「ああ、やっぱり神さま! 神さまは絶対にいるって僕は信じてました!」

「そうか、そうか、うん、うん」

「だって神さまがいないと、この世の中おかしいもの」

「全くもってそのとおり! 信じる者は救われるよ」

「やったー!」


 壁越しからは先ほどと打って変わって明るい声が聞こえてくる。こんな健気な少年を騙すのは胸が痛んだ。

 だがこの男の場合はミッキーマウスがいてくれたように、この少年には「神さま」が必要だ。だから男は彼の神さまになることにした。


 ただ面と向かって神さまを演じ切るには無理がある。だが男と少年の間には薄くて黄ばんでいるけど壁がある。この壁を隔てていればこんな男でも神さまにだってなれるのだ。そうなると、この壁の「黄ばみ」も金箔をあしらっているかのように神々しく見えた。


「じゃあ、神さま、お願いです。僕を御救い下さい!」

「よろしい。ではまずは訳を聞こう」

「わけ?」

「嫌な事があったのだろう? それを聞かなければキミを救う事ができない。この私、神さまに話してみなさい」

「なるほど、わかりました。お話しします」


 本物の神さまなら訳など聞く必要もなくお見通しだろうが、少年は特に気にする様子もなく素直に語りだした。


「実は学校で僕に意地悪をする嫌な奴がいるんです。そいつは僕の頭を打つんです。グーで僕の頭を打つんです。僕が痛いと言ってもそいつは僕を打つんです。アイツが打つから僕はチビなんだ」


 少年とは壁を隔てているので表情までは読めないが、壁を隔てても聞こえてくるその声は震えているのが男には分かった。


「それに僕だけじゃなくて、そいつは僕の大切な友達も打ったりする。僕は学校に行ってないけど、その間もきっと友達はそいつのせいで苦しんでいる。僕はアイツが憎い。死んでほしいくらいに憎いんです」


 苦しみに悶え、怒りに震え、言葉にする以上の感情が男には伝わった。


「そうか、うん……」


 さてこの場合、男は神さまとしてどんな手を差し伸べてあげれば良いのだろうか、次の一言がかなり重要になる。男はそれなりに時間を掛けて考え抜いた末、こう告げた。


「では、牛乳を飲みなさい」

「牛乳?」

「うむ、牛乳だ。牛乳を飲めば身長も伸びるし、骨も丈夫になるから叩かれても痛くない」


 これが、男が神さまとして初めてのお告げであった。


 牛乳を飲んで身長が伸びる根拠はない。それはこの男も分かっている。いや、そもそも少年は身長が低いことを悩みにしている訳ではない。彼はイジメに悩み、友人の為に苦しんでいる。


 ではなぜ男がこんなことを言ったのかというと、それは、少年の深刻な悩みはこの男如きが乗れる相談ではなかったので、適当なことを言ってはぐらかそうとしたのだ。いくら壁を隔てたところでこの男はやはり神さまではなく、ただの平凡な男に過ぎない。いや、ひょっとしたら平凡以下のクズかもしれない。


「分かりました、神さま! 僕は牛乳を飲んでみます!」


 だけど壁越しに溌剌はつらつとした少年の声が返ってきた。


「え、それでいいの?」

「はい。もちろんです。神さまが言う事だから、僕はそれを信じます」


 なんて信仰心の厚い少年か、彼の真摯な言葉に男は強く胸を打たれた。胸を強く打たれたものだからそれは痛いくらいだ。


「だって神さまは『左の頬を打たれたら、右の頬も差し出しなさい』と、こう言いたいのでしょう?」

「……参ったなあ、よく知っているね、その名言。そのとおりだよ。うん」


 盲目的なまでに少年は神さまを信じているのに、当の神さまがこんなにも適当なことしか言えず、とても心苦しい。男は苦し紛れに「こほん」と咳ばらいをひとつした。


「でも、どうしよう。僕は牛乳が飲めないんだ」

「なんだ、苦手なのか?」

「苦手じゃないけど、身体が受け付けないんです」

「なるほど、体質の問題か。それなら無理に飲む必要はない」


 これは渡りに船だった。


「いいんですか?」

「いいんですよ」


 少年の体質を理由になんとか先の提案を撤回することができたが、この不毛な時間は一体何だったのだろうか、何も生み出さない神さまとは、これはいかがなものか?


 男は考えを改めた。少年の為に出来る事は何かあるはずだ。これは真面目に考えなければ。少しでも神さまらしい務めを果たそうと試みる。


「よし、少年よ、キミが望むならその者を罰してあげてもいい」

「ばっして?」

「その嫌なヤツに罰を与えよう」


 今度は思い切って大きく出てみた。罰を与えるなんていかにも神さまらしい。

ただ男は神さまではない。人に罰を与えるなんてこのクズな男にできようがない。


「え? でも、神さまは僕に頬を差し出せって……」

「それはもういいんだよ。忘れなさい」

「はい、分かりました。神さまがそう言うのでしたら忘れます」

「うむ、よろしい。──ただ、私が下す罰は、大した罰にならない可能性もある」

「どういうことですか?」


 少年の疑問の声に男は重々しい口ぶりをもってこう答えた。


「実は、今日の私は神さまの仕事をお休みしてるのだ。だから本来の力を使う事ができないのだ」


 男のこれは方便で、少年の憎き相手に何か少しでも嫌な事があれば、「ほれみろ、罰が下った」と胸を張り、何も起こらなければ、「無念。やはり力が足りなんだ」と肩を落とす、とにかくこの場は少年の気が済むように振る舞って、後に言い訳する算段だ。


「お仕事? 神さまってお仕事だったんですか?」

「うむ。ずうっと働きづくめで大変なんだよ。それが嫌になって内緒で神さまを休んだのさ」


 黄ばんだ壁から怪訝な声が聞こえる。


「え? 神さまは『神さま』でいることが嫌だからお仕事を休んだのですか? それは何故ですか?」

「なぜ嫌かと聞かれても困るなあ、疲れが溜まったから? いや、なんでだろう?」


 と、ここまで告げて男は考える。神さまのことは置いておいて、思えばなんで本職の仕事をサボったのだろう。ふと電源が切れてしまったのだが、果たしてその電源とは一体何だ?


「うーん、とにかく、やる気が失せてしまったんだ」

「やる気? でも僕の前に現れてくれたじゃないですか」

「それは、たまたま通りかかったから……」


 男はずっと部屋にいた。


「そうだとしても、神さまは僕を救ってくださるんでしょう?」

「まあ、そのつもりだけど……」


 確かに軽い気持ちだが、男のこの少年を救いたい気持ちに偽りはない。


「それなら僕は構いません。例え神さまに力が無くても、神さまは僕を救うと言ってくださいました。だから僕は神さまを信じるだけです」


 と、黄ばんだ薄い壁から聞こえた。

 少年の神さまに対する絶大な信頼に、男にはなんの根拠もない自信が沸き起こった。


「そ、そう? ならちょっと頑張ってみようかな。……よし、特別にキミが望むならその者に『死』を持って罰を与えてやろうではないか!」


 男は出来もしないことを軽々しく口にした。


「え? でも力がないと……」

「なんだか今なら出来そうな気がするんだ」

「そうですか」

「そうなのです」


 男は返事を待ったが、壁からはすぐに声が聞こえず少年は戸惑っているように思える。だが少し間を置いただけでこう聞こえた。


「……それなら、お願いします。神さま」

「うむ、よろしい。 では、その者に罰を与えよう!」


 男はできもしないのに待ってましたと張り切る。壁越しなので少年には見えていないだろうが、男は片方の手の人差し指を立てて、それをもう片方の手で握る。もう片方の手も同様に人差し指を立てる。そんな今にもドロンと忍法が炸裂しそうなポーズでこう言った。


「……むむむ、むーん!」


 呪文くらい唱えても良かったが、気の利いた呪文も思い浮かばなかったので唸り声を上げた。当然ながら何かが起こった様子はない。


「どうですか? あいつに罰は下されましたか?」

「うむ、どうだろうか? やっぱり力が足りないかもしれない。だからあまり期待しないでね?」


 その男の問いに「いえ、それでも僕は神さまを信じます」と壁から少年の声が聞こえた。 


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