たぶん神さま
そのいち
1
もはやカーペットと見間違うほどに薄っぺらになった万年床で、その男は仰向けに横たわり、茫然と天井を眺めていた。力ないその眼差しの先には変わった形の「シミ」がある。
それは大きな丸いシミを基礎として、その斜め上の左右に、ちょこんちょこんと、小ぶりな丸いシミが乗っかっていた。まんまる同士が三つも重なり合ったどこか愛くるしいそのシルエットが何かに似ている気がする。
「……ミッキーだ」男の目には天井のシミはミッキーマウスに映っていた。
日の目をまるで見ないこんな陰鬱な部屋にすら隠れミッキーを忍ばせるなんてディズニーのエンターテイメントな心意気には脱帽する。このおんぼろアパートもこれひとつで夢の国へと様変わりだ。男の脳内はごく小規模なエレクトリカルパレードで輝いていた。
男がこうしてのんびりと天井のミッキーマウスに一喜一憂するのはこのアパートに越してきて初めてのことだった。
普段の彼は朝から晩まで働きづくめで、休日も休日らしい休日を取ったことがない。この部屋にはほとんど寝にくるだけで、寝にこない日もしょっちゅうだった。
それは正しいことだと思っていた。かっこいいとすら思っていた。だけど今朝目覚めたときにこれは無意味なことだと男は悟った。
確かに働いた分に見合った給料は貰っている。本来ならば休みも申請すればきちんととれるはずだ。だが、何をそんなに頑張っているのか本人もよくわからない。もはや働く気力が沸きあがらない。彼の電源はぷつりと切れてしまった。
だからこの日、男は仕事を無断欠勤して天井のミッキーマウスを崇めることにした。今ごろ上司は怒り狂っているだろうが、そんなの知ったこっちゃない。既にスマホの電源も切っているので知りようもない。
ただ、そのはずなのだが、「うー、うー」とスマホのバイブレーションのようなくぐもった音が彼の耳に届いた。
何度もスマホを確認してはみるが、間違いなく電源は切っている。だけどその「うー、うー」は止まることがない。
男は不思議に思い、よくよく耳を澄まして聞いてみれば、それは人の唸り声だと気づいた。聞こえる方向からして彼の万年床のすぐ横の壁から聞こえる。つまりこれは隣の部屋の住人の唸り声だった。
「──やだよう、いやだよう」
今度はハッキリと言葉が聞こえた。それは子供のものだ。恐らく少年だろう。
「誰か助けてよ、もう嫌だよう。神さま、仏さま」
男は隣人とは一度も顔を会せたことがなかったので、この隣の少年が一体どんな人物なのか分からない。どんな事情があるかも分からないが、神頼みとは、隣人の少年は随分と思い悩んでいるようだ。
今このおんぼろアパートでは黄ばんだ薄い壁を挟んで大小二人の男が似たように鬱屈としている。それがなんだか不思議とおかしくなって不意に笑いが込み上げてきた。
込み上げた笑いはとうとう溢れて、「ふふっ」と微かに鼻で笑った程度であったのだが、薄いと思っていたこの黄ばんだ壁は想像以上に薄いようで、男の自嘲を孕んだ笑いは少年の耳まで届いていた。
「だ、だあれっ!」
「えっ! あ、いや……」
黙っていればいいものを、迂闊にも男は反応してしまった。少年の視線がこの薄い壁を通り越して彼にまで伝わってきたからだ。
「だれですか? 聞いていたんですか?」
「あ、ああっと、ええっと……」
男の声も届いている。今さら何事も無かったように知らんぷりするには無理がある。引くに引けない状況に、男は黄ばんだ壁に向かって声を掛けた。
「いや、その、まあ、月並みだけど、元気だせよ」
すると黄ばんだ壁は返事をした。
「つきなみ、って?」
またも止せばいいのだが、壁が喋るので仕方がない。続けて男はこう返す。
「ありきたり、だけど元気だせよ」
「アリ来たり?」
「とにかく、元気だせよ」
と、男が言うと、次に壁から返ってくる言葉はなく、少年は黙り込んでいるようだった。これは黄ばんだ薄い壁越しから察するに、どうやら少年は男の次の言葉を待っているのだろう。
それはそれでとても困る。確かに話し掛けたのは男の方だが、所詮相手は顔を会せたこともない隣人でしかなく、これ以上会話を続ける義理はない。この辺で終わりにしたい。
「人生が嫌になったんだろう? でも大丈夫だよ、きっと良いことあるって。頑張りなさい。うん。それじゃあ──」
男は適当なことを言ってお茶を濁すことにした。これでご近所付き合いは終りだろうと思ったが、少年との壁越しの会話は何故か続く。
「な、なんで僕に嫌な事があると分かるんですか!」
「いや、まあ、そりゃあ、ねえ?」
明らかに悩んでいる様子が伝わるので分からない方がオカシイくらいだ。たとえそれが隣の部屋であったとしてもこの壁の薄さであれば良く分かる。
だがそれは男だけであったらしく、どうやら少年は隣の部屋にいるこの男の存在に気付いていないようだ。
「もしかして──」
そして少年はあろうことか、ただの隣人に過ぎない男に対して何故かこんなことを言った。
「──あなたは、神さまですか?」
普段ならば男はこの部屋にいないことがほとんどなので無理もない。隣には誰もいないはずなのに聞こえないはずの声が聞こえてしまい、ありもしない存在を強引に見立ててしまったのだろう。
とはいえ「神さま」とは、また飛躍しすぎだ。
だが見えない何かに
「神さま、ですよね?」
「うん、まあ、そのとおり。俺は、いや私は、『神さま』だよ」
黄ばんだ薄い壁に向かって男はそう答えた。
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