その後日、目覚めてみれば何を思い悩んでいたのか不思議なくらいに体が軽くなり、その勢いのまま男は職場まで足を運んでみた。


 しこたま怒られるだろうと思ったが、上司は気味が悪いほどに男のことを心配していた。「気にするな、疲れていたんだろう」と言っていた。同僚たちも同様に「無理はほどほどに」そんなことを口々にしていた。


 男は彼らの言葉に「そのとおりだ」と思った。


 男は身の丈に合わない無茶な働き方で自分自身を勝手に追い込んでいただけだった。正しいと思っていた、カッコいいと思っていた、職に対するある種の信仰に盲目的になっていただけだった。


 どうやら無断に休んでいた日も有休扱いにしてくれていたようで、男の席も残っている。これまた不思議なことが起こったが、ひとまずこの日まで仕事は休むことにして明日から職場へ復帰することになった。


 その帰りの道すがら、男は駅地下でシュークリームを六つ買った。

 一人で食べるに六つは多すぎる。これは手土産として買った。


 手土産のシュークリームを脇に携え、軽やかな足取りで男は歩みを進める。自宅のアパートへ向かうには違いないが、男が足を運んだその先は彼の自室ではなく、隣の部屋の前だった。


 男は少年と対面するつもりだ。


 少年との初の顔合わせで何て声を掛けようか、やはり自分が「神さま」であったと告白するべきか、いや、こんな男が神さまだったと分かったら少年は幻滅するに違いない。やはり黙ったままでいよう。

 ただ何も喋らないのもおかしいだろう。これまで音信不通だった隣人が急にシュークリームを持ち寄るなんて気味が悪すぎる。何か気の利いた言い訳を考えておくべきか、──と色々と考えているが、とにかく少年と顔を会せて喋ってみたいと思っていた。


 隣室の扉を前にして、緊張して震える指先で呼び出しベルのボタンを押す。「ピーン」とだけで「ポーン」のない間抜けたベルが鳴り、ぎいいと音を立てて扉が開いた。


 すると、そこにいたのは少年ではなく、歯の抜けたボロボロの老人だった。


「だれ、あんた?」

「いや、その、隣の者です」


 その歯抜けた老人は、少年の父親としては高齢なので、恐らく祖父かもしれない。


「隣の? ああ、アンタが『神さま』か」

「は?」

「いや、このアパート壁が薄いからな、声が聞こえてくるんだよ」


 壁が薄いことは男も充分に承知している。男と少年の壁越しのやり取りはこの老人にも筒抜けだったようだ。もしくは少年がこの老人に壁越しのやり取りを打ち明けていたかだ。いずれにしても恥ずかしいことに変わりない。


「……その、お子さんは?」

「子供?」

「実は私はお子さんと友達? ──でして、お会いできないかと」

「あー、そうなの。高校とかの?」

「高校?」

「あれ、違う? まあ、どうでもいいけど。とにかくこの家にはいないよ。ここには俺一人で住んでいる」


 どうにも歯の欠けた歯車の様に話が噛み合わない。老人は歯抜けているので、それもあるだろう。


「ええっと、 お孫さんでしょうか、小学生くらいのお子さんは?」

「そんな小さな子供がいるわけないだろう」

「いや、でも声が聞こえて」


 老人は急に渋った顔をした。


「……ああ、そうなの」


 老人はその表情をさらに曇らせ話を続ける。


「俺はそういうの信じない性質たちだけど──」


 と前置きをして、老人は言った。


「──俺の部屋は事故物件だと聞いている。だから他の部屋より家賃が安い」


 そこまで言って、老人はかぶりを振った。


「だからってどうしたってんだ。とにかく俺んちには子供はいない。これ以上用がないなら帰ってくれ!」


 ピシャリとドアを締められて、男は茫然とその場に立ち尽くす。

 手土産だったシュークリームは渡すことなく男の手に握られていた。


 このまま他所のお家の玄関前で立ったままでいる訳にはいかず、隣の自宅へ戻った。昼間であっても陽が入らない自室に電灯の明かりをつけて、シュークリームを床に置き、その前にすとんと腰を下ろした。


 歯抜けた老人の言いたいことは男も分かっていた。


 隣室が事故物件ということは、過去に死亡事故があったということだ。つまり男が聞いたその少年の声とは、もしかしたら幽霊かもしれないぞ──と、言いたいのだろう。


 そう言いたいのだと分かっていても、訳が分からなかった。


 薄くて黄ばんでいても、その壁越しには間違いなく少年は存在して、男はそれを感じていた。実は少年は幽霊でした、でこの話で終わらせられないのだ。


 だがいくら考えても埒が明かず、男はおもむろに目の前のシュークリームの箱に手を伸ばす。中身を確認すれば、当然ながらシュークリームは六つもある。これを一人で食べるのは無理かもしれない。男は甘いものがそんなに好きじゃない。申し訳程度に一つだけ頬張り、残りは薄くて黄ばんだ壁際にそっと置いた。


 天井のミッキーマウスは変わらず笑っているが、少年の声は聞こえてくることはない。ただ少年が存在することは間違いないとそれだけを深く信じて、少しだけ厚みを取り戻した初年床に横たわり、男は目を閉じた。


 明日からまた仕事が始まる。ただ、やれないことはないだろう。


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たぶん神さま そのいち @sonoichi

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