたいに。


 まさか……?


 その時、嫌な予感がぼくを衝き動かした。両手で口を押さえながら、スーツの人物を振り仰いだ。立ち上がらなければ顔は見えない。けれど、その服装ならはっきりと見てとれた。くたびれたグレーのスーツ。朝礼のたびに喚き散らして去っていく、大嫌いな教頭の……。


「うそ、だ……」


 ぼくは震えあがった。背骨が氷にでもなってしまったような気がした。近くに倒れこんだ、別の人影に目をやった。ぼくと同じ制服を着た生徒。シャツの裾が絞ったように結ばれていた。


「お、ぉう、えぇ……っ!」


 背筋の冷たさが吐き気に変わった。

 ちょっとした遊びのつもりだった。

 憂さ晴らしのつもりだった。

 どうして、どうして、こんなことに……。


 もう吐くものがなくなっても、ぼくはえずき続けた。きつく目をつむって、どうか悪い夢であってくれと願った。最後の胃液が唇から滴り落ちた。そして、また強い風が吹いた。


 ぼくは薄く目を開けた。すると、神社のほうから一度は晴れたはずの霧がぶわりと押し寄せてきた。


 ここにいちゃダメだ。


 また頭の中に声が聞こえた。けれど、ぼくはへたりこんだまま動けなかった。えずきながらしゃくり上げ、こみ上げるものを垂れ流すことしかできなかった。


 ……ぴちゃん。


 そんなぼくを嘲笑うかのように、水音が響いた。

 どこか遠くから。たぶん、ぼくの後ろのほうから。

 教頭の身体がびくんと跳ね上がった。


 ぴちゃん。


 また水音がして、今度は裾を結んだ生徒の身体が跳ねた。


 ぴちゃんぴちゃん!


 倒れた人々の身体が、次々に跳ねる。

 びたんびたんと。

 今まさに顔を踏み砕かれているかのように。


 いや、きっとそうなのだ。

 ぼくの目には見えなかった、霧の奥の光景は、きっとこんな風だったのだ。

 そして、ぼくは今、その霧の中にいる。

 いずれ順番が回ってくる。


「い、嫌だ……っ」


 ぼくは、ふり向いた。

 そこに、ぬうと現れる人影を見た。霧が濃くて何者かはわからなかった。わかりたいとも思わなかった。


「はは! ははは!」


 楽しげな笑い声を聞くと、ぼくは弾かれたように立ち上がり、つんのめりながら駆け出した。


「あ、ああぁ……ぁッ!」


 と同時に、空が波紋を打った。霧が環状に吹き流されて、黒い何かが落ちてきた。ぼくの顔を目がけて、一直線に落ちてきた。

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みずたまり 笹野にゃん吉 @nyankawa

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