それから数日経ったのだが、そのあいだ男は一度も仕事に行っていない。職場と連絡も一切取っていない。男は無断欠勤したままだった。

 上司が自宅まで押しかけて来るかと内心ひやひやしていたが、それは無かった。このまま何の音沙汰なく自然と忘れ去られてしまえ、と願っていた。


 男には新たな悩みが増えた。隣の部屋から救いを求める少年の為に「神さま」になったのだ。その上その少年の憎き相手に「罰」を与える約束をしている。


 それはその場しのぎの方便だったのだが、調子に乗って更に憎む相手に「死」を与える約束もしてしまった。これは考えれば考えるほど早まった真似をしたと後悔していた。


 せめて少年の憎き相手を見つけ出し、ゲンコツのひとつくらいはお見舞いしてやろうかと考えたが、そんな無茶なんてこの男にできるはずもなく、「少年が憎む相手に罰をお与えください」と柄にもなく神頼みするくらいだった。


 そんな男だが、唯一嬉しいことがあった。


 なんと天井のミッキーに子供が出来たのだ。実際のミッキーに子供がいるのか男は知らないが、天井のミッキーの小脇には新たなシミが増えていた。


 ただそれはもはやミッキーマウスのシルエットはしてなく、歪な形のシミなので、脇に控えるミッキーが吐血したようにも見えなくない。でも男はそう思いたくない。この新たなシミはミッキーの子供に違いない。そう信じている。


「──神さま」


 お決まりの万年床に横たわり天井のミッキー親子を拝んでいると、ご近所で誰かが誰かを呼ぶ声が聞こえた。


「神さま!」

「はいっ!」


 それは壁越しからの少年の声だった。この数日間は一度も声を掛けられなかったので、男は見放されたと思っていたが、そうではないらしい。嬉しいやら悲しいやら複雑な心境だった。


「神さま? よかった、やっと僕の声が届いた。返事がないから見捨てられたと思ってました」


 少年も似たような事を考えていたようだ。


「少年か、もしかしてずっと話しかけていたの?」

「うん。ずっと。神さまってトイレの中じゃないと僕の声が届かないんですね」


 急に変な事を聞いたような気がして、男は黄ばんだ壁に聞き返した。


「なんだって?」

「気づかなかったな、神さまってトイレの神さまだったんだ」


 少年と男との間は薄い黄ばんだ壁に阻まれているので、男の部屋から少年の部屋の様子は窺い知れない。ただ同じアパートなので部屋の間取りは大体同じであろうから考えてみれば分かることだった。


「少年よ、キミはいまトイレにいるのかな?」

「そうですよ。神さまはお分かりになりませんでしたか?」

「うん。初めて知った」


 男の寝床のすぐ横は、お隣さんの便所だったようだ。

 それはなんかすごく嫌だった。いや、そうすると、つまりこの「黄ばんだ壁」はそういうことなのか? 一瞬でも神々しくさえ思った自分が情けない。とにかくこれは万年床の定位置を変更する必要がある。これで万年床は初年床になる。


 そう男が思案していると黄ばんだ壁越しに少年の声が聞こえた。


「神さまは神さまのお仕事始めたんですか?」

「いや、まだだね」


 神さまは続けているつもりだが、男の実際の本職については未だに目を背けている。


「僕は学校に行ってみました」


 その言葉を聞いて肝を冷やす。男は大した言い訳を考えていなかった。


「そうか、その、申し訳ない」

「もうしわけない?」

「キミが望んだ罰は与えられなかっただろう?」

「はい。アイツは死んでいませんでした」

「だよな。その、ごめんね」


 分かり切ったことだが、少年が望むような罰を与える事は出来なかったようだ。

まあ、それは当然だろう。男は神さまではないのだから。


 当初はこの場合も適当な言い訳で乗り切ろうと考えていたのだが、それは何だか少年に悪い気がする。この際ここで自身の正体を明かしておくべきか、少年はひどく幻滅するだろうが、思えばそのほうが互いにとっても良いことかもしれない。


 元よりこの世に神さまなんていないのだ。


「少年よ、聞きたまえ──」


 男は壁に向かって自分の本当の正体を告げようとした。だがそれを遮るように少年が声を上げる。


「でも、アイツは引っ越しするらしんだ。僕の学校からいなくなるんだよ!」


 少年のその言葉に男は耳を疑った。


「やっぱり神さまは慈悲深い御方です。あんな奴でも情けを掛けて殺す事はしなかった。でも、それでも、僕としては嬉しい結果です! 」


 この部屋には鏡を置いていないのでいま男がどんな表情をしているか自分では分からない。だがその壁越しの少年の言葉に間抜けた顔をしているに違いないと思った。


「嘘だよね?」

「本当です」

「そうなんだ」

「はい。そうなんです!」


 なんともあろうことか、男は自身の身に余る「奇跡」を起こしていたようだ。


「僕は痛いのはもう苦しくないけど、やっぱり友達が苦しんでいるのが僕も苦しかった。でもこれでそれも悩む必要がなくなりました。ありがとうございます、神さま! 本当にありがとう!」


 奇跡といってもこれは単なる偶然で、男は何もしていないのだが、こうも感謝されては忍びない。


 ただ、悪い気持ちもしなかった。


「これで僕は救われました」


 その安らかな少年の声が壁越しに耳に入り、男も少年と同じく神に感謝した。

神さまでいるのも悪くない。

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